「気が変わった。君達は歩いて浪漫亭まで帰ってきたまえ。私は静かに運転したいのだ」
「そ、そんなぁ」
ステッキを手に足早に進む長身の背中は、すぐに小さくなり、人混みに紛れて見えなくなった。
自動車で帰れなくなった大吉は、恨みがましい顔で隣を睨む。
弥勒は苦笑して、「気難しそうなお人や」と左門を語る。
その後には大口を開けてあくびをし、「バス賃がないんや。ふたり分払ってな」と、大吉を怒らせるのであった。

弥勒が現れてから十日が過ぎ、今日は水曜日で浪漫亭は休みである。
学校から帰った大吉は、左門の屋敷へ向かう。
自室の文机の上に、掃除をしに来いという内容の紙切れが置かれていたからだ。
(弥勒さんに掃除をやらせればいいのに。一緒に暮らしているんだから。ちくしょう、悔しいな……)
弥勒が与えられた部屋は、衣装部屋の向かいの客間である。
あの屋敷にある部屋は、どこも豪華に整えられているので、弥勒の部屋も贅沢だ。
大吉はそれが面白くない。
(従業員宿舎に空き部屋がないからって、客間を貸さなくてもいいだろ。あんないい加減な絵描きには、宿舎の裏にある石炭小屋で充分だ)
庭を通り、屋敷の勝手口から中に入った大吉は、室内用の清潔な草履に履き替えて左門の書斎へ行く。
ドアをノックし、「大吉です。学校から帰りました」と声をかけたが、返事はない。
「左門さーん?」
廊下で声を張り上げても応答がないので、出掛けているようだ。
これまでは左門の不在時には鍵がかけられており、屋敷内に入ることができなかったが、今は弥勒がいるため、このようなことは良くある。
(港の倉庫に行っているのだろうか。それとも他の仕事場か。適当に掃除しておけばいいか……)
大吉が(ほうき)を出してきて、廊下の掃き掃除を始めたら、客間から弥勒があくびをして出てきた。
まったく呆れたものである。
「夕方前なのに寝てたんですか」