駅の喧騒を抜け、静かな住宅街も少し抜ける。細い路地。そこだけは周りに何もない。路地に面した小さな真っ白な外壁の店。中央には濃い茶色の木製の扉。左右には同じ木製の小さな窓がひとつづつ。扉には小さな小さなフランスの国旗。何の主張もせず、落ち着いた店。

 航は扉を開け、百合が店に入るのを待っていた。緊張しながら店に入る百合。店内はテーブルが10卓ほどしかない。内装も照明も程よく暗く、とてもお洒落な店だった。航も店に入る。シェフがふたりを笑顔で出迎えた。

「久しぶりだな、航。元気そうだな。」
「はい、先輩も。今日はありがとうございます。」
「お前がそんなこと言うなよ、早く座れ。」
「はい。」

 百合はぼーっと2人の会話を聞いていた。

「こっちだ。」

 百合は航に呼ばれる。一番奥のテーブル。予約席というプレートが置いてあった。席に着くふたり。百合は店内を見渡す。店の中央だけにある豪華なシャンデリア、凝ったデザインの花瓶、オルゴール。そしてテーブルの壁際には小さなキャンドル。おとぎ話の中にいるようだった。そこへシェフが来る。

「何飲む?」
「オレは任せます。」
「百合ちゃんは?」
「え??」
「お酒は弱い?」
「そんなに強くは…。」
「かしこまりました。」

 シェフは去っていった。

「どうして私の名前…。」
「いーだろ、そんなこと。」

 そして美味しい時間が始まった。キラキラ輝くシャンパンと、羽根の付いた髪飾りのように美しい料理。シェフのこだわった優しい料理、百合も航も、自然とやさしく笑っていた。楽しい一時、百合はおとぎ話の中、時間が止まっていた。

 食後のコーヒー。とてもいい香りがした。そのコーヒーの途中。

「そういえば…あのシェフの人、航さんの先輩なんですか?」
「ああ、同じ高校の先輩だ。昔からかっこよかったんだ。店もかっこいいだろ?」
「はい、お洒落です…。」
「見た目もかっこいいだろ?オレの1個上、33には見えねぇよな。」

 百合は考える。カップをソーサーに置いた。

「33歳…じゃあ航さん、32歳ですか??」
「そうだ…ああ、そういえば言ってなかったな。」

 航は平気な顔でコーヒーを飲む。百合はボソッと言った。

「もう少し若いかと…。」
「バカっぽく見えるか?それとももうオジサンか?」

 航は笑う。百合はそれどころではない。

「そんな…、どっちも思いません!そんなことより…。」
「なんだ?」

 百合は思った。航にとって自分は子供でしかないのではないかと。不安になった。子供の面倒を見てきた、ただそれだけだったのではないかと。それまでとは違った、落ち着きがない百合。航もカップを置き、やさしく言った。

「話せ。今何考えてんだ。オレが怖いか。」

 百合は航の目をそっと見る。航はいつものやさしい目。

「…航さんにとって、私は子供…ですか…?」

 航は百合を見つめ返す。航は余計なことは言わない。

「そんな訳ねーだろ。だから今日ここに連れてきたんだ。」

 航は紙袋をテーブルの上に置く。百合のお弁当が入った紙袋だ。そして航はゆっくり話し出す。おとぎ話を語り掛けるように。

「弁当はもういい。」
「え…?」

 百合から表情が消える。お弁当は、唯一、航と会える口実だった。

「よく聞け。その代わり、これからはちゃんと会おう。朝と夜だけじゃなくて、ちゃんと。どこに行きたいかはあんたが決めてくれ。オレはどこだって構わない。」

 百合は航の言葉が、夢の中なのか、現実なのか、おとぎ話の中なのか、すぐに把握できずにいた。息も少し苦しくなる。

「ただ…あんたは若い。オレなんかよりいい男なんて腐るほどいる。」

 航は以前にも言ったことを言う。

「…あんたにはあんたの人生がある。オレにもオレの人生がある…。これからどうするか、それもあんたに決めてもらいたい。」

 その言葉の意味がやっとわかった百合。そんな百合の息苦しさは、涙のせいだった。百合の目には涙。暗い店内、だが涙は光る。それを航はずっと見ていた。そしてずっと百合の言葉を待っていた。変わらず、やさしい目で。百合はやっとの思いで言葉を出す。

「他の…人なんて考えたくない…。私は…航さんなんです…。初めて会った…時から変わらない…。」

 百合は航を見つめる。涙の浮かぶ、ガラス玉のように透き通った目で。

「…いっしょにいたい…。」

 航は答える。その声もやさしかった。

「オレもだ。」