早川という表札を掲げた古めかしい引き戸の前に清が立ち、深呼吸している。
大吉と幸治は二歩ほど下がった位置で、親友の挑戦を見守る。
長屋の中からは、幼い子供の声が漏れていた。
「文子姉ちゃん、また出かけるの? すぐ帰ってくる?」
「ごめんね、今日は遅いよ。敏子の言うこと聞いて、ご飯食べて寝ていてね。行ってきます」
清が声をかける前に玄関の引き戸が開けられて、文子と思しき女性が出てきた。
「キャッ……あ、清さんでしたか。すみません」
驚いたことを詫びた文子は、柔らかく微笑む。
清の言った通りの美人で、大きな胸が目を引く女性だ。
夏物の着物もそれに合わせた半襟も、現代風の華やかで大胆な絵柄であり、結い髪に挿したかんざしは洒落ている。
それでいて化粧は極薄く、若干垂れた目元が控えめな印象を与え、清の陰から覗き見ている大吉はごくりと喉を鳴らした。
(素敵な女性だ。欲を言えばもう少し濃い化粧をして欲しい。その方が、色気が出て僕好みだ)
文子の視線が幸治を捉え、「お友達ですか」と尋ねた。
「そ、そうです。僕らは学校帰りでして……」
いつもは陽気で多弁な清が、緊張からか、たどたどしい話し方になっていた。
好きな女性の前では話し下手になってしまう清を微笑ましく思いつつ、大吉は一歩横にずれて「こんにちは」と声をかける。
文子は小柄な大吉に今気づいたようで、ビクリと肩を揺らした。
「こ、んにちは……」
驚きを滲ませた声で挨拶を返した文子は、両手で抱えている風呂敷包みを鼻の上まで引き上げる。
それから清に会釈すると、「縫い終わった着物を仕立て屋さんに収めに行くんです」と横をすり抜けようとした。
「文子さん、待ってください!」
慌てて清が引き止め、彼女の目の前に音羽館の前売券を差し出した。
「良ければ、僕と活動写真を観に行きませんか? いえ、是非とも一緒に行ってもらいたい」