左門のような紳士は、そのような場所が相応しく、庶民の商店街や揚げかまぼこサンドは似合わない。
意外に思う大吉は、興味本位で聞いてみる。
「今日も商店街を歩いていたということは、買い物ですか? なにを買ったんですか?」
それに返事はなかった。
顎に手を添えた左門は、紅茶の水面に視線を止め、独り言のように大吉の話を総括する。
「和風オムレツに潮汁のカレー、揚げかまぼこサンドか。発想力の豊かな少年だ。その裏には洋食への渇望と、食材不足の台所事情があったというわけだな」
「発想力……そうです。今の僕は金も食材もありませんが、アイディアがあります」
大吉は、おだてに弱いところがある。
褒められたことで調子に乗り、揚げかまぼこサンドの補足をした。
「マヨネーズに、からしやわさびを混ぜても良いかと思います。大人向けになるでしょう。そのうち坂田屋の大将に提案してみようと思っていました」
「それも、うまそうだ」
左門が大きく頷いたのを見て、大吉は認められた気分で嬉しくなる。
けれども有頂天とまでいかないのは、さっきからチラチラとオムレツライスを気にしているせいだ。
(食べないようだな。それなら、僕がもらっても……)
今は腹五分といった具合である。
もうひと皿を食べるのは容易く、時間をかければ、あと二、三皿いけそうな気もしている。
お代わりできることを期待して大吉が皿を指差そうとしたら……左門が銀のナイフとフォークに手をかけた。
どうやら話が一段落してから食べるつもりであったようだ。
ナイフが卵に触れそうなのを見て、大吉は思わず、「あっ」と声を上げる。
「どうした?」
「いえ、ええと、その……」
「これまで無遠慮であった君が言い淀むと、気味が悪い。はっきり言いなさい」
いくら食い意地の張った大吉でも、食べようとしている相手の分まで欲しがるのは、さすがに気が引ける。
そこまで図々しくはないつもりだが、左門の方から聞いてくれるのならばと、遠慮を忘れることにした。
「それ、僕にくれませんか? まだ腹は満たされていません。お代わりください」
叱られるか、呆れられるかと覚悟をしていたけれど、意外にも左門は目を細めて笑ってくれた。
「図々しさも度を越せば、清々しく感じられるものなのだな。覚えておこう」
そのようなおかしな学びを得た左門は、ナイフとフォークを置いて、手つかずのオムレツライスを大吉にくれた。
「やった、ありがとうございます!」
言ってみるものだと喜ぶ大吉は、ふた皿目も実に旨そうに夢中で頬張る。
ドア側の壁には一本脚の洒落た補助テーブルが置かれていて、そこに銀の水差しとグラスが八つ置かれていた。
氷水が入れられているらしく、水差しの表面は白く細かな水滴で覆われている。
左門は立ち上がってコップひとつに水を注ぐと、大吉の前に置いてくれた。
「んんーんんん」
お礼を言ったつもりだが、口内にオムレツライスを詰め込んでいるため、伝わったかどうかはわからない。
左門は元の席ではなく、大吉の正面の椅子に座り、長い足を組む。
腕組みをして真顔でじっと見据えてくる左門に、大吉は食べ難さを感じたが、スプーンを止めることなく完食し、注いでもらった水を飲みほした。
「はぁー、美味しかった。満足です」
膨れた胃のあたりを片手でさすり、幸せ顔をして天井に息を吐いた大吉に、左門は静かな口調で提案する。
「住む場所がないのなら、君が卒業するまで従業員宿舎の一室を無料で貸そう。その代わり、学業に当てる以外の時間を浪漫亭で働いてもらう。厨房の調理補助と、慣れてから接客もしてもらおうか。働きに応じて給与も出す。どうだ?」
それは大吉にとって、願ってもない申し出である。
目玉が飛び出しそうなほどに驚き、「本当ですか?」と上擦る声で確認した。
軽く頷いた左門が、口の端をニッと上げる。
「君は洋食に関して並々ならぬ興味があり、かつユニークで柔軟な発想と、それを実現させる行動力がある。雇ってみる価値を感じた。うまいものへの探求心は、レストランで働く者にとって必要な素質であろう。かく言う私も、根本は君と同じ思いでここにいる」
左門は自分を“美食家”だと言った。
生まれ育ちは東京で、函館に来たのは三年ほど前だという。
毎日の食事に満足したいがために、前経営者から浪漫亭を買い取ったのだと話してくれた。
つまり彼は浪漫亭を、客に料理を提供する場としてだけではなく、自分の食卓のように考えているようだ。
生業としては他にもいくつか事業を手掛けているらしく、そうすると肩書きは、青年実業家といったところか。
「金儲けのためではなく、自分が食べたいからレストランを買ったんですか……」
その途方もない話に、大吉は感心して頷いている。
美味しいものが食べたいという思いは、ふたりの共通点と言えなくもないが、洋食まがいを自作していた大吉と、レストランを買い取った左門では格が違いすぎる。
一緒くたにしてはならないだろう。
それでも大吉は、「僕らは同志ですね」と素直に喜び、左門に嫌な顔をされてしまう。
同じだと言い出したのは彼の方だが、学生服の似合う童顔の少年に同志とされるのは不愉快なようだ。
左門の眉間に皺が寄ったのを見た大吉は、話をなかったことにされては困ると思い、急いで立ち上がって学帽を脱ぐと頭を下げた。
「僕をここに住まわせて働かせてください。左門さん、よろしくお願いします」
「君はたった今、雇用された。今後はオーナーと呼ぶがいい」
「いえ、左門さんの方がいいです。その方が、仲が良い感じがするじゃありませんか」
「君はいちいち癪に触る言い方をするな……」
最後には呆れ顔でため息をつかれてしまったが、「まぁ良い」と機嫌を直してもらえた。
立ち上がった左門は、右手を差し出す。
一瞬首を傾げた後に、握手を求められたことに気づいた大吉は、学生服で両手をごしごしと拭いてから、緊張して彼の手を握った。
「大吉、よろしく」と、琥珀色の瞳がわずかに細められる。
「はい」
函館での学生生活を諦めねばならないという窮地から一転、無料の住まいと職を得ることができた、なんとも幸運な少年であった。
大吉が左門に雇われた日から、半月ほどが経つ。
眩しい朝日が降り注ぐ左門の屋敷は、浪漫亭の裏にある。
この辺りでは珍しい白塗りの外壁に、洋瓦の屋根の平屋で、全室が洋間となっている。
この建物も左門が浪漫亭を買収した三年前に、一緒に買い取ったのだと聞いた。
その庭は樫や楓に囲まれ、整備された花壇には大吉が初めて目にしたチューリップの花が咲いている。
赤煉瓦が丸く敷かれた一角には、鉄製の洒落たテーブルセットが置かれ、庭でお茶を飲むことができるようになっていた。
その片隅で大吉は、詰襟のシャツや麻の葉柄の寝間着など洗濯物数点を、慎重に物干し竿にかけている。
(言われた通り、できるだけ皺を伸ばして干したぞ。これでやっと洗濯が終わった。朝飯を食べて、早く学校へ行く支度をしないと)
首にかけた手拭いで額の汗を拭き、腰を屈めて芝生の上のタライに手を伸ばす。
するとタライに、ベッド用の敷布が放り込まれた。
「これも洗ってくれ」と言ったのは左門で、皺ひとつない詰襟の白シャツに、ネクタイとベスト。今日の彼も華麗に洋服を着こなしている。
左門を見上げた大吉は、眉を寄せて文句を言う。
「洗濯が終わってから、持ってこないでくださいよ」
無料で従業員宿舎に住まわせてもらう当初の条件としては、浪漫亭での労働しか聞いていなかった。
それなのに大吉は、左門と契約した翌日から、彼の自宅の掃除や洗濯、アイロンがけなどをやらされている。
追い出されては困るので、これまでは黙って引き受けていたが、やっと終わったと思ったところで洗濯物を追加されたため、不満をぶつけた。
「大体、なんで僕が左門さんの身の回りの世話までやらされるのですか。こういうのは女性の方が得意でしょう。金持ちなんですから、女中を雇ってはどうですか」
左門の整った顔が、嫌そうにしかめられる。
それは大吉の文句に立腹したのではなく、なにかを思い出したためらしい。
「家事をさせる女性の使用人を雇っていたのだ。先月の中頃までは」
「その人、辞めてしまったんですか?」
人使いの荒さに辟易し、女中の方から去っていったのかと思った大吉だが、左門は目を伏せて首を横に振る。
「私が解雇した。許し難き所業を見てしまったからな」
左門の話によると、その女中は独身の二十四歳。
控えめな性格で良く働き、使用人として申し分のない女性だと、左門は満足していたらしい。
けれどもある日、目撃してしまった。
洗濯を始めようと、汚れ物を抱えて庭に出てきた女中が、左門のふんどしを嗅いでいるところを。
それは洗う前のふんどしで、さらしの生地に鼻を埋めた女中は、恍惚の笑みを浮かべていたのだとか。
屋敷の窓からそれを見た左門は、衝撃のあまりに目眩を起こした。
即刻、女中を解雇して、心理的な傷から新たな使用人を雇えなかったという。
(左門さんのふんどし……)
物干し竿には、紐のついた真っ白なさらしが一枚はためいている。
それに目を遣った大吉は、片手で口もとを覆った。
匂いを嗅がれているところを想像し、それは自分も嫌だと不快感が込み上げたせいなのだが、左門に勘違いをされてしまう。
「まさか、お前まで……」
「違いますよ! なんで僕が男の下着を嗅ぎたいと思うんですか。たとえ美人のお姉さんのものであっても、そのような変態行為は断じてやりません」
「そうか、ならば良い。シーツの洗濯も頼んだ。早くしないと遅刻するぞ」
左門は表情を淡白なものに戻すと、踵を返して勝手口から屋敷内へと消えていった。
大吉は、敷布を放り込まれたタライを抱え、頬を膨らませる。
(勝手な人だな。遅刻したら思い切り文句を言ってやろう。追い出されない程度に……)
なんとか遅刻せずに学校に行った大吉は、午後二時半頃に帰宅した。
いつもより二時間ばかり早く授業が終わったのは、明日から試験があるためだ。
大吉の住まう従業員宿舎は浪漫亭の裏で、左門の屋敷の庭を隔てた隣にある。
一階は、縦板張りの和風建築。
二階は若草色に塗装された横板張りで、白い出窓付きという洋風建築になっている。
和洋折衷の建物は函館では珍しくない。
台所と食堂、風呂と便所と、ふたつの個室が一階にあり、二階には六部屋がある。
できれば二階の洋間に住みたかった大吉だが、一階の畳敷きの和室しか空きがなかったため、そこを借りている。
下宿していた坂田屋の部屋との違いは、少し広い六畳間であることくらいだろうか。
文句はないが、もし二階の部屋が空いたなら、そこに移りたいと大吉は思っていた。
部屋の襖を開けて、教科書の入った風呂敷包みを畳に置く。
ズック鞄は火事で燃えてしまい、実家に頼んだ追加の仕送りもわずかであったため、浪漫亭の給与が入るまでは新しく買い直すことができない。
懐事情は相変わらず、かつかつだ。
学生服の上着を脱いで衣紋掛けに吊るし、仕事着に着替えをする。
貸与されたのはコック服で、真っ白な長袖の上着を着て、膝下までの長い前掛けを腰に巻く。ズボンは学生服のままだ。
着替えを終えた大吉は、チラリと風呂敷包みに視線をやった。
せっかく早帰りしても、すぐに試験勉強に取りかかることができないのは、つらいところである。
しかしながら大吉は、浪漫亭での仕事を楽しんでもいた。
洋食の作り方を学ぶことができ、味見をさせてもらえる。賄い飯も洋食が多い。
食いしん坊な彼にとって、ぴったりの職場だと言って良いかもしれない。
最後にコック帽を被り「よし」と気合を入れた大吉は、従業員宿舎を出て下駄を鳴らし、浪漫亭へと急いだ。
勝手口から入ると、そこはすぐ厨房である。
床は掃除がしやすいコンクリート敷きで、木製扉の大型冷蔵庫が二台も置かれている。
冷蔵庫は毎日来る氷屋が、上段に大きな氷の塊を押し込んでいき、下段に冷気が流れる仕組みとなっている。
中央には木製の調理台が設置され、壁際にはふたつの蛇口のある流し台と五台並んだガスコンロ。
大吉の実家は水道とガスがまだ通っていないため、ポンプで地下水をくみ上げ、煮炊きは竃だ。
函館に来て一年以上が経てば、水道やガスコンロに新鮮味を感じないが、五台も並んでいるところを見たのは、浪漫亭の厨房が初めてである。
十五畳ほどもある広い厨房で働いているのは、コックが六人。
年齢は様々で、全員男である。
「学校から帰りました。今日もよろしくお願いします」と大吉が挨拶すれば、「お帰り」「頼むな」とそれぞれが応えてくれた。
昼食時は過ぎたので今は忙しくないようだが、流し台に洗い物が溜まっていた。
「皿洗いやれ」とぶっきら棒に命じたのは、他のコックより長い帽子を被ったコック長の森山、四十五歳だ。
浪漫亭には前経営者の時から二十一年勤めているそうで、一番の古株である。
背丈は大吉より六寸ほど高く、小太り。
無愛想な性分なので怖そうにも見えるが、大吉が皿を割ってしまった時には叱るより先に怪我がないかを心配してくれた優しさもある。
ただし、料理に関して意見されると、途端に不機嫌になるところは欠点とも言えよう。
森山は左門がオーナーとなったばかりの時に、自分より随分年下に見える若造に指図されるのを嫌ったそうだ。
メニューやレシピについて遠慮なく上から指示する左門と睨み合い、ついには浪漫亭を辞めるとまで言いだした。
ところが、辞める前にと誘われ、ふたりきりで酒を飲みつつ腹を割って話し合った結果、左門の西洋料理に関する造詣の深さ、味覚の正しさを知ることとなり、オーナーとして認めたのだという。
その話を大吉は、勤めて間もない頃に、他のコックからこっそりと教えてもらった。
森山に指示された皿洗いを黙々とこなした大吉は、次にディナーの仕込みに入る。
調理台に向かい、バケツ一杯のコロッケ用じゃがいもの皮むきに取り掛かりつつ、ぶつぶつと口にするのは英単語だ。
明日の試験は税法、簿記、経済学、それと英語の四科目である。
その中で、英語が一番の苦手であった。
どうやら洋物への憧れと英語力は、比例しないようだ。
「ソルビング、解決する。アクチュアリー、実際に。コンセプト、概念。ミスアンダースタンディング、誤解。許すは、ええと……なんだったかな」
ポケットに英単語と和訳を書いた用紙を一枚、折り畳んで持ってきたが、皮むきの途中なので取り出せない。
すると隣でセロリの筋を取っている、ごま塩頭のコックが、「許すはフォーギブですよ、大吉君」と教えてくれた。
「あ、そうでした。柘植さんは英語を話せるのですか?」
「いいえ、これっぽっちも話せません。大吉君が先日から繰り返し口にしていたので、自然と覚えたのです」
「へぇ、簡単に覚えられるなんて凄いですね」
柘植は五十二歳で、浪漫亭の従業員の中の最年長だ。
それなのに、若い大吉より記憶力が優れているとは恐れ入る。
しきりに感心する大吉に、柘植は朗らかに笑って、その理由を口にする。
「盲目ゆえに人より覚えが良いのかもしれませんね。常に記憶に頼って生活していますので」
柘植は生まれつき両目の視力がないそうだ。
小柄で細身の体をして、手先が物凄く器用な人である。
野菜や果物の飾り切りは見事で、コック長よりも上手だ。
料理の火加減や焼き具合を目で確かめることができないため、業務範囲は調理補助に留まっているが、仕事のできる人である。
親切で面倒見が良く、色々と教えてくれる柘植を、大吉は好ましく思っていた。
大吉が六個のじゃがいもの皮をむく間に、柘植はコンソメスープ作りに必要なセロリ、人参、玉葱、ニンニクなどの全ての野菜の下拵えを終え、寸胴鍋に入れていた。
コンソメスープは他に、牛の脛肉や鶏の骨、数種類の香草やスパイスと塩を入れて六時間ほど煮込んで作る。
今日作った分は、明日の料理の出汁として使ったり、客にそのまま汁物として出したりもしている。
浪漫亭のコンソメスープは黄金色に透き通り、初めて味見をさせてもらった大吉は、その奥深い旨味にしばらく放心したほどだ。
浪漫亭ではコンソメスープと呼んでいるが、“牛羹汁”と書いて“ソップ”という名でメニューに載せているレストランもあると、以前、左門が教えてくれた。
ちなみにコンソメは、フランス語で“完成された”という意味であるらしい。
煮込みは他のコックに任せ、柘植はじゃがいもの皮むきを手伝ってくれる。
その速さたるや、目を見張るものがある。
「そういえば柘植さんは、浪漫亭は三年目だと言ってましたよね。その前の仕事もコックだったんですか?」
熟練の手捌きを見ればきっとそうだろうと思いつつ、大吉は問いかけた。
すると柘植が瞼を閉じた顔を大吉に向け、首を傾げる。
「大吉君の勤務初日に、その話はしましたよ」