狗巻天地は、男子トイレに駆け込んで、鏡に映る自分の顔を覗き込んだ。
 その顔は真っ赤に染まっていて、どうしようもないほどに狼狽していた。

「うう……!」

 胸の奥が熱くて、ドコドコと煩く鳴っている。
 体温が上がり切っていて、呼吸が乱れてしまいそうだった。

(星……、空ぁ……っ! なんて、可憐なんだッ……!)

 転校してきて初日、隣の席になった空との何気ない会話……。
 それをどれほど望んでいたことだろう。
 ずっと、この日が来ることを待ち焦がれていたのだ。

 あの、眩い笑顔。それを見るためだけに、天地はこの学校に転校してきたのだから……。

(オレと、会話をしてくれた……。オレに笑顔を向けてくれた……っ)

 他愛ないやりとりのなかで、自然に生まれた彼女の笑顔。
 それが天地の胸を切なくも熱くさせていたのだ。

 そう、狗巻天地は星空に惚れ込んでいた。
 ぞっこん、という奴だ。

(あ……慌てるな……。心を乱してしまうと、変化の術が解けてしまう……)

 天地は、恋心に燃え上がる自分の精神を必死になって落ち着けようと、蛇口をひねって冷水を出すと、それで顔をバシャバシャと洗い流した。

(変化の術が解けてしまったら……、オレは星とは一緒にはいられない……)

 自分の身を包む妖術が霧散してしまわぬように、天地は頭を冷やそうと深呼吸した。
 ……この狗巻天地という姿は、虚像なのだ。
 妖怪変化の術でこしらえた人に化けた姿でしかない。

 狗巻天地の正体は……、星家とは犬猿の仲であり、宿敵であるあやかしの頭領――大天狗なのだ。

(可愛い……。好きだ……好きなんだ……空!)

 狗巻天地は、惚れ込んでいた。
 すなわち――大天狗が、祓い屋の少女に対し、恋に落ちていたのである。
 しかし、二人の関係性は敵同士であり、あやかしの首魁が祓い屋の小娘に慕情を抱いているなどと、他の妖怪にバレてしまうと大問題になってしまう。

 だから、祓い屋として妖怪退治に馳せ参じる空にちょっかいを出す様に姿を現しては、彼女の姿を目に収めていた。
 いつ見ても、空は愛らしくも凛々しく、清らかで健気だった。
 そんな少女にほんのひと時でもいいから逢いたい……。そんな思いから、空の前に現れては彼女を弄んでいた。
 空は、大天狗に対し、あやかしの親玉という印象しか持っておらず、いつもこちらに敵意を向けてくる。
 そんな彼女の姿もまた愛おしかったが、日々大きくなっていく恋心は、そんな彼女の表情以外も欲しがるようになっていった。

(笑顔……。オレに、笑顔をみせてくれた……)

 嬉しかった。最高だった。生きてきてよかった。
 大げさでも何でもなく、心から至福というものを感じていた。

 そう、大天狗はあやかしの親玉であるから、空とは敵対関係になってしまうのだと考えた。
 だから、作戦を思いついたのだ。
 人の姿に化け、彼女のクラスメートの一人として親睦を深めれば、彼女はこちらにぬくもりを与えてくれるかもしれないと。

 そして、今日。
 二学期が始まるという格好の時期を利用して、大天狗は狗巻天地として空のクラスに転入してきたのだ。
 勿論、妖術を駆使して、色々な手続きをクリアした。今日の席替えだって、自分の妖術でイカサマをして、無理矢理に空の隣をもぎ取ったのだ。
 幸い、あやかしとしての妖術の格は高等なものであるため、まだ駆け出しの空には正体がバレてはいない。

(オレは……なんとしても、空が欲しい……。あやかしとして、祓い屋の心を喰らいたいのではない……。色欲に駆られてのものでもない……)

 純粋に……、空の気持ちを自分に向けさせたい。愛し合いたい……。そういう想いしかなかった。
 あやかしとして、空の前に姿を現すと、他の妖怪の手前、敵として、心を奪う捕食者のように彼女に構えて見せなくてはならない。
 だが、それでは空はいつまで経っても、自分に対して優しい表情を向けてくれることはないだろう。

(空は、高校生になった……。人間の乙女として、この時期は最も青春に燃え上がる次期だ……。空が……、他の男に気持ちを動かすようなことは……オレは認められないッ)

 だから、居ても立ってもいられなかったのだ。狗巻天地として、空の隣に腰かける。
 その悲願を叶えるために、大天狗は一世一代の一歩を踏み出したわけだ。

(空……、お前をオレに振り向かせてみせるからな)

 天地は信念の籠った瞳をきらりと輝かせ、教室で待たせている空のもとへと戻っていった。
 教室には一番隅っこの席で、窓の外を見付けている空が居た。
 昼下がりの陽ざしを浴びながら、高校の夏服姿が白く輝いて見えた。

「お帰りなさい、狗巻くん」
「ああ、ごめん。急に……」
「ううん。それじゃ校内案内しようか」
「ありがとう。よろしく頼むよ」

 大天狗は狗巻天地として、爽やかな笑顔を空へと向ける。
 その笑顔は作り出したニセモノの表情ではない。

 本当に、心から彼女と話すと清々しい気持ちになるのだ。
 嬉しくて、幸せで、こんな笑顔を浮かべてしまう。
 二人は教室から出ると、連れ立って学校の色んな教室や、施設を見て回る。
 空が前に立ち、後ろに続くような形で天地が続いた。

 空はめんどくさそうな顔をひとつもせずに、天地に対して温かく学校を案内してくれる。
 それがどれほど、天地の胸を幸福にさせたか、きっと空本人は気が付いていないだろう。

「狗巻くん、前はどこに住んでたの?」
「あ、ああ、えっと……田舎の山の方で……」
「そうなんだ? じゃあ東京もまだ詳しくないのかな?」
「まぁ、そうなる、かな……」

 まさか、あやかしの世界である幽世からやって来たとは言えないので、そのようなウソで誤魔化した。

「じゃあ、東京観光とかもそのうち行ったりするのかな?」
「ああ、いいね。そういうの……行ってみたい」
 空と、一緒に……。とは流石に言えなかった。
 狗巻天地としては、空とはまだ初対面になるし、あまり踏み込み過ぎても怪しまれてしまうだろう。
 大天狗だと空に知られたら、もう失恋をするようなものだ。
 仲間のあやかしにもだが、狗巻天地が大天狗であるという事実を、空にもバレるわけにはいかない。

「ちょっぴり、変なこと聞いても良い?」
「え……?」
 空が、狗巻に振り返り、そう言った。
 ぎくりとした。まさか、もうバレてしまったか? 空の祓い屋としての実力は幾度かのやり取りで把握している。
 この妖術を見破れるほどの力量はまだないはずだが、ぼろを出してしまったかと、内心冷や汗を垂らした。

「東京の人たちって、やっぱり荒んでいるように見える?」
「……えっ……」

 空は、神妙な顔をしてそんな質問をして来た。
 天地は予想していない質問が来たことに、ハトが豆鉄砲を食ったような顔になってしまう。

「あ、変なこと聞いちゃってごめんね。最近、ストレスを溜めてる人が多くて、気になっていたから……」
「ああ、いや……。別にそんなことはないと思うよ」

 おそらく空は、祓い屋として、人々の心が荒んでいる状況を憂いていたのだろう。
 それで田舎から来たと述べた天地に、こんな質問をしたらしい。
 天地は、自分のことがバレていないことが分かって、少しホッとしながら、空を気遣ってやった。

 人の社会の闇に紛れ、妖怪たちは心を喰らって過ごしている。
 その結果、都心は近頃、随分とストレスをため込んだ人間が多くみられている。
 日夜ニュースから暗い報道が流れると、空は気持ちを落ち込ませていたのかもしれない。
 ここ、東京には夢や希望を持った多くの人が集まる分、エサとなる心を求めてあやかし達も集まってくる。
 そうして上質な心の持ち主を見付けると、その心を喰らい、無気力な人間にしてしまう。

 傍から見ると、夢を見ていた若者が現実を突きつけられて荒んでるようにしか見えないが、その希望の根っこを妖怪に喰われてしまったためであることを祓い屋たちは知っている。
 空も若手ながらに、その祓い屋の一人だ。
 自分の担当する地域のあやかしを満足に退治できず、人々がストレスを溜めてしまっている状況を悔やんでいるのだろう。

 だが、この東京のあやかしを総ているのは、他でもないこの大天狗である。
 あやかしの中でも最上級とされる妖術の持ち主なのだ。
 空が敵わないのは、仕方のないことである。

「星が気にすることないよ」
「そう……、なんだけどね……」

 苦笑いをする空は、自分が未熟なことを悔しく思っているのだろう。
 大天狗を退治するために毎日修行しているのを、天地は知っている。その健気な姿がまた、愛おしかった。

「星、困っていることがあったら、オレに言ってくれよ」
「なに言ってるのよ。それは、転校生の台詞じゃないでしょ。私の台詞」

 空はそう言うと、くすくすと笑った。
 その笑顔が、天地には堪らないほどに胸を締め付けてくる。

(空が祓い屋でなければ……)

 そう思わずにはいられない。
 できることなら、彼女にはあやかしとは無縁のところにいてほしい。
 大天狗である天地が言えた言葉ではないだろうが、この笑顔を永遠に見ていたい。
 そんなことを願ってしまう妖怪の大御所は、自分の中にある立場と、慕情に苦悩しながらも、ありあまる心地よさを、彼女から受け取っていた。

 今日からだ。
 今日から狗巻天地として、同年代のクラスメートとして、空との関係を始めていこう。
 天地は静かにそう誓った。

 こうして、奇妙な関係で繋がった二人の男女の、奇々怪々なラブ・ストーリーが幕を開けた――。