空は夕暮れが周囲を包み込み、陰が広がる廃屋にやってきていた。
 ここは、所謂不良のたまり場になっていて、治安が悪い地域として有名だ。
 それは裏を返せば、妖怪たちが取り憑いて、人の心を貪っているために、不良を呼び込みやすくしているせいでもある。
 希望や夢を食らい、人々を失意の底に落としてしまう妖怪の被害者たちは、やさぐれてしまう。

「……いかにもって感じの場所ね」

 空はボロボロの廃屋を眺め、朽ち果てた入口から妖気が漏れているのを感じ取っていた。
 あやかしがここに居座っているのだろう。
 空は現在、祓い屋の装束姿ではなく、学校の制服姿でここにやってきていた。
 祓い屋の装束は、道着姿になるので、どうしても人の目が多いところで来ていると、目を引くのだ。
 なので、空は学校帰りに依頼を済ませるつもりで、制服姿のまま、この現場にやってきていた。
 星家の三神器のうち、数珠と経典はいつも携帯しているので、それだけは身に着けてきている。

 祓い屋の仕事は、基本的に大きな神社から依頼がやってくる。
 東京ならば浅草寺や明治神宮が、祓い屋の統括として仕事を管理し、担当地区の祓い屋に妖怪退治を依頼するのだ。
 今日も、そう言った上からの依頼を受けて、空が現場に赴いているという具合だった。
 しっかりとした依頼なので、報酬も支払われる。お金のために祓い屋をやっているわけではないが、生活に苦しむようなことはなくなるので、貰えるものはしっかりと貰う。

 空は、現場に赴くとまず最初に祓い屋の秘術である【人払い】の術を使用する。
 これはあやかし事件に、一般の人間を巻き込まないための基本だ。
 この術を使用すると、現場から人から離れていくようになる。この付近にはなんだか近寄りたくない、そんな気持ちにさせる術だ。
 これで祓い屋として妖怪退治をするための準備が整うのだ。

 周囲から人気がなくなったことを確認すると、空は嫌な空気を纏っている廃屋の中に入っていく。
 中は埃が舞い散っていて、所々が痛んでいる。
 昔は誰かが住んでいたのかもしれないが、打ち捨てられた日本家屋はミシミシと音を立て、今にも倒壊しそうな雰囲気がある。

 空は鞄から清めの札を取り出すと、それを家屋の柱に張り付けていく。
 あやかしを炙りだすための準備だ。
 淀んだ空気が、お札のもつ神聖な気に浄化されると、妖怪は堪らず顔を出す。

「ググウッ、グウウッ! 祓い屋かっ!」
「出たわね、妖怪……!」

 やがて、この廃屋に取り憑いているあやかしが苦しげな声と共に出現した。
 子供くらいの身長をしている妖怪ではあったが、その顔はぎょろりとした目玉と異様に長い手足をした下級の妖怪だった。
 頭部には小さなツノがあり、小鬼と呼ばれる部類のあやかしだろう。
 力そのものは大したものを持っていないが悪知恵が働く厄介な妖怪だ。

「この辺り一帯の青少年の夢を食らって、治安を悪化させたのはあなたね?」
「ケッケッケッ! どんな強面の祓い屋が来たかと思えば、可愛いお嬢ちゃんじゃねえか!」
「ばかにしていると、痛い目みるわよ」

 空は右手に握っている数珠に、意識を集中させ、退魔の力を宿らせる。
 この数珠の光に込められた浄化の光を拳に乗せて、あやかしを殴りつけると、妖怪は現世から綺麗に霧散することになる。

「おもしれえ~! 返り討ちにして、可愛がってやるぜ」
 ニヤニヤと下品な笑みを浮かべる小鬼は、耳まで裂けている口から舌を出し、空に襲い掛かって来た。
 空は飛び掛かって来た小鬼に対して、身体を捻り、舞踏のように攻撃を回避すると、その隙を狙い小鬼に輝きを放つ数珠の一撃を打ち込んだ。

「破っ」
「うぎゃあっ」

 小鬼は悲鳴を上げて、空の一撃に転げ回った。
 空が殴りつけた小鬼の横腹が、火傷を負っているように、ただれていた。邪なるあやかしが、清らかな光で浄化されている証拠だった。

「私、こう見えても強いわよ」
「ち、ちくしょう!」

 日頃、祖父から鍛錬を積まされている空は、そんじょそこらの女の子とは比べ物にならない身体能力を持っている。
 相手が大人の男性でも、打ち倒せるくらいには修行しているからだ。
 現に一度、痴漢を返り討ちにしたことがある。その時に、みつみとは仲良くなったのだが……、それはまた別の機会に語るとしよう。

「ならばこれでどうだ!」

 小鬼はその刹那、口から出している長い舌を、ぐにょんと伸ばして空を捉えようとした。
 まるでカエルかカメレオンのような舌だ。
 素早く繰り出された舌だったが、空の瞳はその動きををしっかりと捕らえていた。

 ポケットに忍ばせていた経典を取り出すと、その本を開く。
 空が短く気合を込めると、その経典から破邪の光が迸り、小鬼の舌の前に光り輝く壁を作り上げた。

 その光の壁に、小鬼の舌はバチンと弾かれて、空の身を守る。
 星家の三神器の力は、しっかりと機能しているようだ。
 数珠で攻撃し、経典で守る。それが星家の祓い屋としての基本の戦術だ。

「ぎええっ、オイラの舌がぁっ」

 破邪の光に触れた妖怪の舌も、火傷をしたように腫れていて、小鬼は涙目になっていた。

「さあ、観念しなさい! 悪霊退散!」
「うぎゃあーっ!」

 空の数珠を持つ右手が、輝きながら小鬼の腹に突き刺さる。
 絶叫した小鬼は、そのまま光の中に溶けていき、祓われていった。

「ふう、一件落着」

 相手が小者だったため、楽に片付いた。
 空は祓い屋の仕事が無事に済んだことを安心し、胸をひとつ撫でおろした。

 パチ、パチ、パチ――。

「っ!」

 不意に、乾いた拍手の音が、暗い廃屋の部屋に響いた。
 油断をしていた空はすぐに警戒して、周囲を見回す。

 すると、部屋の外の朽ちた廊下の先に長身の人影が揺らめいた。
 その人影は、ギシ、ギシと床を軋ませながら、空のほうへと近づいてくる。

「大天狗っ!」
「見事だった、星家の娘」

 拍手をしながら、余裕たっぷりの笑みを浮かべて現れたのは、夕闇よりも艶やな暗黒の翼をもつ、修験者……。
 宿敵である大天狗だった。

「しかし、そんな姿で格闘をするとは、乙女としての恥じらいが欠けているのではないか?」

 大天狗は息をのむほどの美顔で、空を眺めて嘲笑する。
 その低く零れる息漏れさえ、妖艶であり誘惑的だった。

「よ、余計なお世話よ!」

 大天狗は空のスカートから伸びる白い脚を見つめていた。
 恐らく、小鬼との一部始終を観察されていたのだろう。
 あやかしの親玉らしく、好色な男だと、空は睨みつけた。

「今日こそ退治してやるわ!」
「フッ、その言葉何度目かな?」
「ばかにして!」

 空は数珠に力を込めて、斜に構えている大天狗に攻撃を仕掛けた。
 床を蹴り、瞬速で距離を詰めると、油断している大天狗のそのすかした顔に拳を叩き込むつもりだった。
 しかし、大天狗は妖術で突風を起こすと、空の勢いを殺すと共に、その右手をはっしと掴んだのである。

「くっ」
「いい目だ」

 空の手を捕まえた大天狗は、その顔を間近に寄せてこちらを覗き込んでくる。
 見下されていると感じた空は、歯噛みをして右手の拘束を振り払おうと睨むのだが、大天狗の力は強かった。

「我を退治するのではなかったか?」
「ううっ」
「星家の娘……空よ。お前はもう少し、身の程をわきまえるべきだな」
「え、偉そうなことを、言わないでっ!」

 空は右手をわざと相手側に押し込むと、バランスを崩させて隙をつき、しなやかな身体を捻らせ、勢いと共に蹴りを繰り出す。
 大天狗は、空の手を離し、刹那に繰り出された蹴りを回避するために距離を取る。
 彼の顔は、先ほどまでの余裕ある笑みから、緊張したものになっていた。
 空はその顔を見て、少しはビックリさせてやれたかと、手ごたえを感じた。

「……今日のところは、このくらいにしてやろう」
「ま、また逃げる気なの!?」
「空よ、もう一度忠告だ。そ……そんな恰好で、格闘をするな……。少なくとも我以外の前では絶対に許さん」

 大天狗はなにやら焦っているような声色でそんなことを言ってくる。
 自らの顔を左手で押さえ、表情をこちらに見せないようにしている。どうやら、動揺している様子だった。

「あなたの言いなりにはならないわ」

 負けっぱなしではない。少しずつではあるが、大天狗に一泡を吹かせることが出来ているのだと、空は思った。

「……また逢おう。空よ」

 通路の奥の闇に溶けていくように、彼の黒い羽が舞い散り、その姿も影と共に消え失せていった。
 空は大天狗が消えた先の通路を、暫し睨みつけていたが、相手の気配が完全になくなったことを察知するとようやく警戒を解いた。

「はぁ……っ。いつもいつも、ちょっかいばっかりだしてきて……なにがしたいの、アイツ……!」

 数珠の攻撃を防がれたときは焦ってしまったが、やられっぱなしではなかった。
 とは言え、まだまだ実力差は歴然だろう。相手は油断しているため、いつもすぐに退いてくれるが、そんな相手の都合に甘えているわけにはいかない。
 なんとしても、あの大天狗を退治しなくてはならない。
 それが星家の祓い屋である、空の役目なのだから……。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 大天狗こと、狗巻天地は廃屋から出ていく空を影から見送り、大きく溜息を吐き出した。

「はぁぁ……っ! 空のやつっ……、全然自覚してないじゃないかッ」

 真っ赤になっている天地は、頭を抱えてうずくまった。
 彼女の繰り出した蹴りを回避した時に、その制服のプリーツスカートからちらりと覗いたものが、脳裏に浮かび上がってくる。

「ぬああっ! いかんっ! けしからんっ!」
 ゴンゴンと、地面に頭突きをして、自分を戒める天地は、悶え苦しみのたうちまわった。

「制服姿で戦うなど……! オレが相手ならまだいい! しかし、空の下着を他の者に見られてしまうかもしれないじゃないかッ!」

 天地は空のなにもかもを独り占めしたくて、悶絶をしていたわけだ。
 短いスカートで格闘をすれば、見えてしまう。空は無防備で自分の身の程を分かっていないのだ。
 それが歯痒かった。
 せっかく忠告しても、大天狗の自分の言葉には聞く耳を持ってくれない。

「あいつは……! 自分がどれだけ可愛らしくて、魅力的な女なのかを自覚していないんだッ!」

 この世の誰よりも愛らしい少女だと、天地は思っている。
 それを空が理解していないのが、もどかしくて堪らなかった。
 もっと自分の身体を大事にするべきだというのに、空は無鉄砲すぎるのだ。

「あいつにっ……、自分自身の可憐さを教えてやらなくてはならないっ」

 天地は空に対して、もっと自覚を持ってほしいと願わずにはいられなかった。
 あんなにも麗しい乙女なのだ。自分の他にも、彼女を狙う男や妖怪はいることだろう。
 あの美しさを穢す存在を近づけるわけにはいかない。
 だというのに、空は無自覚に危ういことをしてしまう。

 学校でもそうだった。
 天地は、学校の男子に積極的に声をかけていった。
 それは全て空のことを調べるためだ。
 他の男が、空を狙っていないか? 淫らな考えを空に対して抱いていないか?
 それを調べるために、空に近づく男たちを根こそぎ調べたのだ。

 女子にはあまり近づかないようにしようとも思った。
 高校生の姿の天地の目的は、空との交流なのだから、他の女子に目を奪われているような姿を、彼女には見せたくなかったからだ。
 あの阪井みつみという女子だけは、空の友人ということで、利用できると思ったから例外にしたが……。

「空……。お前は、可愛すぎるんだ……!」

 妖怪の首魁である彼は、切なく疼く胸の痛みと、どうしようもできない焦燥感に、大きなため息を吐き出し、その夜を悶々と過ごしたのであった――。