「昨日は…何があったか知らねぇけど、明日は仕事行けそうか?」
「え…?…はい…。」

 航の言葉が声が、百合を安心させる。

「仕事行って、ちゃんと飯食えよ。」
「はい…。あ、あの、隣の部署の先輩と仲良くなって、一緒にお昼食べるようになったんです、私。」
「そりゃよかったな!」
「はい。すごく仲良くしてくれて、そんな人、初めてで…。」
「できたじゃねぇか。よくしてくれる人。」

 百合は、初めて航とふたりで行った居酒屋のことを思い出す。航の『慣れ』という言葉で、葵の誘いを受けたこと。

「航さんの、おかげです…。」
「だからオレは何もしてねぇよ。あんたの力だ。」

 航のいつものやさしさ。百合は胸が熱くなる。

「お昼が、楽しくなりました…。お昼…。航さんはお昼、どうしてるんですか?」
「オレは会社の弁当だ。一食200円。特に旨くも不味くもねぇ…。」
「作ります。」

 百合は勝手に言葉が出ていた。たった一言。

「は?」

 百合は航の目を真っ直ぐ見ながら言う。

「作ります、私。航さんのお弁当。」

 航は当然のように驚く。

「あんた…本気で言ってるのか?」
「はい。」

 百合の目は変わらない。

「作るって、朝だろ?無理すんなよ。」
「無理じゃないです。どうして無理なんですか?」

 航は頭を抱え、困惑する。

「私、よくするんです、料理。休みの日、やることそれくらいしか思い浮かばなくて。いつもひとりだから、航さんに作りたいです。航さんには少し早起きしてもらって…、門で渡します。」

 小さなため息をした後、航は笑いながら言う。

「負けたよ。」

 意味のわからない百合は話を続ける。

「航さん、会社に冷蔵庫とレンジありますか?」
「ああ、あるぞ。」
「よかった。あ、でも少し待ってください。お弁当箱用意して、おかずも考えたいし…。」
「あんた張り切りすぎ…。」

 百合は止まらない。

「好きなものと苦手なもの、ありますか?」
「苦手なものは特にねぇけど…、好きなもの…。」
「何ですか?」
「卵焼き。」

 それを聞いた百合は、手を口元に当て少し笑う。

「なんだよ。」
「航さん、子供みたい…。」
「悪かったな、子供で。」

 恥ずかしい航は口をとがらす。

「いえ…。卵焼きは、甘いのが好きですか?甘くないほうがいいですか?」
「んー、甘い。」

 百合はまた笑う。

「やっぱり子供みたい。」

 からかわれている航はそんなこと気にならず、百合を見て言った。

「あんた、今日はよく笑うな。」

 ハッとする百合。自分では気づいていなかった。開いた口を手で隠す。百合を笑顔にさせているのは、他の誰でもない、航だった。

「隠すことねぇだろ。笑いたいように笑えよ。」

 百合はゆっくり手を口から離す。離すと口が自然と動いた。

「航さん?」
「なんだ?」

 百合は言いたかった、自分の想いを。ありったけの想いを。

「…やっぱりいいです。」
「なんだよ、気持ちわりぃなぁ…。なんだよ、言え…。」
「もう少し、もう少し経ったら言います…。今言ったら、航さん困るだけ…。」

 航はなんとなく気づいた、百合の言いたいことを。もしそうなら、確かに自分は困るだろうと思った航。

「わかったよ…。」

 百合は何も言わずうつむいた。言いたい言葉を必死に飲み込み、違う言葉を探した。そして顔を上げる。

「色々、準備ができたら連絡します。」
「いいけど…、ほんとに無理はするなよ?」
「だから無理じゃないです。…楽しみです…。」

 またうつむく百合、また夜空を仰ぐ航。ちぐはぐなふたり。

 航は背伸びをしながら立ち上がる。

「そろそろ帰るか。今日はあんたは仕事休んでるんだしな。」

 百合は動かない。目線も動かない。

「少し…。」
「なんだ?」
「もう少し…いたいです…。」

 百合の横顔。横顔からでもはっきりわかる、寂しい目。その目に航は応えた。

「少しだぞ。」
「ありがとう…ございます…。」

 その、少し。ほんの、少し。ふたりに言葉はなかった。百合に言葉はいらなかった。ただ航のそばにいたかった。そばにいるのに航が恋しい百合。

 月と星はふたりを照らし続けていた。やさしく見守るように。