「檀家の画商の言葉は嘘やったけどな、恐怖心が消えへんねん。真面目に全力で描いて、また認められなかったら、自分に絶望してまう。今度は自分から筆を折ってしまいそうや。わいは絵を描くことが好きや。やめとうない。だからちゃんと描かんようにしてる。下手やなぁ言われても、そりゃ全力出してへんからやって、自分に言い訳できるやろ」
最後まで話し切った弥勒は、長椅子に背を預けて力を抜き、ヘラヘラと笑った。
「こないな話、恥ずかしいわ。けど、わかってくれはったやろ。展覧会とか、もうやめてんか。わいは楽しく描ければそれでええねん」
弥勒が不真面目である理由を知り、これは厄介な問題だと大吉は眉を寄せる。
(絵描きをやめたくないから、全力で描かない。そういうのをなんと言ったっけ。授業で習った気がする……)
「まるでパラドックスだな」
大吉の疑問に答えるかのように、左門が低い声で言った。
「パラド……? なんでっしゃろ」
「負けるが勝ち、急がば回れ、のような逆説的な命題のことだ」
「なんや難しい話やな。社長はんは賢い。金もあって顔も良し。なんでも持ってはって、ほんま羨ましいわ。あとはもう少し優しければ言うことない。わいの新しい下宿先の件、よろしゅう頼んます」
弥勒は疲労の濃い顔色をしていても、元のいい加減なお調子者っぷりを取り戻していた。
左門は嫌な顔をせず、立ち上がると、壁にかけていたコートを羽織った。
「浪漫亭に行くぞ。弥勒に食べさせたい料理がある。大吉は厨房に戻りなさい」
最近、洋食を避けていた弥勒だが、「最後やからな。ご馳走をいただいて終わりにしましょか」と椅子を立つ。
大吉も、廊下へ踏み出している左門の背中を追った。
(左門さんは、このまま弥勒さんを解放するのだろうか。才能があるのに、もったいないよな。本人がそれでいいと言っているから、これ以上はなにもできないのか……)