「この街に、来てよかったです。いいこといっぱいありました。でも離れます。航さんから離れるために。このままここに居るのは、私にはできません。耐えられません。」

 航は驚き、目を大きくする。切ない大きな目。そして悲しみ、寂しさが航を覆う。しかし何の言葉も出ない。そんな航に対し、百合は話を続ける。

「航さんがこの部屋に持ってきてくれた物、航さんの会社に送りますね。それが一番いいと思いました。」

 百合は感情が抑えられなくなってくる。声が震え始めた。

「本当のことを知って、航さんに、嫌われるならまだマシ…。航さん、引いちゃうんじゃないかって…。少しでも長く航さんと一緒にいたかったので、怖くて言えませんでした…。ずるいですね、私…。ごめんなさい…。」

 声の震えが増す百合。

「今話したこと、全部本当です…。でも、初恋とファーストキスだけは…信じてもらいたいです…。」

 百合はエンディングを迎えようとする。

「初恋の相手が航さんで、本当によかった…。やさしくて、嬉しくて…。」

 心を込めて百合は言った。

「楽しかった…。」

 航は頭を抱える。それを百合はちらっと見た。

「航さんの、その髪を触る癖…。好きでした…。」

 エンディングの最後の言葉まであと少し。

「今まで本当に…ありがとうございました…。」

 そして最後の最後の言葉。百合は目を閉じる。航の最後の姿を、百合に見ることはできなかった。

「さよなら…です…。」

 百合が目を閉じた時、一本の涙が流れた。暗い部屋。航は見ていたのか、見えていたのか。しばらく何も言わず、航はうつむいていた。そして立ち上がる。ゆっくり部屋を出ていき、ドアが閉まる音がした。悲しい最後の音。

 その音を聞き終えた百合。航の名を呼ぶことはもうないだろうと思い、ゆっくりゆっくり呟いた。

「…さよなら…わたるさん…。」

 百合は布団に潜り、うずくまる。体を小さくした。そして声を一切出さず泣いた、泣き続けた。血も涙も乾くほど泣いた後、しばらくして頭痛が始まる。その時。ドアが開く音がした。百合は声にならない声で呟く。

「幻聴…。」

 違う音が始まった。

 カラン カラカラン

 百合に聞こえる。その音はしばらく続いた。そして誰かが部屋に入ってくる。百合はまた、声にならない声で呟く。

「幻覚…。」

 その時の百合に、怖いものなど何もなかった。誰かの声。

「見える破片は全部片づけた。今は暗くて見えない破片、粒みたいなのもあるはずだ。それは掃除機を使うしかない。いつでもいい。やりたくなかったらやらなくていい。いいな。」

 航の声だった。やさしい航の声。

「いつもそうやって泣いてたのかよ。誰にも気づかれないように、黙って泣いてたのかよ…。」

 百合の目の前に、航は座った。

「あんたの人を怖がる理由はそこにあったんだな。」

 布団に潜っている百合は、航が見えない。航は百合から布団を剥がす。小さくうずくまり、震える百合がいた。その百合を、航はベッドから無理矢理下ろす。百合の肩を強く握る。

「…悔しかったんだろ…?誰も助けてくれなくて、逃げられなくて…。苦しかったんだろ…?…泣けよ、思いっ切り泣けよ…声出して泣いてみろよ!感情出してみろよ!オレに感情ぶつけてみろ!」

 航の目の前にいるのは、大人の百合ではなく、少女の百合だった。その少女の百合の目、涙がみるみる溢れ出す。航を見つめながら。

「…どうして…?どうして私だったの…?どうして私だけつらい思いしなきゃいけなかったの…?ねえ、どうして…どうして私だったの!ねえ!どうして!どうしてなの!」

 百合は航の胸に飛び込み、泣き叫ぶ。何粒もの涙が落ちた。航の胸を何度も叩く百合。その間、航はずっと百合を抱きしめていた。悔やんでも悔やみきれない、心が引き裂かれる思いの航。唇を噛む。

「…どうしてよ…。」