「こら、厨房は清潔第一だ。着替えてから入って来いや」
「すみません」と反射的に謝ったが、大吉は出て行かずに早口で問う。
「左門さんは浪漫亭にいますか?」
「いるわけねぇだろ」
「どこに行ったか聞いていませんか? そうだ、柘植さん。柘植さんもいません。どうして?」
柘植が厨房にいないのは、明らかにおかしい。
焦りと不安から、大吉が落ち着きをなくしていると、森山がフライパンを振る手を止め、怪訝そうに言う。
「柘植なら、オーナーに付いて東京へ帰ったぞ。お前、聞いてねぇのか?」
「聞いてない……。少しも聞いていませんよ!」
思わず声を荒げたら、穂積が厨房に入ってきた。
「大吉君、ホールまで声が届いているよ。静かにして」
今度は穂積に注意されてしまったが、謝る余裕もなく、穂積の黒いベストを両手で掴んで揺さぶった。
「左門さんから、なにか聞いていませんか!?」
東京での滞在期間や、帰宅の予定が聞きたかった。
左門が函館に帰るつもりでいると、安心したいからだ。
それなのに、面食らったような顔の穂積に、期待を裏切られる。
「なにかって……浪漫亭の経営の全てを任せるという話はされたよ。オーナーがいなくても、大吉君の待遇は変わらないから安心して。その辺の話、てっきりオーナーが直接話すのかと思ってたんだけど、聞いてないの?」
大吉は青ざめ、無言で首を横に振った。
(みんなして、聞いていないのかって……ひどいよ。なぜ左門さんは、僕にだけなにも言わずに行ってしまったんだ)
あまりにも悲痛な顔をしていたせいか、気の毒そうな目をする穂積が、厨房の壁掛け時計を確認した。
「きっと多忙で、大吉君に話す時間がなかったんだよ。今、追いかければ、見送ることくらいはできるかな。ギリギリだけど港に行ってみたらどうだい?」