妻の手料理が美味しくないと思うなら、改善してくれと直接言った方がましだろうと考える。
(しかも浪漫亭ではライスカレーをまずそうに食べるし、嫌な男だ)
ひと言、慰めようとした大吉は、半歩近づき、「奥さん」と呼びかけた。
その直後に、誰かに後ろから強く肩を掴まれる。
驚いて振り向けば、そこにいたのは、いけ好かない客……夫人の夫である中江正一郎であった。
正一郎は、昨日来店した時と全く同じ、表面が少々毛羽立った茶色の背広を着ており、袖口からは腕カバーが覗いている。
鞄などは手にしておらず、職場から少しばかり抜けてきた、といった姿である。
頭半分ほど上から睨むように見下ろされた大吉は、気圧されて片足を引くとともに、なぜそのような非難の目で見るのかと疑問を持った。
夫人は、夫の帰宅に首を傾げている。
「あなた、どうなさったの? まだお仕事中のはずでしょう」
大吉の肩を横に押すようにして前にズイと出た正一郎は、妻と向き合うと、厳しい声をかける。
「書類を忘れたことを思い出し、取りに帰ったのだ。まさか君枝(きみえ)までが、そのような真似をするとはな。許さんぞ」
「そのような真似? あっ……あなた違います!」
君枝と呼ばれた夫人が血相を変えたら、その左頬に張り手が振り下ろされた。
痛そうな音が響き、君枝は強いショックを受けて固まっている。
「門前で堂々と逢引とは、随分と甘く見られたものだ」
吐き捨てるように言った正一郎の言葉で、不貞を疑われたのだとやっと気づいた大吉は、驚き慌てる。
正一郎は妻の頬に二発目を繰り出そうとしており、急いで夫婦の間に割って入った。
「待ってください。僕は浪漫亭のコック見習いです。体調の悪そうな奥さんを送ってきただけですよ。やましいことなど、ひとつも――」
弁明の最中に、今度は大吉の頬に拳が飛んできた。