1.ボクは他人の過去を掘り下げる


「ナミダ先生の義足って結構、年季が入っていますよね」
 ――夏服が当たり前になった梅雨明け、ボクは思い切って尋ねてみた。
 夕闇の校舎。そろそろ下校時刻が差し迫って、居残る生徒には先生方から帰宅を打診される頃だ。
 ボクもご多分に漏れず、カウンセラーの湯島涙(ゆしまナミダ)先生から下校を勧められたばかりだ。何しろ最近は、保健室で湯島兄妹と雑談するのが常態化していたからね。部活にも入らず保健室に入り浸るなんて、周囲からはぐーたら学生と思われているに違いない。
 今日もボクは制服のすそを翻し、保健室へ立ち寄ると――不在の場合は相談室にも顔を出す――、ナミダ先生と(ルイ)先生が仲睦まじく談笑していた。
 兄妹とはいえ、見せ付けてくれるなぁ……。
(しみる)ちゃん、僕の義足を頻繁に観察してるよね。気になるのかい?」
 ナミダ先生がボクの名を呼びながら、やんわりと口角を持ち上げた。
 え、そんなに観察しているかな? 全然自覚ないや。ボクは抗弁しようと思ったけど、ここでツンデレよろしく反駁したらそれこそナミダ先生の思うつぼだと考え直し、思いとどまった。
 ま、そんなボクの思考も彼は全てお見通しかも知れないけど。
「だってナミダ先生、すごく目立ちますもん。特にその義足! ステッキも常備していますし。決して障碍者差別ではなく、純粋な興味ですけど……気に障ったらすみません」
 ボクはぺこりと頭を下げた。
 制服のすそがひらりと舞う。
 純粋な興味――一応、それが建前だ。
 本当は、理由はもっとある。
 重治(しげはる)を叩きのめしたとき、ナミダ先生はステッキで杖術(じょうじゅつ)を使っていた。
 ステッキが単なる補助ではなく、武器に昇華されている。
 そんなの、気にならないわけがない。
 ――ちなみに、仮にもカウンセラーが暴力を振るったら学校問題にならないかハラハラしたけど、大丈夫だったようだ。重治はあれ以来、ボクとすれ違うことさえない。このまま二度と会わずに暮らしたいね。
 すると、泪先生が複雑そうにほっぺを膨らませた。
「私のお兄ちゃんを詮索するなんて、恐れ多すぎて不愉快なんだけど~」
 泪先生、子供みたいにへそを曲げている。
 えぇ……ここで嫉妬?
 泪先生、本当にナミダ先生のことが好きなんだなぁ……実の兄妹なのに。
 ナミダ先生は、泪先生の心を治そうとはしないんだろうか?
 それとも、すでに治そうとしたけど失敗したのか?
 あるいは……ナミダ先生も泪先生の偏愛を甘受しているとか……?
 きゃー、だとしたら少女漫画的な禁断の兄妹愛が展開してしまうっ。それはそれでオイシイのかも知れない……?
(って、そうじゃない。話がだいぶ横道にそれてしまった)
 ぶんぶんとかぶりを横に振って、ボクは考えを改めた。
 湯島兄妹は今、保健室内のデスクと、診察用の丸椅子に座っている。単に歓談しているだけのようだ。名目上は、養護教諭とカウンセラーが業務上の情報交換をしているんだろうけど。
 ボクもさっさと帰れば良いのに、すっかりナミダ先生に心を許したせいか、気になる点を質問したくてたまらない。
「僕の義足とステッキが気になるかい? 確かによく聞かれるよ」
 ナミダ先生は左足のズボンをめくり上げて、これ見よがしに義足をさらした。
 膝をゆすると、ガションガションと左足の装甲が伸縮する。衝撃を吸収するバネが仕込んであるようだ。かかとや爪先も、足の向きに応じて細かく可動するらしい。
 足首との接続部分も緩衝材で覆われており、それでいて肌色に近い彩色がされているため、機械仕掛けとはいえ遠目には義足だと気付きにくい。駆動音でようやく察しが付くほど、自然な『足』にしか見えない。
「パラリンピックを観れば判るけど、義足でも常人以上に運動できる選手は多い。むしろ技芸に磨きがかかることもあるからね。あるある」
 人は何らかのハンデがあっても、それを克服できるんだ。
 逆に健常なままだと、凡人で終わっていたかも知れない――。
「じゃあナミダ先生も、左足首を失ってから杖術に興味を持ったんですか?」
「そうだね。今はステッキなしでも歩けるけど、ステッキを手放すと手持ち無沙汰でさ。こいつを握ってないと落ち着かない……そんなレベルまで僕の生活に定着してるよ」
「お兄ちゃんの相棒みたいなものよね~。義足になってからの半生を、ずっとそばで見てた愛用のステッキだし」
 泪先生が割り込むように口を挟んだ。
 ボクに対する視線が冷たい。やっぱり女性(ボク)を敵視している? 怖い怖い。
「そこで~、持て余したステッキを補強して護身術に使えるようにしたのよね~」
 ね~、と兄の顔を上目遣いに覗き込んだ泪先生は、フフンとボクを一瞥した。
 な、なぜ勝ち誇るんです?
 ナミダ先生の来歴に詳しいことを自慢しているんですか?
 そんなことで張り合われてもなぁ……。
 泪先生、めちゃくちゃ嫉妬深い一面があるよね。
「沁ちゃんは、僕がルイを交通事故から助けようとした話は知ってるかい?」
 ナミダ先生が講釈を続ける。
「はい、泪先生から聞きました。そのとき左足首を失ったんですよね」
 確か兄妹が高校生のときだっけ?
「そう。歩けなくなった僕は内にこもり、今後の人生を葛藤した。苦悩し、煩悶し、妄執するうちに、人間とは何か、自己実現とは何か、精神とは何か、心とは何か……って、心理学に興味を持った」
「へぇ……それで心理学を」
「やがて大学の心理学部へ進もうと決意し、義足を履いてリハビリした。そこで人生の転機が訪れた。汐田(しおだ)教授と出会ったんだ」
 汐田教授。
 この間の交換殺人でも名前が上がった、ナミダ先生の恩師だ。
「心理学の大家・ユングの言葉を借りるなら『フロイトは私の出会った最初の真に重要な人物であった』だね、あるある。僕にとって汐田教授はフロイトにも等しい『真に重要な人物』だったよ。ご本人は放蕩三昧なユングを自称してるけど」
 フロイト級の衝撃かよ。
 それほどまでに運命的な師弟なのか。
 それでいて本人はユングを名乗っているのも滑稽だ。
「そんなに汐田教授ってユングの生き写しなんですか?」
「ところどころは、ね。汐田教授は七月二六日生まれで、ユングと同じ誕生日なんだ。妻が居るのに相談者と不倫してたのも、ユングと同じだよ。あるある」
 いや、あんまりないと思うし、そのせいで霜原(しもはら)の事件が起きたような……。
「フロイトとユングは一九歳差の師弟だったけど、僕と汐田教授もまた一九歳差なんだ。だから僕にとっては断然、教授がフロイトなんだよなぁ……」
 ユングだのフロイトだの、何とも贅沢な同一視だね。
 どちらも心理学の基礎を築いた偉大な人物だ。とはいえ、双方とも波乱万丈の生涯で、性格がまっとうだったとは言いにくいようだけど。
「大学の頃には~、左足もだいぶ歩けるようになったわよね」
 泪先生がまたしても間に入った。
 ナミダ先生を自分の方へ向き直らせてから「ね~」って同意を求めている。怖い。
「大学に入ってから、お兄ちゃんの社会復帰が始まったのよ~。(もっと)も、学内の対立抗争で事件に巻き込まれたり、因縁のある尖兵に襲われて護身術を覚えたりもしたけど~」
「せ、尖兵?」
 ボクは耳を疑ったよ。
 日常会話ではまず聞かない単語だ。
 え、何、この人たち、物騒な人生を送っているぞ……。
 だとしたら護身術を使えるのも、理解できなくはない……?
「えっと、先生」戸惑いを隠せないボク。「今も、その、尖兵っていうのは現れるんですか?」
「うん、出るよ」
 出るのかよ。
 じゃあ現在進行形で命を狙われ続けているってこと?
 この現代日本で?
 平和ボケした法治国家で?
「僕ら兄妹は警察に知り合いも居る。浜里警部のこと、覚えているだろう?」
 浜里警部……先月の相談室で起きた事件の際、所轄の警察署から来た強行犯係の捜査主任だ。
「なぜ彼らと知り合ったのかっていうと、それだけ怪事件に遭遇したり、命のやりとりに出くわしたりしたせいなんだよ。あるある」
 ないよ、普通ないよ。
 あまりに現実離れしていて、ボクはだんだん頭が痛くなって来た。
 この人たちの発言が、どこまで真実なのか読み取れない。
 全て本当だとしたら、ボクには付いて行けない世界だ。
 よもや虚言癖じゃあるまいな?
 それとも、ボクをからかっているんだろうか?
 頭がクラクラする。
 うーん、今日はもう退散するか……。
「じゃあボク、そろそろ帰ります」
 通学鞄を持ち直して、ボクは早々に下校することに決めた。
 続きはまた後日、気持ちの整理が付いてからにしよう。
「なら校門まで見送るよ」
「え」
 ナミダ先生も立ち上がった。
 ボクが目を丸くすると、泪先生まで血相を変える。
「え~っ? お兄ちゃん、私を差し置いてその子に付いてく気~?」
 怒る所、そこですか。
 泪先生ってば、息のかかる距離でナミダ先生に抗議するけど、当の先生はどこ吹く風と言った様相で、ぽんぽんと泪先生の頭を優しく叩いてなだめた。
「いつまでも雑談してられないからね。ルイもそろそろ帰る支度をした方がいい」
「む~。それはそうだけど~」
 再びむくれる泪先生が子供っぽくて可愛いなぁ……ときどきボクを恨みがましく睨んで来るけど、それはそれでご褒美です。
「じゃ、校門まで歩こうか」
 ナミダ先生はボクをエスコートするかのごとく、颯爽と杖を突いて歩き始めた。
 そつがないな、この人。
 上背がないため見栄えはしないけど、物腰や所作が紳士的で威風堂々としている。
 大人の余裕というか、洗練されているのが判る。
 なるほど、確かにこんな兄が居たら惚れるかも……と泪先生の心情を想像してみた。
「妹にはときどき手を焼いてるんだ」
 廊下を進みつつ、ぽつりとナミダ先生が吐露する。
「そうなんですか?」
 ボクはこれまた目を丸くしてしまったよ。
 妹の猛アタックを軽くいなしているように見えたけど。
「兄離れしてくれなくてね。もう結婚適齢期だから良い人を見付けて欲しいのに」
 それを言ったらナミダ先生だってそうじゃないの?
「でも、結婚だけが人生じゃないですよ」だから反論するボク。「独身でも人生を謳歌している人は大勢居ますし。ボクも多分、異性との結婚はしないだろうし――」
「ふぅん。そんなもんかな」
「それに、ナミダ先生のような兄が居たら、妹はそれが男性の基準になっちゃいます。足を欠損してまで妹を救った兄……かっこよすぎて一般男性なんか眼中に入りませんよ」
「それは僕を買いかぶり過ぎだよ」
 困ったように顔をしかめるナミダ先生が面白い。
 妹を心配しつつも手をこまねいている現状が、この上なく複雑だ。
 所詮ボクには他人事だから、話半分で聞いて居られるけど――。
 昇降口で靴を履き替え、中庭に出る。先生も職員用通用口から靴を持って来た。
 すっかり日は落ちて、辺りは一面の闇だった。街灯だけが唯一の採光だ。校門まで無言で歩いた所で、ボクはナミダ先生に体を向けた。制服のすそがふわりと膨らむ。
「じゃあ先生、今日はありがとうございました」
「ああ、気を付けて帰るんだ――……よ?」
 刹那、ナミダ先生が顔をそむけた。
 遠くから駆け足が迫って来たんだ。
 校門の外からだ。それも複数。夜闇に紛れて、黒いジャンパーやらジャージやらで身を包んだ、覆面をかぶった男たちがナミダ先生を取り囲んだ。
 わ、何だこれ。
 校門前には守衛が居ない。警備会社の監視カメラがあるだけだ。それに映らないよう立ち回る覆面連中に、ボクは恐怖を覚えた。
(尖兵……ってやつか?)
 ナミダ先生を待ち伏せしていたのか?
 たまたまボクの下校に同伴したから、ボクも巻き込まれたようだけど……。
「貴様、湯島涙だな?」
 覆面の一人が問いかける。
「だったら何だい?」
 澄まし顔で、ナミダ先生は答えた。
 どうしてそんなに落ち着いて居られるんだこの人は。暴漢どもに囲まれているのに。
 覆面の一人が再び告げる。
「こんな高校で悩み相談を請け負っていたとはな。雲隠れしたつもりか? そんなことをしても無駄だ。我々は必ず貴様の居場所を突き止め、追い詰める」
「やれやれ、こんな所でおっ始める気かい? なりふり構わない無鉄砲だね、あるある」
 大仰に肩をすくめるナミダ先生へ、覆面どもが包囲の輪をじりじりと縮めて行く。
 やばい。やばいってこれ。
「ナミダ先生、警察を呼んだ方が――」
「かかれっ!」
 ボクの提案は、覆面の号令に掻き消された。
 先生めがけて、幾多の毒牙が襲いかかる。

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