まだ十時になっていないのに、薄雲が一時的に太陽を隠したため、夕暮れ間近だと勘違いしたようだ。
急いで立ち上がったスエは、椅子の脚に草履の爪先を引っ掛けて転びそうになる。
その体を支えたのは松太郎だ。
おそらく、触れ合うのも二十八年振りだろう。
「スエ、わしだ。中江松太郎だ」
視線を交えて名乗ったことで、今度は認識されるかと思ったが、そうはいかなかった。
松太郎の支えの手を外したスエは、恥ずかしそうに笑って言う。
「お爺さん、ありがとうございます。若い私がお年寄りに助けられてしまったわ」
それから窓の外に視線を戻し、また夕飯の心配を始める。
「松太郎さんの好物の揚げ出し豆腐にしよう。お豆腐屋さん、もう家の前を通ってしまったかしら。お味噌汁の具は、ナスがいいわ。松太郎さんが好きだから。体にいい納豆も食べてもらいたいのに、嫌いだと言うのよね。どうにか工夫して食べさせたいわ。松太郎さんには毎日元気でいてもらいたいもの。それと松太郎さんは……」
ふたりが夫婦であった頃のスエも、このように夫中心の考え方で生活していたのだろう。
浪漫亭のコックからライスカレーの作り方を学ぼうとしたのも、夫のために違いない。
それをやっと認めた松太郎の目には後悔の涙が溢れ、床に両手と膝をついてこうべを垂れた。
「すまん、すまん…‥スエ、わしが間違っておった。許してくれ!」
滝のように涙を流して、松太郎は詫びる。
正一郎と君枝はホッとした様子で顔を見合わせており、大吉も同じ心持ちだ。
(これでスエさんはまともな生活ができる。やっぱり家族は一緒でないと。僕も家族に会いたくなってきたな。バス賃がもったいないから当分帰らない予定だけど)
左門も満足げな顔をしているが、スエだけはきょとんとしている。
目の前の老人がなぜ土下座で謝罪しているのか、全くわからぬ様子であった。