「日中は家の中に私ひとりなので、気楽なんですよ」と夫人は笑顔で言い、これ以上は他人に心配させまいと、気丈に振る舞っている様子である。
彼女の足取りに不安はなく、浪漫亭を出てから十五分ほどで、自宅があるという道幅の狭い通りに入った。
そこは日本家屋が建ち並んだ、ありふれた住宅地だ。
夕暮れ時にはまだ早いため、着物姿の幼い男児らが集団でめんこ遊びをしている。
買い物籠を腕にかけ、家路に急ぐ婦人や、水を張った鍋に豆腐を一丁入れて、そろそろと歩くお使いの女児もいた。
大吉はコック服のままである。
帽子は脱いできたが、白い上着とエプロンが目立つようで、道行く人々の視線を集めた。
なんとなく居心地の悪さを感じつつも、夫人の自宅である二階建ての日本家屋の門戸まで、きっちりと送り届けた。
「わざわざ家の前まで送っていただきまして、ありがとうございました」
十ほども年上の女性に深々と頭を下げられて、大吉は照れくさくなる。
「気にしないでください」と頭を掻きつつ、大人に近づけた気分で、こういうのは悪くないとも思っていた。
左門のような紳士なら、この後どんな仕草をするだろうかと考えた大吉は、キリッと表情を引き締め、払うほどの長さもない前髪を無理に払う。
“僕”ではなく、「それでは、私はこれで」とかっこつけた挨拶をして踵を返そうとしたら、夫人に呼び止められた。
「お若いコックさん、あの」
「はい、なんですか?」
「浪漫亭のライスカレーは――」
問いかけの途中で言葉を切った彼女は、思い直したように首を横に振る。
「なんでもありません。今日はご迷惑をおかけしました。主人がまた食べに行くかと思いますが、どうぞよろしくお願いします」
悲しげな顔で再度頭を下げた夫人を見て、大吉は深く同情し、彼女の夫に腹を立てた。
レストラン通いすることで、食事への不満を伝えようとするのは陰険なやり方だ。