二学期が始まり数日が経過した。
転入生の天地も、徐々に教室に馴染んで来たように思う今日この頃、彼の人気は天井知らずに上がっていた。
「おはよ、狗巻くん!」
「おはよう」
クラスの女子に限らず、学年中……いや、上級生までが彼をチェックしていて、天地を見かけると挨拶をするような状況だった。
そんな女子たちに、天地は絵にかいたような爽やかなスマイルで返事をする。
それで沸き立つ女子生徒たちは、完全に天地の虜になっていくのである。
女子の人気を一身に集める天地に対し、男子側からは嫌な印象を受けていたかというとそうでもない。
天地は運動神経がよく、各部活から引っ張りだこになっていたのだ。
それから、天地は女子に対して自分から積極的に絡みに行こうとしない。自分に対して声をかけてきた女子には適度な相槌を返すくらいだ。
男子同士の場合だとそれもなく、天地から声をかけている場面をよく見かけていた。
その男子も、様々なタイプの男子に分け隔てなく声をかけるので、男子内でも好印象だったようだ。
――ただ一つ、例外があるとしたら、天地が唯一声をかける女子がいた。
それが、星空である。
「おはよう、星」
「お、おはよ。狗巻くん……」
空は、その状況を自覚していた。
天地から声をかけられている女子は、自分だけだと、彼の動きを観察していると嫌でもそう考えるしかない。
だから、彼の朝の挨拶に、少しばかりギクシャクした笑顔で、空は返事をした。
「なぁ星、今日の放課後は空いてないかな?」
「へっ……? い、いや、私いつも家のことで忙しいから、ゴメンね」
こんな具合だ。
昨日も天地から声をかけられ、放課後一緒に過ごさないかと誘われた。
その時の教室中の女子の眼光と言ったらなかった。
みんなのアイドルの狗巻天地くんを独り占めしてんじゃねぇわよッ、という敵意がザクザク突き刺さってくるわけだ。
変に事を荒立てたくはないし、実際祓い屋をしている空にとっては、放課後はそんなに自由な時間がない。
毎日、あやかし退治の仕事に駆けずり回っているようなものだからだ。
確かに、天地は魅力的な男子で、空だって悪い気はしてない。
もし、自分がごく普通の女の子だったら、彼の誘いを喜んで受けていたことだろう。
「大変なんだね、神社の仕事は」
「あっ、知ってるんだ……?」
「……あ、その……星の家が神社って、結構有名みたいで、クラスの男子から聞いたんだよ」
「あはは、そっか。まぁそこそこ歴史ある神社の一人娘だからかもね……」
星の家でもある、明星時はこの辺りにある神社として名が通っている。そこの家の娘という話題は、それとなく広まっているようだ。
祓い屋をしている神社という情報は隠ぺいされているが、神社の家の子というのは、それなりに特殊なようだ。
天地はその整った顔立ちを強張らせて、空に言い訳をする。
空の知らないところでプライベートな情報を仕入れたことを、申し訳なく思っているのかもしれない。
「神社の仕事を辞める気はないのかな?」
天地が、空を気遣うような声でそっと訊ねてきた。
「やりがいのある仕事だからね、責任もあるし、辞めないよ」
「そっか……」
空は心から、自分の仕事に誇りを持っていた。
だから、この言葉には信念を込めている。確かに大変な仕事ではあるが、祓い屋として大天狗を退治するまでは、中途半端に投げ出すつもりはない。
天地は少しばかり哀しそうな、寂しそうな顔を浮かべた。
「狗巻くんが、そんなに気にしなくっても大丈夫だよ」
自分の事情を慮って、神妙な顔をする天地の優しさを受けて、空は逆に申し訳なくなってしまう。
苦笑しながら、自分は平気だからと言って見せるが、彼はやはり複雑そうな表情で空を見ていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
――放課後になると、空は慌ただしくも準備を整えて下校する。
「それじゃ、みつみ。また明日ね!」
「うん、仕事ガンバ~」
空は前の席に座る友人に手を振ると、教室から出て行った。
その様子を隣で見ていた天地は、眉を吊り上げて考え込んでいた。
(……このままでは、空との関係が進展できない……。空は祓い屋の仕事に追われ、青春を謳歌する余裕がないんだな)
それはある意味、あやかしの頭領である自分のせいなのだが、だからと言ってあやかしたちに大人しくしていろとは命じられない。
そもそもあやかしたちは、それぞれが個性的でまとまりがない。
余程の理由でもない限り、人の心を食うことをやめろなどと命じても、従わないだろう。
(参ったぞ。どうしたら、空と一緒の時間を過ごせるんだ……)
天地は「むう」と唸りながら、腕組みをした。
そんな姿を見ていた空の友人であるみつみが、不思議そうに声をかけた。
「狗巻くん? どうしたの」
「……あ、いや。星は、いつも忙しそうにしていて、大変だなと」
「あー、うん。神社の仕事が大変みたいだよ。アタシも一緒に遊ぼうって声かけるけど、なかなか気軽には遊べないみたいだよ」
「そうか……。阪井は星と随分仲がいいんだな」
「まぁ、入学してからの仲ではあるけど、このクラスの中では一番仲がいいかもね」
みつみは、ニカっとした笑顔を浮かべる。
天真爛漫な少女だが、星とは毛色が違うタイプだ。
マイペースで、おちゃらけている印象のあるみつみは、よく言えば気さく。悪く言えば軽薄そうにも見える。
しかし、空との友情は確かなもののようだ。
「どうやって星と仲良くなったんだ? ろくに遊べない関係なんだろ」
「……狗巻くん、ホシゾラと遊びたいんだ?」
天地を覗き込むように、ニタリと笑うみつみは、悪戯を思いついた子供のように見える。
「仲良くなりたいと思ってる」
「ふうん……?」
天地は包み隠すことなく、素直に言うと、みつみのほうが意外そうな顔をして目を丸くした。
「だったら、今度アタシがホシゾラと遊ぶとき、声かけてあげようか?」
「本当か?」
みつみの提案に、子犬が尻尾を振るように飛びついてしまった天地は、直後にハッとして、平静さを着込みなおす。
「日曜日なら、折り合いがつくだろうし、ホシゾラもなんとかなるんじゃないかな?」
「日曜日だな。オレも予定を空けておくよ」
「じゃあ、連絡先教えて? スマホ」
――スマホ……。
うかつだった。天地はスマホを持っていないのだ。
人間たちがみんな携帯している端末は、今の世の中で必需品だった。
狗巻天地として、男子高校生に化けて通学しているものの、スマホは用意していなかったことを今頃になって気が付いた。
「す、すまん。オレ、スマホは持ってないんだ」
「えっ!? スマホないのっ!?」
「……機械は昔から苦手で……」
「へええ、何でもできるイケメン転校生の弱点、見付けちゃったな~」
そもそも、スマホなどなくとも、様々な妖術に長けているので、困るようなことはない。
そういう理由もあって天地は、人間の扱う機械類は縁がないのだ。
「日曜日に遊びに行く場所だけ教えてくれればいいよ。オレもそこに行くから、偶然を装って合流する」
「な、なんか必死だね狗巻くん……」
そこまでして空と仲良くなりたいのか、とみつみの目は告げていた。
事実、天地は何が何でも空と仲良くなりたかったので、手段は選ばないつもりだ。
「じゃあ、予定が決まったら教えるから」
「頼むよ。ありがとう、阪井」
「どういたしまして」
天地は満足そうな笑顔になって、席を立つと、別れの挨拶をして、下校することにした。
みつみには、色々と勘繰られてしまうかもしれないが、いざとなれば妖術で記憶を改ざんすることもできる。
こちらにとって不利になることがあれば、修正するだけだと考えた。
学校から出ると、天地は人気のいない路地まで向かい、そこで変化の術を解く。
男子高校生の姿から、大天狗である長身の男に戻るのだ。
そうして漆黒の翼を広げると、疾風のように上空に舞い上がった。
「よしッ! いいぞッ! 日曜日ッ! 空と進展する絶好の機会ではないか!」
雲の上で小躍りをする大天狗は、日本の大妖怪とは思えないほどに浮かれて、はしゃいでいた。
ついに、念願だった空との休日の逢引き……。
ここから、関係を深めていくことができれば、いつかきっと恋の花も咲き誇ることだろう。
「……っと、危ない危ない……。こんなところをあやかしどもに見られては、なんと言われるか分かったものではない」
人間の記憶は好きにできても、あやかし相手にはそうもいかない。
まさか天下の大天狗が、人間の娘に熱を上げていると知られたら、大問題だ。
(……そう言えば、空の奴め。これから神社の仕事という事は……祓い屋の仕事をするつもりなのだな)
この世に蠢くあやかしたちは、陰から獲物を狙うために暗躍している。
ここ東京の一画だけでも、多くの妖怪が人の心を狙うために目を光らせているのだ。
星家は、東京の一画を担当し、他の祓い屋とシノギを削っている。
(今宵も、空の健闘を楽しませてもらうとしよう……)
大天狗は、ここから狗巻天地としてではなく、あやかしの長としてふるまわなければならない。
心の奥の慕情を抑え、妖怪としての溢れる欲望を我慢して、あの凛々しくも気高い乙女の前に、敵として姿を現し演じるのだ。
そのひと時もまた、大天狗にとっては至福だった。
祓い屋として奮闘する空の姿は、高校生のときの彼女にはない、清廉な美しさもある。
そんな彼女に惹かれてもいる大天狗は、時折、自分の中の湧き出る愛……いや、欲情とでもいうべき、熱を発散したくもなるのだ。
このあたりは、妖怪のサガとも言えるだろう。
どうしても、大天狗として、祓い屋の空にちょっかいをだしたくなってしまうのだ。
なにより、空が他のあやかしに弄ばれるようなことが、我慢ならない。
彼女を弄んでいいのは、この大天狗一人だけだと、彼は考えている。
だから、大天狗はこの歪な愛のリビドーに動かされ、空を他のあやかしに襲われぬようにツバをつける。
空は知らずに、あやかしに溺愛されて、その大天狗に連敗しているのだ。
今日もこれから黄昏時に入ると、あやかしたちが蠢き始める。
それは祓い屋の仕事が始まる合図のようなものだ。
空もこの町のどこかであやかしを追って駆けずり回るだろう……。
今夜、また空に出逢える……。その嬉しさが表情に浮かびそうになるのを抑え込む妖艶な男の顔は、あたかも邪悪な企てを行っているように見えるから不思議だ。
バサッ、と艶やかな黒の羽を舞い散らし、大天狗は旋風となった――。
転入生の天地も、徐々に教室に馴染んで来たように思う今日この頃、彼の人気は天井知らずに上がっていた。
「おはよ、狗巻くん!」
「おはよう」
クラスの女子に限らず、学年中……いや、上級生までが彼をチェックしていて、天地を見かけると挨拶をするような状況だった。
そんな女子たちに、天地は絵にかいたような爽やかなスマイルで返事をする。
それで沸き立つ女子生徒たちは、完全に天地の虜になっていくのである。
女子の人気を一身に集める天地に対し、男子側からは嫌な印象を受けていたかというとそうでもない。
天地は運動神経がよく、各部活から引っ張りだこになっていたのだ。
それから、天地は女子に対して自分から積極的に絡みに行こうとしない。自分に対して声をかけてきた女子には適度な相槌を返すくらいだ。
男子同士の場合だとそれもなく、天地から声をかけている場面をよく見かけていた。
その男子も、様々なタイプの男子に分け隔てなく声をかけるので、男子内でも好印象だったようだ。
――ただ一つ、例外があるとしたら、天地が唯一声をかける女子がいた。
それが、星空である。
「おはよう、星」
「お、おはよ。狗巻くん……」
空は、その状況を自覚していた。
天地から声をかけられている女子は、自分だけだと、彼の動きを観察していると嫌でもそう考えるしかない。
だから、彼の朝の挨拶に、少しばかりギクシャクした笑顔で、空は返事をした。
「なぁ星、今日の放課後は空いてないかな?」
「へっ……? い、いや、私いつも家のことで忙しいから、ゴメンね」
こんな具合だ。
昨日も天地から声をかけられ、放課後一緒に過ごさないかと誘われた。
その時の教室中の女子の眼光と言ったらなかった。
みんなのアイドルの狗巻天地くんを独り占めしてんじゃねぇわよッ、という敵意がザクザク突き刺さってくるわけだ。
変に事を荒立てたくはないし、実際祓い屋をしている空にとっては、放課後はそんなに自由な時間がない。
毎日、あやかし退治の仕事に駆けずり回っているようなものだからだ。
確かに、天地は魅力的な男子で、空だって悪い気はしてない。
もし、自分がごく普通の女の子だったら、彼の誘いを喜んで受けていたことだろう。
「大変なんだね、神社の仕事は」
「あっ、知ってるんだ……?」
「……あ、その……星の家が神社って、結構有名みたいで、クラスの男子から聞いたんだよ」
「あはは、そっか。まぁそこそこ歴史ある神社の一人娘だからかもね……」
星の家でもある、明星時はこの辺りにある神社として名が通っている。そこの家の娘という話題は、それとなく広まっているようだ。
祓い屋をしている神社という情報は隠ぺいされているが、神社の家の子というのは、それなりに特殊なようだ。
天地はその整った顔立ちを強張らせて、空に言い訳をする。
空の知らないところでプライベートな情報を仕入れたことを、申し訳なく思っているのかもしれない。
「神社の仕事を辞める気はないのかな?」
天地が、空を気遣うような声でそっと訊ねてきた。
「やりがいのある仕事だからね、責任もあるし、辞めないよ」
「そっか……」
空は心から、自分の仕事に誇りを持っていた。
だから、この言葉には信念を込めている。確かに大変な仕事ではあるが、祓い屋として大天狗を退治するまでは、中途半端に投げ出すつもりはない。
天地は少しばかり哀しそうな、寂しそうな顔を浮かべた。
「狗巻くんが、そんなに気にしなくっても大丈夫だよ」
自分の事情を慮って、神妙な顔をする天地の優しさを受けて、空は逆に申し訳なくなってしまう。
苦笑しながら、自分は平気だからと言って見せるが、彼はやはり複雑そうな表情で空を見ていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
――放課後になると、空は慌ただしくも準備を整えて下校する。
「それじゃ、みつみ。また明日ね!」
「うん、仕事ガンバ~」
空は前の席に座る友人に手を振ると、教室から出て行った。
その様子を隣で見ていた天地は、眉を吊り上げて考え込んでいた。
(……このままでは、空との関係が進展できない……。空は祓い屋の仕事に追われ、青春を謳歌する余裕がないんだな)
それはある意味、あやかしの頭領である自分のせいなのだが、だからと言ってあやかしたちに大人しくしていろとは命じられない。
そもそもあやかしたちは、それぞれが個性的でまとまりがない。
余程の理由でもない限り、人の心を食うことをやめろなどと命じても、従わないだろう。
(参ったぞ。どうしたら、空と一緒の時間を過ごせるんだ……)
天地は「むう」と唸りながら、腕組みをした。
そんな姿を見ていた空の友人であるみつみが、不思議そうに声をかけた。
「狗巻くん? どうしたの」
「……あ、いや。星は、いつも忙しそうにしていて、大変だなと」
「あー、うん。神社の仕事が大変みたいだよ。アタシも一緒に遊ぼうって声かけるけど、なかなか気軽には遊べないみたいだよ」
「そうか……。阪井は星と随分仲がいいんだな」
「まぁ、入学してからの仲ではあるけど、このクラスの中では一番仲がいいかもね」
みつみは、ニカっとした笑顔を浮かべる。
天真爛漫な少女だが、星とは毛色が違うタイプだ。
マイペースで、おちゃらけている印象のあるみつみは、よく言えば気さく。悪く言えば軽薄そうにも見える。
しかし、空との友情は確かなもののようだ。
「どうやって星と仲良くなったんだ? ろくに遊べない関係なんだろ」
「……狗巻くん、ホシゾラと遊びたいんだ?」
天地を覗き込むように、ニタリと笑うみつみは、悪戯を思いついた子供のように見える。
「仲良くなりたいと思ってる」
「ふうん……?」
天地は包み隠すことなく、素直に言うと、みつみのほうが意外そうな顔をして目を丸くした。
「だったら、今度アタシがホシゾラと遊ぶとき、声かけてあげようか?」
「本当か?」
みつみの提案に、子犬が尻尾を振るように飛びついてしまった天地は、直後にハッとして、平静さを着込みなおす。
「日曜日なら、折り合いがつくだろうし、ホシゾラもなんとかなるんじゃないかな?」
「日曜日だな。オレも予定を空けておくよ」
「じゃあ、連絡先教えて? スマホ」
――スマホ……。
うかつだった。天地はスマホを持っていないのだ。
人間たちがみんな携帯している端末は、今の世の中で必需品だった。
狗巻天地として、男子高校生に化けて通学しているものの、スマホは用意していなかったことを今頃になって気が付いた。
「す、すまん。オレ、スマホは持ってないんだ」
「えっ!? スマホないのっ!?」
「……機械は昔から苦手で……」
「へええ、何でもできるイケメン転校生の弱点、見付けちゃったな~」
そもそも、スマホなどなくとも、様々な妖術に長けているので、困るようなことはない。
そういう理由もあって天地は、人間の扱う機械類は縁がないのだ。
「日曜日に遊びに行く場所だけ教えてくれればいいよ。オレもそこに行くから、偶然を装って合流する」
「な、なんか必死だね狗巻くん……」
そこまでして空と仲良くなりたいのか、とみつみの目は告げていた。
事実、天地は何が何でも空と仲良くなりたかったので、手段は選ばないつもりだ。
「じゃあ、予定が決まったら教えるから」
「頼むよ。ありがとう、阪井」
「どういたしまして」
天地は満足そうな笑顔になって、席を立つと、別れの挨拶をして、下校することにした。
みつみには、色々と勘繰られてしまうかもしれないが、いざとなれば妖術で記憶を改ざんすることもできる。
こちらにとって不利になることがあれば、修正するだけだと考えた。
学校から出ると、天地は人気のいない路地まで向かい、そこで変化の術を解く。
男子高校生の姿から、大天狗である長身の男に戻るのだ。
そうして漆黒の翼を広げると、疾風のように上空に舞い上がった。
「よしッ! いいぞッ! 日曜日ッ! 空と進展する絶好の機会ではないか!」
雲の上で小躍りをする大天狗は、日本の大妖怪とは思えないほどに浮かれて、はしゃいでいた。
ついに、念願だった空との休日の逢引き……。
ここから、関係を深めていくことができれば、いつかきっと恋の花も咲き誇ることだろう。
「……っと、危ない危ない……。こんなところをあやかしどもに見られては、なんと言われるか分かったものではない」
人間の記憶は好きにできても、あやかし相手にはそうもいかない。
まさか天下の大天狗が、人間の娘に熱を上げていると知られたら、大問題だ。
(……そう言えば、空の奴め。これから神社の仕事という事は……祓い屋の仕事をするつもりなのだな)
この世に蠢くあやかしたちは、陰から獲物を狙うために暗躍している。
ここ東京の一画だけでも、多くの妖怪が人の心を狙うために目を光らせているのだ。
星家は、東京の一画を担当し、他の祓い屋とシノギを削っている。
(今宵も、空の健闘を楽しませてもらうとしよう……)
大天狗は、ここから狗巻天地としてではなく、あやかしの長としてふるまわなければならない。
心の奥の慕情を抑え、妖怪としての溢れる欲望を我慢して、あの凛々しくも気高い乙女の前に、敵として姿を現し演じるのだ。
そのひと時もまた、大天狗にとっては至福だった。
祓い屋として奮闘する空の姿は、高校生のときの彼女にはない、清廉な美しさもある。
そんな彼女に惹かれてもいる大天狗は、時折、自分の中の湧き出る愛……いや、欲情とでもいうべき、熱を発散したくもなるのだ。
このあたりは、妖怪のサガとも言えるだろう。
どうしても、大天狗として、祓い屋の空にちょっかいをだしたくなってしまうのだ。
なにより、空が他のあやかしに弄ばれるようなことが、我慢ならない。
彼女を弄んでいいのは、この大天狗一人だけだと、彼は考えている。
だから、大天狗はこの歪な愛のリビドーに動かされ、空を他のあやかしに襲われぬようにツバをつける。
空は知らずに、あやかしに溺愛されて、その大天狗に連敗しているのだ。
今日もこれから黄昏時に入ると、あやかしたちが蠢き始める。
それは祓い屋の仕事が始まる合図のようなものだ。
空もこの町のどこかであやかしを追って駆けずり回るだろう……。
今夜、また空に出逢える……。その嬉しさが表情に浮かびそうになるのを抑え込む妖艶な男の顔は、あたかも邪悪な企てを行っているように見えるから不思議だ。
バサッ、と艶やかな黒の羽を舞い散らし、大天狗は旋風となった――。