(左門さんは、実家へ戻る気がないようだけど、はたしてこのお姉さんが、すんなり帰ってくれるのか。左門さんが函館を出て行ってしまったら、僕も浪漫亭のみんなも困るぞ……)
ハラハラしていると、左門がきっぱりと拒否する声がした。
「私と父は違う。小夜子さんもわかっているのでしたら、帰って伝えてください。そろそろ諦めて、他に後継者を探すべきだと」
小夜子もできることなら、息子の博文に大蔵家を継がせたいような口振りであったので、大吉はこれで話が終わりだろうと期待した。
けれども、「それはできないわ」と小夜子が言う。
左門を呼び戻せば、大蔵商会の主幹産業のひとつである製粉業の全権を、博文に任せても良いと言われたそうだ。
後継を狙うより、そちらの方が現実的で、左門の帰宅は小夜子にとっても利益があるらしい。
「とにかく一度帰って、お父様と話し合ってちょうだい。お母様も寂しがっているわ」
「あの母が、息子を恋しがるはずがないでしょう。可愛がられた記憶もない」
「あら、そんなことないのよ。この前は鏡台の前に二時間も座って、さめざめと泣いていたわ」
「それは老いゆく己の容姿を嘆いただけです。母は美への執着が激しい人ですから」
真剣に聞き耳を立てている大吉は、抱えているお盆をドアにぶつけてしまった。
その音で室内の会話の声が途切れる。
しまったと焦る大吉は、盗み聞きをやめて、怒られないようその場を離れる。
廊下を静かに歩き、台所へ戻ろうと客間の前に差し掛かったら、ドアが二寸ほど開いて弥勒が顔を覗かせた。
「大吉、ちょいちょい」
「なんですか?」
「お客さん、来てるんやろ? 社長はんの仕事相手なん?」
「違いますよ。東京から来た、左門さんのお姉さんです」
大吉が声を落として答えると、弥勒がなぜか目を輝かせた。
「お姉さんも金持ちなんやろな。結婚してはるんか?」