1.ボクは友達と彷徨い歩く
五月病という言葉によれば、ゴールデンウィーク明けは気力が衰えやすいらしい。
しかし、ボク――私立朔間学園高校二年の渋沢沁――は、連休を終えた今日という日を一日千秋の思いで待ちわびたものさ。
(学校が始まれば、保健室の湯島泪先生にまた会える!)
泪先生には以前フラれたけど、それでも生徒として温かく接してくれるし、何より身体的な悩みを持つボクは歓迎されやすいんだ。
でも。
五月病の言葉通り――。
「保健室、混み過ぎ!」
――ボクは正直、呆れたね。いや、人のことは言えないけどさ。
放課後の保健室は大盛況だった。男女問わず来訪者でごった返している。
これじゃ、おちおちベッドにも入れないぞ。泪先生と楽しい歓談も出来そうにない。
生徒たちは口々に症状を訴えている。そんなに大挙したら、泪先生だって対応しきれないだろうに。
曰く、
「何か、気分が乗らなくて……」
「頭がボーッとしてて……」
「熱っぽくて……」
「嫌いな授業になるとお腹が痛くなって……」
好き勝手言っているなぁ。
泪先生も手際良く訪問者を捌くけど、それでも追い付かない。あまつさえ、診察ついでに世間話をしたがる輩も潜んでいるから、どうしても回転が悪くなる。
(四月からの新生活に疲れ、ゴールデンウィークで息抜きすると、そのまま気力が戻らず腑抜けた心理状態が続いてしまう……それが五月病だっけ?)
五月病について、雑学程度の浅い知識を脳内検索する。
加えて五月の陽気や気候なども影響するって聞いたなぁ。
(ま、そういう話は『心の専門家』の方が詳しいだろうけど)
ボクは泪先生を眺めすがめつ、別室に居るスクール・カウンセラーを思い出した。
スクール・カウンセラーは心理学関連の本職を持つ、非常勤の相談業務員だ。週に一度しか出勤しないけど、今日は連休明け初日ということもあって顔を出しているはずだ。
「は~い次の人、どうぞ~」
泪先生が順番待ちの列を消化して行く。
綺麗な声だなぁ。もう二〇代後半なのに、中高生のような若々しい声色だ。外見も高校生と寸分たがわない童顔で、化粧も決してケバくなく、身長も低いし線も細い。
長い黒髪がお人形さんのようだ。思わず触って愛でたくなる。
「先生……またお世話になります」
泪先生の前に座った生徒が、弱々しく呟いた。
今にも消え入りそうな、陰鬱な女子だった。身を縮めて、首をすくめて、常にうつむきがちで、もじもじと足をゆすっている。
耳が隠れる程度のショートボブな頭髪は決して目立たず、制服も標準通りに着用した、清純だけど地味なシルエット。
(あれ? この子って)
ボクは見覚えがあった。
同じクラスの浅谷水河ちゃんだ。
大人しい性格で、クラスでも影が薄い。ボクと選択科目が一緒で、その成績はお互い上位だから、授業の前後には言葉を交わしている。
(いつも暗く沈んでいるのは、具合が悪かったから?)
だからボクは制服のすそを翻し、生徒の列に並ぶ振りして聞き耳を立てたわけ。
水河ちゃん、どんな容態なんだろう?
「君もすっかり保健室の常連さんだね~」
泪先生が、水河ちゃんに笑いかけた。
えっ、そうなの?
ボクも人並み以上に保健室を出入りしているけど、水河ちゃんと鉢合わせたのは今日が初めてだ。訪問する時間帯が違っていたのか?
「えっと、はい……また、ちょっとゴタゴタしちゃって、気分が優れなくて……」
水河ちゃんは舌足らずな口ぶりで一生懸命、言葉を紡ぐ。
小動物が懸命に訴えているようで可愛らしい……もっとも、泪先生の方が小柄だけど。白衣を羽織っていなかったら、どっちが大人だか見分けが付かないね。
「心因的な症状ね~。嫌なことがあると気分が悪くなってサボりたがるとか、暴力や八つ当たりで気を紛らわすとか、他の雑事や掃除にかまけて逃避するとか、幼児退行して知らんぷりするとか~。適応機制っていう心理作用の一種なのよ」
「適応機制、ですか……」
「嫌なことがあって体調を崩すのは、典型的な例だもん。今日は何があったの?」
「はい……私の両親が離婚してだいぶ経つんですけど……その、最近また、別れた父親のことで揉めちゃって……」
水河ちゃんの声量が、どんどん尻すぼみになって行く。
周りの目を気にしているんだろうか。それとも、悩みごとを話すこと自体が気おくれするんだろうか――うん、そんな感じだ。
(泪先生が水河ちゃんの熱を測ったり触診したりする間に、悩みも聞き出す……水河ちゃんにとって、具合の悪さは二の次なんだな。ここで会話するための名目でしかない)
頭痛や腹痛は、いわば保健室に行くための免罪符だ。
それを建前にして、学校生活の悩みや家庭のトラブル、教師への愚痴などをぶちまける場として、保健室は使われやすい。病院なんかでも、老人患者が診療にかまけて雑談しに来ただけ、ということは多いそうだ。
「保健室は生徒の駆け込み寺だからね~」
うんうんと頷いていた泪先生が、やにわ起立した。
ん、と室内の全員が泪先生を仰ぎ見る。
目の前に居た水河ちゃんも、何事かと先生を見上げたものさ。
「よ~し、君には別室の専門家を紹介してあげる!」
「え? え?」
泪先生は彼女の手を握って、強引に保健室を出ようとした。
いいなぁ、手をつなげるなんて……って、ボク個人の感慨はどうでもいいか。
「あ、沁ちゃん……」
水河ちゃんがボクとすれ違う。
げ、気付かれた。
まぁ仕方ないか。泪先生に連れ去られる彼女を、ボクは追いかけることにした。声をかけられたから大丈夫だよね? 付き添いを装って、さり気なく追従してみよう。
「ちょ~っと席を外すから、みんな静かに待っててね~?」
泪先生は室内にそう言い残すと、戸口をぴしゃりと閉めた。
みんながポカンと立ち尽くす中、ボクも急いで引き戸を開け、廊下へ飛び出したんだ。
「水河ちゃんっ! どうしてここに?」
「……沁ちゃんこそ、ここに通い詰めてたのね」
「あ~ら、二人ともお友達?」
泪先生が廊下を先導しつつ、ボクらを肩越しに一瞥する。
あ、その睨まれ方、すごくイイ……。
「クラスメイトなんです」
「ふ~ん。なら沁ちゃんも同行者と見なしてあげよ~」
ボクの同伴はあっさり許可された。
おかげでピンと来たよ、泪先生がどこへ向かっているのかを。
「行き先って、心理相談室ですよね?」
泪先生は当校のスクール・カウンセラーと仲が良い……というか兄妹だ。生徒の相談を受けやすい養護教諭は、スクール・カウンセラーと連携を取ることも数多い。
「そ~だけど、今日は違う部屋よ~」
「え?」
泪先生は、相談室へ続く廊下の角を、なぜか逆方向へ曲がった。
そこには階段があり、ひょいひょいと登り始める。え、どこへ向かうんだ?
ボクも水河ちゃんもどこへ連れ込まれるのか気が気でない。
着いたのは校舎の三階だった。多目的会議室があり、引き戸に貼り紙が見て取れた。
『スクール・カウンセラーの定例保護者会』
保護者会?
「五月病の発生しやすい時期って~、親御さんを対象にした講演会を開いて、自己啓発させると良いんだって。校長やPTAの意向にもよるけど、カウンセリング活動を宣伝できるメリットもあるし、保護者の悩みごとも拾えるから好評みたいよ~」
手広くやっているんだな。これもカウンセラーの仕事の一環か。
事実、保護者会は需要が高いらしい。学校生活の内情を聞けるし、思春期や反抗期の子供たちにどう対応すれば良いのか、親の悩みも後を絶たないから。
(カウンセラーは生徒だけでなく、保護者や教師など、学校に関わる全員が顧客なのか)
「保護者会、そろそろ終わる時間ね~……は~い失礼しま~す。お兄ちゃ~ん!」
勢いよく戸を開けた泪先生は、ズカズカと室内に突入した。
片手で水河ちゃんを引っ張り、さらにボクが追尾する。
「ん? ルイ?」
教壇に立っていたナミダ先生が、闖入者を訝しげに振り向いた。
――湯島涙。
本業は大学の心理学講師。
春物のカーディガンとポロシャツ、スラックスを着て、上には白衣を羽織っている。
上背はさほどない。男性の平均身長よりやや低い程度だ。
泪先生も小柄だから、湯島家は代々そういう遺伝子なんだろう。
その代わり、ナミダ先生は中性的な顔立ちが美しく、密かに人気だそうだ。教室に集まった保護者の大半が主婦で、年甲斐もなくキャーキャーと黄色い声を上げている。
「む。まだ続いてるの~? そろそろ終了だと思って、生徒を連れて来たのに~」
泪先生がほっぺを膨らました。プニプニしていて可愛い。
水河ちゃんを連れて来たのは、単にお兄さんと会いたかっただけか……ボクは水河ちゃんと複雑な面持ちで見合わせた。
「保護者の悩みに応じるのも、カウンセラーの業務だからね。あるある」
ナミダ先生がこともなげに返答した。
つれない態度に、泪先生はますますへそを曲げてしまう。お兄さんが主婦たちにもてはやされているのが、気に食わないらしい。ブラコンここに極まれりだね。
「あら……水河じゃないの!」
その主婦層から、水河ちゃんを名指しで呼ぶ者が居た。
水河ちゃんの母親だ。楚々とした地味な佇まいと、黒を基調としたシックな服装が個性を押し殺している。なで肩にはストールをひっかけて、さらに辛気臭い雰囲気だ。
「ママ……私、ちょっと悩みごとがあって、保健室の先生に引率されて来たの……」
水河ちゃんが困ったように視線を床へ落とした。
まぁ戸惑うよね、親と対面したら。家族には内緒にしたい相談かも知れないし。
けど、母親もここに来たということは、この人も悩みがあるということだ。
浅谷家には何かがある――?
「そろそろ時間ですから、お開きにしましょう」主婦たちに一礼するナミダ先生。「本日はありがとうございました。この後は、事前に受け付けた個別の相談がありますので、予約者は一階の心理相談室までどうぞ」
惜しむ声が主婦層から囁かれる中、ナミダ先生は颯爽と踵を返し、白衣をはためかせて教室を去った。
ていうか今、個別の相談があるって言ったな。
それじゃあ水河ちゃんは後回しか?
「最初の予約はわたしです!」
水河ちゃんの母が、諸手を挙げた。
ナミダ先生の背後をぴったり追いかける。
水河ちゃんの母親が相談……?
すると泪先生まで電光石火の早さでUターンし、ナミダ先生に付きまとった。
「お兄ちゃん、奇遇だね! ちょうど浅谷さんの娘さんも、心の悩みがあるのよ~! 親子そろって相談に乗ってくれない? ね~ね~」
め、めちゃくちゃなこと言い出したぞ……。
いくら親子でも、同席するのは強引じゃないか? 別々の相談かも知れないのに。
「そう……水河も相談に……」
母親が声を押し殺す。
水河ちゃんは視線をさまよわせた後、相槌をこくり、と打った。
「うん……私も家のことで悩んでて……多分、ママと同じ相談内容になると思う……」
一緒なのかよ!
ボクの思惑が外れてしまった。ま、その方が都合は良いけどさ。
同じ相談内容。同じ悩み。
親の問題かな? そう言えば、さっき保健室で「両親が離婚して~」と話していたな。
「なら相談室で、親子一緒に伺いますよ」
ナミダ先生は階段を降りながら、にこやかに応えた。
惚れ惚れするくらい爽やかな笑顔だ。営業スマイルだなぁとボクは思ったけど、水河さんも母親も、彼の美貌にすっかり頬を染めている。
やばい、このカウンセラーは天然のタラシだ。
なまじ心理学で人心掌握に長けているから、なおさら質が悪い。
ふと見たら、泪先生が嫉妬の炎で全身を燃やしていた。こっちはこっちで怖いな!
一階に到着し、職員室を素通りして、心理相談室の前で立ち止まる。
「じゃあボクはここで――」
「待って……沁ちゃん」ボクの袖を掴む級友。「不安だから……そばに居て欲しいの」
「え? でも」
「お願い……」
水河ちゃん家のプライバシーに関わるから遠慮したかったけど、ここまで頼まれてはやむを得ない。
水河ちゃんの母親は邪魔そうにボクを睨んだけど、娘じきじきの申し出だからと引き下がった。
泪先生がぴょんぴょん飛び跳ねて、自分をアピールし出す。
「じゃ~私もお兄ちゃんと同席――」
「ルイは保健室に戻りなさい」
「……ぶ~ぶ~」
ナミダ先生に諭されて、がっくりと肩を落とす泪先生が可愛い。
かくして、ボクは再び巻き込まれた。
友達の家庭を巡る『相談業務』に――。
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