百合は激しい頭痛で目が覚める。目眩。疲労。体がだるく、そして重かった。目が完全に開かない。

 左手に感じる熱いもの。頭痛のする頭を少し左にずらす。航の手だった。離すものかと、指をきつく組んでいる。ベッドに腕を置き、その上に頭を乗せ、静かに寝ていた。起こすつもりはなかった、百合は声にならない声。

「…わたる…さん…。」

 航はゆっくり目を開けた。そしてすぐ百合を探す。見つけた航は声を掛ける。小さなやさしい声だった。

「…大丈夫か…?」

 航の手が百合の頬を包む。百合は素直に答えた。

「…頭痛い…めまい…だるい…。」
「熱は?」
「…ない…。」
「じゃあオレ買い物行って…。」

 百合は航の腕を強く掴む。

「行かないで…ひとりに…しないで…。」

 つらそうに目を開けている百合に、航はいつもよりやさしく言った。ゆっくりと。

「いいか?オレは必ずここに戻る。もし戻らなかったらオレを殺せ。いいな?…わかったら手を離すんだ。」

 頭痛の中、衝撃的な言葉。百合は手をそっと離した。

「じゃあ行ってくる。」

 航は出ていった。やさしい声には合わない、心を刺すような言葉を残して。ぼーっと放心状態の百合。目を閉じた。

 百合はしばらくして、ゆっくり目を開け起き上がる。頭に激痛が走った。

「いった…い…。」

 ふらつきながら窓際へ。力を入れ、カーテンを思いっ切り開けた。いい天気だった。百合に陽が直射する。頭の痛みを通り越す光。

「眩しい…こんなに眩しかったっけ…。」

 まともに陽を浴びていなかった百合。外の景色をぼーっと眺める。そして思い立つ。まだふらつく足元、壁に手を当てながら進む。キッチンへ向かった。大量の大小の破片が入った大きなビニール袋。航が片付けてくれたものだった。

「航さん…。」

 破片の集まっていたであろう床の近くに百合は座った。その時、ドアが開いた。

「おい!何してんだ!」

 航が帰ってきた。本当に戻ってきた。

「あ…あの…。」
「足を切るかもしれない、近づくな。」

 航は百合の肩を抱えベッドまで戻る。百合はベッドに座り、航は床に座る。

「大丈夫か?」
「はい…。」
「適当に色々買ってきた。沢山飲め。体が乾いてるはずだからな。」

 航の手には大きな買い物袋。百合は鎮痛剤を飲み、水分も摂った。航は小さな声で言う。

「グラス…。」
「グラス…?」
「ペアグラスだよ。両方ひびが入ってた。ひびが入ればいずれ割れる。また買いに行こう、新しいのを。ふたりで。」

 『また』『ふたり』どちらも、もうないと思っていた言葉。百合は力のない笑顔で答えた。

「…はい…。」

 その笑顔を見た航は百合に聞く。

「これから、どうするつもりだったんだ。」
「…とにかくここを離れようと…。それしか、考えてませんでした…。」

 伏し目がちの百合。買い物袋をごそごそしながら航は言った。

「どこまで離れても、心が離れなくちゃ意味がない。」

 ふらつく百合の体が止まる。航の言う通りだった。気持ちからは離れられない。

「もう離れる理由はないだろ。」

 百合は少し力の出てきた笑顔で答えた。

「はい…ありません。」

 鎮痛剤が効き始めた百合。航の先にある買い物袋を見た。

「航さん、沢山買い物してきたんですね。」
「あー、オレのお泊まりセットも買った。」
「お泊まりセット?」
「オレの歯ブラシ、下着、靴下とか…。今日もここ泊まる。」
「私は…大丈夫です…。それより航さん、休んでください。」
「オレはそんなにもろくねぇよ。心配すんな。一緒に寝る訳でもねぇし。」
「じゃあどこに寝るんですか?」
「昨日みたいに。」
「それじゃ、航さん休めません。」
「だからオレは大丈夫だ。でももし寝心地悪くなったら布団入って夜這いする。」
「よ…ばい…。」
「冗談だよ。」

 笑う航。その笑顔が百合を安心させ、心も体も強くさせた。航は想いを込める。

「それに自分の女がこんな状態で、ほっとくバカいるかよ。」

 まだ本力が出ない百合。ただ航に見惚れた。

「そんなに見るなよ。」

 笑いながら、航は百合の頭をなでた。何も変わらない航。百合はただ嬉しかった。百合の航への想いも何も変わっていなかった。

「あ、これも買ってきた。」

 航はビニール袋の中から小さな茶色い紙袋を出す。百合に渡した。

「もう平気だと思ったら、それで合図しろ。」

 百合は何も考えず袋を開ける。

「あ…。」

 袋の中にはコンドームの箱が入っていた。

「朝からこれ買うの、すげー恥ずかしかった。」

 百合は袋から箱を出し、テーブルの中央に置く。

「なんでこんなとこ置くんだよ。どっか見えないところに…。」
「いいんです。隠したくないんです。…あの人、私の部屋に隠してました。私の下着が入った引き出しに。何箱も。『今日はこれ、今日はこっち』って。『妊娠しちゃ困るからね』って。だからそこでいいんです。」

 航は何の気を使うこともなく、いつも通りに返す。

「飯ん時くらいは見えない所に置けよ。」
「はい。」

 百合は笑った。久しぶりの百合の笑顔。ひどく長い間見ていなかったように感じた航。百合の笑顔も航を安心させ、強くさせた。この笑顔を失くすまいと。航は百合をベッドから下ろす。そしてぎゅっと抱きしめた。

「笑った…。」

 航のぬくもり。さらに安心した百合は、航の背中に手を当てる。

「航さん…あったかい…。」