「ん…。」

 翌朝、百合は胸苦しさで目覚める。航の腕だった。航の腕は百合の首下、百合の肩を抱いていた。航はピンク色の枕。うつ伏せ気味に、気持ちよさそうに眠っていた。百合はそっと航の腕に触れる。航はぱちっと目を開ける。

「おはよ。」
「お、おはよう、ございます…。」
「何ビビってんだよ。」
「び、ビビってません…。」
「恥ずかしいんだろ。」

 百合は布団で少し顔を隠す。その百合は気づく。ずっと航を見てきた百合。航の首元、いつもと違う。

「航さん、ネックレスなんて、してましたっけ…。」
「昨日した。昨日の夜。」
「昨日?」
「あんたもしてるよ。」
「え?私?私は…。」

 百合は半信半疑、笑いながら自分の首元を触る。

「あれ?ある…。あれ??」
「あんたが寝てる時した。よく寝てたから全然気づかれなかった。それだけ安心したのか?それともそんなに気持ちよかったか?」
「航さん…!」

 確かにある、ネックレス。百合の指が触れている。

「鏡…。」

 百合は起き上がる。

「その必要ねーよ。」
「え?」
「オレのと同じだ。全部同じ。チェーンの長さも太さも。」

 百合は航のネックレスに近づく。そっと触れてみる。ゴールドのネックレス。細めのチェーン。トップは小さな太陽。その太陽は大きく光を放っていた。

「これが、私にも…?」
「他にも色んなのあったけど、やっぱりあんたには、太陽みたいに明るく笑っていてほしいからな。」
「航さん…。」
「男物の店だけど、これなら女もつけられるって店員が言ってた。どうせならお揃いがいい。」

 百合はもうひとつ気づく。自分の右手、薬指。大きく太いWのアルファベット。百合は手のひら、手の甲を交互に見る。シルバーのリングだった。

「あれ?リング?これも航さん??」
「そーだ。今頃気づいたか。」
「W…W?」
「バカ、航のWだ。」
「あ…。」

 百合は目を見開き、リングを見る。見惚れる。

「W…わたる…W…わたる…。」

 百合がどんどん笑顔になる。

「航さん?」
「ん?」
「嬉しいです。ありがとうございます。」

 航も起き上がり、百合の肩をぐいっと押す。じっと見る。

「やっぱりあんたは色が白いし細いし、もっと女の子らしくてキラキラしたもんのほうが…。」
「嫌です!そんなのどこにでもあります!私はこれがいいです!航さんが選んでくれた、航さんと同じ、これがいいです!」

 笑顔になる航。百合の頭をなでる。

「ありがとな。」

 百合をなでた、その航の手。

「あれ?航さんもリング?」

 百合は航の手をとる。右手の薬指。

「Y…Y…ゆり…?」
「そーだ。」

 元気だった百合が、リングを見ながら少しうつむいた。

「今まで、アクセサリーって付けたことなかったんです。初めてです…。これは宝物です…。」

 百合は顔を上げる。微笑んだ。

「だから航さん、ありがとう…。」

 ふたりは笑顔でキスをしようとした、その時。

「あ!大事なもの忘れてる!」

 百合は自分のバッグを手繰り寄せる。作った鍵を出した。百合の部屋の合鍵。

「はい、航さん。」

 航に鍵を差し出す百合。航は丁寧に受け取った。それをしばらく見ていた航は言う。

「なんでもっと早く、こうしなかったんだ…。そうすれば、もっと早くあんたを…。」

 百合は航の言葉を止めるようにキスをした。そのキスの意味がわかる航。

「ありがとな。」

 ふたりは改めて、笑顔でキスをした。

「でも、こんなプレゼント…。どうして?誕生日でもないし、記念日でもないし…。」
「ふと思い付いて買いに行ったんだ。何か考えてた訳じゃねぇ。」
「んー。」
「じゃあ、処女卒業記念でいいじゃねーか。」
「しょじょ…。」
「だってそうだろ?」
「私は…処女なんかじゃ…。」

 航は百合の腕を強く掴む。

「じゃあ、あんたの、セックスだと認めるセックスは何だ。いつ誰とした。」
「認める…セッ…クス…。」
「そうだよ。」
「セッ…クス…、セックス…。」
「そんな何度も言うな。」
「セックス…。」
「だから何度も…。」
「私は…。」

 百合は大きく息を吸う。そしてはっきり言った。

「私は、昨日の夜、航さんとセックスしました。」

 強く掴んでいた百合の腕を、航は緩める。そして百合の手をそっと握った。

「よく言えたな。」
「航さんの、おかげです。航さんのおかげで、処女を卒業できました。」
「そーだ。あんたの処女を奪ったのはオレだ。」
「はい。航さんです。航さんに奪われました。」

 航は百合をふわっと押し倒す。

「続きをしてもいいか?」
「いつまで続くんですか?」
「んー、あんたが溶けるまで。」
「溶けたら消えちゃいます。」
「じゃあ一緒に溶けるまで。」

 百合が少女から女性になった朝。
「シャワー貸してくれ。」
「はい。準備しておきます。」

 百合は鏡を見る。ネックレスに触れる。航と同じ太陽が首元に眩しい。そして右手、薬指。航のW。百合は嬉しくて仕方なかった。

「あんたも浴びてこい。」
「はい…。」

 シャワーから戻ってきた航は下着姿だった。百合は航に背を向ける。

「航さん…服を、着てください…。」
「何だよ、何かおかしいか?」
「いいから、早く服を…。」
「いいじゃねーか。昨日散々見ただろ?あ、今日もか。」
「私は、見てません…。」
「あーあんた、すげー気持ちよさそうだったもんな。」
「航さん!」

 百合もシャワーを浴びる。肌を見る。肌は白い。そして航に抱かれた体、百合は大人になれた気がした。今までの自分ではない。心も体も変化した、そう思った。

「航さん、お腹空いてませんか?何か軽く作ります。」

 百合はピラフと麦茶を持ってきた。

「じゃ、いただきます。」
「はい、召し上がれ、です。」

 航はなかなか料理に手をつけない。

「お腹、空いてませんでしたか…?」
「いや…。」
「じゃあ、何か…。」
「あんたには、甘えてばっかだなって。」
「何…言ってるんですか…。」

 それを聞いた百合は声を大きくして言う。

「私は航さんのおかげで、笑えるようになったんです。人も怖くなくなって、世界が広がったんです。どれだけ強くなれて、成長できて、自分でも計れません。航さんがいてくれて、どれだけ心強いか、航さんもわかってますよね?ううん…航さんが一番わかってるはずです。」

 百合は勢いよく言った。

「そんな興奮すんな。」
「だって!」
「こんな時、何て言ったらいいか…。オレ頭良くねぇから…。」
「じゃあ…、思いついたこと、言ってみてください。」

 航はぽろぽろ言う。

「ありがとう」
「ずっと見てる、見てたい」
「安心」
「落ち着く」
「全部欲しい」
「好きだ」

 航の言葉を聞けば聞くほど、百合の目に涙が溢れていった。

「充分です…。充分すぎるほどです…。」

 不器用なふたり。肩を寄せ合う。ふたり、なかなか言葉が出ない。

「飯がまずくなるぞ。」
「はい…。」

 喜び溢れる涙のふたりのランチ。

 昼下がり。ふたりはベッドに寄りかかる。百合はずっとリングを見ていた。

「そんなに嬉しいか?」
「はい!だって、これがあれば航さんがいなくても、そばにいてくれてるような気分になります。」
「そうだな。」
「はい!宝物です!」
「オレは合鍵が宝物だ。」
「え?」
「いつでも夜這いができる。」
「もう気にしません。」

 百合はぷいっと横を向く。

「もうあんな思い、したくない。鍵があればいつでも行ける。あんたに会える。」

 横を向いていた百合が航を見ると、その航はうつむいていた。

「いつでも来て…。いつでも会いたい…。」

 うつむく航を見て、思わず百合から出てしまった台詞。しかし我に返るように百合は言った。

「だめ。それじゃ航さんに甘えることになる。」
「オレらは甘えん坊同士だな。」

 ふたりは目を合わせ笑った。笑いながら抱き合う。ふたりはずっとじゃれあっていた。

「航さん、焼き鳥食べたいです。」
「はぁ?またかよ。」
「はい、また、です。」

 手をつなぎ、焼き鳥屋に向かう途中。百合の歩き方がぎこちない。

「どうした?どこか痛いのか?」
「なんか…体中が痛い…筋肉痛…?」
「あー昨日、初めての運動したからな。」
「え…。」
「今日もするからすぐ治る。」
「えっ。」
「いいから行くぞ。」
 店に入り、テーブルに焼き鳥とビール。ふたりは乾杯する。

「処女卒業おめでとう。」
「航さん!そういうこと、こういう所で言わないでください…。」
「ここは何でもありだ。心配すんな。」
「でも…。」
「あー女抱いた後の酒はうまい。」
「航さん!」
「だから気にすんなって。」

 拗ねた顔した百合は、焼き鳥を食べるとすぐに笑顔になった。

「おいしい。」

 百合の怒る顔、拗ねる顔、笑う顔。航はずっと見ていた。それに気づかない百合。

「昨日、あんたすげーエロかった。」

 咳き込む百合。

「航さん!」

 航は百合を無視し、話を続ける。

「あんなことしてエロくならない女もいないだろうけど、あんたもエロかった。エロかったけど、すげーきれいだったんだよ。体、顔、肌、髪、声。すげーきれいだった。あんたみたいなきれいな女、他にいねぇよ。」

 百合は驚きを超え、動転する。声を失う。航は話を続けた。

「オレはあんたの全部を見た、体も心も。あんたは正真正銘の美人だ。だから全部欲しいと思った。今のあんたも、これからも。」
「航さん、私は…私はずっと航さんなんです。初めから変わりません。だから昨日だって、航さんだったから…。だから私は…。」

 想いが多すぎて言葉が出ない百合。航に伝えたいのに伝えられない。

「私は…。」
「もういい。」
「よくないです。私は、もっと航さんに感謝しなきゃだめです。でも何て言ったらいいか…言葉が出てこない…。もっと航さんに…。」
「そういうところも好きなんだよ。他の誰んとこにも行くな。な?」

 百合の目に涙が浮かぶ。

「はい…行きません…。」

 航は百合の頭をなでる。

「ありがとな。」

 そして泣き出す百合。声を出しながら。

「おい、こんな所でそんな泣くな。」
「何でもありって、言ったじゃないですか…。」

 向かい合わせで座っていたふたり。航は立ち上がり、百合の横に座った。

「これで少しは落ち着くか?」

 百合は航の袖を両手で握り、頭をつける。

「落ち着きません!」

 航は百合の肩を包む。百合らしさごと包んでいた。

 お腹も心も満たされたふたり。アパートに帰り、部屋に入る。航はふとその存在に気づく。ベッド側の壁に貼られた一枚の紙。ふたりはベッドの上に座り、見ていた。

「このイベントの一覧。日付、書けるとこあるんじゃねーか?」
「はい…。」
「忘れてたのかよ。」
「いえ…。それを書いた時は、いつまで航さんと一緒にいられるかわからないと思ってたので、書くだけ書いて、気にしないようにしてたんです。ただ、書いてみたかっただけかもしれないです。」

 物憂げな顔の百合。そんな思いをしながら百合はこれを書いていた。航はそれをその時初めて知る。その百合を想像した。航は始める。

「出会った日…出会った日?いつだ?」
「友江先輩の結婚式です。」
「じゃあ、付き合った日は?」
「それがわからないんです。私、手帳も日記もないので…。」
「あ…先輩に聞けばいいのか。ふたりで先輩の店に行った日だ。それから次は、初キス。」
「花火の…日…です。」
「ん?その次がないぞ?大事なのが抜けてる。ペン貸せ。」
「はい…。」

 百合はペンを渡す。そして航は一覧に書き足す。

 初体験

「えっ。」
「大事だろ?」
「んー…。」
「わざと書かなかったんだろ。」

 航にはわかっていた。一覧から目をそらす百合。焦るかのようだった。

「もう目はそらさないんじゃなかったのか?」

 百合は自分の言葉を思い出す。航に気づかされた。ゆっくり百合は航を見る。そして宣言した。

「初体験は昨日です!」
「女子にとっては大事な日だろ?」

 それを聞いて百合は疑問に思った。

「じゃあ、男子にとっては大事じゃないんですか?」

 航は百合をじっと見る。

「女にはわかんねーよ。」
「じゃあどうして航さんは女子の気持ちがわかるんですか?」
「教えねー。」
「航さんだけずるいです。教えてください。」
「教えねーよ。」
「航さん!」
「それ以上言ったら顔に落書きするぞ。このペン、油性だよな…。」
「航さん!ずるいです!」

 いつまでもじゃれあうふたり。
「おい。ここ書いてないぞ。一番大事な日なんじゃないのか?」
「何の日ですか?」
「誕生日だよ。あんたいつだ。」
「5月です。」
「5月?何日だ?」
「23です。」

 航は呆れた顔をする。

「真面目に答えろ。いつだ。」
「だから5月23日ですってば。どうしてですか?」
「それほんとか?」
「はい。それがどうしたんですか?」
「オレもだ。」
「え?」
「オレも5月23日だ。」

 航はふたりの誕生日を記入する。一覧に書き込めるものは全て書き込んだ。その後、ふたりは見つめ合う。

「同じ誕生日…。」
「歳も場所も違うけど、オレら同じ日に生まれたんだな。来年の誕生日は盛大に祝おう。」
「はい…。」
「なんだ?ショックだったか?」
「違います。」
「じゃあどうした。」

 やさしい航。やさしい声。

「すごく嫌だったけど…、生まれてよかったって…。その日、この私で…。」

 航は手もやさしかった。百合の手が、そのやさしさで包まれる。

「そうだ。生まれてあんたは真っ当に生きてきた。すげーつらいのに。でもだからオレはあんたと出会えた。出会ってあんたはオレを選んでくれた。そのおかげで今がある。」
「でも航さんも、私と一緒にいることを選んでくれました。」
「じゃあ最初にオレを見つけたのは誰だ。あんただろ?」

 航は百合の頬に手を添える。やさしい手。

「ありがとな、百合。」

 頬に添えた航の手に、小さな涙が落ちた。百合の落とした涙。

「来年…毎年祝おう、誕生日。何するか考えて、最高の誕生日にしよう。」

 百合は航の胸におでこを当てた。

「楽しみだな。」

 百合は頷く、航の胸の中。そのまま百合はずっと航の胸に包まれる。航の素肌に包まれる。

「航さん。そういえば、会社の先輩が言ってました。『ユリは彼氏のもの、彼氏もユリのもの』、『ユリは彼氏を独り占め、彼氏もユリを独り占め』って。」
「あんた…どんな先輩と付き合ってんだよ…。」
「それ、合ってますか?」
「あぁ…間違ってはいないんじゃ…。」
「なんとなくわかるような、まだわからないような…。んー…。」
「仲、良いんだな。」
「はい。でも、1人は転職、1人は結婚を考え始めたそうです。」
「じゃあ仕事辞めんのか?」
「順調に行けば、もしかしたら…。」
「じゃあまた寂しくなるな。」
「そんなことないです。」
「何でだよ。仲良いんだろ?」
「全然寂しくないって言ったら嘘になりますけど…。私、2人のこと応援してるんです。2人には沢山、勇気をもらいました。その2人が幸せになってくれたら、私も嬉しいです。それに今は、このリングがあるので寂しくないです…。」

 嬉しそうにリングを見る百合。百合は確実に強くなっていた。航は嬉しさと寂しさ。

「強くなったな。」
「そうですか?私、強くなりましたか?」
「今のあんたなら、オレより強い。」
「そんなことないです。航さんは強いです。」
「強くなっても弱くなっても、あんたはあんただ。」

 航の目には艶。

「あんたを独り占めしたい。」

 その艶をどんどん浴びる百合。

「大丈夫です…私は航さんのもの…。だから独り占め…してください…。」

 百合の目も体も艶やかになる。

「キス、してください…。」

 航は百合を見つめ、熱いキスをする。熱いキスからの旅が始まる。終わらない旅が何周かした後。

「航さん。セックスって週末にするものなんですか?」
「は?!」

 百合は真剣だった。航は渋々答える。

「したい時にする。それだけだ。」
「したい時…。んー…。」
「そんな深く考えるなよ…。」
「じゃあ、これから航さん、ほんとに夜這いするかもしれませんか?」

 真剣な百合は続く。

「そんな泥棒みたいなことするかよ…。したくなったらしたいって、お互い言えばいい。」
「はい。そうします。」
「そうしますって…。」
「ヘイキって箱に書いた時。航さんのこと…そういうのを『求めてる』って言うんですか?だったら私は航さんのこと、求めてたのかもしれないです…。」

 自分で言っておいて恥ずかしくなる百合。布団で顔を少し隠す。

「今は?」
「え?」
「今だよ。今はオレを求めてるか?」

 さらに恥ずかしくなった百合はもっと顔を隠した。

「求めてるなら、合図しろ。」
「合図…合図…。」

 百合は布団の中に潜り込む。
 本格的に寒くなる、少し手前。ふたりは近出する。初めての旅行。星を見るため。

「一泊二日。何をどこまで持って行けばいいんだろう。んー。」

 百合は遠足気分、嬉しさ、楽しさ、恥ずかしさ。

「時間はかかるけど、乗り換えは面倒だし、ゆったりした席でゆっくり行きたかった。いいか?」
「はい、もちろんです。」

 ふたりは急行列車に乗る。

 着いた先は、空の青と木の緑しかない壮大な景色が広がっていた。向かった宿は、旅館とホテルの中間。木の柱、石の畳、綺麗なエントランス。チェックインを済ませる航。ふたりは部屋に案内された。部屋に入るふたり。

「うわぁ…広い…明るい…。あれ?」

 百合は大きな窓に近づく。ウッドチェアのあるテラスがあった。

「ここからも星、見えるの…?」
「充分、見えるだろうな。でももっとすげー所がある。」
「どこですか??」
「行ってみるか?」

 百合は航に付いていく。どきどきしていた。

「ここだ。」

 そこは屋上。それは大きなテラス。大きなチェアもあった。そして、見えたのは山と空。緑と青。それだけだった。自然の大パノラマ。百合は柵に手を置き、言葉を失う。パノラマをずっと見ていた。

「どうだ?」

 百合は声も失う。それを見た航は嬉しかった。

「夜また来よう。その時は星が見える。」
「待ってください。もう少しいたい…。」
「じゃあ好きなだけいろ。」
「こんな場所があるなんて…。空気も違う気がする…。」
「東京とは、違うだろうな。」
「航さんがいなかったら、ずっと知らなかった…こんな場所…。」
「それは大袈裟だ。」

 百合に航の声が入らない。

「航さん?」
「ん?」

 やっと百合は航を見る。

「ありがとう…。」

 航は微笑みながら、百合の頭をなでた。

「部屋に戻ろう。夜の飯まで時間がある。風呂入りに行こう。」
「はい。」

 百合は名残惜しそうにテラスを後にした。

「浴衣、きれい…。」

 色鮮やかで、綺麗な柄の浴衣だった。そして大浴場へ向かうふたり。温泉、白く濁った湯に感激した百合は、心も体も癒された。部屋に戻ると航はもう待っていた。

「ゆっくりできたか?」
「はい、気持ちよかったです。」

 笑顔のふたりは夕食の時間。個室になった食事所だった。季節の豪華な料理を、ふたり笑顔で食べた。

「航さん、私もう満足です。」
「バカ。メインはこれからだ。何の為にここに来たんだ。」

 ふたりは部屋へ一度戻る。布団が敷いてあった。そしてメインの時間。

「寒いから上着持っていけ。」

 昼間に行った屋上のテラスへ向かう。今回の旅行のメイン。

「航さん?」
「なんだ?」
「腕、組んでもいいですか?」
「いちいち聞くな。」

 そう言う航は前を見つつ、腕を広げてきた。百合は嬉しくなり、小さく笑いながら航の腕を組む。そしてテラスに着く。

「え…?」

 漆黒の空。そこに小さな粉のような白い星を、空よりもさらに高い場所から振りまいたような、数えきれない星たち。それが百合と航を待っていた。見事な星空だった。百合は航の腕をきつく組む。

「きれいだな。」
「信じられない…。」
「よく見ておくんだ、星も空も。」
「航さん…。」
「ん?」
「航さん…。」

 星空に見とれる百合の、言葉にならない言葉を航は聞く。ふたり同じ星空の下。神秘的な世界。

「空から見たオレたちは、すげー小さいんだろうな。」

 航は空に話しかける。百合は航の目を見る。

「そんなオレたちの抱えてるものも。」
「抱えてるもの…。」
「悩みとか悲しみ、苦しみ。そーゆーの。」
「航さん、何か悩んでるんですか?」

 百合が問いかけても航は答えず、ずっと星空を見ていた。百合は質問を変えてみる。

「航さん、今何を考えてるんですか…?」

 航は質問に答えた。

「後輩。」
「後輩?」
「オレの一番大切だった後輩。」
「どうしてその後輩の人のことなんですか?」

 航はさらに目線を上げた。

「そいつ、この空のもっと上にいるんだ。」

 航は大切な人を失っていた。その事実を知った百合はショックを受ける。いつどんな時でもやさしい航。そんな航は悲しみを抱えていた。百合も悲しくなる。顔も知らないその後輩を、探すかのように慌てて星空を見上げる百合。

「そんなに遠い所にいるなら…ここからじゃ見えません…。」
「オレたちからは見えないけど、あいつからなら見えるかもしれない…。」

 百合は初めて見る、航の悲しい目。横顔でもはっきりわかる哀しい目、やりきれない表情。

「オレはあいつに何もしてやれなかった。何でもいい、何かひとつでもしてやれてたら、何か変わってたかもしれない…。」

 百合は涙をこらえる。航の悲しい思いを、少しでも輝きに変えたいと思った。今見えている星のように。

「この星空に…そんな悲しい顔は、合いません…。それに、その人は航さんの一番大切な後輩だったんですよね?それなら、その後輩の人も航さんのこと、一番大切に思ってたと思います。だからそんな悲しい顔、してほしくないと思ってる…。」

 百合は涙をこぼしてしまう。

「航さん…言ってたじゃないですか…。『空は見てる』って…。航さんのこと…きっと見てます。きっと見守ってます…。」
「そうだといいんだけどな。そうであってくれれば…。」
「私は、そう思います。」

 力強く言う百合の目は涙で潤み、輝いていた。航は言った、やさしい目とやさしい声で。

「そうだな。」

 改めて見る満天の星空。星空の上の天まで見た、夜の空。
「寒くないか?しばらく外にいたから冷えただろ。」
「少し冷えました。」
「風呂入ろう。脱げ。」
「え?」
「露天風呂だよ。テラスにあったの、昼間見なかったのか?」

 百合は急いで向かうテラス。ウッドチェアの隣に、檜でできた小さな露天風呂があった。

「ここに、ふたりで…?」

 航はゆったり湯に浸かり、百合は隅で体を小さくさせていた。

「おい、何やってんだよ。こっち来い。」

 恥ずかしい百合はゆっくり航に近づく。

「温泉浸かりながら星空見るなんて贅沢だな。」

 航の隣に移動した百合も星空を眺める。

「…きれい…。」

 航が話し出す。

「さっきの話は隠してた訳でも何でもない。隠すようなことでもない。」
「はい…。」
「…何も知らないやつに話すのは、初めてだ…。…また…話したくなったら聞いてくれるか?」
「もちろんです。航さんの大切な人のこと、知りたいです。」

 百合は笑顔で答えた。航は百合に抱きつく。湯しぶきが飛ぶ。どきっとする百合。

「あーなんかすげー安心感。あんたは?」
「わ、私は、緊張感…。」
「何でだよ。」
「こ、こんな状況で…。」
「じゃあ後で安心させてやるよ。」
「え?」

 星は絶えることなく瞬く。ふたりはずっと見ていた。百合は小さな星が流れるのを見る。

「あ!流れ星!お願い事しなくちゃ!」
「あんたガキかよ…。」
「あ…でも何お願いしよう…。」
「何お願いするんだ?」
「航さんは何かお願い事ありますか?」
「ある。」
「何ですか?」
「あんたを、百合を、守れますように。」

 航は満天の星空に向かって願った。嬉しさと湯の熱さ。ぽーっとする百合は航に見惚れる。

「決まったか?お願い事。」
「航さんを守れるくらい…強くなれますように…。」
「ありがたいお願い事だ。」
「私のほうが…。ありがとう航さん…。」

 航は百合の顔にパシャっとお湯をかける。

「何するんですか!」
「ぼーっとしてるから。」
「してません!お願い事考えてただけです!」

 百合も航にお湯をかけた。加減がわからない百合は航の髪も濡らしてしまう。

「何すんだよ!こいつ…。」
「航さんどこ触ってるんですか!くすぐったいです!」

 じゃれあいの露天風呂。

「きれいな星に、きれいな女。酒がなくても酔いそうだ。」
「航さん、お酒飲みたいんですか?私持ってきます。確か日本酒があったはず…。」

 航は百合の腕をぐいっと引き寄せる。

「もう酔ってる…。」

 ふたりの唇が重なった時、ふたつの小さな星が流れた。願い事は言えなかった。

「航さん…私のぼせそうです…。」

 部屋に入るふたり。同じ布団に入り、温泉に浸かった肌と肌を合わせた。

「あんた、体いつもよりあったかい。」
「航さんもですよ?」
「熱でもあるんじゃねーか?」
「温泉に入って、体が暖まったんじゃないですか?大丈夫です。」

 百合は笑う。それをじっと航は見た。

「何ですか?航さん。」
「笑うのが当たり前になったな。堂々と泣くのも。初めはビビってただけだったのに…。笑わないで、声出さないで泣いて。今までずっとそう生きてきたのか?」

 百合は少しだけ困った顔。

「悪い、こんな話したくねぇよな。悪かった。」

 航を見上げる百合。

「いえ、大丈夫です。私は今まで、とにかく目立たないようにしてました。それでよかったんです、人が怖かったので。友達と言える友達もいなくて、社会に出てからも、社内で誰かと仲良くなる必要もないって知って、仕事の話だけをして。私はそれでよかったんです。」
「でも家出てあんな静かなとこ住んで、ほんとに寂しくなかったのか?」
「何も、望んでませんでした。」

 百合は淡々と話をした。航は百合にも聞こえないくらいの小さな声。

「何だよそれ…ふざけんなよ…。」

 そう航は言った後、きつく百合を抱きしめた。

「これからもずっと笑え。泣け。でも泣くのはオレの前だけで泣け。いいな?」
「航さん…。」
「今までの人生を取り返すんだ。」
「取り返す…?」
「だって悔しいだろ。オレが悔しいんだよ…。」
「でも私は、航さんがいてくれたらそれだけで…。取り返すことも、何もいらないです…。」
「そんなこと言うなよ…。」

 航は百合をきつくきつく抱きしめる。熱い航を百合は感じた。

「航さん…?」
「何だよ…。」
「ありがとう…。」
「オレはまだ何もしてねぇよ…。」

 航に抱きしめられている百合。百合は体を航の肌にこする。熱を感じてもらえるように。

「航さん…?」
「なんだ…?」
「好きです…。」
「…わかってるよ…。」

 いつもより熱いキス。
 年の瀬。街が賑わう。慌ただしくなる。百合の部屋のテーブル。中央の箱の横に、小さなクリスマスツリー。

「航さん。お願いがあります。」
「なんだ?」
「クリスマス。イヴの日、航さんの先輩のお店に行きたいです。」
「ああ。しばらく行ってないしな。連絡しておく。他には何かないか?」
「ないです。」
「は?ないのかよ。」
「ないです。」
「どこか他に行きたいとことか、何か欲しいもんとか…。」
「はい、ありません。その日、あのお店に行って、その夜、航さんと過ごせたら、それだけでいいです。」
「ないならいいけど…。もし何か思い付いたら言うんだぞ。」
「はい。航さんは、何か欲しいものありますか?」

 航はテーブルの小さなクリスマスツリーのてっぺんを、指でつっつきながら返事をする。

「オレは何にもいらねーよ。あんたがいればいい。」

 航からさらっと出た言葉。百合は恥ずかしくなる。何も言葉が出なかった。

 それから百合は航へのプレゼントに悩む。テーブルの中央の箱に、まるで話しかけるように呟く。

「航さん。プレゼント、何がいいかなぁ。何かないかな…。」

 後日、金曜のお昼。百合は誰もいない会議室。航に電話をする。

「もしもし、航さん?」
「おぉ、お疲れ。どうかしたか?」
「あの、今夜先輩達と飲みに行くことになったので、航さん、先に部屋で待っててもらえませんか?」
「先に?…あぁ、そうだな。待ってるよ。」
「急いで帰りますから。」
「いいよ、ゆっくりしてこいよ。」
「航さんの、待ってる姿が早く見たいんです…。」

 微笑むふたり。ふたり、声でわかる。

「わかったよ。気をつけて帰ってこいよ。」
「はい…待っててくださいね。」

 百合は終業後。居酒屋・古都。

「かんぱーい!」

 百合、葵、舞は乾杯をする。すぐに近状報告になった。葵が言う。

「舞が結婚なんてびっくり!そんなに舞、結婚願望あったっけ?」
「結婚はまだまだ先の話!でも突然で、自分でもびっくりしてる。」

 舞は続ける。

「葵と合コン行って、その後デート重ねて、すぐ結婚の話が出て…。」
「仲良く話してるなーって、合コンの時思ってたけど…。」
「後になってわかったんだけど、彼、別に結婚を求めて合コンに行ってた訳じゃなかったんだって。」
「じゃあどうして?」
「私といると落ち着くんだって。だからすぐ結婚が浮かんだって言ってた。」
「へぇ…。」

 『落ち着く』という気持ちがわかる百合。百合はウーロン茶を飲みながら聞いていた。その時の百合はアルコールを飲まない。アパートに帰ってから、航と飲むだろうと思っていた。

 ゆっくりビールを飲む舞は続きを話す。舞は落ち着いた表情をしていた。

「それ聞いて、なんか嬉しかったんだよね…。『落ち着く』なんて初めて言われた。でも私も考えてみたら、彼と一緒にいると居心地いいって思うし、癒される時もある…。そういうのって大事なんじゃないかなって思ったの。」
「具体的に話、進んでるの?」
「ううん、全然。むしろ自然。だからいい。だから楽しい。」

 にこにこしながら百合はずっと聞いていた。

「順調にいくといいね。」
「いいね、です!」
「うん、ありがとう。2人とも。」

 3人、笑顔になる。今度は舞が葵に聞く。

「葵は?進んでる?転職サイトに登録して、もう経ったじゃん?いい仕事見つからないの?」
「違う、そうじゃないの。知れば知るほど、どんな職種も面白そうで、そこで迷ってる。」
「職種?」
「そう。自分にどんな可能性があるかわからないじゃない?自分は何に向いてるのか…。」
「んー…。」

 葵と舞の話。どちらの話も百合には遠い話だった。しかし遠い話だからこそ、聞き甲斐があるのも確かだった。3人の時間が楽しいことに変わりはない百合。葵と舞、やはり大切な存在だと確信する。

 出会ってよかった2人。いつも勇気をくれる2人。自分なりに応援し、恩返しをしようと、百合は心から思った。そんな時。百合に葵と舞の視線が集まる。

「ユリは?」
「え?」
「彼氏とは順調?」
「えっ。」
「今度はユリの話、聞かせてよ!」
「話って、いつもお昼にしてるじゃないですか…。」
「お昼じゃできない、深ーい話とか…。」
「んー…。」

 困る百合に2人は容赦しない。

「そのユリの顔は…『恥ずかしい』…。」
「ってことは…『うまくいってる』…。」
「教えてユリ!どううまくいってるの!」
「あ、あの、何がうまくいってるんですか…。」
「こっちが聞いてるの!」

 そして3人の宴が終わり、百合は急ぐ。アパートに、航に。百合がアパートに着くと、自分の部屋の灯りがついていた。笑顔になる百合。急いで階段を上り、鍵とドアを開く。

 ギターの音がした。ベッドに寄りかかり、航はギターを弾いている。百合の部屋に持ってきていたアコースティックギター。夜遅い時間。静かな曲。ほぼ1本のライン。百合に気付いていない。

 百合に音楽の知識はないが、この曲には歌があり、やさしくて切ない、切なくてやさしい、そんな曲だと、百合は思いながらそっと聞く。

 曲が終わり、航はギターを床に置こうとした時。小さな声の百合。

「航さん。」
「なんだ、帰ってきてたのかよ。」
「はい。」
「おかえり。」

 百合は初めて聞く、航の『おかえり』。嬉しくなる百合は、ただいまの微笑み。

「はい。ただいま、です。」

 ゆっくり航の隣に座る百合。そっと聞いてみる。

「今の、何て曲ですか?」
「おやすみ羊。」
「夜にぴったりの曲ですね。なんて人の曲ですか?」
「モーニング・バーン・バンクロバーズ。」
「…朝焼け…?」
「朝焼けの銀行強盗。」

 航はギターを床に置く。

「へぇ…かっこいいネーミング…。かっこいい人は、かっこいい音楽を聞くんですね。あ、私着替えてきます。」

 たまに出る百合のストレートな言葉。立ち上がろうとする百合の腕を、航は引っ張る。その百合からアルコールのにおいがしなかった。

「…酒、飲んでないのか?」
「帰ってから航さんと飲むかもしれないと思ったので飲みませんでした。」

 航は百合も床に置く。

「ずるい。」
「え?」

 航に着替えた百合。
 そして迎えてしまったクリスマス・イヴ。百合は結局、航へのプレゼントは何も用意できなかった。

 航は百合のアパートへ。ふたり手をつなぎ、航の先輩の店に行く。前回とは違う、ふたりの距離。百合の手の震えもない。心の距離ももうなくなっていた。

「航さん。クリスマスプレゼント、すごく悩んだんですけど…。」
「そんなもんいらねーよ。オレだって何もない。気にすんな。」

 細い路地を歩き、店に着く。航は扉を開け、百合が入る。前回と同じ、シェフは笑顔で出迎えてくれた。

「ようこそ。待ってたよ。」
「こんな日に、本当にありがとうございます、先輩。」
「いいんだよ。何でも言ってくれ。百合ちゃんも、来てくれてありがとう。」
「いえ、私が航さんにお願いしたんです。ありがとうございます。」

 百合はぺこっと頭を下げた。

「百合ちゃん、綺麗になったね。航のおかげかな?」
「えっ、きれい…。」
「先輩、こいつにそういうこと言わないでください。すぐ間に受けるんで。」

 シェフは一番奥のテーブルを空けておいてくれた。予約席というプレート。航と百合のための席。窓際には、3灯のキャンドルスタンド。百合はおとぎ話の中へ。

「今日もシャンパンだな。」

 キラキラ輝くシャンパンが百合たちのテーブルに。航は少し笑いながら頬杖をつき、わかり切ったことを百合に聞く。

「今日は何に乾杯だ?」
「もちろん、クリスマスです。」
「来年の予約も今日するか?」

 百合は笑う。ふたりは笑って乾杯をした。

 おいしい時間が始まる。抽象画を切り取ったような美しい料理。クリスマス、赤と緑の絶妙なコントラストが綺麗だった。シェフのこだわり、優しさを感じる料理。とてもおいしかった。

 デザートは小さなチョコレートケーキ。ケーキの上に金粉が降っている。バニラのアイスクリームが添えてあった。

「航さん。そういえば、このお店の名前、何ていうんですか?」
「コント・ド・フェ。」
「…どういう意味なんですか?」
「フランス語で、『おとぎ話』だそうだ。」
「おとぎ…話…。」

 百合は店内を見渡す。

「それがどうかしたか?」
「私…前来た時、思ったんです…。おとぎ話の中にいるみたいって…。」
「先輩に言ってみろ。きっと喜ぶ。」

 話を続ける百合。

「おとぎ話の中で、航さんがおとぎ話をしているみたいで…。夢みたいでした…。」

 航はいつもの、やさしい目、やさしい声。

「そのおとぎ話、夢だったか?」

 百合は横に首を振る。

「いえ…夢じゃありませんでした…。でも、でも私、私その時まだ航さんに…。」
「百合。」

 航は百合の話を止める。どきっとする百合。やさしいまま、航は話し出す。

「あれはあれ、次は次。そう言ったよな?そうやって積み重ねていっても、いいんじゃねぇか?これからも色々あるかもしれない。お互い知らないこともまだまだあるだろう。それも全部重ねて、オレ達の歴史を作るんだ。オレ達だけの。きっと楽しい歴史になる。一緒に作ろう。な?」

 それを聞いた百合は何も言えず、喜びと涙だけが満ちる。航を見つめながら。それを航はずっと見守る。変わらない、やさしい目。百合からひとつの涙が落ちた時、やっとひとつの言葉が出た。

「はい…。」

 航は微笑む。

「百合。」
「はい…。」
「好きだ。」

 涙をこらえ、百合も微笑む。

「わかって…ます…。」

 ふたりは笑顔になる。笑顔の百合の目からは、こらえていた流れ星。

 ケーキに添えてあったアイスクリームは溶けてしまっていた。百合はケーキにフォークをサクッとし、航に向ける。

「航さん、口開けてください。あーん…。」
「ふざけんな、そんなことしねーよ。」
「恥ずかしいんですか?あ、ビビってるんですか?」
「こいつ…。」

 航は百合の髪をくしゃっとした。

「ひどいです、航さん!」

 透き通る涙とじゃれあうふたり。そんなクリスマス・イヴ。
 香ばしい香りのコーヒーは、ふたりの心を和ませた。百合はシェフに話しかける。

「シェフ、私思ったんです。前ここに来てお店に入った時、おとぎ話の中にいるみたいって…。それで今日、航さんにお店の名前を聞いて意味を知って、びっくりしました…。」

 シェフは笑顔で答えた。

「それは嬉しいなぁ。お客様に気持ちが伝わることは一番嬉しいことだよ。ありがとう、百合ちゃん。」
「いえ、こちらこそ、ありがとうございます。」

 シェフに話しかける百合を、航は嬉しく思い、航も笑顔になった。

 店を出る時が来る。

「本当にありがとうございました。またお願いします、先輩。」
「気にするな、いつでも待ってるよ。」
「ごちそうさまでした。」

 百合はぺこっと頭を下げた。その百合に、シェフは少し笑い、少しふざけながら聞く。

「百合ちゃん。航にひどいことされて泣かされてないかい?」

 百合は真面目に答える。

「だ、大丈夫です。私が勝手に泣いて、航さん、いつも一緒にいてくれます。」
「そーゆーこと先輩に言うなよ…。」

 恥ずかしがる航。そんな航の肩に、シェフは手をポンっと置く。

「頑張れよ、航。」
「はい、もう大丈夫です。」

 航の肩に、シェフはポンポンっと優しく叩いた。

「あんたは先に出てろ。」
「は、はい…。シェフ、ありがとうございました!」

 百合は店を出る。とても実りのある、嬉しくて楽しい、そしておとぎ話の中のような時間だった。小さく笑う百合。気がつくと、目の前に白くてとてもいい香り。

「え?」
「受け取って、くれるだろ?」

 花束だった。航は花束を持っていた。白さを増した、立派に咲いた真っ白な百合の花束。

「航さん…プレゼント、何もないって…。」

 航は百合の唇を唇で塞いだ。何も言わず、百合を見つめる。百合が花束を受け取ってくれるのを、航は待っていた。百合はそっと受け取る。

「いい香り…。」
「やっぱり、あんたにぴったりの花だな。行くぞ。」

 航は笑顔で百合に手を広げる。その手を百合は笑顔でぎゅっと力強く握った。花に負けないほどの、笑顔が咲く。笑顔が咲いたふたりの帰り道。

 アパートに着いてすぐ。

「航さんはリビングで待っててください。私はお花、花瓶に入れるので。」

 花瓶を探し、水を差す。真っ白なリボンをほどき、ワイヤーを緩めた。すると花束の中から何かが出て、それが床にぽとっと落ちた。

「ん?」

 百合はしゃがみ、それを見る。以前お弁当と一緒に入れていたメッセージカードだった。

『このお弁当で、少しでも疲れが取れますように』

 百合はすぐにカードの裏を見る。

 ずっと一緒だ
      ワタル

 また百合は動きが止まる。そして同じく呟いた。

「やっぱり…夢じゃない…。」

 しゃがんだまま、百合はカードをきつく握る。息をするのがつらくなるほど嬉しかった。百合は動けない。しばらく動けなかった。

 百合がなかなか来ないことに、航は心配になる。航がキッチンへ行くと、小さくうずくまった百合がいた。航はやさしい声。

「どうした…?」

 百合には航に、沢山の言いたい伝えたい想い。心が張り裂けそうな百合は、航を見つめることしかできない。それでも声を振り絞る。

「わ…わたる…さ…ん…。」

 息の上がる百合を見た航は、百合をやさしく抱きしめた。

「夢じゃない.…。よかった…生きてきて…。」
「そうだ。生まれて生きてきて、よかったんだ。これからも生きるんだ、一緒に。」

 『一緒』その言葉が百合の心を動かした。百合は弱々しく航を抱きしめる。そして、今まで生きてきた24年分の、様々な思いの詰まった涙を流した。航がさらに愛しくなる百合。

「航さん…。」
「ん?」
「ずっと…。」
「一緒だ。」