「え、そうでしたか? すみません、覚えていません。ああ、僕の頭は()菓子なのか……」
忘れたと失礼なことを言われても、柘植は少しも怒らない。
それどころか、記憶力の悪さを嘆く大吉を庇ってくれた。
「いえいえ、きっと初日は緊張していたのでしょう。覚えることがあり過ぎて、私の身の上話まで頭に入らないのはわかります」
人の良い笑みを向けてくれる柘植は、面倒がらずにもう一度大吉に話してくれる。
「私の生まれは東京です。函館に来たのは三年前で、すぐに浪漫亭で働き始めました。それは、左門さんが誘ってくださったからでして……」
柘植は左門の実家、大蔵家の使用人であったという。
主な仕事は家人の按摩(あんま)で、腰痛持ちの主人と肩こりのひどい奥方には重宝がられたそうだ。
掃除や調理補助もしていたので、包丁の扱いにも慣れているという話であった。
「へぇ、左門さんの実家にいたのですか。長い付き合いなんですね」
「ええ。左門さんは恩人なのです。私が二十八の頃にそれまで勤めていた宿屋が潰れてしまいまして、路頭に迷っているところを拾っていただきました。函館について来いと言ってくださったのも、盲目の私を心配してのことでしょう。坊ちゃんは親切で心優しいお方です」
そこまでをしみじみと話した柘植であったが、直後にしまったと言いたげな顔をして、「左門さんは親切なお方です」と言い直した。
どうやら“坊ちゃん”という呼び方を禁じられているようだ。
しかしながら大吉は、持ち前の無邪気な無遠慮さで、そこに食いつく。
「左門さんは、坊ちゃんと呼ばれていたのですか。子供の頃から金持ちだなんて、いいなぁ。大蔵家は使用人がたくさんいるんですか? どんな事業を?」
大きな屋敷や大会社を思い浮かべながら、大吉は皮むきの手を休めて、期待の目を柘植に向ける。