――こうして、事件は幕を閉じた。
 ボクは家に帰るなり、母さんに泣いて抱き着かれた。
 心配していたらしい。
 だから警部さんも大急ぎで動いたわけか。本格的に通報されたら大騒ぎになってしまうからね。
 ともあれ、ボクの身の危険はなくなった。
 翌日、保健室には泪先生が笑顔で待ち構えていて、ボクをすげなく追い返す。
「君はもう、どこも悪くないでしょ~?」
 ついに仮病認定されてしまった。
 以前は無条件で招いてくれたのに、今は素っ気ないものさ。塩対応ってやつか。
 でも、仕方ないのかな。ボクの心は完治し、こうして元気になったのだから。
 保健室を引き返し、廊下をあてどなく歩く。
 職員室の奥に『心理相談室』の看板が見えた。
(ナミダ先生……今日は来ないかな?)
 まだボクは、ナミダ先生に礼を述べていない。
 助けに来てくれてありがとうって。
 けど、それはもう叶わないのだろうか。
 あの人は大学で身辺整理に忙しい。恩師が逮捕されたことで、研究室が閉鎖されるらしい。准教授推薦の道も白紙に戻されなければ良いけど。
 かと言って、あの人が無事に出世すれば、スクール・カウンセラーとして顔を合わせることもなくなるわけで……。
 はぁ……複雑な心境だ。
「きゃ~お兄ちゃんっ」
 ん?
 泪先生の嬌声が響いた。
 後ろからだ。
 制服のすそを翻したボクが見たものは、職員室から退室するナミダ先生の姿だった。
 ……居たのかよ!
 それをめざとく発見する泪先生も抜け目ないなぁ。保健室の戸口から虎視眈々と見張っていたんだろうか。
 とにかく、ボクは湯島兄妹が抱き着く様子を、目と鼻の先で目撃した。
 全く、これで何度目だろう。
 いい年した大人が――それも実の兄妹が――人目もはばからずイチャイチャ抱擁するなんて、目の毒以外の何物でもないよ。
 ……って、なんでこんなにイラつくんだろ。
 ちくり、と胸が痛んだ。
 どうしたんだろ、ボク。
 この苦痛は、兄妹への嫉妬?
 だとしたら、どっちの?
 泪先生かな……いや、ボクはもう彼女にフラれて、ふっきれたはずだ。今でも好きだけど、割り切っている。
 じゃあ、ナミダ先生――?
「お兄ちゃん、まだスクール・カウンセラーは継続できるの?」
 泪先生が、ナミダ先生の胸板に顔をこすり付けながら、猫なで声で問いかけた。甘えきっているなぁ。
 ナミダ先生はボクの存在に気付いて咳払いすると、泪先生の頭を優しく撫でながら述懐する。ボクにも聞こえる声量で。
「まぁね。准教授の推薦者だった汐田教授が逮捕されたことで、大学は大荒れでさ。僕の昇進はうやむやのうちに流れてしまったよ。しばらくは大学講師とスクール・カウンセラーという二足のワラジを続けるだろうね、あるある」
「そっか~。えへへ」
 泪先生、嬉しそうな悲しそうな、どちらとも付かない生返事をしている。
 確かに、素直に喜べないよね。
 異例のスピード出世が、パーになってしまったんだ。理不尽だけど、こればかりはボクらにはどうしようもない。
 そして不謹慎だけど、ナミダ先生がカウンセラーとして高校に残ってくれるのは、泪先生にとっては朗報だ。一緒に居る時間が増えるから。
「まぁ、僕はまだ二〇代だしね。この先もチャンスはあるさ、あるある。汐田教授が抜けたことで、大学は新たな教授を補充しないといけないし、それはきっと現役の准教授から選ばれるだろう。となると繰り上がりで空席の准教授が出るから、近いうちにまた抜擢される可能性は高いと思う」
 そうか。
 門戸が閉ざされたわけではないんだ。
 次こそはナミダ先生が報われると良いな――。
 ちくり。
(あれ? まただ……)
 ボクの胸が痛む。
 心は男なのに、女として膨らみ始めた思春期の胸が、ちくちくと刺すように痛む。
 女の制服に身を包んだ肢体が、柔肌が、ナミダ先生を見るたびにドキドキと脈打つ。
 何だこれ……?
「というわけで沁ちゃん、もう少しだけお世話になるから、よろしく」
 ナミダ先生が、顔だけボクの方を向いた。
 目が合う。
 ドギマギする。
「は、はいっ」
 ボクは咄嗟にうつむいた。
 直視できない。
 鼓動が激しい。
(スクール・カウンセラーを続けてくれると知って、喜んでいるボク(・・・・・・・)が居る)
 不思議な感覚。
 奇妙な自覚。
 顔が熱い。赤面する。火照る。紅潮する。
 この気持ちは……何?
 ボクはこの、得体の知れないフワフワした心情を胸に()みつつ、今日もナミダ先生の部屋に立ち寄るんだ。
 人の心を解き明かしてくれる、心理相談室へ。


――閉幕



参考文献

・スクールカウンセラーの仕事/伊藤美奈子(岩波書店)
・学校が求めるスクールカウンセラー/村瀬嘉代子監修・東京学校臨床心理研究会編(遠見書房)
・ユング/アンソニー・スティーヴンズ著・鈴木晶訳(講談社)
・ワルい心理学/渋谷昌三(日本文芸社)
・手にとるように心理学がわかる本/渋谷昌三(かんき出版)
・やさしくわかるユング心理学/山根はるみ(日本実業出版社)
・ケースで学ぶ犯罪心理学/越智啓太(北大路書房)
・図解雑学 犯罪心理学/細江達郎(ナツメ社)