「もしもし…。」

 航はゆっくり小さく言った。しかし百合は何も言わない。声どころか何の音すらしなかった。航はもう一度言う。

「もしもし…聞いてるか…?」

 やさしく問い掛ける航。やはり反応がない。

「聞いてんのかよ…。」

 航のやさしさが、悲しさに変わる。航は最後の言葉に賭ける。

「何も言わないなら…切るぞ…。」

 それでも航は百合を待った。電話を切ることなく、ずっと待っていた。すると小さな小さな声がした。

「…い…こわい…。」

 百合の声。航は耳をすます。

「…こわい…いや…こないで…。」

 航は声を張る。

「おい!どうした!」

 スマホの向こう。百合は脅えている。

「…こないで…こないで…いや…。」
「おい!聞こえてるか!今どこにいる!」

 航は初めて聞く、百合の悲鳴。

「いやー!!!」

 航の顔から色が消える。航はずっと百合を呼び続けた。

「どこにいるんだ!答えろ!おい!」

 ドンッ

 百合がスマホを落とす音だった。しかし航には何の音だかわからない。そしてさらに違う音が聞こえ始める。

 パリーン

 悲しく鳴り響いた。航の恐怖が増す。

「おい…今どこにいるんだよ…。」

 音は止まず、どんどん鈍くなる。

「聞こえてんのか!答えろ!今どこだ!おい!返事をしろ!」

 百合のスマホからも、航の声が悲しく響いていた。百合の耳には入っていない。航はずっと耳を凝らす。するとカチャカチャと音がした。

「…どっかで…この音…。」

 航は記憶を聞き直す。

「…皿…割れる…。…あいつんちか!」

 航は急ぐ。百合のアパートへ、百合へと急いだ。

「…あいつの…警告だったのか…!」

 そう言い放つ航。航は百合を想う一心で走った。

 その頃、百合はキッチンに立っていた。足元には無数の食器の破片。百合の目は濁り、凍っていた。

 割れるものは全て割ってしまった百合。百合は別の場所にあった、グラスを見つける。ペアグラス、江戸切子のグラス。それを両手それぞれに持つ。そして無数の破片を前に座り込む。

 濁った凍る目で、グラスを見つめる百合。床ではなく、壁に投げつけようと腕を振り上げた。その時。ドアを強く叩く音が百合の耳に入る。強く、何度も叩いていた。そして。

「おい!開けろ!!」

 航の声がしたような気がした百合。

「早く開けろ!いるんだろ!開けろ!!」

 航の声で間違いない、そう百合は認識した。それでも百合は腕を上げる。

「百合!開けろ!百合!百合!!」

 百合は心を叩かれる。凍りついていた目が溶け出す。腕を下げ、手からグラスが離れる。床にコロンと落ちた。

 百合はドアへ向かう。床に手をつきながら、重い体を引きずるように進む百合。玄関に着いた百合は力を出し、ドアにもたれ鍵を開けた。その音が聞こえた航はドアを勢いよく開ける。

「百合!」

 力を使い果たした百合は、航に倒れこむ。

「しっかりしろ…。」

 航は百合を支える。そして見てしまった、無数の破片。百合の体を抱え上げ、すぐにベッドに寝かせた。やさしく布団をかけ、航は百合の目の前に座る。しかし百合の顔を見ることができない。次に何をしたらいいかわからない。下を向く航。上がった息がため息に変わる。

 航は百合の言葉を待った。百合は航の言葉を待った。天井を見ていた百合は目を閉じ、小さな深呼吸をする。そして目を開けた。決心ができた百合は、全てを話し出す。

「…この前、航さんと会った前の日、母から電話があったんです。家を出てから初めての電話…4年ぶりに、母の声を聞きました。要件は、父に会わないかって…義理の…父に…。…糖尿を患っていたことは知っていました。半年前から植物状態だったそうです。だから、最後に会わないかって。」

 航の目線が少しずつ上がる。

「今日、また母から電話がありました。明日、葬儀があるからって…。」
「それって…。」

 思わず聞く航。

「父は他界したそうです…。」

 航は百合にはっきりと聞く。

「過呼吸の原因はそこだな?親と何があったんだ。その父親か?」

 百合は感情を押し殺す。真実を告げる時が来た。

「虐待…。性的…虐待…。だから、初恋、ファーストキス、でもバージンじゃない、矛盾…。」

 航は頭の中が真っ白になる。なかなか百合の言葉が入らない。絶句する。か細い百合、か細い百合の心に、まさかそんなことが。想像を絶することだった。

「ファーストキスだけは守れました。あの人にとって、唇なんてどうでもよかったんです。でも、守ったところで…。」

 百合は自分の歴史を語り出す。天井を見たまま。百合は絶望の目。

「私が小学生の時、両親が離婚して、中学生の時に母は再婚しました。その相手が今の義理の父です。再婚をしても母の浮気癖は治らなくて、よく家を空けていました。その腹いせなのかどうか…。母が夜、家を出た後、必ずあの人は私の部屋に来ました。母が家にいる時も来ることがありました。母は全部知っていたんです。」

 百合から出る言葉が百合のものだと、信じ難い航は驚愕する。航にも恐怖が襲う。

「すごく、怖かったです。でも子供だった私は何もできませんでした。逃げることも、誰かに助けを求めるという術があることさえ知りませんでした。それで、高校3年生になった頃、あの人が糖尿病になって、それから回数が減っていきました。卒業したら家を出るって思ってたんですけど、高卒で、女で、何ができるって思ったら、それも怖くて…。私は弱いから…。」

 百合はまた、小さな深呼吸。

「あんな家、居たくなかったけど学歴が欲しくて、2年我慢して短大に行って、すぐに家を出ました。どこでもよかったんです、あの家を出られるなら。東京じゃなくても、関東じゃなくても。でも考え出したら余計迷ってしまって、求人雑誌を適当に見て、今の会社にいます。行く先も言わず家を出ました。でも引っ越しにかかる費用は母が全額出してくれました。お金だけはある家だったので。」

 エンディングの準備をする百合。