当時、喜んで食べていた正一郎であったが、その美味しさは、母親の不貞の産物だったと知り深く傷ついたそうだ。
「母のライスカレーが大好物だったのだが、間男に習ったと知れば、憎むべき味になってしまった。だが最近になって無性に食べたくなるのだ。母のことばかり考えているせいなのか……」
懐かしの味を求めて、というのが、正一郎が浪漫亭に通っていた理由であった。
しかしレシピは改良され、二十八年前の当時とは味が違う。
現在のライスカレーの中から、母の味だけを感じ取ろうと舌に意識を集中させていたため、険しい顔になっていたらしい。
決してまずいと思っていたわけではないと釈明してから、正一郎は続きを話す。
「実は、母とは長い間、会っていなかったわけではないのだ……」
離婚によって母親は家を追い出されたが、正一郎は父親に隠れて年に数回は顔を合わせ、近況などを報告していた。
裏切られた思いはあっても、優しい母親だったので、親子の縁を切ることができなかったのだ。
その母親が、痴呆になってしまったという。
六十二歳で足腰はまだ達者だというのに、身の回りのことができなくなり、心配した彼は独り暮らしの母親の自宅を度々訪れ、世話を焼いているそうだ。
それを家族には秘密にしていた。
一緒に暮らしている父親はまだ母親のことを許していないので、耳に入れてはいけないと思ったからである。
「独り暮らしの母が心配なのだ。それに加えて、呆けてしまった母は二度とライスカレーを作ることができない……そう思ったら、憎んでいたはずのあの味が無性に恋しくてな。愚かにも君枝を不安にさせてしまった」
全ての事情を話し終えた正一郎は、妻の手を取り謝る。
「すまなかった。親が離婚した過去が蘇り、お前まで俺を裏切るのかと思ってしまったんだ。頬はまだ痛むか?」