そして財布を出すと、ライスカレー代、五十銭をテーブルに置いて頭を下げた。
「突然泣きだして、すみませんでした。とても美味しいライスカレーでしたが、胸が苦しくてこれ以上は食べられません。残すことをお許しください」
弱々しい声でそう言った夫人は、席を立とうとしてふらついた。
一番近くにいた大吉が、慌ててその体を支える。
「もう少し休んでいったらどうですか」
「いいえ、もうすぐ子供達が学校から帰ってきますので、家にいなければなりません。夕飯の支度もあります。夫が食べてくれるのか、わかりませんが……」
夫人は三人に会釈すると、足元に気をつけ、ゆっくりと歩きだした。
その足取りを見れば、無事に帰り着けそうだと思われたが、浪漫亭を出ると坂道が続く。
「大吉、お客様のご自宅まで送っていけ」と森山が命じた。
(僕が? 美人であっても人妻は対象外だ。相手がカフェーの女給なら、送らせてくださいと言いたいところだけど……)
そうは思いつつも特別断る理由もなく、大吉は「はい」と返事をする。
坂道で転んだら大変だという心配も、いくらかは感じていた。
夫人は遠慮したが、「僕が叱られるので」という大吉の言葉に、少し笑って同行を許可してくれる。
ふたりで浪漫亭を出て、土埃が足元に舞う坂道を下りる。
彼女の自宅は、坂を下り切って十分ほど歩いた所にあるそうだ。
その道すがら、夫人は家族について教えてくれる。
夫の正一郎は役所勤めの四十二歳で、真面目で頑固な人らしい。
子供は八歳と六歳の、女児と男児。
この時間は尋常小学校に行っており、あと三十分ほどしたら帰るそうだ。
親子四人と夫の父親との五人暮らしで、義父も役人であったという。
義父は松太郎と言い、もう何年も前に退職して今は趣味の碁を指し、囲碁クラブの仲間と毎晩遅くまで集会所に集っているそうだ。
「突然泣きだして、すみませんでした。とても美味しいライスカレーでしたが、胸が苦しくてこれ以上は食べられません。残すことをお許しください」
弱々しい声でそう言った夫人は、席を立とうとしてふらついた。
一番近くにいた大吉が、慌ててその体を支える。
「もう少し休んでいったらどうですか」
「いいえ、もうすぐ子供達が学校から帰ってきますので、家にいなければなりません。夕飯の支度もあります。夫が食べてくれるのか、わかりませんが……」
夫人は三人に会釈すると、足元に気をつけ、ゆっくりと歩きだした。
その足取りを見れば、無事に帰り着けそうだと思われたが、浪漫亭を出ると坂道が続く。
「大吉、お客様のご自宅まで送っていけ」と森山が命じた。
(僕が? 美人であっても人妻は対象外だ。相手がカフェーの女給なら、送らせてくださいと言いたいところだけど……)
そうは思いつつも特別断る理由もなく、大吉は「はい」と返事をする。
坂道で転んだら大変だという心配も、いくらかは感じていた。
夫人は遠慮したが、「僕が叱られるので」という大吉の言葉に、少し笑って同行を許可してくれる。
ふたりで浪漫亭を出て、土埃が足元に舞う坂道を下りる。
彼女の自宅は、坂を下り切って十分ほど歩いた所にあるそうだ。
その道すがら、夫人は家族について教えてくれる。
夫の正一郎は役所勤めの四十二歳で、真面目で頑固な人らしい。
子供は八歳と六歳の、女児と男児。
この時間は尋常小学校に行っており、あと三十分ほどしたら帰るそうだ。
親子四人と夫の父親との五人暮らしで、義父も役人であったという。
義父は松太郎と言い、もう何年も前に退職して今は趣味の碁を指し、囲碁クラブの仲間と毎晩遅くまで集会所に集っているそうだ。