3.ボクは暴漢どもに監禁される
ボクは最終的に目隠しまでされて、前後不覚な状態で車から降ろされた。
背中を押されて、縛られた縄を引っ張られて、おずおずと歩き出す。
何これ怖い。
いや、怖いなんてもんじゃない――恐慌だ。
目が見えない状況で足を動かさなければいけない、この焦燥とサスペンス。転んだらどうしてくれるんだ。
そもそもどこへ連れて行かれるのかも定かじゃないので、その心理的恐怖が鼓動を早める。例えばここが断崖の海辺だったり、人知れぬ樹海だったりして、その場で殺されて遺棄される可能性だって充分にある。
何しろこれは誘拐事件なんだから――。
ただ不幸中の幸いにして、連中はボクに一切危害を加えようとはしなかった。
正直、ここでは書けないような暴行を受ける危険も高いと覚悟したけど、その倫理観に関してのみ、こいつらは統制が取れていた……まぁ、ときどき好色そうな気配を感じたりはしたけど。
ボクが男っぽいから、あまり好奇の対象になりにくいのかも知れない。
(こいつらの目的は飽くまでも、ナミダ先生一人ってことか)
それ以外の人間には極力手を出さないよう厳命されているのだろう。ボクをさらうにしても、身柄を拘束するだけで済ませているのが何よりの証左だ。
「よし、そこに置いとけ。目隠しも外していいぞ」
ボクを先導する暴漢が一言、吐き捨てた。
「うす」
という返事が後ろから聞こえる。ボクの背を押して歩行を促していた奴だ。
初めてボクは目隠しをほどかれ、突き飛ばされた。
痛っ!
ボクはよろけて、前のめりに突っ伏す。
スカートのすそがめくれて暴漢どもに大サービスしてしまったけど、連中は大して気に留めていない。
危ない危ない。何が刺激になって欲情されるか判ったものじゃないからね。
奴らが意外と理性的なのは、腐っても賢明な大学関係者だからか?
(ここはどこだろう……埃っぽいな。廃屋か?)
ボクは床に積もった塵埃に顔をしかめた。
瓦礫やガラス片も散らばっている。コンクリート剥き出しの殺風景な部屋だ。内装は剥がれ落ち、調度品も見当たらない。窓ガラスすら取り外されて、風がびゅうびゅう吹き込んで来る。
天井には電球が吊るされ、煌々とボクを照らしていた。
「大学旧校舎の廃墟に着きました」
暴漢の一人が携帯電話で何者かと通話する。
大学。
旧校舎。
廃墟。
ははーん、何となく察しが付いた。
ここがこいつらの拠点なのか……しかも大学って……結構あからさまだなぁ。そんな場所、内部関係者しか立ち入り出来ないだろうに。
勝手に利用しているとしても、もっと足の付かない所、せめて大学と無関係な建物を探せば良いのに。
その辺が素人感覚と言うか、手近なもので間に合わせただけの即席集団であることが推して測れる。
「あー、いててて。あの野郎にこっぴどくやられちまった」
暴漢どもはようやく一息ついた。
ナミダ先生に薙ぎ倒された奴らが、傷口の治療を始めたんだ。
床にどっかと腰を下ろし、尻を突いて、どこからともなく救急箱をいくつか持参する。
自分たちで応急手当が出来る……医療の心得があるのか?
消毒液を塗り、絆創膏を貼り、打ち身には湿布を貼り、ガーゼをかぶせ、止血したり薬を塗ったり、人によっては添え木と包帯まで巻いている。
(……手慣れているなぁ)
ボクは直感的にそう思った。
単に医療機関へ足を運べないせいかも知れないけど。
こんな不衛生な場所で、コソコソと怪我を治すということは、人には言えない蛮行をしでかしている自覚があるようだ。
闇討ちを仕掛けた挙句、返り討ちにあったんだから当然か。かっこ悪いったらありゃしないね。
(じゃあやっぱり、精神医学部の人たちなのか?)
医学部なら基本的な応急手当くらいは出来るだろう。
また、人の心を研究する学問として、心理学と精神医学は共通点がある。
学術的な権威を巡って両学部に何らかの対立があったとすれば、医学部の荒っぽい連中が喧嘩を吹っかけて来ることもあり得るんじゃないか? エリートだの出世だのは関係なく、面子と立場を守るために――?
「何ジロジロ見てんだよ」
暴漢の一人が、床にうずくまったボクへ睨みを利かせる。
そりゃ目隠しを外されたんだから、周囲を観察するに決まっているだろ。
見られたくなければ、目隠しを外すなよ。理不尽極まりないなぁ。そもそもこんな所に拉致された時点で不条理なのにさ。ぶつぶつ……。
「おい、もうじき『教授』が来るってよ」
――教授?
暴漢どもがざわつき始めた。
さっき携帯電話で誰かと話していた奴が、仲間たちに指示を出している。
大ボスのお出ましというわけか。
(教授だなんて、これまた判りやすい渾名だなぁ)
きっと大学の教授なんだろうな。
職場から旧校舎まで、恐らく大して離れていない。電話してすぐ駆け付けられるんだから当然だね。それくらいはボクにだって想像が付く。
(だとすると、やっぱりこいつらはナミダ先生の敵対勢力……大学内の権力争い?)
うーん、考えが堂々巡りしている。
もう少しで何かが掴めそうなんだけど……確証が足りない。条件はそろっているのに。
ただ一つだけ言えるのは、こいつらが紛うことなき卑劣漢ということだ。
大昔、団塊の世代とやらも暴漢だらけで、警察と戦って社会に迷惑をかける馬鹿ばかりだったと聞いたけど、ここに居る連中はさらに大馬鹿だ。
結局、こいつらがやっていることは犯罪でしかない。
罪を犯しても、自分の正しさなんて証明できない。
誰かを傷付け、誰かに疎まれるだけだ。
暴力に訴えること自体が、短絡的で、幼稚で、極悪非道だ。
その時点で、ボクは絶対に共感できない。尊敬も出来ない。単なる忌避の対象へと成り下がる。
大学を出ているくせに、そんなことも判らないんだろうか、こいつらは?
「湯島の野郎はホント目障りだよな。出る杭は打たれるって奴だ」
「ああ。その上、助教や助手の経歴もほとんどないのに、いきなり准教授に推薦されるなんて羨まし過ぎるんだよ。言語道断だろ」
うわ、恨み言が飛び交い始めたぞ。
そうか、やっぱりナミダ先生の出世を妨害したいんだな、こいつら。
ナミダ先生は大学講師で、所属する教授の下で研究助手も務めていたと聞いた。
年齢的に、博士号を取得したばかりで、講師職は一~二年だろう。その経歴で昇進するのは驚異だ。世の中には三一歳で教授に上り詰めた実例もあるというけど、かなり稀だ。
――でも、それが実力主義の世界だろう?
他人の功績を妬み、嫉み、あまつさえ邪魔しようとするなんて、心底みっともない。
こいつらは醜い。
反吐が出そうだ。
本当に吐いてやろうかな。猿ぐつわされているけど、嘔吐すれば外してくれるか?
「教授が来たぞ!」
暴漢どもが立ち上がり、二列に並んで黒幕を出迎えた。
あ、そこは統率が取れているんだ。
妙に体育会系だな。素人集団のくせに。
「みんな、ご苦労」
しわがれた声が廃屋に染み入る。
老獪そうな男性の声だ。
案の定、明かりに照らされたその顔は、しわの寄った初老で、毛髪もいぶし銀のロマンスグレーを放っている。
骨と皮だけの痩せ細った体格だけど、その割には足取りも強く、健康そうだ。
値の張るスーツなのか、埃っぽい廃墟を煙たがり、しきりにゴミを払い落としている。
(こいつが精神医学部の渦海教授って奴か……?)
ボクは床の上から、じろりと見上げた。
教授もボクを睥睨したものの、大して関心なさそうに目をそらしてしまった。
それもそうか……こいつはボクを、ナミダ先生との交渉の道具としか認識していない。
さらうのはボクじゃなくても良かっただろう。要はナミダ先生をおびき出して、脅迫できれば満足なんだ。
「本当にこんな小娘……娘か? ごときが人質として成立するのか?」
教授が手下に尋ねている。
小娘で悪かったな。
というか今「娘か?」って疑問符を差し挟んだだろ。悪かったな、男っぽくて。化粧っ気も洒落っ気も全然ないからね。スカートは穿いているけど。
「この女は、湯島が目をかけてる生徒ですよ。親しげに話してましたから!」
暴漢が取り繕っている。
ふぅん。他人の目には、ボクとナミダ先生はそう映るのか。
ボクたちは、いつの間にか関わりを持ち過ぎた。
心の傷を癒されたり、友達の悩みを聞いてもらったりするうちに――。
「それに湯島は、なぜか警察沙汰にしませんからね! いや、裏では警察の知り合いと連絡を取ってるっぽいですが、表に出すのを避けてます。おかげで、こっちも誘拐や闇討ちが出来るわけで――」
「ふん。まるで直接は争わず、遠回しに論文で中傷合戦を行なったフロイトとユングのようだな。ユングは『リビドーの変容と象徴』という論文でフロイトの思想とは異なる無意識の概念を発表し、それを受けてフロイトも『モーゼと一神教』で真っ向からユングを全否定してのけた……以後、この二人が会うことはなくなった」
教授はこれ見よがしに鼻を鳴らした。
有名なフロイトとユングの確執ってやつか。
「かつての盟友が道をたがえる……フロイトとユングは、さしずめ精神医学部と心理学部だな。そこに籍を置くワタシもまた、この対立から逃れられない。歴史は繰り返す……奇妙な偶然の一致ではないか。ユングは『精神病は診察だけでなく心の物語が重要だ』と悟って独自の分析心理を開眼したが、我々の因縁も病的な物語性を内包していると言える」
な、何か語り始めたぞ……そう言えば交換殺人のときも、精神医学部と心理学部は『フロイトとユングばりに袂を分かちました』って話していたっけ。
「個人としてもユングと同じ誕生日であり、ユングのように年の離れた妻と結婚し、放蕩もしたのだから筋金入りではないか。特別視してしまうのもさもありなん」
だから何だって言うんだよ。
あんまり夢見がちな面相で語らないで欲しいな、気持ち悪いから。
第一、それっぽっちの類似点でユングとカブってるとか、傲慢じゃないかな? 箇条書きのマジックと同じで、たまたま似通っている部分を書き連ねただけで全てが酷似しているような錯覚に囚われるんだよ。
仮に、ユングそっくりだとしても、犯罪をやらかして良い道理なんてない。
馬鹿馬鹿しい。
ボクは延々と考える。この教授がどれほどナミダ先生を嫌っているのかは不明だけど、こんな奴に先生が負けるとは思えないし、思いたくもない。
でも……勝つとしたら、どうやって?
ナミダ先生がボクを救出する見込みは、あるのかな?
この期に及んでも警察抜きで交渉するつもりだとしたら……?
(帰りが遅くなったら、ボクの親が通報しそうだなぁ)
娘の帰りが遅くなれば当然、両親は心配する。
どっちも共働きで帰りも遅いから、ボクの不在に気付くのは深夜を過ぎてからになるだろうけど――。
それまでにボクが解放されれば良いな……無理かな?
ああ、もう、どうしてこうなった。
ボクを巻き込んだ『教授』とやらが、本当に腹立つ。
「それで、湯島は?」
教授が問うと、暴漢の一人が声を荒げる。
「湯島には連絡しました! 人質を返して欲しければ、一人で旧校舎へ来いとね!」
「ふむ。そうか。さて、本当に単身で殴り込んで来るかどうか――」
「来ました!」
「――むっ?」
別の暴漢が遠くで叫んだ。
廃屋の入口に近い方角だ。見張りを立てていたようだ。
たちまち一派に緊張が走る。
教授も部屋の外へ踵を返して「早いな」なんてひとりごちている。
ナミダ先生、迅速だな……というか、来てくれたんだね。ボクなんかのために。
いや、出世の進退がかかっているから、そっちの交渉が主目的だろうけどさ……。
「寂れた廃墟だなぁ、あるある!」
建物に呼びかけるナミダ先生の大音声が、染み入るように反響した。
あの人、こんな声も出せるのか。
隅々までよく通る、明朗な声量だ。
「腐った連中には、腐った根城がお似合いだね! いい加減、僕も辟易したよ。無関係の未成年を誘拐するなんて、そこまで見境がないとは思わなかった」
「ふん。ぬかせ――」
「君たちの悪行はもう見飽きた。滅びた建物にふさわしく、悪もまた滅びるがいい。正義は必ず勝つものだからね……よくある台詞だろう? あるある」
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