4.ボクは板挟みの心を思い知る
「もしもし、溝渕弁護士事務所ですか? あ、溝渕さん……私です、浅谷水河です。はい……そっちは営業時間、終わりましたか? 私も今から下校する所なので、迎えに来ていただけませんか? お話したいことがあって……」
『ああ、もちろんさ! 君の頼みとあらばどこへでも!』
水河ちゃんが電話で呼び出した弁護士――溝渕というらしい――は、実に軽いフットワークだった。
まぁいくら高尚な弁護士といえども、平日は暇な事務所なんてザラにあるからね。日がな一日、相談の電話を待ちぼうけして終わるなんて普通らしいし。
その代わり、ひとたび顧客が来れば着手金やら成功報酬やらで大儲けだそうだけど。
それにしても、二つ返事で送迎に来るなんて、仲が良いにもほどがある。単なる仕事上のクライアントではなく、プライベートでも親密なのがありありと伝わる。
(水河ちゃんが弁護士に惚れているのと同じく、弁護士もまた彼女に惚れているのは間違いない)
なんてことを思いつつ、ボクは水河ちゃんとともに待ち呆けた。
場所は、校門前。
暮れなずむ夕焼けが目に毒だ。何もかも真っ赤で目が痛い。まるで血の色だよ。
そこは、他にも車を待つ生徒がちらほら見受けられた。親の車で習い事に出かけたり、恋人の車でデートに行ったり……なんて人も居る。
水河ちゃんの横には母親と、ナミダ先生も並んでいる。まるで獲物がかかるのを待ち伏せする狩人のように、虎視眈々と遠くを見据えていて少し怖い。
「やぁお待たせ! 少し遅れてしまったよ――」
果たして現れた弁護士は、黒塗りの高級外車に乗って来た。
左ハンドルだ。これ見たことあるぞ。あんまり車は詳しくないけど、ドイツだかどこかの超有名メーカーだ。
(見た感じ、まだ二〇代の男なのに……弁護士って儲かるんだなぁ)
スーツも仕立ての良いブランドものをまとっているし、アクセサリーやカフスボタン、タイピン、腕時計に至るまで、一個何十万円もするような値打ちものばかり身に着けている。
人当たりの良さそうな甘いマスクと上背が、いかにも女性受けしそうだ。そりゃモテるよなぁ。美男子、金持ち、若くて地位もある。完璧超人かよ。
こいつが浅谷親子にご執心なのは、半分くらい水河ちゃん目当てじゃないだろうか。幸薄くて可愛い女子高生なんて、いくらエリートでもそうそう手を出せないからね。
「おや? その人たちは誰だい?」
下車した弁護士は、ボクとナミダ先生をめざとく睨んで、水河ちゃんに向き直った。
ついでに母親にも気付いたようで、戸惑いながらも挨拶する。
「これはこれはお母様まで。俺はてっきり水河さん一人だとばかり……」
ふん。どうせ夕食にでも誘おうとしたんだろうけど、あいにくだったね。
ナミダ先生がステッキを打ち鳴らしながら、義足の音も軽やかに進み出た。
背の高い弁護士を見上げるように凝視すると、校門前から少し位置を外して、路上駐車の近くに陣取った。
「僕は本校のスクール・カウンセラーを勤める湯島涙と申します」
「はぁ」
「今日は、こちらの浅谷さん親子から相談されまして、先週起こった強盗事件の話を聞くことになったんです。よくある事件ですよね、あるある」
「何をおっしゃっているのやら……え、事件のことを他言したんですか?」
弁護士はますます狼狽して、水河ちゃんと母親に苦笑を浴びせた。
「溝渕さん、聞いて」
それでも水河ちゃんは、引くことなく訴えた。おどおどした物腰だけど、精一杯顔を上げて声を喉から絞り出す。
弁護士はそんな彼女をなだめにかかる。腰に手を回したり、肩を抱き寄せたり、頭を撫で回したり……馴れ馴れしいな、こいつ!
「ええと、さっぱり判りませんよ水河さん。どういうことになったんですか?」
「溝渕さんが、父をあやめたんですよね……?」
「なっ」
弁護士の奴、絶句しちゃったよ。
ビックリし過ぎてあごを外しそうになっている。せっかくの美貌が台なしだぞ。
「こ、ここでそれを言う気……あ、いや、どうしてそんな妄言を?」
弁護士がごにょごにょと言葉に詰まっている。
なぜ自分を追い詰めるのか見当も付かない、と言った風采だ。
怪しいな。やっぱりこいつが黒なのか?
「溝渕さんでしたっけ」
ナミダ先生が、横から声をかける。
母親も隣で見守っている。下手な言い逃れは出来ないぞ、弁護士。
「あなたは浅谷親子へ感情移入し、正義感に燃えました。きっと根は品行方正なエリート弁護士なんでしょう。その年齢で事務所を構えてるのは立派ですよ」
「それはどうも。で、どういう了見ですか? カウンセラーだか何だか知らないが、水河さんに変なことを吹き込んだんじゃないでしょうね?」
「人の心は千変万化します。ましてや『女心と秋の空』って言いますよね。あるある、昨日まで濃厚な愛を囁いても、次の日に別れ話を切り出せるのが女心です。よくある」
女心と秋の空……女性の気持ちはころころ変わって御しがたい、という格言だ。
「失礼だな君は! 大体、別れ話なんてそんな、俺は――」
「あなたは浅谷親子に情が移るあまり、水河さんへ懸想した。ずぼらな父親に立腹し、義憤はやがて殺意に変わった……ありそうありそう」
「俺が殺したとでも言うのか? なぁ水河さん、こいつを黙らせ――」
「溝渕さん……そういうことになったんです」
水河ちゃんはなおも断言する。
「!」
「お話、していただけませんか?」
「そんな……馬鹿なことが……」
弁護士がのけぞり、よろめいた。
自分の車に背をぶつけ、もたれかかって、あちこちに視線を泳がせている。
この人、なまじ成功者なだけに、逆境に立たされると打たれ弱いんだな。
ナミダ先生が間合いを詰める。ステッキの音と義足の駆動音が耳に馴染む。
「あなたは父親に養育費を請求しても応じてもらえず、手段を変えましたね? 一転して父親に取り入った振りをして、父親の信頼を勝ち取った」
「お、俺は……」
「父親をそそのかし、ケータイ番号を変更させましたね? また、彼の工場でボタンカバーをこっそり造らせ、公衆電話のプッシュボタンにかぶせる準備も整えたんですね」
「お、俺は、その――」
「溝渕さん……お願いです、認めて下さい」
水河ちゃんがじっと弁護士を見据える。
いつになく強い眼差しだな、水河ちゃん。
好きになった相手に――さっきまでぞっこんだったのに――こうも冷徹な態度を取れるなんて、やはり『女心は秋の空』なんだろうか?
相反する感情が混じり合い、水河ちゃんの心理を揺り動かしている。
「私はずっと待ってますから……諦めて、白状して下さい」
「くっ、判りました……俺が犯人だ」ナミダ先生に告げる弁護士。「あの父親は頭が弱くて、金策をいくつかアドバイスしたら簡単に俺を信じたよ。そのまま奴に取り入って、養育費の請求が来なくなる作戦だと嘘をつき、電話番号の変更とボタンカバーを用意させた……実は貴様を殺すためだとも知らずにね。つくづく馬鹿な父親だった」
「浅谷親子のキャリアを変更させたのも、あなたですね」
ナミダ先生が指摘する。
弁護士は言葉を詰まらせたけど、水河ちゃんに促されて、観念して一回頷いた。
「過疎地で圏外になるキャリアに変えて、公衆電話を使わざるを得ない状況にしたんだ」
予想通りだった。母親が頭を抱えている。
全幅の信頼を寄せていた弁護士が殺人を犯すなんて、絶望感が凄いだろうな。
「だ、だが、これは――」
「溝渕さん!」遮るように抱き着く水河ちゃん。「もう諦めて……全てあなたの独断でやったこと。私たちのためを想ってしてくれた正義感……なんですよね?」
「お、おう……」
「私はそんな溝渕さんが大好きです……どんな罪を犯そうとも……」
「水河さん……」
しばし懊悩していた弁護士だったけど、水河ちゃんが情熱的に密着したため、勢いに呑まれて認めてしまった。
「俺は自首します。すみませんでした」
「私はいつまでも、あなたの帰りを待ってますから……」
外車に寄りかかってうなだれる弁護士に、水河ちゃんがそっと唇を重ねた。
夕暮れの陽光が眩しくて、接吻の瞬間はよく見えなかった。
*
その後。
弁護士の証言通り、田舎町の山中にて、父親宅から奪われた財布や通帳、金目の物などが発見された。
強盗の仕業に見せかけただけなので、中身は一切手を付けられていなかった。
もともと弁護士は裕福だから、はした金なんて見向きもしないだろう。
「偽装したボタンカバーも、彼の家から見付かったそうですよ。もう確定ですね」
ボクは保健室に立ち寄って、水河ちゃんから聞きかじった後日談を、うるわしの泪先生に話したものさ。
いつも綺麗だなぁ。特に今日は一段と黒髪ストレートが輝いているよ。ただでさえ天使の泪先生が、蛍光灯を浴びて頭髪に天使の輪を描いている。
なのに――。
「あるある、実行犯には必ず物証が付きものだからね。絶対ある」
「その通りよね~お兄ちゃんっ」
――なのに、傍らにはナミダ先生が居座っていた。邪魔だ……。
放課後、カウンセラーと養護教諭が情報交換のために会談しているんだ。この二人は生徒のケアに近しい職業だから、互いの業務連絡が必須なんだよね。
くっ……ボクは泪先生と二人きりで過ごしたいのに!
「沁ちゃん、ちょうど良かった」
ナミダ先生が、そんなボクを手招きした。
いや、呼ばれても困るんですけど。ボクは泪先生へのほのかな憧憬を満たしたいだけであって、ナミダ先生は眼中にない――。
「君に話があるのさ、あるある」
「……何ですか?」
ボクは近付かずに立ち尽くして、話だけ伺うことにした。せめてもの抵抗だ……ってボクはツンデレかよ。我ながら子供っぽいな。
「君は気にならなかったかい? 弁護士が水河さんの言い付け通りに、まるで罪をかぶせられたかのごとく自首した件について」
「は? だってそれは、弁護士が実際にやったからでしょう? そして、互いに好き合っていた水河ちゃんに諭されて、改悛の念にかられた……」
違うのか?
ボクはてっきりそう思っていたけど。
そのとき、泪先生が薔薇のごとき紅い唇を開閉させた。
「あの子ね~、自首する弁護士の私財を寄付されて、学費を賄ってたわよ」
「へ?」
「弁護士に愛を誓うことで、お金を引き出したみたいね~」
「び、美談じゃないですか。恋人の出所を待つ彼女と、その彼女のために有り金をはたいた彼氏…………って、あ!」
背筋が凍った。
手玉に取られた。
今さらそのことに気付く。
弁護士も、ボクも、母親も、先生たちも。
水河ちゃんのてのひらに――!
「これは僕の仮説だけど」義足で床を踏み鳴らすナミダ先生。「真の黒幕は水河さんだ」
真の黒幕!
言ってしまった。
ナミダ先生が、看破してしまった。
「弁護士に自首を迫ったのも、愛をほのめかせて学費を立て替えさせたのも……そもそも弁護士と仲良くなったのも、水河さんの計算だった。よくある悪女だね」
「ちょっと待って下さい、ボクの理解が追い付きません」
「実行犯は弁護士だけど、立案者は水河さん。弁護士はうら若き恋人のために、全ての罪をかぶったんだよ」
「水河ちゃんが、そんなことを思い付くとは思えませんけど……」
「水河さんは父にネグレクトされ、早々に離婚したため、父性を知らずに育った。暴力を受けた女児は、男性不審や男性恐怖症になりやすいんだけど、彼女は違う症例を発症したのさ」
「違う症例?」
「ユディット・コンプレックスだよ」
先週の相談室で、ナミダ先生が御託を並べていた心理学用語だ。
あれも伏線だったのか……!
「ユディット・コンプレックスは男性へ強い愛情を抱く反面、その男性を破滅させたくもなる矛盾した心理だ。父性を知らない水河さんは、男性への好奇心が人一倍強かったものの、虐待されたトラウマも根強く残っており、男性への憎悪が潜在してた」
愛情と憎悪。
相反する感情が同居している。
――まさにユディット・コンプレックスじゃないか!
「男性にすがればすがるほど、彼女の中では憎しみも増す。せめぎ合う複合心理。愛する男性を忌避するという矛盾した心理。まさに水河さんだろう?」
そうだ。
水河ちゃんは弁護士に依存する反面、父殺しの罪をなすり付けて自首を勧め、輝かしい弁護士人生を破滅させた。
見事に符合するじゃないか!
「ちなみに~、ユディットは旧約聖書に登場する女傑の名前よ~」指を立てて補足する泪先生。「ユディットは故郷を捨てて敵将に取り入るんだけど~、結局はその敵将を愛しきれずに抹殺しちゃうの。好きだけど殺しちゃう、複雑な板ばさみの女心よね」
怖いなその人!
あいにく、男性的なボクには共感できない感情だよ……。
「弁護士に愛を囁きつつ、父殺しの汚名を着せて社会的に殺した。水河さんは現代のユディットだね…………そこに居るんだろう、水河さん?」
「!」
やにわ保健室の入口へ声をかけたナミダ先生が、双眸をすがめた。
声色も心なしか険しくなっている。
「ああ……バレてました?」
本当に居た。
戸を開けて入室したのは、紛うことなき浅谷水河その人だった。
「水河ちゃん、立ち聞きしていたの?」
ボクが制服のすそを翻して相対すると、水河ちゃんは肩をすくめてみせた。
「うん……尾行してたの。ごめんね」
「なんで」
「私も保健室の常連だから……」
なんて呟いた後、水河ちゃんはナミダ先生をじっと見つめた。
視線と視線がぶつかり、せめぎ合う。
横から泪先生がムッとした形相で割って入ったせいで、中断されたけど。
「は~いストップ。私のお兄ちゃんを気安く眺め回すんじゃないの!」
そこかよ。
突っ込む所、そこじゃないですよ泪先生……。
ナミダ先生はそんなボクたちを無視して、水河ちゃんにこう語る。
「ここに来たということは、認めるということかい?」
「そうですね……正直、感心しました」もじもじと体をくねらせる水河ちゃん。「父との面会を提案したのも私……溝渕さんにアリバイ・トリックを持ちかけたのも私……田舎の環境を逆手に取って、スマホの変更を発案したのも私です」
「目的を果たせて満足かい」
「はい……けれど、私がやったという証拠はありませんよね? 今のも、単なるおふざけの発言ですって言えば意味ないですし」
「うん。僕は君を裁けないし、弁護士は単独犯を主張し続けるだろう。ありがちだ」
「やっぱりカウンセラーさんって凄い……達観してて素敵です」
水河ちゃんは胸を弾ませて、黄色い声を上げた。
隣で泪先生がみるみる剣幕を彩っているんだけど、大丈夫か? これはボクの知っている泪先生じゃないぞ。
「私、溝渕さんなんか捨てて、カウンセラーさんのこと好きになっちゃいそう……ポッ」
ポッじゃないよ。
何だよこの尻軽女は。
まさに悪女そのものじゃないか……こんな水河ちゃんは見たくなかった。
「ははっ。簡単に男を鞍替えしたね。女心と秋の空とは、よく言ったものだよ」
「えー……私、本気ですよ?」
「遠慮しておくよ。僕の相手は、きっと誰にも務まらない。ましてや、移り気の激しい君ごときには、ね」
ナミダ先生は辛辣に吐き捨てて、憂鬱そうに椅子から立ち上がった。
義足を動かし、ステッキを振ってボクらを払いのける。
悠々と保健室の真ん中を突っ切って、廊下へ退室してしまった。
うわ、置き去りにされた格好だ。
ボク、水河ちゃん、泪先生という非常に気まずい組み合わせなんだけど……。
「浅谷水河さ~ん?」
泪先生が事務的な口調で語りかける。ただし顔が笑っていない。
ボクは泪先生のそんな形相、見たくなかったですってば……。
「はい、何でしょう……?」
「私のお兄ちゃんにツバ付けようとしたら、ただじゃおかないわよ」
私の、をやたら強い語気で主張する泪先生が、実に必死だ。
「はいはい……話が聞けて良かったです。では失礼します……沁ちゃんも、さようなら」
「えっ」
最後に水河ちゃんは、ボクにも会釈をした。
逃げるように彼女は退散してしまう。
お別れの言葉……?
そうか、こんな本性をさらしてしまったら、もうボクとはまともに会話も出来なくなるよね……。
(相反する女心。ころころ変わる女心。ボクたちもまた、変わらざるを得ないのか)
ボクは泪先生と二人きりになった。
でも、それは心に隙間風が沁み込んで、ちっとも楽しい空間ではなかった。
*
――第二幕・了
・使用したよくあるトリック/アリバイ崩し、公衆電話トリック
・心理学用語/被虐待症候群、適応機制、ユディット・コンプレックス、ネグレクト、青い鳥症候群