3.ボクは公衆電話を使わない
「行きずりの強盗事件に巻き込まれた、か……ありがちと言えばありがちだけど」
ナミダ先生が独り言を呟いている。
まぁ、よくある事件と言えばそうかも知れないけど、遭遇した本人たちにとってはたまったものじゃない。
「台所の包丁で、父は刺されていました……」肩を抱きすくめる水河ちゃん。「父は工場で夜勤が多いらしくて、昼間は家で寝てるそうです……きっと強盗は、空き巣狙いで侵入したものの、父が在宅中で鉢合わせ、咄嗟に台所の包丁を手に取ったんじゃないかって、警察が言ってました……」
あまつさえその日は、浅谷親子が訪問する予定もあったから、父は起きていたという不運も重なった。寝ていれば殺されずに済んだかも知れないのに。
「なるほど」ポンと膝を叩くナミダ先生。「あなた方は、養育費の悩みだけでなく『死体を目の当たりにしたトラウマ』も新たに植え付けられたんですね」
「ええ……元・夫の家から紛失した金品などからも、強盗と見て間違いなさそうだと警察に言われました」
母親がやる瀬なく唇を噛みしめた。
途方に暮れるのをこらえている挙動だ。ギリギリで自我を保っている。
本当は気が滅入って寝込みたいだろうに――。
「……死体発見後、すぐに一一〇番通報したんですけど、みんな携帯電話が圏外なので、やむを得ず家の電話を借りました」
「仕方ないですね。指紋が付いてしまいますが、警察もそこは了承してくれるでしょう」
「ええ……田舎なので駐在の警官が駆け付けるまで、結構な時間がかかりました。所轄の捜査一課が来るのも遅かったと記憶しています」
初動捜査の遅れか……のどかな田舎町だからこその落ち度だなぁ。
「通報は弁護士さんがしてくれました」胸をキュンキュンさせる水河ちゃん。「怯える私たちの代わりに、全て弁護士さんがやってくれました。頼りになる人です……素敵」
「じゃあ家の電話には弁護士さんの指紋が付いたんだね。普通のプッシュホンかい?」
「はい……どこにでもあるコードレスホンです」
水河ちゃんってば、血の気を引いたり恋する乙女の顔色になったりと、ころころ表情を様変わりさせている。感情豊かで忙しいなぁ。百面相かよ。
「その後も、警察の捜査に協力して……弁護士さんのおかげで、目撃証言とかもスムーズに済みました」
「電話は他になかったのかい?」
「父のケータイが、死体のそばに落ちてましたけど……さすがにそれを手に取って通報するのは、弁護士さんも避けてましたね……」
「そばに落ちてた、か。屋内でも常に持ち歩き、殺された拍子に転がり落ちたのかな」
ナミダ先生が物思いにふけった。ぼーっと天井を眺めている。
どうしたんだろう? 何か引っかかるのか?
「水河さんが無人駅で公衆電話を使ったとき、父親の自宅に電話したんだよね?」
ナミダ先生、やたら電話にこだわっているな。
「そうです……父の自宅にかけるよう、弁護士さんから頼まれてたんで……」
「ケータイを肌身離さず持ってる人なのに、自宅の電話へ?」
「そんなに不思議ですか……? 家に居るから家の電話にかける、普通のことだと思いますけど……」
水河ちゃんがにわかに警戒の色を濃くした。
あたかもナミダ先生に詮索されているようで、気分を害したのかも知れない。
悩み相談から一転して、殺人事件の聞き取りみたいになっているのも空気が悪い。
「現場検証もやりましたよ……警察と一緒に、公衆電話も確認しましたし……」
「異状はなかったのかい?」
「特には何も……ねぇ、ママ?」
「そうね……あ、でも」
母親がポンと手を叩き合わせたので、ナミダ先生が視線を細めた。そんな熱視線に母親はほだされたのか、ついペラペラと饒舌に語り出す。イケメンって便利だな。
「わたしの勘違いかも知れませんけど、公衆電話のプッシュボタンの並びが初見と違っていたような……上段が①②③、中段が④⑤⑥、下段が⑦⑧⑨でした」
「え? 逆じゃなかった?」
水河ちゃんが母親に反論した。
おいおい、記憶違いが生じているぞ。
「わたしの見間違いかしら。大して気にしなかったから、警察には言わなかったけど……気が動転して混乱しているだけかも知れないわね」
「そうですか。では、父親の死亡推定時刻は?」
「え……なんでそんなこと」
「電話したときは生きていらしたんですよね?」
「はい……無人駅に着いたのが午後〇時で、娘が公衆電話を使ったのも同時刻……そのとき元・夫と通話したので、彼が殺されたのはそれ以降ですね……弁護士との合流が一時過ぎ。昼食をとり、車で夫の家へ向かったのが二時半頃でしょうか……」
「つまり午後〇時~二時半の間。死斑が浮かぶ時間差も考えると二時前まで絞れるか」
またもや天井を見上げるナミダ先生は、心ここにあらずだった。
脳内でめまぐるしい思考が展開しているんだろうけど、ボクには理解が追い付かない。
「水河さんが公衆電話をかけたとき、弁護士は車で移動中だったんですよね?」
「はい……事務を終えて田舎へ向かう途中だったようです」
「証明できるものってありましたか?」
「あります!」挙手する水河ちゃん。「弁護士さんは〇時頃、田舎に向かう途中の国道沿いにあるコンビニで、飲み物を購入したそうです……レシートが警察に提出されました」
「別の場所に居て、田舎に行く最中だった、と。アリバイ成立か」
アリバイって、不在証明とかいう意味だっけ?
これまた物騒な単語が出て来たな。
事件と違う場所に居たので、犯行とは無関係だと立証できるわけだ。
「怪しいなぁ」
ところがナミダ先生は、丸っきり信じていなかった。
ボクも、水河ちゃんも、母親も、思いがけない発言に耳を疑ったよ。
「先生、私の弁護士さんを疑ってるんですか…………あっ」
RRRR。
そのとき、水河ちゃんのポケットからスマホが着信音を奏でた。
抗議を邪魔されて機嫌を損ねた彼女だったけど、面倒臭そうに通話へ応じる。
「もしもし……え、警察の方ですか? 強盗事件のことで質問? ……はい、私は公衆電話から父の自宅にかけましたが……は、違う? ケータイにかかってた、ですって?」
「え?」
母親が娘を二度見した。
水河ちゃんも混乱のあまり、目をぐるぐる回している。
「私は父の自宅にかけたつもりでした……え? 着信履歴ではケータイにつながってたんですか? じゃあ私、見間違えたのかも。父の自宅とケータイ番号、並べてメモしてたんで……どのみち父にはつながったので、気にしてませんでした……はい、失礼します」
通話を切った。
意外な情報が飛び込んで来た。
折しもこんなタイミングで、計られたように。
ナミダ先生が口角を持ち上げた。
「心理学において、人の記憶は全て『普遍的無意識』に貯蔵されると言われてる。その無意識に精神を接続すれば、そこに蓄積された記憶や情報が『共有』され、計ったようなタイミングで提供されるよう働きかけることも可能となる……」
「は? ナミダ先生、突然どうしたんですか?」
ボクは思わず突っ込んじゃったよ。
何言ってんだ、この人?
「その結果、こうして新情報がもたらされた。水河さんは電話をかけ間違えた、ということにされた。でも、果たしてそれは本当だろうか?」
「一体、何を疑っているんですかナミダ先生?」
ボクがしびれを切らして問う。
「電話に細工がされてたようだね。あるある――」
ところがナミダ先生は聞く耳すら持たず、相変わらずしれっとした面相で持論をのたまうんだ。
「――僕の仮説だけど、加害者は弁護士だと思うよ」
「はぁっ?」
室内の全員が、寝耳に水どころか濃硫酸でもぶちまけられたように飛び跳ねた。
弁護士が加害者って……犯人ってことだよね、それ?
「浅谷さん。あなた方は、父の死体発見によるショックで精神を痛めてます。ろくでもない男だったとはいえ、彼の養育費を当てにしてたのも事実ですからね。その心の傷を癒すためには、事件を解決する必要があります、あるある」
心を癒すために、事件の真相を暴く。
それが、ナミダ先生のカウンセリング方法。
心理的な見地から、物事を照らし出す客観視と洞察。
事件の『真相』とは、心の『深層』でもあるんだ。
(ボクのときも、このカウンセラーは事件を紐解いてくれた。心の在り方を、心理の道筋を示してくれたんだ)
「これは、ありがちなアリバイ・トリックです」
「アリバイ・トリック?」
「推理小説によくある趣向です、あるある。犯行をごまかすために、別の場所に居たという偽証を用意すれば、警察には疑われません。例えば、自分そっくりの肉親に協力してもらい、別の場所で目立った行動を残せば、犯行当時はそこに居たと主張できます。もしくは死体の発見を遅らせたり、化学薬品や冷凍保存で腐敗速度をごまかしたりして死亡推定時刻を狂わせることで、その時刻に他の場所でアクションすればアリバイを作れます」
「き、聞き捨てなりません……!」
水河ちゃんが立ち上がった。
激昂している。
大好きな弁護士を犯人呼ばわりされたから、本気で血相を変えている。般若の面みたいだ。そこまで惚れているのか。
まぁ母子家庭で辛い状況の中、親身に協力してくれる男手というのは魅力的に映るんだろうけど……。
「水河さん、座りなよ」
ナミダ先生が命令した。
でも、彼女は座らない。
水河ちゃん、完全に怒り心頭だよ。きちんと説明されるまでは収まりそうもない。
ナミダ先生はやれやれと溜息をついてから、諦めてそのまま話を続けた。水河ちゃんに見下されたまま。
「恐らく、弁護士は事務なんか立て込んでなかった。そう偽って、単独で父親宅に先行したんだと思う。ありがちありがち」
「先行……? なぜですか!」
「そりゃ父親を殺すためさ。死体に死斑が出始めるのは死後数十分からで、徐々に色濃くなって行く。個人差はあるけどね。午後〇時以降に殺されても余裕で発生するけど、少しさかのぼって午前十一時とかに殺されても、死斑の色合いは誤差の範囲だろう」
「そんな……だって私は、生きてる父と電話したんですよ?」
「それが弁護士のトリックなのさ。午前中に、弁護士は車で父親宅をこっそり訪ねた。そして父親を殺害し、強盗の仕業に見せかけるべく家を荒らし、金品を奪った。山中を探索すれば、捨てられた金品が発見されるんじゃないかな。うん、ありそうだ」
「ぜ、全然、私の解答になってませんよ! 弁護士さんはなぜ……」
「弁護士もまた、君にご執心だったんだ。弁護士も君を見捨てた父親が憎かったのさ。だから殺して、金品とケータイを持ち出した」
「ケータイ? 父のですか?」
「ケータイを奪った弁護士は至急、車で引き返し、午後〇時に国道沿いのコンビニへ駐車した。その時刻は、君たちが電車で無人駅に到着する時間でもあったね」
「弁護士さんは時間を見計らってたんですか……?」
「そうなるね。そして君たちのスマホが圏外で、公衆電話を使うと予測した。いや、そう仕向けたのかな? わざわざ電波の悪いキャリアに変更させたそうじゃないか」
キャリア変更……! それも仕組まれていたのか!
「そして君は案の定、公衆電話から父に電話した。しかしそれは、弁護士が持ち出した父のケータイにつながった」
「え、意味が判りません……」
「君は自宅に電話したつもりでも、実際はケータイにつながった。弁護士は父の振りをして怒鳴り散らし、すぐに電話を切った。長話したらバレる恐れがあるからね」
「えぇ……?」
「君は父親のD・Vに怯える被虐待症候群だったから、怒声を反射的に父親だと思い込んだ。おかげで父親は午後〇時までは生きてたことになり、弁護士のアリバイも成立する」
「私が電話をかけ間違えたのは、偶然ですよ……?」
「違うね。午前中に弁護士が田舎へ先回りして、公衆電話のボタンに細工したんだ」
「ボタンに細工を……?」
「君は、公衆電話のボタンがパソコンのテンキーと同じだと言った。テンキーは上段が⑦⑧⑨の並びだ……そんな馬鹿な! 公衆電話は家の電話と同じく上段が①②③だよ!」
「ええっ?」
「プッシュボタンの上に、薄いプラスチック製のボタンカバーを造ってかぶせれば、並びのあべこべな電話を偽装できる。君たちは公衆電話を使ったことがなかったから、ナンバーの並びが逆になってても不思議に思わなかったんだ」
「た、確かに……気付きませんでした」
水河ちゃんはおろか、母親までもが意気消沈している。
何しろ初めて使うんだから、公衆電話のボタン配置に疑問を抱く余地すらなかったに違いない。ボクも知らなかった……。
「電話のボタンを細工するのは、昔からよくあるトリックなんだよ、あるある」
「そうなんですか?」
「うん。電話機がまだ一般に浸透してなかった時代は、シールやカバーで数字を上から貼り替えてもバレなかったんだよ。プッシュホンが初登場したときも同様だ」
そうか。馴染みが薄いものは、疑いようがない。細工に気付かないんだ。
ちょうど今のボクたちみたいに……。
「当時の推理モノや二時間ドラマで、この手口を見た人も多いんじゃないかな? 模倣しやすいトリックだから、注意を呼びかける人も居たと思う」
「へぇ~……」
「無論、電話が広く認知されてからは一気に廃れたけどね。みんな番号の並びを知るようになれば、配置が違ったら一発でバレる」
「確かに……」
「でも現在、再びこの手のよくあるトリックが通用するようになった。今は携帯電話で事足りるから、公衆電話を知らない世代が増えたんだ。昔の電話機が珍しかった頃と同じ状態さ。時代は繰り返すね、あるある」
時代を超え、期せずして公衆電話に不慣れな人口が増え始めた。
つまり……ボタンの誤認トリックがまかり通ってしまう!
「このようにして、水河さんは上段の⑦⑧⑨をプッシュしたつもりでも、実際は①②③を押してたわけだ。同じように、下段の①②③を押したつもりが、実際は⑦⑧⑨を押してたんだ。偽装カバーのせいで、まんまと一杯食わされたんだよ。あるある」
「一体どこからそんなカバーを……」
「君の父が工場で造ってるのは、各種機械のボタンカバーだったよね?」
ああ!
「そこで密かに電話用のボタンもこしらえた。かぶせるサイズを調整して、こっそりと」
「父が……!」
「弁護士はずっと前から、君の父をそそのかしたんだろう――『あなたの妻と娘が養育費をせびりに来ますよ。でも俺に従えば、訪問されずに済みますよ』ってね。父は弁護士に言われるまま、職場でこっそりボタンカバーを製造した。製造機械の設定をちょっといじれば可能だし、CADオペで製図知識があれば、3Dプリンターでも簡単に造れる」
「父の自宅番号は030・72731・4989……でもボタンの上段と下段が逆さまだったから……」
「そう。君は自宅にかけたつもりでも、実際は①②③と⑦⑧⑨が反対に入力されてた。すなわち――」
030・72731・4989(自宅の番号)
↓ ↓↓↓↓↓ ↓↓↓
090・18197・4323(携帯電話の番号)
父親のケータイ番号じゃないか!
「だから私、自宅にかけたつもりが、父のケータイにつながったんですね……」
「弁護士は父の振りしてケータイに出て、無人駅に着いたあとは公衆電話のボタンカバーを回収し、喫茶店に入った。人の居ない田舎だから、公衆電話の細工なんて誰にも目撃されなかった」
「ううっ……」
「そして君たちと合流し、父親の家に向かった。そこで死体を発見し、混乱に乗じてこっそりケータイを死体のそばに返却した。もちろん指紋などは拭き取ったはずだ」
うん。つじつまは合う。
合ってしまう――。
「ですが……自宅とケータイの番号が、プッシュボタンを入れ替えたら一致するなんて偶然、あり得ますか……?」
「もちろん弁護士が父親をそそのかした際、番号を変えるよう打診したんだろう」
「弁護士さんが、そこまで私たちのために動いてくれるなんて……」
「きっと正義感あふれる人なんだろうね。あと、君が弁護士に入れ上げるのと同様、弁護士も若い女の子に慕われて悪い気はしないだろう。君たちを酷い目に遭わせた父親が憎くて、いっそ殺してしまおうと決意したのはあり得るよ、あるある」
「信じられません……! 本当にそれが真実なんですか?」
「真実は、人の心の数だけあるよ」胸に手を当てるナミダ先生。「心は全ての源だ。なぜなら、あらゆる物事は人の心が起こすものだからね。心理学で説明できないことはないのさ。うん、ないない」
「じゃあ……私はどうすれば」
「弁護士と話をしよう。彼から直接聞くのが一番じゃないかな? 君だって思い当たるフシがあるだろう――?」
*
4.ボクは板挟みの心を思い知る
「もしもし、溝渕弁護士事務所ですか? あ、溝渕さん……私です、浅谷水河です。はい……そっちは営業時間、終わりましたか? 私も今から下校する所なので、迎えに来ていただけませんか? お話したいことがあって……」
『ああ、もちろんさ! 君の頼みとあらばどこへでも!』
水河ちゃんが電話で呼び出した弁護士――溝渕というらしい――は、実に軽いフットワークだった。
まぁいくら高尚な弁護士といえども、平日は暇な事務所なんてザラにあるからね。日がな一日、相談の電話を待ちぼうけして終わるなんて普通らしいし。
その代わり、ひとたび顧客が来れば着手金やら成功報酬やらで大儲けだそうだけど。
それにしても、二つ返事で送迎に来るなんて、仲が良いにもほどがある。単なる仕事上のクライアントではなく、プライベートでも親密なのがありありと伝わる。
(水河ちゃんが弁護士に惚れているのと同じく、弁護士もまた彼女に惚れているのは間違いない)
なんてことを思いつつ、ボクは水河ちゃんとともに待ち呆けた。
場所は、校門前。
暮れなずむ夕焼けが目に毒だ。何もかも真っ赤で目が痛い。まるで血の色だよ。
そこは、他にも車を待つ生徒がちらほら見受けられた。親の車で習い事に出かけたり、恋人の車でデートに行ったり……なんて人も居る。
水河ちゃんの横には母親と、ナミダ先生も並んでいる。まるで獲物がかかるのを待ち伏せする狩人のように、虎視眈々と遠くを見据えていて少し怖い。
「やぁお待たせ! 少し遅れてしまったよ――」
果たして現れた弁護士は、黒塗りの高級外車に乗って来た。
左ハンドルだ。これ見たことあるぞ。あんまり車は詳しくないけど、ドイツだかどこかの超有名メーカーだ。
(見た感じ、まだ二〇代の男なのに……弁護士って儲かるんだなぁ)
スーツも仕立ての良いブランドものをまとっているし、アクセサリーやカフスボタン、タイピン、腕時計に至るまで、一個何十万円もするような値打ちものばかり身に着けている。
人当たりの良さそうな甘いマスクと上背が、いかにも女性受けしそうだ。そりゃモテるよなぁ。美男子、金持ち、若くて地位もある。完璧超人かよ。
こいつが浅谷親子にご執心なのは、半分くらい水河ちゃん目当てじゃないだろうか。幸薄くて可愛い女子高生なんて、いくらエリートでもそうそう手を出せないからね。
「おや? その人たちは誰だい?」
下車した弁護士は、ボクとナミダ先生をめざとく睨んで、水河ちゃんに向き直った。
ついでに母親にも気付いたようで、戸惑いながらも挨拶する。
「これはこれはお母様まで。俺はてっきり水河さん一人だとばかり……」
ふん。どうせ夕食にでも誘おうとしたんだろうけど、あいにくだったね。
ナミダ先生がステッキを打ち鳴らしながら、義足の音も軽やかに進み出た。
背の高い弁護士を見上げるように凝視すると、校門前から少し位置を外して、路上駐車の近くに陣取った。
「僕は本校のスクール・カウンセラーを勤める湯島涙と申します」
「はぁ」
「今日は、こちらの浅谷さん親子から相談されまして、先週起こった強盗事件の話を聞くことになったんです。よくある事件ですよね、あるある」
「何をおっしゃっているのやら……え、事件のことを他言したんですか?」
弁護士はますます狼狽して、水河ちゃんと母親に苦笑を浴びせた。
「溝渕さん、聞いて」
それでも水河ちゃんは、引くことなく訴えた。おどおどした物腰だけど、精一杯顔を上げて声を喉から絞り出す。
弁護士はそんな彼女をなだめにかかる。腰に手を回したり、肩を抱き寄せたり、頭を撫で回したり……馴れ馴れしいな、こいつ!
「ええと、さっぱり判りませんよ水河さん。どういうことになったんですか?」
「溝渕さんが、父をあやめたんですよね……?」
「なっ」
弁護士の奴、絶句しちゃったよ。
ビックリし過ぎてあごを外しそうになっている。せっかくの美貌が台なしだぞ。
「こ、ここでそれを言う気……あ、いや、どうしてそんな妄言を?」
弁護士がごにょごにょと言葉に詰まっている。
なぜ自分を追い詰めるのか見当も付かない、と言った風采だ。
怪しいな。やっぱりこいつが黒なのか?
「溝渕さんでしたっけ」
ナミダ先生が、横から声をかける。
母親も隣で見守っている。下手な言い逃れは出来ないぞ、弁護士。
「あなたは浅谷親子へ感情移入し、正義感に燃えました。きっと根は品行方正なエリート弁護士なんでしょう。その年齢で事務所を構えてるのは立派ですよ」
「それはどうも。で、どういう了見ですか? カウンセラーだか何だか知らないが、水河さんに変なことを吹き込んだんじゃないでしょうね?」
「人の心は千変万化します。ましてや『女心と秋の空』って言いますよね。あるある、昨日まで濃厚な愛を囁いても、次の日に別れ話を切り出せるのが女心です。よくある」
女心と秋の空……女性の気持ちはころころ変わって御しがたい、という格言だ。
「失礼だな君は! 大体、別れ話なんてそんな、俺は――」
「あなたは浅谷親子に情が移るあまり、水河さんへ懸想した。ずぼらな父親に立腹し、義憤はやがて殺意に変わった……ありそうありそう」
「俺が殺したとでも言うのか? なぁ水河さん、こいつを黙らせ――」
「溝渕さん……そういうことになったんです」
水河ちゃんはなおも断言する。
「!」
「お話、していただけませんか?」
「そんな……馬鹿なことが……」
弁護士がのけぞり、よろめいた。
自分の車に背をぶつけ、もたれかかって、あちこちに視線を泳がせている。
この人、なまじ成功者なだけに、逆境に立たされると打たれ弱いんだな。
ナミダ先生が間合いを詰める。ステッキの音と義足の駆動音が耳に馴染む。
「あなたは父親に養育費を請求しても応じてもらえず、手段を変えましたね? 一転して父親に取り入った振りをして、父親の信頼を勝ち取った」
「お、俺は……」
「父親をそそのかし、ケータイ番号を変更させましたね? また、彼の工場でボタンカバーをこっそり造らせ、公衆電話のプッシュボタンにかぶせる準備も整えたんですね」
「お、俺は、その――」
「溝渕さん……お願いです、認めて下さい」
水河ちゃんがじっと弁護士を見据える。
いつになく強い眼差しだな、水河ちゃん。
好きになった相手に――さっきまでぞっこんだったのに――こうも冷徹な態度を取れるなんて、やはり『女心は秋の空』なんだろうか?
相反する感情が混じり合い、水河ちゃんの心理を揺り動かしている。
「私はずっと待ってますから……諦めて、白状して下さい」
「くっ、判りました……俺が犯人だ」ナミダ先生に告げる弁護士。「あの父親は頭が弱くて、金策をいくつかアドバイスしたら簡単に俺を信じたよ。そのまま奴に取り入って、養育費の請求が来なくなる作戦だと嘘をつき、電話番号の変更とボタンカバーを用意させた……実は貴様を殺すためだとも知らずにね。つくづく馬鹿な父親だった」
「浅谷親子のキャリアを変更させたのも、あなたですね」
ナミダ先生が指摘する。
弁護士は言葉を詰まらせたけど、水河ちゃんに促されて、観念して一回頷いた。
「過疎地で圏外になるキャリアに変えて、公衆電話を使わざるを得ない状況にしたんだ」
予想通りだった。母親が頭を抱えている。
全幅の信頼を寄せていた弁護士が殺人を犯すなんて、絶望感が凄いだろうな。
「だ、だが、これは――」
「溝渕さん!」遮るように抱き着く水河ちゃん。「もう諦めて……全てあなたの独断でやったこと。私たちのためを想ってしてくれた正義感……なんですよね?」
「お、おう……」
「私はそんな溝渕さんが大好きです……どんな罪を犯そうとも……」
「水河さん……」
しばし懊悩していた弁護士だったけど、水河ちゃんが情熱的に密着したため、勢いに呑まれて認めてしまった。
「俺は自首します。すみませんでした」
「私はいつまでも、あなたの帰りを待ってますから……」
外車に寄りかかってうなだれる弁護士に、水河ちゃんがそっと唇を重ねた。
夕暮れの陽光が眩しくて、接吻の瞬間はよく見えなかった。
*
その後。
弁護士の証言通り、田舎町の山中にて、父親宅から奪われた財布や通帳、金目の物などが発見された。
強盗の仕業に見せかけただけなので、中身は一切手を付けられていなかった。
もともと弁護士は裕福だから、はした金なんて見向きもしないだろう。
「偽装したボタンカバーも、彼の家から見付かったそうですよ。もう確定ですね」
ボクは保健室に立ち寄って、水河ちゃんから聞きかじった後日談を、うるわしの泪先生に話したものさ。
いつも綺麗だなぁ。特に今日は一段と黒髪ストレートが輝いているよ。ただでさえ天使の泪先生が、蛍光灯を浴びて頭髪に天使の輪を描いている。
なのに――。
「あるある、実行犯には必ず物証が付きものだからね。絶対ある」
「その通りよね~お兄ちゃんっ」
――なのに、傍らにはナミダ先生が居座っていた。邪魔だ……。
放課後、カウンセラーと養護教諭が情報交換のために会談しているんだ。この二人は生徒のケアに近しい職業だから、互いの業務連絡が必須なんだよね。
くっ……ボクは泪先生と二人きりで過ごしたいのに!
「沁ちゃん、ちょうど良かった」
ナミダ先生が、そんなボクを手招きした。
いや、呼ばれても困るんですけど。ボクは泪先生へのほのかな憧憬を満たしたいだけであって、ナミダ先生は眼中にない――。
「君に話があるのさ、あるある」
「……何ですか?」
ボクは近付かずに立ち尽くして、話だけ伺うことにした。せめてもの抵抗だ……ってボクはツンデレかよ。我ながら子供っぽいな。
「君は気にならなかったかい? 弁護士が水河さんの言い付け通りに、まるで罪をかぶせられたかのごとく自首した件について」
「は? だってそれは、弁護士が実際にやったからでしょう? そして、互いに好き合っていた水河ちゃんに諭されて、改悛の念にかられた……」
違うのか?
ボクはてっきりそう思っていたけど。
そのとき、泪先生が薔薇のごとき紅い唇を開閉させた。
「あの子ね~、自首する弁護士の私財を寄付されて、学費を賄ってたわよ」
「へ?」
「弁護士に愛を誓うことで、お金を引き出したみたいね~」
「び、美談じゃないですか。恋人の出所を待つ彼女と、その彼女のために有り金をはたいた彼氏…………って、あ!」
背筋が凍った。
手玉に取られた。
今さらそのことに気付く。
弁護士も、ボクも、母親も、先生たちも。
水河ちゃんのてのひらに――!
「これは僕の仮説だけど」義足で床を踏み鳴らすナミダ先生。「真の黒幕は水河さんだ」
真の黒幕!
言ってしまった。
ナミダ先生が、看破してしまった。
「弁護士に自首を迫ったのも、愛をほのめかせて学費を立て替えさせたのも……そもそも弁護士と仲良くなったのも、水河さんの計算だった。よくある悪女だね」
「ちょっと待って下さい、ボクの理解が追い付きません」
「実行犯は弁護士だけど、立案者は水河さん。弁護士はうら若き恋人のために、全ての罪をかぶったんだよ」
「水河ちゃんが、そんなことを思い付くとは思えませんけど……」
「水河さんは父にネグレクトされ、早々に離婚したため、父性を知らずに育った。暴力を受けた女児は、男性不審や男性恐怖症になりやすいんだけど、彼女は違う症例を発症したのさ」
「違う症例?」
「ユディット・コンプレックスだよ」
先週の相談室で、ナミダ先生が御託を並べていた心理学用語だ。
あれも伏線だったのか……!
「ユディット・コンプレックスは男性へ強い愛情を抱く反面、その男性を破滅させたくもなる矛盾した心理だ。父性を知らない水河さんは、男性への好奇心が人一倍強かったものの、虐待されたトラウマも根強く残っており、男性への憎悪が潜在してた」
愛情と憎悪。
相反する感情が同居している。
――まさにユディット・コンプレックスじゃないか!
「男性にすがればすがるほど、彼女の中では憎しみも増す。せめぎ合う複合心理。愛する男性を忌避するという矛盾した心理。まさに水河さんだろう?」
そうだ。
水河ちゃんは弁護士に依存する反面、父殺しの罪をなすり付けて自首を勧め、輝かしい弁護士人生を破滅させた。
見事に符合するじゃないか!
「ちなみに~、ユディットは旧約聖書に登場する女傑の名前よ~」指を立てて補足する泪先生。「ユディットは故郷を捨てて敵将に取り入るんだけど~、結局はその敵将を愛しきれずに抹殺しちゃうの。好きだけど殺しちゃう、複雑な板ばさみの女心よね」
怖いなその人!
あいにく、男性的なボクには共感できない感情だよ……。
「弁護士に愛を囁きつつ、父殺しの汚名を着せて社会的に殺した。水河さんは現代のユディットだね…………そこに居るんだろう、水河さん?」
「!」
やにわ保健室の入口へ声をかけたナミダ先生が、双眸をすがめた。
声色も心なしか険しくなっている。
「ああ……バレてました?」
本当に居た。
戸を開けて入室したのは、紛うことなき浅谷水河その人だった。
「水河ちゃん、立ち聞きしていたの?」
ボクが制服のすそを翻して相対すると、水河ちゃんは肩をすくめてみせた。
「うん……尾行してたの。ごめんね」
「なんで」
「私も保健室の常連だから……」
なんて呟いた後、水河ちゃんはナミダ先生をじっと見つめた。
視線と視線がぶつかり、せめぎ合う。
横から泪先生がムッとした形相で割って入ったせいで、中断されたけど。
「は~いストップ。私のお兄ちゃんを気安く眺め回すんじゃないの!」
そこかよ。
突っ込む所、そこじゃないですよ泪先生……。
ナミダ先生はそんなボクたちを無視して、水河ちゃんにこう語る。
「ここに来たということは、認めるということかい?」
「そうですね……正直、感心しました」もじもじと体をくねらせる水河ちゃん。「父との面会を提案したのも私……溝渕さんにアリバイ・トリックを持ちかけたのも私……田舎の環境を逆手に取って、スマホの変更を発案したのも私です」
「目的を果たせて満足かい」
「はい……けれど、私がやったという証拠はありませんよね? 今のも、単なるおふざけの発言ですって言えば意味ないですし」
「うん。僕は君を裁けないし、弁護士は単独犯を主張し続けるだろう。ありがちだ」
「やっぱりカウンセラーさんって凄い……達観してて素敵です」
水河ちゃんは胸を弾ませて、黄色い声を上げた。
隣で泪先生がみるみる剣幕を彩っているんだけど、大丈夫か? これはボクの知っている泪先生じゃないぞ。
「私、溝渕さんなんか捨てて、カウンセラーさんのこと好きになっちゃいそう……ポッ」
ポッじゃないよ。
何だよこの尻軽女は。
まさに悪女そのものじゃないか……こんな水河ちゃんは見たくなかった。
「ははっ。簡単に男を鞍替えしたね。女心と秋の空とは、よく言ったものだよ」
「えー……私、本気ですよ?」
「遠慮しておくよ。僕の相手は、きっと誰にも務まらない。ましてや、移り気の激しい君ごときには、ね」
ナミダ先生は辛辣に吐き捨てて、憂鬱そうに椅子から立ち上がった。
義足を動かし、ステッキを振ってボクらを払いのける。
悠々と保健室の真ん中を突っ切って、廊下へ退室してしまった。
うわ、置き去りにされた格好だ。
ボク、水河ちゃん、泪先生という非常に気まずい組み合わせなんだけど……。
「浅谷水河さ~ん?」
泪先生が事務的な口調で語りかける。ただし顔が笑っていない。
ボクは泪先生のそんな形相、見たくなかったですってば……。
「はい、何でしょう……?」
「私のお兄ちゃんにツバ付けようとしたら、ただじゃおかないわよ」
私の、をやたら強い語気で主張する泪先生が、実に必死だ。
「はいはい……話が聞けて良かったです。では失礼します……沁ちゃんも、さようなら」
「えっ」
最後に水河ちゃんは、ボクにも会釈をした。
逃げるように彼女は退散してしまう。
お別れの言葉……?
そうか、こんな本性をさらしてしまったら、もうボクとはまともに会話も出来なくなるよね……。
(相反する女心。ころころ変わる女心。ボクたちもまた、変わらざるを得ないのか)
ボクは泪先生と二人きりになった。
でも、それは心に隙間風が沁み込んで、ちっとも楽しい空間ではなかった。
*
――第二幕・了
・使用したよくあるトリック/アリバイ崩し、公衆電話トリック
・心理学用語/被虐待症候群、適応機制、ユディット・コンプレックス、ネグレクト、青い鳥症候群
1.ボクはお仕事の軋轢を目撃する
ぶっす~~~~。
保健室に入ったら、湯島泪先生が悪魔のような面相で不貞腐れていた。
な……何だ?
いつにない悪態だったから、ボクは迂闊に近付くことも出来やしない。
――ボクは渋沢沁。
私立朔間学園高校の二年生。
放課後に保健室の泪先生と話すのが日課なんだけど、今日は雰囲気が違っていた。
(泪先生……ものすごいぶーたれているぞ)
ふくれっ面だ。
目も据わっている。
唇を尖らせ、不機嫌そうに頬杖を突き、指先は苛立たしげにコツコツと机を叩き、細長い美脚はしきりに床の上で貧乏ゆすりを繰り返す始末だ。
(でも、拗ねている仕草も可愛いなぁ)
泪先生は控えめに見ても美人だ。
おまけに童顔で華奢と来た。思わず抱きしめたくなる愛くるしさだから、ボクは過去に一度、泪先生へ愛の告白までしてしまった。速攻で断られたけど。
それでも保健室に通えるのは、泪先生が菩薩のごとき寛大な御心でボクを許容しているから……だったんだけど。
き、今日の泪先生には話しかけづらいなぁ……。
制服のすそを正したボクは、おっかなびっくり歩み寄った。
「あのう、何かあったんですか?」
「うっさい」
「ええー……」
「今イライラしてるから黙っててくんない?」
つっけんどんにもほどがある。
天使かつ女神かつ妖精である泪先生が、闇に堕ちてしまわれたとでも言うのか。
……いや、この人がここまで機嫌を損ねる理由なんて、一つしかない。
相談室で一風変わったスクール・カウンセラーをやっている彼女の兄・涙先生に関する案件だ。それしかない。
「もしかしてナミダ先生に何かあったんですか?」
「……ふぇえ」
いきなり泪先生が泣き出した。
ええー?
今そんなひどいこと言ったかな、ボク?
女泣かせなボクを尻目に、泪先生は目頭の雫を拭こうともせず机に突っ伏した。
「うっ、うっ、ぐすん……もうひどいのよ、お兄ちゃんってば」
愚痴り始めた。
やっぱり兄絡みか……。
この人は養護教諭としての評判は良いけど、重度のブラコンなのが玉に瑕だよなぁ。
「お兄ちゃん、今日出勤する予定だったのに、午前中は半休を取ってたの!」
「半休ですか」
そんなことかよ、と喉まで出かかった言葉をかろうじて呑み込む。
「せっかく一日中お兄ちゃんと学校に居られると思ったのに、半休ってひどくない? 休んだ分は明日も来るって弁解してたけど、私のガラスのハートはズタズタよ~!」
それ防弾用の強化ガラスですよね絶対。
と言おうと思ったけど、寸前で我慢した。よく耐えたぞボク。
「明日も来るなら良いじゃないですか」
「良くないよ~! 半休の理由が最悪なの! お兄ちゃんの本職である国立実ヶ丘大学で、ついに准教授に推薦されたんだって! カウンセラーの課外活動が評価されたの!」
「推薦?」
「ふぇ~ん……お兄ちゃんが出世しちゃう~」
なんで泣くんだよ。良いことじゃないですか。
ボクが言いあぐねていると、泪先生は壊れたスピーカーみたいに詳細を語り続けた。
「お兄ちゃんが准教授になったら、本業が忙しくてスクール・カウンセラーを辞めちゃうかも……!」
あ、そういうことか。
(確かナミダ先生は、准教授になるまでの副業として相談業務を引き受けたんだよなぁ)
要は実績作りなんだよね、あの人が高校に来たのって。
「でもナミダ先生って、午後から出勤しているんですよね? 話し合ったらどうです?」
「今は相談者が押しかけてるから無理~……」
ぐでーと机の上に伸びた泪先生は、起き上がる気力すらないようだ。
つややかな黒髪が机いっぱいに広がっている。
「相談者?」
「信じられる? お兄ちゃんったら、若い女と密室で二人きりなのよ!」
「二人きりってそんな、妖しい言い方しなくても」
「相談室にこもって出て来ないの! あの女教師、お兄ちゃんをたぶらかしたら○○してやる……!」
さり気なく物騒なこと口走らないで下さい。
って今、女教師って言ったか?
「教師が相談に来ているんですか?」
「そうよ~」机上で頭をゴロゴロ転がす泪先生。「スクール・カウンセラーの相談対象は三種類あるの。一つは生徒。二つ目は保護者。そして三つ目が教職員」
「教師の悩みも守備範囲なんですね」
「教員もストレスや闇を抱えてるからね~……生徒の進路問題に苦慮する先生や、PTAやモンスター・ペアレントに懊悩する先生、イジメや学級崩壊に困窮する先生……それを癒すのも、スクール・カウンセラーの業務なのよ」
知らなかった。
複雑化する教育現場において、教員の過労や心労による離職率が高まっているという話はよく聞くけど、まさかカウンセラーを設けるほど深刻だったとは……。
「どの先生が相談しているんですか?」
「君の担任よ~」
「え!」
担任。
ボクは容姿を思い浮かべた。
滝村涼美、二四歳。
去年だか一昨年だかに就任した新米教師だ。シュッとしたシャープな外見で、女性にしては背も高く、いつもピシッとスーツを着て、四角いフレームのとんがったメガネを煌めかせている。切れ長の鋭い視線が冷徹で、他人を寄せ付けない雰囲気だ。
そのイメージ通り、生徒には厳しい態度で接する。褒めることは少なく、欠点を指摘することが多い。
そういう教育方針は嫌われるんだよね。今は褒めて伸ばす時代だ。
うちのクラスでも人気がなくて、先生の言うことを聞かない奴も出始めている。そのつど滝村先生が口うるさく注意を飛ばし、言い合いになることも珍しくなかった。
だからか。滝村先生のストレスは溜まりまくっているに違いない。
「滝村先生って人に弱みを見せないタイプだけど、そんな人でも相談に行くんですね」
「気丈な人ほど、内面にはストレスを蓄積するものよ~。しかも若くて綺麗系だし。お兄ちゃんがいつ口説き落とされないか心配だわ!」
「どうして悩み相談から口説き落とす話になるんですか先生」
「知らないの? 心理学の権威ユングは、相談者の若い女と浮気しまくってたのよ~……胸襟を開いて相談するうち、異性はコロッと心を奪われちゃうのよ!」
「いや、それにしても気を揉み過ぎですよ」
「む~っ。これもスクール・カウンセラーの勤務時間が短いせいだわっ。もしくはもっと増員して、相談の回転率を上げるべき! 若い女の相談はお兄ちゃん以外に回すとか!」
上体を起こした泪先生は、自分勝手な力説に拳を握りしめた。
ああ、ここでもカウンセラーの問題点が蒸し返されたか。
増員か……確かにそれが一番無難だろうなぁ。
一人当たりの勤務時間を増やせないなら、数を雇うしかないだろうし。
「も~私、耐えらんないっ」
椅子を後ろへ蹴倒すように起立した泪先生は、保健室を放置して廊下に出奔した。
え、どこ行く気ですかっ。ボクも慌てて追いかける。
「どうしたんですか泪先生っ?」
「お兄ちゃんの所に行く!」
結局行くのかよっ。
さっきは及び腰だったのに……。
担任の滝村先生も居るんだよね。はてさて、今回はどんな騒動が起こるのやら……。
*
「いいんですか泪先生、保健室を空けっ放しにしてて」
「今日は君以外に来訪がなかったし、平気でしょ」
そんなんでいいのか……?
まぁ養護教諭が保健室に不在なことって案外多いけどさ。
ともあれ、ズンズンと廊下を踏み荒らす勢いで猛進した泪先生は、まっしぐらに相談室へ飛び込んだ。
面会中の立て札があったのに、お構いなしだよ……。
中では、応接テーブルを挟んでソファに腰を下ろしたナミダ先生と、相談者である滝村先生が向かい合っていた。
ナミダ先生は穏やかに笑っていたけど、乱入したボクと泪先生に顔を凍り付かせる。
あ、やっぱり邪魔ですよね。
滝村先生も頬を引きつらせ、ずり落ちたメガネをしきりに指で持ち上げて動揺を隠していた。もう片方の手には、常に小物入れを握りしめている。
派手な赤いスーツに身を包んだ妙齢の女教師は、泪先生とは正反対のとっつきにくい美人だ。ツンツンとした外見は人を寄せ付けないし、言動も辛辣……のはずだった。
「な、え、あ、渋沢さん?」
滝村先生、呂律が回っていない。
こんな担任教師のうろたえっぷり、初めて見たぞ。いつもは無表情のくせに、今だけぎくしゃくと頬骨が歪み、眉を吊り上げ、まぶたをぱちくりさせている。
どうやら相談中の姿を、他人に見られたくなかったようだ。
「やれやれ。立て札を無視して入室する人って、よくあるけども」
仏頂面をかたどるナミダ先生が恐ろしい。じっとりと睨まれて、ボクも泪先生も立ちすくんでしまった。
「あう~、ごめんなさい」目をそらす泪先生。「でも、私だってお兄ちゃんと話したい」
「ここは職場だぞ、ルイ」
「だって~」
「今は滝村先生の先約があるから……あれ? 滝村先生?」
ナミダ先生がふと気付く。
つられて見てみると、滝村先生はゆでだこよろしく顔を赤面させて、石化のごとく硬直していた。耳まで真っ赤だ。え、何この反応。
「わ、わたくしの、こんな醜態を見られてしまうなんて……イメージが崩れてしまうじゃありませんか……!」
……何やらブツブツほざいているぞ。
滝村先生の意外な一面だった。クールビューティで通った鉄面皮はどこへやら、相談室で弱みをさらした彼女は等身大の若輩らしい挙措だった。
「ルイ、早く出てって」ナミダ先生の苦言。「相談者のプライバシーを穢す行為は、メンタル・ヘルスにおいて最も忌むべき悪行だ。沁ちゃんもだよ」
叱られてしまった。
無理もないか。すごすごと踵を返す泪先生に続き、ボクも制服のすそを翻す――。
「待ちなさい、渋沢さん……」
――はずだったんだけど。
他でもない滝村先生から、名指しで呼び止められた。
これにはボクも足を止めてしまう。ナミダ先生も何事かと滝村先生を瞠目した。
唯一、泪先生だけが放心して「お兄ちゃんに叱られた……もう生きてけない……でも冷たくあしらわれるのもそれはそれで快感……」などと呟きながら退室して行く。
滝村先生が面映そうに、ソファから上目遣いでボクに告げた。
「あなたは、わたくしのクラスの教え子ですから……その、お話を聞いて下さらない?」
「え?」
「わたくしの悩みは、生徒たちとうまく接触できないことですの。評判悪いでしょう?」
「ええ、ツンツンしていますからね」
「ですから、生徒のあなたも交えて解決方法を模索したいのですわ」
とんでもない提案が持ちかけられた。
(というかこの人、評判が悪いこと気にしていたのか)
実際の生徒であるボクを加えることで、より具体的な欠点を洗い出せれば一石二鳥なのだろう。
「ナミダ先生、ボクも居て良いですか?」
「相談者じきじきの申し出だから、構わないよ」
ソファに体重を預けていたナミダ先生が、仕方なくボクをソファに手招きした。
泪先生を呼び戻さず、三人で対話を再開する。泪先生……きっと今頃はゾンビみたいに廊下を徘徊しているんだろうな。
「わたくしは生徒に舐められないよう、冷たく振る舞っていたのですが」メガネを押し上げる滝村先生。「それが逆に距離を置かれてしまい、コミュニケーションが取れなくなったのです……こんなはずじゃなかったのに。心身ともに疲れてしまって」
理想に燃え過ぎて、ことごとく空回りしてしまったんだな。
「あるある、気張り過ぎて的を外した挙句、当初の情熱が志半ばで燃え尽きてしまう……これはそのまま『燃え尽き症候群』という呼称で有名ですね」
「もえつき……?」
「理想に手が届かず、文字通り心が燃え尽きるんです。達成感も何もない、あるのは徒労感や無気力、ストレスによるヒステリー、精神疾患の諸症状ばかりです。あるある」
「もう、どうしたら良いのか……! 今さら改心して教え子に媚びを売っても『馴れ馴れしい』と後ろ指さされるのがオチですし――」
まぁそうなるよね。
突然イメチェンしても、逆に気味悪がられるのは当然の帰結だ。
「滝村先生はピシッとした身なりからも想像できる通り、とても人に厳しい性格ですね」
「あ、はい……」
「あえて気丈に、気高くあろうとする完璧主義者……だからこそ、ちょっとでも失敗すると挫折し、心に溜め込んで、僕を頼らざるを得なくなった。よくあることです」
「はい……お恥ずかしい限りです」
「恥じる必要はありませんよ。あなたは外面を気にし過ぎです。まずは徐々に衣服やお化粧をカジュアルで馴染みやすい格好にすれば、次第に空気も変わりますよ。人は見た目の雰囲気に左右される生き物でもありますからね、あるある」
「ですが、他に服の持ち合わせはありませんし、生徒たちに受け入れられるかどうか」
心配性だな、この人。
もう二度と失敗したくないらしい。慎重になり過ぎて、何も行動できないんだ。
これを治すのは手間がかかりそうだなぁ――。
「お困りのようですな!」
――その矢先だった。
誰の声だと思って辺りを見回せば、ガチャリと入口のドアが押し開かれ、見知らぬ顔が二つも入り込んで来た。
いずれも男性だ。ナミダ先生と同年代――むしろ年下かも――の若い青年ばかり。
中肉中背の短髪と、長身の長髪。
中背の方はお世辞にも美形とは言いがたいヒラメみたいな平面顔で、目をギョロギョロと動かしている。
長身の方はどこか間の抜けたノッポさんで、ボーッとボクらを見下ろす一方だ。
「今日は乱入が多いな」苛立たしげに立ち上がるナミダ先生。「どちら様ですか?」
「自分たちは本日付けで校長に雇われた、相談要員ですとも!」
中背のヒラメ顔が返答した。
おどけたような、ひょうきんな口調だ。さっきの一声も、この人が発したようだ。
……って、相談要員?
「学校にはスクール・カウンセラーの他にも、悩み相談を受け付ける職業があるのをご存じですかな? 人手不足を解消すべく、自分たち二名が追加採用されたんですよ!」
人手不足の解消だって?
さっき泪先生もぼやいていた件だ。まさか実現するなんて思わなかった。
「自分は清田浄志。湯島さんと同じ実ヶ丘大学の精神医学部から派遣されました! 心理学部とは犬猿の仲ですけどね。専門分野がかぶってて対立していますから!」
「!」
中肉のヒラメ顔がいけしゃあしゃあと名乗った。
ナミダ先生の顔が険しくなる。犬猿の仲という文言が、特にこめかみをうずかせた。
続いてノッポも、言葉を選んでいるのか途切れ途切れに唇を動かす。
「……霜原渉だ……普段は社会福祉士をやっている……当校へは、スクール・ソーシャルワーカーとしてやって来た……以後よろしく」
そーしゃるわーかー?
「自分はスクール・アドバイザーですね!」
あどばいざー?
「カウンセラーが心の悩みを引き受ける『個人対応』なのに対し、ソーシャルワーカーは社会的な環境、仕組みの改善と言った外的要因から悩みを取り除く相談業務ですね! 自分のアドバイザーは教員の相談・支援を専門とする職業ですぞ! そこの女性教師、あなたの悩みはカウンセラーよりも自分の方がうってつけですよ?」
「そ、そうなんですか?」
「……先日あったという母子家庭の学費滞納問題も……ソーシャルワーカーの方が社会的な支援を提示できたはずだ……」
浅谷家の学費問題を知っているのか。社会支援できれば、あの悲劇は回避できたと?
「というわけで、湯島さん!」握手を求めるヒラメ男。「もう、あなたに出番はありません。自分たちが得意分野に応じて相談者を振り分けますのでね! はっはっは!」
似たような職業、似たような相談業務員が一堂に会した格好だった。
(これって、商売敵みたいなウザさを感じる……)
人手不足の解消どころか、新たな茶々入れが増えただけなのは、ボクの錯覚かな……。
*
2.ボクは職業の競合に辟易する
スクール・アドバイザー。
スクール・ソーシャルワーカー。
ちんぷんかんぷんなボクを見た中肉中背のヒラメ顔――清田だったか――が、ふふんと見くびるような笑みを浮かべた。
うわ、こいつムカつく。
様子がおかしいんだよね、この人。
校長に雇われたらしいけど、どこか裏がある印象だ。今だって、明らかにボクたちを挑発したよね?
「自分はスクール・アドバイザーという肩書きでしてね。湯島さん、あなたは文科省が定めたスクール・カウンセラーですが、アドバイザーは地方自治体による人選なんですよ」
「存じてますよ」形だけ握手するナミダ先生。「とはいえ、アドバイザーは地方自治体ごとの設置ですから、全ての都道府県にあるとは限りませんし、予算も少ないのが玉に瑕ですね、あるある」
ナミダ先生、にこやかに皮肉を返してないか?
ヒラメ顔に真っ向から食い下がる格好だ。握手した手に力が入り過ぎている。
清田は薄ら笑いのまま軽く受け流した。
「まぁ母体の違いですからね! と言ってもこの職に就く資格条件は、スクール・カウンセラーと大差ありませんよ。臨床心理士、公認心理師、精神科医、大学教員など……自分はあなたと同じ国立実ヶ丘大学の精神医学部で助手を勤めています。お見知りおきを!」
「精神医学部……渦海教授の差し金ですか。あるある」
ナミダ先生は苦虫を噛み潰した。
うずみ?
知らない名前が登場したので、ボクはきょとんと呆けてしまう。
「得心が行きました。清田さんが僕に敵愾心を抱える理由」
「何をおっしゃるんですか湯島さん! 確かに自分の精神医学部と、あなたが所属する心理学部の汐田教授とは仲が悪い、犬猿と言われるほどにね。ですが、ここでは相談業務を分かち合う仕事仲間じゃないですか、あっはっは!」
乾いた笑いが虚しく響いた。うわべだけの友好であることがバレバレだ。
大学内部での対立、か……学部ごとや派閥ごとに競争があるとはよく聞くけど、ここまで露骨に押し出されるとは思わなかったよ。
ナミダ先生の在籍する心理学部で、彼が師事する汐田教授。
清田の在籍する精神医学部で、奴が師事する渦海教授。
――どう見ても、ナミダ先生にスパイを送り込んだ構図じゃないか!
ナミダ先生は露骨に面白くなさそうな態度で、握手をほどいた。
「うちの汐田教授と、あなたの渦海教授は相容れないことで有名です。心理学に関する意見の対立がしょっちゅうで、さながらフロイトとユングばりに袂を分かちましたから」
「それはまた大袈裟な例えですね!」
「大方、僕がカウンセラー業務をきっかけに『准教授』推薦をもらったことで、対立するあなた方が慌てて妨害工作に乗り出した……と言った所でしょう? うん、ありそうだ。ライバル学部の台頭を阻止するために刺客を派遣した、と」
「刺客だなんて人聞きの悪い! 湯島さんの精力的な課外活動が准教授推薦に繋がったので、精神医学部から自分が出向いて湯島さんに横槍――おっと口が滑った――協力したいなぁと思っただけです! あっはっは!」
今、横槍って言ったよね?
こいつの魂胆が丸見えなんだけど。
(ナミダ先生を邪魔して、准教授の推薦を白紙撤回させるつもりなのか!)
姑息な奴らだな。少なくともナミダ先生の活動を監視するつもりなのは確かだ。
ナミダ先生の面相がいよいよ険しくなる。大学のいざこざを外部にまで持ち出されて不機嫌なのと、何より滝村先生を放置してしまっているからだ。
本当は一刻も早く相談業務を再開したいだろうに……。
「さぁ湯島さん、そこの女性教師は自分が診ましょう。スクール・アドバイザーは教職員へのコンサルテーションに特化しています! カウンセラーはすっこんでて下さい!」
「なっ……」
大胆不敵な宣戦布告だった。手柄を横取りする気満々じゃないか。
「……もはや湯島氏はお呼びではない……」
うおっ、ノッポの霜原までナミダ先生に敵対する気か?
二人で共謀していそうだな。清田と同様、実は誰かの差し金なんだろうか?
ナミダ先生は仕方なく霜原に向き直る。
「あなたはスクール・ソーシャルワーカーでしたっけ?」
「……いかにも。ソーシャルワーカーは心理相談ではなく、社会福祉の立場から助言と援助を与える職……就労資格も社会福祉士や精神保健福祉士などが条件となる……」
「観点からして異なりますよね。心理学ではなく、福祉の立場から相談に乗るという」
「……児童相談所を始めとする行政機関との連携や……社会保障および生活保護を提供するなど、カウンセラーにはないパイプを持っている……先日あった学費滞納の件も、ソーシャルワーカーならば役所や行政に働きかけ、誰も傷付かずに解決できただろう……」
要はカウンセラーより優秀だって言いたいのか?
とんだ傲慢だな。ていうか喧嘩売っているだろ、こいつ。
「……それと……汐田教授とは血の繋がった親子でもある……」
「え!」
ナミダ先生がのけぞった。
体勢を崩しかけて、慌ててステッキで重心を支える。あのナミダ先生が意表を突かれるなんて、よっぽどのことだぞ。
「……霜原という苗字は母方の姓だ……汐田とは離婚している……汐田は教え子と浮気して、あっさり母子を捨てたのだ……だから決して汐田を許さない……奴の心理学部が栄えるのを許さない……」
「私怨を職場に持ち込むのって、迷惑ですよ。よくある話ですけど」
「……黙れ……汐田に捨てられ、母子家庭で育ったからこそ……社会保障の重要性を実感したし、先の浅谷親子にも同情できるのだ……」
この人が福祉に従事する理由は、それか。
副業でソーシャルワーカーに就いたのも、そこが原動力なんだな。
(期せずして、ナミダ先生の恩師に敵対する連中が参入して来た。こんな奴らが高校の相談員になるなんて……)
ボクは眩暈が止まらなかったね。
どう考えても足の引っ張り合いになりそうだよ。協力関係なんて嘘っぱちだよ。
「……心理学など下らない……ソーシャルワーカーならではの手法で、女性教師の悩みを解消してみせよう……支援できることがあれば、遠慮なく話していただきたい……」
「え、え? その、わたくしは――」
あちゃー。
滝村先生が困っているぞ。
そりゃそうか。唐突に新しい相談員が出現しても、簡単には信用できない。そのつど説明し直すのも手間がかかるし、悩みを蒸し返されるようで辛いだろう。
「――今日はお開きにしましょう」
ナミダ先生が手を叩いて、場を収めた。
こんなしっちゃかめっちゃかな状況では、相談なんて出来やしないからね。
「僕は明日も半日だけ出勤しますから、そのとき改めて相談に来て下さい」
「は、はい……失礼します」
滝村先生は逃げるようにソファから立つと、携帯していた小物入れをギュッと握りしめて退出した。
賢明だね。カウンセラー、アドバイザー、ソーシャルワーカーの三すくみ――いや、三つどもえかな――に囲まれたら、心が押し潰されそうだ。
それを一番おもんぱかれるのは、やっぱりナミダ先生なんだよなぁ……。
「ふふん。うまく相談者を逃がした格好ですな!」にやつく清田。「ですが自分たちも、今日は顔合わせに来ただけです。明日もお邪魔させていただきますよ?」
「本当に邪魔なので来ないで下さい。あるある、存在自体が害悪、よくある」
「またまたご冗談を」
「本気ですけど?」
「……湯島氏は明日、半日しか来ないのだろう……?」含みを持たせる霜原。「……ならば、不在の間に滝村先生の悩みを解決すれば……手柄を横取りできる……何より、困っている女性を救えるのだ……ふふふ……」
「は? 霜原さんまで何を言い出すんですか」
「……母子家庭で育ったから判るんだ……苦労する女性の姿は見て居られない……」
この人も相当ひねくれた育ち方をしたんだな。女性を優遇したい気持ちは判るけど。
「カメリア・コンプレックスですね、あるある」
ナミダ先生が霜原に告げた。
けど、あいにくノッポの霜原は心理学に明るくない。福祉が専門だからだ。コンプレックス名なんか知る由もない。ボクも初耳だった。
「……何だそれは」
「カメリア・コンプレックスは、困っている女性を見捨てられない男の性ですよ。例え見ず知らずの他人でも、女性と見れば世話を焼かずに居られない歪んだ親切心です」
「……だから何だ……社会福祉士として、社会的弱者である女性を放っておけないのは当然だろうが……! 不愉快だ、失礼する……!」
ノッポは踵を返して、捨て台詞とともに部屋を出て行く。
続いて清田も、大仰な溜息を吐いてからナミダ先生へ手を振った。
「じゃ、自分も今日は退散しますかね。明日からよろしくお願いしますよ?」
正直、二度と来るなってボクは思った。
きっとナミダ先生も同じことを考えたと確信している。
*
――翌日の午後は、あいにくの雨が降り出した。
とんでもない土砂降りだ。まるで、今日起こるであろう波乱を暗示するかのように。
(朝は雲一つなかったのになぁ……)
ボクは保健室に向かいがてら、廊下の外を眺めて肩を落とした。
今日、ナミダ先生は午後から出勤する予定になっている。彼の居ない午前中は穏やかな空だったのに、午後になった途端この豪雨だ。
(ボクは置き傘があるけど、それよりもバスや電車が遅れないか心配だよ)
なんてことを思いつつ、放課後の日課である泪先生との邂逅に胸を躍らせる。
制服のすそをはためかせて、軽やかに戸口を開けたんだ。
「泪先生、こんにち――」
「ええええ~~まだ大学に残ってるのぉ~?」
「――は?」
入室するや否や、泪先生が金切り声を上げていた。
椅子から立ち上がり、白衣をひらめかせてウロウロしている。
手にはスマホを持ち、誰かと通話しているようだ。
「もしもし、お兄ちゃ~ん? 雨のせいでバスも大幅に遅れてるっぽいけど~、いつまでも立ち往生してたら、今日は欠勤扱いにされちゃうよ~?」
立ち往生?
ナミダ先生、まだこっちに来ていないのか?
雨は意外な所で影響を与えているようだった。
「えっ? 昇進の話が立て込んでるの? バスが動かなくてちょうど良かった? ぶ~ぶ~。お兄ちゃんが来ないと私が寂し……じゃなかった、昨日の連中に出し抜かれちゃうよ~? 今も、お兄ちゃんが居ない隙にノッポが滝村先生の相談に乗ってるし~」
ノッポ……ソーシャルワーカーの霜原か。
抜け駆けしているんだな。女性を見ると助けずに居られない『カメリア・コンプレックス』だっけか?
「アドバイザーはまだ来てないよ~。居るのはノッポだけ。あのヒラメ顔もお兄ちゃんと同じ大学なのよね? 奴も雨で足止め喰らってるのね。ざまぁ~」
泪先生、ボクが後ろに居るのに、口汚い言葉を吐いておられる……。
あ、でも、ボクも一度でいいから泪先生に冷たく卑下されたい。
『さっき学内で顔を合わせたよ、あるある』
スマホの向こうから、ナミダ先生の声が漏れた。
どうやら本当に大学から電話しているようだ。
顔を合わせた、ってあのアドバイザーと? いくら同じ大学でも、違う学部ならめったにすれ違わないと思うけど。
『ご丁寧に、僕の居る汐田研究室まで挨拶に来たよ。どうやら偵察のようだ』
「うわ~、陰険」
『今も建物の角から、遠目にこっちを監視してる。あるある、本人は探偵気取りで隠れてるつもりでも、傍目にはバレバレってこと、よくある』
「気持ち悪っ。ストーカーじゃん! でもいいな~、私もお兄ちゃんを見張りたい!」
『ルイも落ち着け。ま、相手は敵対する渦海教授の手先だからね。しばらく泳がせておくさ…………あっ皆さん、お疲れ様です!』
不意に、ナミダ先生の口調が代わった。背景がガヤガヤと騒がしくなる。
知り合いが通りすがったのか?
『ルイ、待っててくれ。研究室の助手仲間が帰るらしいから、途中まで見送って来る』
「え~、私ってば放置プレイ?」
『いいから…………あっ、そうですね、雨が強くて視界が悪いですね、あるある』
泪先生のぼやきを無視して、ナミダ先生はポスドクとやらと会話を始めた。
スマホの通話はつながったままだから、内容も筒抜けだ。
『えっ、傘を持って来てないんですか? あるある、朝は晴れてたから油断して傘を忘れること、ありがちですよね。へぇ、汐田教授の傘を借りるんですか』
汐田教授の傘?
『教授から許可もらったんですか。でも、あの人の傘って派手ですよ? ほら、これ。ピンク色のストライプ……』
ピンク色の傘かよ。
確かに派手だなぁ。しかもストライプ。よほど慣れてないと相当きついと思う。
『色彩心理学的に、ピンクは恋愛や人間関係を円滑にする作用があります、あるある。心の調和を重んじる汐田教授らしいですが……うわ、本当に使うんですね』
何やら楽しそうなことになっているな。
この様子だと、ポスドクもきっと男性だろう。なかなか珍奇な絵面に違いない。
『ではお気を付けて…………ふぅ。じゃあルイ、ボクもそろそろ高校へ向かうよ』
「えっ、本当?」即座にスマホへ狂喜する泪先生。「お兄ちゃん急いでね!」
ナミダ先生も雨の中を突貫する決心が付いたようだ。
ようやく通話が終わった。泪先生は兄の到着を待ちきれずルンルンと小躍りしたが、くるりとターンを決めた所でボクと目が合い、ビクッとたじろぐ。
「ファッ!? 沁ちゃん、いつから居たの!」
「えっと、割と最初から」
「居るなら言ってよね~! もう、人の電話を立ち聞きするなんて悪趣味~!」
「すみませんでした。けど今の罵声、もっと浴びたいです、お願いします」
「あ~ん、お兄ちゃん早く来て~」無視されるボク。「早くしないとソーシャルワーカーが滝村先生の悩みを解決しちゃうよ~」
「そんなにピンチなんですか?」
「あいつはカメリア・コンプレックスだから、女性には優しいのよ~。さっき様子を見たら、すっかり打ち解けてたもん。このままじゃ滝村先生を救うのも時間の問題――」
「……うわああああああああ!」
「――よ?」
そこまで述べた瞬間だった。
廊下の彼方から、まさにソーシャルワーカーの叫び声が谺したんだ。
ボクは咄嗟に保健室を飛び出した。すると、職員室からも教師たちが顔を覗かせている最中だった。みんな、奥にある相談室を向いている。
相談室のドアから、腰を抜かした霜原が這う這うの体で退室した。巨躯に似合わない怯えようだ。彼の服装が、ところどころ赤い。
(何だあれ。血痕か?)
見れば、相談室の床からとめどなく流血があふれていた。誰の血液だ?
「……滝村先生が……死んでいる……!」
「ええっ?」
ボクも泪先生も、全速で廊下を走り抜けた。
校則違反でごめんなさい、なんて謝っている場合じゃない。
「うわ~。滝村先生ってば、首筋をカミソリで切断されたのね~」
泪先生が口許を手で覆い、見たままを語った。
そう――滝村先生は首の右にある頸動脈を携帯カミソリで切り裂かれ、絶命していた。
傍らには小物入れが封を開けた状態で捨て置かれ、化粧道具やコスメ用品などが露見していた。恐らくカミソリも、女性が顔のウブ毛を剃ったりするのに使うものだ。
室内一帯が血の海に染まっている。頸動脈の出血は派手だから、そこらじゅう血まみれになってもおかしくない。
「……ほんの少しトイレへ席を外した隙に……まさか自殺されるとは……!」
じ、自殺ぅ?
霜原が愕然と呟いた。女性を救えなくて、悔しそうな語り口だった。
*
3.ボクは二つの死体の狭間にさいなむ
「嘘でしょ? 滝村先生が自殺?」
ボクは即座に呑み込めなかったよ。
だって、担任教師が唐突に死んだと言われても、現実味がなさ過ぎる。
ボクが呆然と立ち尽くす間、隣の泪先生はやけに落ち着き払った様相で、じっと相談室内を見渡していた。
凄いな、泪先生。死体発見現場を物怖じせず観察できるなんて。
こんな血みどろの惨状を目の当たりにしたら、悲鳴の一つくらい上げそうなのに。もしくは青ざめて絶句するとか、膝が笑って動けなくなるとか。
「ふ~ん。戸締まりは万全ね」
なんてことを冷ややかにこぼしているんだ。
泪先生、場慣れしているなぁ。もしかして過去にも流血沙汰に遭遇したことがあるのかな? または、ナミダ先生の義足とかで血は見慣れているとか?
「今日は雨だから~、相談室の窓はぴっちり締め切ってるわね~。となると、出入口はドアしかないんだけど、う~ん。自殺かなぁ?」
「……何をブツブツほざいている……! 早く警察に通報を……!」
ノッポの霜原が、腰の抜けた体を引きずって、必死に訴えた。
血の臭いでむせ返る中、その声で我に返った他の教師陣が、おぼつかない挙動で一一〇番をかけに職員室へ引っ込む。
「滝村先生って常にポシェットを持ち歩いてたわよね~」
泪先生が気にせず呟く。
死体のそばに転がっている小物入れ。
そこから取り出されたとおぼしきカミソリ。
他は何の変哲もない化粧道具ばかりだ。携帯用カミソリだって特に異質ではない。さっきも言った通り、ムダ毛やウブ毛を剃るのに常用するからね。
しかし、そんなものを首筋にあてがって自殺するなんて、衝動的にもほどがある。
なぜこんな場所で、しかも霜原との相談中に命を絶ったのか、ボクの貧困な想像力では補え切れないよ。
「本当に自殺なのかな~?」
泪先生が繰り返し、霜原の長身を見上げた。
一五〇センチくらいしかない小柄な泪先生と、一九〇センチを超えているであろうノッポの霜原とは、実に頭二つ分ほども身長差がある。
やおら傾けられた嫌疑に、霜原はこめかみをピクリとうずかせた。
自身の証言にケチを付けられたと思ったんだろう。
「……自殺しか、あり得ない……誰も手を出せる状況では……なかった」
「ふ~ん?」
泪先生はジト目になって、試すような上目遣いで霜原を眺め続ける。
あ、いいな。その詮索するような視線。羨ましいぞ霜原。ボクも泪先生から一心不乱に見つめられたい。
「警察が来るまでに情報を整理しておきたいわね~」
なんて言い出したかと思うと、泪先生はつらつらと状況を再確認し始めた。
うろたえたのは霜原で、探偵じみたことをぬかす泪先生に腹が立ったようだ。拳を握りしめ、廊下の壁を支えに無理やり起き上がると、彼女の進路を遮った。
「……勝手に……室内へ入るんじゃない……現場が乱れる……」
「何よ~。見られたら困るものでもあるわけ?」
「……そうじゃない、単に現場保存のためだ……滝村先生は自殺で間違いない……なぜなら、相談中にかなり思い詰めていたからだ……」
「やけに断言するじゃない。根拠は?」
「……滝村先生は燃え尽き症候群だったそうだが……アドバイザーやソーシャルワーカーの手で状況を改善すれば、解決できる内容だ……それを知った彼女は少しだけ元気を取り戻したが……その反面、役に立たなかったスクール・カウンセラーに失望し、あんな奴に悩みを打ち明けてしまった自分を恥じた……」
「はぁ? お兄ちゃんのこと馬鹿にしてたわけ?」
泪先生が筆舌に尽くしがたい形相で霜原をねめつけた。
ソーシャルワーカーとカウンセラーのアプローチは根本的に異なる。どの手法が相談者に合うのかは人によるし、破天荒なナミダ先生が苦手な人も居るだろう。でも、だからって悪しざまに罵るような言動は、ボクも聞き捨てならないな。
「……本当のことだ……」にべもない霜原。「……滝村先生は今日、カウンセラーの言い付け通り化粧を変えて来たが、たった一日では効果も薄く、ますます鬱を強めていた……化粧道具をひけらかし、何が悪かったのか首をひねっていた……」
「そんなの言いがかりでしょ~。一朝一夕で解決するわけないのに、いきなり自殺なんて飛躍しすぎ!」
「……滝村先生は完璧主義者だ……きっちりと服を着こなし、化粧も決め、厳しい態度で教員を勤めていた……そんな毅然とした彼女が、恥を忍んで悩みを相談したのに、カウンセラーの助言は役に立たず、今日は出勤すらしない……失望するのは当然だろう」
「仕方ないでしょ、大雨でバスが遅れて――」
「……理由など関係ない……高校に奴が現れない、それが全てだ……教師の悩みを、汚点を、勇気を出して相談した結果がこの体たらく……自分の暗部をホイホイ話してしまった彼女は死ぬほど恥ずかしかったんだ……」
「ふざけんじゃないわよ、お兄ちゃんが無能だって言いたいわけ? あんたこそ横からしゃしゃり出て手柄を盗むなんて、みっともないと思わないの?」
「……論点をずらすな……完璧主義の滝村先生は、湯島涙に自分の悩みが知られてしまったことを嫌悪した……クールに教職をこなすイメージが崩れないかと危惧し、鬱をより一層強めたんだ……」
霜原は、滝村先生が死ぬ寸前まで相談に乗っていた相手だから、きっとそれは本当なのだろう。
滝村先生は自分の内面を他人に握られている状況を厭い、完璧な自分が壊れると感じ、耐えがたい苦痛を覚えた。
霜原はボーッとした間抜け面を、初めてニヤリと動かした。
「……このことが広まれば……湯島氏は失脚するだろうな……相談者を救うどころか自殺に追い込んだ……彼のカウンセリングは異端であると糾弾せざるを得ない……彼を准教授に推薦する話もなくなるだろうな……そして、彼が師事する汐田教授の名にも傷が付くだろう……ざまぁみろだ」
それが本音かよっ。
そうだった、こいつはナミダ先生の恩師である汐田教授を恨んでいる。自分を捨てた父親が許せないらしい。
泪先生が噛み付かんばかりの勢いで霜原に詰め寄った。
「あんたカメリア・コンプレックスじゃないの? 助けるはずの女教師が死んで悲しむどころか、お兄ちゃんへの風評被害を垂れ流すなんて、いい度胸じゃないのよ」
「……もちろん悲しいさ……だからこそ、元凶である湯島氏を憎まずには居られん……」
「何ですって~!」
「……全ての女性を救いたい気持ちは変わらない……滝村先生を救済したかった……だから誰よりも早く相談に乗りたかった……!」
無念そうに吐露する霜原は、嘘をついているようには見えなかった。
(霜原はカメリア・コンプレックスだから、滝村先生を殺す動機はない、か?)
ボクは思考を巡らせる。
仮に滝村先生が自殺ではなく、実は他殺だったとしたら――犯人はノッポの霜原しかあり得ない。
この人しか相談室に出入りしていなかったからだ。
仮に第三者が殺害するとしたら、霜原がトイレに行ったという隙を突いて何者かが入れ替わりに突入し、滝村先生のカミソリを奪って殺したことになる。
「特に怪しい者は見かけませんでしたよ」
廊下に詰めかけていた教師陣の中から、証言が飛び出した。
なぁ、と周囲に同意を求めると、先生たちは次々に頷く。
「確かに居なかった」
「職員室の窓から廊下を見通せるけど、不審者が通ったとは思わなかったなぁ」
「相談室へ向かう廊下は、トイレを行き来する霜原さんしか往来してなかったはず」
どうやら霜原しか目撃されていないらしい。
第三者の線は途絶えたか……。
霜原に滝村先生を殺す動機がない以上、やはり自殺なのか?
無論、これから来る警察がどう判断するかは不明だけど――。
「あれ? 何の騒ぎですか、これ?」
――ナミダ先生ご本人が出勤したのは、このときだった。
ナミダ先生! うっわ、何という間の悪さ。
職員用通用口で上履きに履き替え、雨に濡れた衣服をハンドタオルで拭きながら近付く姿は、霜原から全力で侮蔑された。
他の教師たちも、滝村先生の死因となった無能なカウンセラーというイメージを刷り込まれたせいで、どう挨拶すべきか戸惑っている。
いや、それだけじゃない。
ナミダ先生のさらに背後から、わずかに遅れて清田のヒラメ顔までもがひょっこり出現したじゃないか。
そうか、この二人って同じ大学に居たから、ここに来るのも重なってしまったんだ。清田がナミダ先生の尾行をしていたせいかも知れないけど。
「おんやぁ? どうにも騒がしいですねぇ!」
そらっとぼけた能天気な清田が、とても腹立たしい。
おどけた舌鋒は明らかに浮いていたし、一同の神経を逆撫でした。
ナミダ先生も、金魚の糞みたいに付いて来る清田が疎ましいようだ。横目で軽く一瞥したあと、ボクと泪先生のもとへ足早に歩み寄る。
「何かあったのかい?」
「あっ駄目ですナミダ先生、相談室は今――」
ボクが止める間もなかった。
ナミダ先生は眼前の惨状を一望してから、こわばった相貌で廊下に向き直った。視線を泳がせる。ボク、泪先生、教師陣、そして血まみれの霜原に目が移り――。
「君がやったのかい?」
「……とんでもない」
――一触即発の空気になった。
ナミダ先生もどちらかと言えば短身だから、ノッポを見上げる格好だ。
睨み合う両雄を引き剥がすようにして、泪先生が兄に抱き着いた。いいなぁ。
「お兄ちゃ~ん、私怖かったよぉ。しくしく」
わ、わざとらしい……。
さっきまで全然怖がっていなかったじゃないですか。冷静に室内を観察していたし。
でもナミダ先生は、そんな妹を抱き留めて、頭を撫でてやった。
「よく頑張ったねルイ。よくあるんだよなぁ、相談患者がある日突然命を絶つことって。悲しいけどあるある」
「……それは貴様らカウンセラーが不甲斐ないからだ」のうのうと述べる霜原。「……心理学など……実は全く科学的ではない……同じ言葉でも聞き手によって意味の取り方が変わるように……心は不確かで捉え所がないんだ……そんな世迷言で相談者をそそのかし、惑わせ、自殺に追い込んだ……湯島氏が滝村先生を殺したも同然だ……!」
「あっはっは!」
さらにヒラメ顔の清田まで入り込んで来た。
声こそ笑い飛ばしているけど、顔面はちっとも笑っていない。ヒラメ顔にしわを寄せて干物みたいになっている。
「んー、スクール・アドバイザーの自分から言わせてもらえば、その言い分には反発したくなるけどねぇ。自分も心理学・精神医学を修めているんでね、ええ」
「……余計な口を挟むな、アドバイザー……」
「まぁそうツンケンしなさんな」バンバンと背中を叩く清田。「で、あの女性教師、死んじゃったんですね、お可哀相に。ふー、合掌合掌っと。いやぁ残念だなぁ、教職員の相談はアドバイザーの専門だったのに。自分なら死なせることなく解決できたのに、一体誰が彼女を追い詰めたんですかねぇ?」
「……そこのカウンセラーなのは間違いない……」
霜原が改めて指差した。
おいおい、ナミダ先生ったら到着早々、周囲から非難されまくりじゃないか。
(まずいな。まだ断定されたわけでもないのに『ナミダ先生のせいで教師が自殺した』という風潮が形成されつつある)
まるで、場の空気が誘導されているかのようだ。
集団の『心理』を意図的に操られている。
場の環境作りをソーシャルワーカーが、心理誘導をアドバイザーがコントロールしているようにさえ思えた。ナミダ先生を陥れるために。
「ま、自分としては手間が省けちゃいましたけどね! いやぁ残念だ!」
ヒラメ顔の清田が、再び呵々大笑してみせた。
手間が省けた、だって?
さすがにボクも聞き捨てならなかった。
「何の手間が省けたんですか?」
「んー? いやぁ、ここだけの話、自分は女教師を癒す振りして挫折させ、湯島さんのせいにして失脚させたかったんですよ、これがまた」
「何ですって~!」
泪先生が真っ先に反応した。
ナミダ先生本人より早いぞ。どれだけお兄ちゃんラブなんだよ。
「お兄ちゃんを失脚させるってどういう了見よ!」
「ほら、自分って大学で湯島さんと対立する学部なんですよ。だもんで、そこの教授に命令されて、湯島さんの邪魔をして来いって頼まれましてね」
やっぱり刺客だったのか! 黒幕は渦海教授だっけ?
ナミダ先生の准教授推薦を阻止すべく、課外活動であるスクール・カウンセラーに茶々入れして、実績にケチを付けようとしたわけだ。
「だからアドバイザーの皮をかぶって、この学校に入り込んだんですよ。湯島さんの手腕に泥を塗れば、推薦も取り消されるでしょ?」
「下らない足の引っ張り合い、あるある」忌々しく頭を掻くナミダ先生。「だから大学でも僕を嗅ぎ回ってたんですね。尾行バレバレでしたよ」
「はっはっは、以後気を付けますとも」ちっとも悪びれないなこいつ。「でもね、くだんの女教師は自主的に亡くなってしまわれた! 自分が手を下す必要がなくなったんですよ。正直、ホッとしてます」
「ホッとしてる、だと?」
「だってそうでしょう? 恩師の渦海教授には逆らえない、かと言って女教師を陥れて湯島さんのせいにするのも気が引ける。良心の呵責にさいなまれていたんですよ! でも、もう自分は何もしなくていい! 勝手に目的が達成されたんですから!」
「なるほど、あなたはオレステス・コンプレックスですか。下らないけどありがちだ」
ナミダ先生がフン、と鼻を鳴らした。
オレステス?
「語源は、エゴと利害の狭間に悩むギリシャ神話の英雄さ」ボクに語るナミダ先生。「父親と母親が意見を対立させて揉めたとき、子供はどっちの味方をしても片方に遺恨が残る……そこから転じて、逆らえない目上の人物からの重圧と、それとは別の呵責に懊悩し、進退窮まった心理状況を指すようになった」
へぇ……この場合は、清田の恩師である渦海教授の命令と、滝村先生の救済が対立軸かな? 上司の命令には逆らえないけど、滝村先生を陥れるのも気が引けたんだね。
「そうそう! それですよ!」
清田がナミダ先生の手を握った。
あいにく即座に振りほどかれたけど。
「いやぁ、社会人はこうした去就に悩まされることが多くて困ります。自分は滝村さんに恨みがない、湯島さんにも恨みがない、心理学部の汐田教授にもない! なのに命令で動かざるを得なかったんですよ、ほんと参った参った」
「なるほど、全て上司の命令だったと認めるんですね、あるある」
ナミダ先生が心底幻滅した様子で、小さく息を吐いた。
そんなことのために業務を妨害しに来るなんて、本当に馬鹿馬鹿しいね。
清田も葛藤していたんだろうけどさ。
「三種の職業が入り乱れた弊害だね」ナミダ先生の私見。「学校の相談業務はただでさえ煩雑なのに、管轄の異なるアドバイザーやソーシャルワーカーが過当競争を引き起こしたせいで、さらに現場が混乱した……お役所仕事によくある失敗さ、あるある」
スクール・カウンセラーの新たな問題点。
これは実際の教育現場でも日々発生し、しばしば報告されているようだ。
各職の管理団体が足並みをそろえず、その場しのぎで導入した結果、本来なら互いを補完し合うはずの三職がぶつかり合い、能率を下げてしまった。
結局、教職員や生徒たちが割を食わされるんだ。
その縮図を今まさに体験して、ボクは頭痛に襲われたよ。
「……だから何だ……湯島氏が滝村先生を自殺に追い込んだのは疑いようがない……」
RRRR。
「あ、僕のスマホが鳴ってる。ちょっと黙っててもらえますか?」遮るようにスマホを取り出すナミダ先生。「何だ、大学からか」
うまい具合に霜原の口をつぐませた。
ナイスタイミングだなぁ、まさか狙ったわけではないだろうけど。
ナミダ先生は廊下の隅に移動しながら、一言二言、電話口に応答した。
すると――。
「ええっ! うちのポスドクが、大怪我を?」
何やらキナ臭い出来事が、向こうでも起こったらしい。
瞠目するボクたちを尻目に、ナミダ先生がスマホ画面に唾を飛ばす。
「あの、先に帰ったポスドクさんが、帰り道で倒れてた? どうして……え、ナイフですか、お腹を一突き? 大雨で視界が悪い中、人っ気のない暗がりで……通り魔事件でしょうか? あるある……」
人が刺された?
そう言えば、泪先生と電話してたとき、雨の中を帰宅するポスドクさんが居たっけ。その人が被害に遭ったのかな?
「どういうことなんだ」
ナミダ先生が珍しく思案に暮れている。他のみんなも、人の不幸に驚愕を隠せない。
大学の同僚が事件に巻き込まれたから当然だけど、こんなに狼狽するナミダ先生は初めて見たよ。
のっぴきならない彼の姿を、さも心地よさそうに見守る清田や霜原が、とてつもなく憎たらしかった。
*
4.ボクは点と点を線で結ぶ
やがて近所の交番から警官が訪れた。
室内を一望するや顔をしかめ、所轄の捜査一課に出動を要請する。
事件現場で生の警察を拝めるなんてめったにないから、ボクはおぞましさと同時に妙な感動も味わったよ。
へー、こうやって警察は動くんだなぁ。
こうして警察署から『強行犯係』――変死体や殺人事件などを扱う捜査班――が、ぞろぞろと訪問した。
校長を始めとする教職員らに会釈を交わした彼らは、相談室の前に立っていたナミダ先生にも挨拶を投げる。
「あっれぇ? 湯島さんじゃないですか!」
強行犯係を率いた中年の刑事が、親身な口ぶりで話しかけた。
何だろう、と思ったらナミダ先生も軽く手を振って応じる始末。
そう言えば以前、警察に知人が居るって豪語していたっけ、ナミダ先生。
「お久し振りです、浜里主任」
「最近全く連絡が取れなくて申し訳ない! 不肖、この浜里漁助、湯島さんの犯罪心理に関する講演会や相談で何度助けられたことか!」
なるほど、そういう経緯で懇意なのか。
警察が捜査協力や後学のために大学を見聞することは少なくないからね。
おどけた仕草で敬礼した主任は、儀礼的に警察手帳を提示した。
階級は警部。
主任と呼ばれていることから、どうやら捜査班のリーダーらしい。
この人もどちらかと言うと小兵で、屈強には見えないけど、場数を踏んだ『現場の叩き上げ』を忍ばせる風格が感じられた。足の動かし方や目線の移動が、一般人と明らかに違う。
「浜里主任、警部に昇格したんですね」
「そうなんですよ実は! さすがに主任として部下を引き連れる手前、いつまでも警部補のままじゃ格好が付かないってんで、必死に昇進試験を受けました! ノンキャリアだとこの辺りが出世の限界ですからね、何とか面目は保った形です!」
本当にナミダ先生と親しげだ。
そうじゃなきゃ事件現場でこんな雑談を交わすはずがない。
とはいえ、すぐに気を引き締め直して「さっそく捜査にかからなくては!」なんて部下に命令を下しているから、頭の切り替えは早いようだ。
強行犯係だけでなく、鑑識課の面々も大挙して雪崩れ込んで、まずは室内の洗い出しが始まった。特に死体の検分はとても手際が良い。
「首筋は、さすがに一発では頸動脈を切れなかったのか、ためらい傷らしき跡もありました。それでも、かなり思い切って切断していますね。普通、失意の自殺は手首を切ることが多いんですが、まるでホトケの死角から寝首を掻くような切り口です」
自殺っぽいけど、そうとも言い切れないのか? 刑事たちはそんな報告をしながら、死体発見者や目撃者、現場に居合わせたボクたちから聞き込みを行なう。
「……滝村先生は死ぬ直前まで、湯島氏への相談を後悔していた……言ってみれば彼の型破りなカウンセリングが、彼女を間接的に傷付け、殺したようなものだ……」
あっ、霜原の奴!
ナミダ先生をなじる発言ばかり繰り返している。刑事さんも一言一句聞き取っているじゃないか。あの野郎、ナミダ先生を何が何でも失脚させたいんだな。
「あのままじゃナミダ先生の責任にされちゃいますよ?」
ボクがナミダ先生に寄り添って耳打ちする。
しかし当人はわずかに眉根を寄せただけで、あまり焦っていない様子だった。
それよりもボクがナミダ先生に肉迫したことで、泪先生から嫉妬の殺意を感じてしまった。今はそれ所じゃないのにっ。
「あれが霜原さんなりの『真実』なんだろう。人の心の数だけ真実はあるからね。うん、あるある」
「そんな悠長なことを言っている場合ですかっ?」
「それよりも大学のポスドクが心配だよ。電話によれば一命を取り留め、病院で手術を受けているようだ。僕も病院へ行きたいけど、ここを離れるわけにもいかないし」
ナミダ先生は心ここにあらず、だった。
それもそうか、大学の同僚が傷害事件に遭ったんだ。不安に決まっている。
「ああそれ!」手を叩く浜里警部。「その傷害事件も、うちの別チームが調べに行ってますよ! ポスドクさんが他人から恨まれるような出来事って、ありましたかね?」
「僕の知る限り、心当たりはありません。研究室は和気藹々で、仕事も真面目でしたし、研究一筋でプライベートな衝突もなかったようです。従って、怨恨を持たれる可能性は到底考えられませ――――……ん……?」
ナミダ先生が、喋りながら徐々に表情をこわばらせた。
どうしたんだろう?
今の会話は、現場の相談室とは関係ない、ついでの話として浜里警部が振っただけだ。なのに先生はあたかも天啓でも授かったかのように、彼岸の事件について思索を巡らせたじゃないか。
天井を見上げて、何かを検証している。ボクも見上げたけど、天井には何もない。
ナミダ先生の長考が続く。そばにはヒラメ顔の清田も突っ立って「いきなりどうしたんですかぁ?」なんて尋ねるけど、ナミダ先生は一切いらえを寄越さない。
代わりに、それまで黙っていた泪先生が一喝した。
「あんた! お兄ちゃんの邪魔すんじゃないわよ。すり潰されたいの?」
低音の唸り声で威嚇する泪先生が新鮮だ。
怖いけど、ちょっと可愛い。
浜里警部が泪先生に「相変わらずお兄ちゃん子ですね!」なんて茶化しているけど、それは無視された。
泪先生のブラコンまで熟知している刑事……一体どんな関係なんだ、この人たち。
「――解明したよ。あるある」
天啓は下った。
結論が出たんだ。
「飽くまで僕の推論ですが」目線を元に戻すナミダ先生。「スクール・ソーシャルワーカーの霜原さんは、滝村先生を救いたかったんですよね?」
「……当たり前だろう……それがどうした……」
「カメリア・コンプレックスですもんね。女性と見れば放っておけない、歪んだフェミニストです。あなたには彼女を殺す動機がない。ゆえに、これは自殺だと判断せざるを得ない状況にあった。あるある」
「……何が言いたいんだ?」
「仮に自殺でない場合、犯人は霜原さんしかあり得ません。他に相談室を出入りした人物が皆無ですからね」
「……何だと貴様……!」
やにわ怒りの拳を振り上げた霜原だけど、素早く浜里警部が制止に入った。
ナミダ先生のご高説を最後まで拝聴する意向のようだ。プロの刑事までもが耳を澄ませるなんて、ナミダ先生って信用され過ぎ。
「となると、やはり霜原さんが怪しい。あなたの話だと、滝村先生は化粧道具をひけらかしてたそうですね。トイレから戻ったあなたは、化粧道具の中にあったカミソリを奪い、返り血を浴びるのも構わず彼女の頸動脈を掻き切った……部屋中が血みどろになる中、第一発見者を装って派手に驚き、血の海に転んで衣服を血で染めれば、返り血も目立たずに済みますよね?」
ああ、霜原はいくら第一発見者とはいえ、大袈裟に驚愕していたっけ。
相談室から這い出るように逃げ、駆け付けたボクたちに一一〇番通報を促したんだ。
今も、霜原の衣服には滝村先生の血がこびり付いている。殺害時の返り血をごまかすための演技だったのか。
「……滝村先生を殺す理由がない……」首を横に振る霜原。「……女性を救いたいと願う者が……女性の息の根を止めるわけがないだろう……」
「理由ならありますよ――ねぇ、清田さん?」
「んなっ?」
唐突に話を振られて、ヒラメ顔の清田はさらに顔面をぐにゃりとひん曲げた。
言っちゃ悪いけど、気持ち悪い人相だなぁ。いかにも悪役って感じだよ。
「なぜ自分が槍玉に上がるんですかねぇ? 自分は、この事件には関係ないですよ? 滝村先生が死んだ頃、湯島さんと同じ大学に居たじゃないですか!」
「あなたには滝村先生を殺す動機があります。あるある」
「はへ?」
「あなたはオレステス・コンプレックスです。渦海教授の命令で滝村先生を始末し、僕のせいにしようとした……さっき話してましたよね。それが期せずして叶ったと」
「ま、まぁそうだけども、自分に殺人は無理ですよ。だって滝村先生の死亡時刻には、ここに居なかったんですから――」
「だから清田さんは、代わりにポスドクを襲撃したんですね」
…………。
…………。
え?
「はぁ?」
話が飛びまくっているぞ、ナミダ先生。
ポスドクと滝村先生に、どんな関連があるんだ?
あちこち跳弾する講釈に、ボクたちは頭の回転が追い付かないよ。
何が言いたいんだ、このカウンセラーは。
「清田さんは大学から高校へ移動する際、帰宅中のポスドクを闇討ちしたんです。恨みなんてありません。ただ、そう頼まれて代行した。そうですよね?」
「代行って?」
浜里警部が我慢できずに問い詰めた。
別の場所で発生した二つの事件が、一つの線で結ばれようとしている。
「――これは、交換殺人ですよ」
「なっ……」
誰もがまぶたをしばたたかせた。
交換殺人?
ボクだけが言葉の意味を知らず、ほけらっと口を開けたまま途方に暮れてしまう。
泪先生がボクの後ろに立って、そっと耳元で説明してくれる。あ、吐息が耳にかかってくすぐったいっ。気持ちいいっ。
「交換殺人っていうのは~、殺意を持つ二人の加害者が、互いの標的を交換して犯行に及ぶことよ。推理小説とかによくあるトリックよね」
「標的を、交換?」
ボクはゾッとした。
そうか、そんなことをしたら――。
ナミダ先生が沈着に言い放つ。
「標的を入れ替えれば、動機がないので疑われません。また、本来の標的から遠く離れた場所に居られるので、アリバイも成立するメリットがあるんです、あるある」
そうか! どうせ人を殺すなら、足が付かないよう赤の他人を殺した方が良い。
代わりに別の人が、本来の標的を殺してくれるから、目的も達成できる。
「滝村先生を亡き者にして、僕のせいにしようとしたんですよね、清田さん? しかしあなたはオレステス・コンプレックスで良心の呵責にさいなまれてました。渦海教授に従わなければならないが、滝村先生を殺すのも気が引ける……そこで、霜原さんに代行してもらったんです。よくある、よくある」
「じ、冗談じゃないですよ!」
猛然と突っかかる清田だったけど、浜里警部に手で遮られた。
この刑事さん、完全にナミダ先生のボディガードみたいな振る舞いだな。
ノッポの霜原も渋面をかたどった。
「……滝村先生を殺して何の得があるというんだ……?」
「霜原さんには『滝村先生を殺す動機がない』ので疑われずに済みます。事実、あなたは滝村先生を自殺の線で結論付けようとしましたよね?」
「……それはたまたま……」
「いいえ、霜原さん。あなたはそれを実行する対価として、清田さんへ条件を出したんでしょう――『汐田教授を殺して欲しい』と」
汐田教授をっ?
一同が生唾を飲み込む中、ナミダ先生は切々と語る。
「霜原さんは、父親である汐田教授を恨んでました。交換条件として、父殺しを清田さんに依頼したんです。だから清田さんは、僕の学部まで偵察に来たんです」
「待ちたまえよ、刺されたのはポスドクだ。汐田教授じゃないぞ!」
当の清田が指摘した。
自らの潔白を示そうと必死なことだ。確かに、被害に遭ったのは心理学部のポスドクであって、汐田教授本人ではなかった。
「あなたは間違えたんですよ」指差すナミダ先生。「汐田教授はピンク色の目立つ傘をさしますが、今日は突然の豪雨で、ポスドクが教授の傘を借りたんです」
そうか!
あのときナミダ先生が電話で話していたのを、ボクも傍受したから判る。
「ピンク色の派手な傘=汐田教授……そう早合点した清田さんは、人相もろくに確認せずポスドクを襲ったんです。土砂降りで視界が悪く、人物の見分けも付きませんしね。現場から早く立ち去りたいという犯罪心理もあいまって、標的の正誤など確認せず凶行に及んだんでしょう?」
そうだったのか……。
じゃあ「ポスドクが刺された」とナミダ先生が報告したとき、清田もたまげていた理由は「教授を刺したはずなのに人違いだった」と気付いたからだったのか。
(誤認で大怪我したポスドクさんが可哀相だな……)
ボクは奇妙な同情を覚えてしまった。
「馬鹿も休み休み言いたまえよ!」
清田がヒラメ顔を最大限に醜くひしゃげさせた。
醜悪な強面だ。化けの皮が剥がれたとはこのことを言うんだろうね。その態度が、図星を指されて慌てているようにしか映らない。
「えー、話をまとめると」頭を掻く浜里警部。「そこの清田さん……でしたっけ? あなたは大学教授の命令で、滝村さんを自殺に偽装して湯島さんを失脚させようとしたが、大雨のせいで大学に居た。一方、霜原さんは湯島さんの恩師を恨んでいたが、高校に居た。――ならば、互いの標的を交換すれば、疑われずに目的を果たせると踏んだ!」
しかし誤算だったのは、傘だった。
清田はピンク色の傘が汐田教授だと聞きかじり、それを頼りに襲撃したつもりが、実は傘を借りただけのポスドクだったわけだ。
おまけに致命傷には至っておらず、ポスドクは病院で治療を受けている。
「急ごしらえの交換殺人ですから、うまく行くはずがないんですよ、ないない」
憐れむようにナミダ先生がのたまった。
押し黙る霜原とは裏腹に、清田がさらに口角泡飛ばす。
「ふざけないでもらいたいね! 証拠がないじゃないか!」
「傘を借りたポスドクを狙ったことが、何よりの状況証拠にはなりませんか?」
「なってたまるか! あんなの単なる通り魔事件だろう! 自分には関係ないぞ――」
「……黙れ間抜け……」
ノッポの霜原が愚痴をこぼした。
長身を活かして清田を見下ろしている。何だ、仲間割れか?
「……貴様……汐田と間違えて赤の他人を刺した挙句、その人は一命を取り留めたそうじゃないか……どのみち汐田を刺しても殺しきれなかったということだ……!」
「おい霜原、何を喋っているんだ、静かにしろ――」
「……こっちは貴様に頼まれた通り、滝村先生を自殺に偽装したんだぞ……! なのに貴様はしくじった……! これでは交換条件が成り立たないだろうが……!」
「馬鹿野郎! ここで喋るな――」
「今の話、署で聞かせてもらえますかね?」
浜里警部が、清田と霜原の背中を後押しした。
身から出た錆だね。証拠は出来た。
霜原からの自供だ。
その後、ポスドクを刺した凶器の出どころを辿って、清田の犯行だと再証明された。
*
「ようこそ刑事さん。ワタシが精神医学部の渦海です。はい、どうやらワタシの助手である清田が、犯罪をしでかしたそうですね。しかもワタシの命令でやったとか世迷言をぬかしているとのこと。大いなる誤解ですよ。ワタシは単に、うちの研究室からスクール・アドバイザーを派遣しただけです。殺人なんて命令するわけないでしょう? 全て清田の勝手な独断ですよ。清田は懲戒処分にしますので、煮るなり焼くなりお好きな罰を与えて下さい。はい、ではそういうことで。ご機嫌よう……ふう、やれやれ……」
*
――第四幕へ続く
・使用したよくあるトリック/交換殺人
・心理学用語/燃え尽き症候群、カメリア・コンプレックス、オレステス・コンプレックス
1.ボクは他人の過去を掘り下げる
「ナミダ先生の義足って結構、年季が入っていますよね」
――夏服が当たり前になった梅雨明け、ボクは思い切って尋ねてみた。
夕闇の校舎。そろそろ下校時刻が差し迫って、居残る生徒には先生方から帰宅を打診される頃だ。
ボクもご多分に漏れず、カウンセラーの湯島涙先生から下校を勧められたばかりだ。何しろ最近は、保健室で湯島兄妹と雑談するのが常態化していたからね。部活にも入らず保健室に入り浸るなんて、周囲からはぐーたら学生と思われているに違いない。
今日もボクは制服のすそを翻し、保健室へ立ち寄ると――不在の場合は相談室にも顔を出す――、ナミダ先生と泪先生が仲睦まじく談笑していた。
兄妹とはいえ、見せ付けてくれるなぁ……。
「沁ちゃん、僕の義足を頻繁に観察してるよね。気になるのかい?」
ナミダ先生がボクの名を呼びながら、やんわりと口角を持ち上げた。
え、そんなに観察しているかな? 全然自覚ないや。ボクは抗弁しようと思ったけど、ここでツンデレよろしく反駁したらそれこそナミダ先生の思うつぼだと考え直し、思いとどまった。
ま、そんなボクの思考も彼は全てお見通しかも知れないけど。
「だってナミダ先生、すごく目立ちますもん。特にその義足! ステッキも常備していますし。決して障碍者差別ではなく、純粋な興味ですけど……気に障ったらすみません」
ボクはぺこりと頭を下げた。
制服のすそがひらりと舞う。
純粋な興味――一応、それが建前だ。
本当は、理由はもっとある。
重治を叩きのめしたとき、ナミダ先生はステッキで杖術を使っていた。
ステッキが単なる補助ではなく、武器に昇華されている。
そんなの、気にならないわけがない。
――ちなみに、仮にもカウンセラーが暴力を振るったら学校問題にならないかハラハラしたけど、大丈夫だったようだ。重治はあれ以来、ボクとすれ違うことさえない。このまま二度と会わずに暮らしたいね。
すると、泪先生が複雑そうにほっぺを膨らませた。
「私のお兄ちゃんを詮索するなんて、恐れ多すぎて不愉快なんだけど~」
泪先生、子供みたいにへそを曲げている。
えぇ……ここで嫉妬?
泪先生、本当にナミダ先生のことが好きなんだなぁ……実の兄妹なのに。
ナミダ先生は、泪先生の心を治そうとはしないんだろうか?
それとも、すでに治そうとしたけど失敗したのか?
あるいは……ナミダ先生も泪先生の偏愛を甘受しているとか……?
きゃー、だとしたら少女漫画的な禁断の兄妹愛が展開してしまうっ。それはそれでオイシイのかも知れない……?
(って、そうじゃない。話がだいぶ横道にそれてしまった)
ぶんぶんとかぶりを横に振って、ボクは考えを改めた。
湯島兄妹は今、保健室内のデスクと、診察用の丸椅子に座っている。単に歓談しているだけのようだ。名目上は、養護教諭とカウンセラーが業務上の情報交換をしているんだろうけど。
ボクもさっさと帰れば良いのに、すっかりナミダ先生に心を許したせいか、気になる点を質問したくてたまらない。
「僕の義足とステッキが気になるかい? 確かによく聞かれるよ」
ナミダ先生は左足のズボンをめくり上げて、これ見よがしに義足をさらした。
膝をゆすると、ガションガションと左足の装甲が伸縮する。衝撃を吸収するバネが仕込んであるようだ。かかとや爪先も、足の向きに応じて細かく可動するらしい。
足首との接続部分も緩衝材で覆われており、それでいて肌色に近い彩色がされているため、機械仕掛けとはいえ遠目には義足だと気付きにくい。駆動音でようやく察しが付くほど、自然な『足』にしか見えない。
「パラリンピックを観れば判るけど、義足でも常人以上に運動できる選手は多い。むしろ技芸に磨きがかかることもあるからね。あるある」
人は何らかのハンデがあっても、それを克服できるんだ。
逆に健常なままだと、凡人で終わっていたかも知れない――。
「じゃあナミダ先生も、左足首を失ってから杖術に興味を持ったんですか?」
「そうだね。今はステッキなしでも歩けるけど、ステッキを手放すと手持ち無沙汰でさ。こいつを握ってないと落ち着かない……そんなレベルまで僕の生活に定着してるよ」
「お兄ちゃんの相棒みたいなものよね~。義足になってからの半生を、ずっとそばで見てた愛用のステッキだし」
泪先生が割り込むように口を挟んだ。
ボクに対する視線が冷たい。やっぱり女性を敵視している? 怖い怖い。
「そこで~、持て余したステッキを補強して護身術に使えるようにしたのよね~」
ね~、と兄の顔を上目遣いに覗き込んだ泪先生は、フフンとボクを一瞥した。
な、なぜ勝ち誇るんです?
ナミダ先生の来歴に詳しいことを自慢しているんですか?
そんなことで張り合われてもなぁ……。
泪先生、めちゃくちゃ嫉妬深い一面があるよね。
「沁ちゃんは、僕がルイを交通事故から助けようとした話は知ってるかい?」
ナミダ先生が講釈を続ける。
「はい、泪先生から聞きました。そのとき左足首を失ったんですよね」
確か兄妹が高校生のときだっけ?
「そう。歩けなくなった僕は内にこもり、今後の人生を葛藤した。苦悩し、煩悶し、妄執するうちに、人間とは何か、自己実現とは何か、精神とは何か、心とは何か……って、心理学に興味を持った」
「へぇ……それで心理学を」
「やがて大学の心理学部へ進もうと決意し、義足を履いてリハビリした。そこで人生の転機が訪れた。汐田教授と出会ったんだ」
汐田教授。
この間の交換殺人でも名前が上がった、ナミダ先生の恩師だ。
「心理学の大家・ユングの言葉を借りるなら『フロイトは私の出会った最初の真に重要な人物であった』だね、あるある。僕にとって汐田教授はフロイトにも等しい『真に重要な人物』だったよ。ご本人は放蕩三昧なユングを自称してるけど」
フロイト級の衝撃かよ。
それほどまでに運命的な師弟なのか。
それでいて本人はユングを名乗っているのも滑稽だ。
「そんなに汐田教授ってユングの生き写しなんですか?」
「ところどころは、ね。汐田教授は七月二六日生まれで、ユングと同じ誕生日なんだ。妻が居るのに相談者と不倫してたのも、ユングと同じだよ。あるある」
いや、あんまりないと思うし、そのせいで霜原の事件が起きたような……。
「フロイトとユングは一九歳差の師弟だったけど、僕と汐田教授もまた一九歳差なんだ。だから僕にとっては断然、教授がフロイトなんだよなぁ……」
ユングだのフロイトだの、何とも贅沢な同一視だね。
どちらも心理学の基礎を築いた偉大な人物だ。とはいえ、双方とも波乱万丈の生涯で、性格がまっとうだったとは言いにくいようだけど。
「大学の頃には~、左足もだいぶ歩けるようになったわよね」
泪先生がまたしても間に入った。
ナミダ先生を自分の方へ向き直らせてから「ね~」って同意を求めている。怖い。
「大学に入ってから、お兄ちゃんの社会復帰が始まったのよ~。尤も、学内の対立抗争で事件に巻き込まれたり、因縁のある尖兵に襲われて護身術を覚えたりもしたけど~」
「せ、尖兵?」
ボクは耳を疑ったよ。
日常会話ではまず聞かない単語だ。
え、何、この人たち、物騒な人生を送っているぞ……。
だとしたら護身術を使えるのも、理解できなくはない……?
「えっと、先生」戸惑いを隠せないボク。「今も、その、尖兵っていうのは現れるんですか?」
「うん、出るよ」
出るのかよ。
じゃあ現在進行形で命を狙われ続けているってこと?
この現代日本で?
平和ボケした法治国家で?
「僕ら兄妹は警察に知り合いも居る。浜里警部のこと、覚えているだろう?」
浜里警部……先月の相談室で起きた事件の際、所轄の警察署から来た強行犯係の捜査主任だ。
「なぜ彼らと知り合ったのかっていうと、それだけ怪事件に遭遇したり、命のやりとりに出くわしたりしたせいなんだよ。あるある」
ないよ、普通ないよ。
あまりに現実離れしていて、ボクはだんだん頭が痛くなって来た。
この人たちの発言が、どこまで真実なのか読み取れない。
全て本当だとしたら、ボクには付いて行けない世界だ。
よもや虚言癖じゃあるまいな?
それとも、ボクをからかっているんだろうか?
頭がクラクラする。
うーん、今日はもう退散するか……。
「じゃあボク、そろそろ帰ります」
通学鞄を持ち直して、ボクは早々に下校することに決めた。
続きはまた後日、気持ちの整理が付いてからにしよう。
「なら校門まで見送るよ」
「え」
ナミダ先生も立ち上がった。
ボクが目を丸くすると、泪先生まで血相を変える。
「え~っ? お兄ちゃん、私を差し置いてその子に付いてく気~?」
怒る所、そこですか。
泪先生ってば、息のかかる距離でナミダ先生に抗議するけど、当の先生はどこ吹く風と言った様相で、ぽんぽんと泪先生の頭を優しく叩いてなだめた。
「いつまでも雑談してられないからね。ルイもそろそろ帰る支度をした方がいい」
「む~。それはそうだけど~」
再びむくれる泪先生が子供っぽくて可愛いなぁ……ときどきボクを恨みがましく睨んで来るけど、それはそれでご褒美です。
「じゃ、校門まで歩こうか」
ナミダ先生はボクをエスコートするかのごとく、颯爽と杖を突いて歩き始めた。
そつがないな、この人。
上背がないため見栄えはしないけど、物腰や所作が紳士的で威風堂々としている。
大人の余裕というか、洗練されているのが判る。
なるほど、確かにこんな兄が居たら惚れるかも……と泪先生の心情を想像してみた。
「妹にはときどき手を焼いてるんだ」
廊下を進みつつ、ぽつりとナミダ先生が吐露する。
「そうなんですか?」
ボクはこれまた目を丸くしてしまったよ。
妹の猛アタックを軽くいなしているように見えたけど。
「兄離れしてくれなくてね。もう結婚適齢期だから良い人を見付けて欲しいのに」
それを言ったらナミダ先生だってそうじゃないの?
「でも、結婚だけが人生じゃないですよ」だから反論するボク。「独身でも人生を謳歌している人は大勢居ますし。ボクも多分、異性との結婚はしないだろうし――」
「ふぅん。そんなもんかな」
「それに、ナミダ先生のような兄が居たら、妹はそれが男性の基準になっちゃいます。足を欠損してまで妹を救った兄……かっこよすぎて一般男性なんか眼中に入りませんよ」
「それは僕を買いかぶり過ぎだよ」
困ったように顔をしかめるナミダ先生が面白い。
妹を心配しつつも手をこまねいている現状が、この上なく複雑だ。
所詮ボクには他人事だから、話半分で聞いて居られるけど――。
昇降口で靴を履き替え、中庭に出る。先生も職員用通用口から靴を持って来た。
すっかり日は落ちて、辺りは一面の闇だった。街灯だけが唯一の採光だ。校門まで無言で歩いた所で、ボクはナミダ先生に体を向けた。制服のすそがふわりと膨らむ。
「じゃあ先生、今日はありがとうございました」
「ああ、気を付けて帰るんだ――……よ?」
刹那、ナミダ先生が顔をそむけた。
遠くから駆け足が迫って来たんだ。
校門の外からだ。それも複数。夜闇に紛れて、黒いジャンパーやらジャージやらで身を包んだ、覆面をかぶった男たちがナミダ先生を取り囲んだ。
わ、何だこれ。
校門前には守衛が居ない。警備会社の監視カメラがあるだけだ。それに映らないよう立ち回る覆面連中に、ボクは恐怖を覚えた。
(尖兵……ってやつか?)
ナミダ先生を待ち伏せしていたのか?
たまたまボクの下校に同伴したから、ボクも巻き込まれたようだけど……。
「貴様、湯島涙だな?」
覆面の一人が問いかける。
「だったら何だい?」
澄まし顔で、ナミダ先生は答えた。
どうしてそんなに落ち着いて居られるんだこの人は。暴漢どもに囲まれているのに。
覆面の一人が再び告げる。
「こんな高校で悩み相談を請け負っていたとはな。雲隠れしたつもりか? そんなことをしても無駄だ。我々は必ず貴様の居場所を突き止め、追い詰める」
「やれやれ、こんな所でおっ始める気かい? なりふり構わない無鉄砲だね、あるある」
大仰に肩をすくめるナミダ先生へ、覆面どもが包囲の輪をじりじりと縮めて行く。
やばい。やばいってこれ。
「ナミダ先生、警察を呼んだ方が――」
「かかれっ!」
ボクの提案は、覆面の号令に掻き消された。
先生めがけて、幾多の毒牙が襲いかかる。
*
2.ボクは黒ずくめの闇に呑まれる
幸い――というか何というか――暴漢どもの動きは、お世辞にも連携が取れているとは言えなかった。
単に徒党を組んでいるだけだ。
専門の戦闘訓練を受けた精鋭部隊というわけではないらしい。そんなスパイ小説モドキな本格バトルアクションだとしたら、ボクの命なんていくつあっても足りやしないよ。助かった。
ナミダ先生もそれは承知の上だったらしく、この数に囲まれても落ち着き払った冷笑を顔面に貼り付かせている。
「ま、多勢に無勢の僕が、唯一付け入る隙があるとすれば――」
殴りかかって来た一番槍をステッキで払いのけ、すれ違いざまに相手の腰を打ち据えて横薙ぎに倒した。
杖術、炸裂だ。
横から力を加えられた暴漢はぐるんと天地を引っくり返り、そばに居たもう一人の暴漢も巻き込んだ。どちらも路上にしこたま頭を打ち付けて動かなくなる。
「――君たちが明らかに烏合の衆で、僕には護身術の心得があるっていう点かな、あるある。君たち、受け身もろくに取れないようだね」
「なめるなぁっ!」
まだまだ暴漢どもはたくさん居る。
ざっと見積もっても十名を下回らない。こんな数の暴力、普通ならナミダ先生が集団リンチに遭っちゃうんだろうけど、ステッキで敵陣を牽制する勇姿は凛々しく、とても負ける気がしなかった。
背後から飛びかかる暴漢の喉笛に、ステッキの尖端を打突して黙らせる。
うわぁ、あれは痛そうだ……。
その一撃で暴漢は泡を吹いて昏倒した。その体を踏み越えて、新たな暴漢が掴みかかろうとする。
ナミダ先生はくるりとステッキを手先で反転させると、暴漢の脇下へステッキを滑り込ませ、てこの原理で軽々と持ち上げた。暴漢が接近する勢いを利用して、ステッキで浮き上がらせたんだ。
あとはステッキを振り下ろし、路面へ叩き落とせば処理完了。
あおむけに倒れた暴漢のみぞおちをステッキで突き、呼吸困難で気絶させる。
うわ、しっかりトドメ刺すのも怠らない入念っぷりだ。
(ナミダ先生、本気で強いぞ)
瞬く間に暴漢の戦力を削いで行く辣腕は、奴らをたじろがせるには充分すぎた。
ナミダ先生は敵の足が止まったのを見届けるや、フンと鼻で笑ってみせる。
「どうしたんだい? もうおしまいかな。あるある、人海戦術に頼り過ぎて、一人一人の練度がおざなりな編成、よくある」
「き、貴様、言わせておけば――うぎゃあ!」
反駁した暴漢が間合いを詰めた瞬間、踏み出した奴の右足をすかさずナミダ先生がステッキでつまずかせた。
あわれ暴漢は、顔面から突っ伏してしまう。
思いきり鼻っ柱をアスファルトに打ち付けたそいつは、覆面を鼻血で赤黒く染めながら立ち上がろうとしたけど、間髪入れずナミダ先生の追い打ち――義足で顔面を踏み付ける――によって呆気なく白目を剥いた。
容赦ないな、ナミダ先生。
まぁ正当防衛だろうから問題ないと思うけど……この人数差だし。
「君たちのボスに伝えてくれないかい? 僕を闇討ちしても意味ないって。僕も人に恨まれる覚えはない……と言いたいけど、こうも立て続けに生活の邪魔をされると、さすがに傷付くなぁ」
な、何度もこんな目に遭っているのか……。
ナミダ先生、修羅場多すぎだろ。
どんな人生を歩んだら、こんな状況にしょっちゅう出くわすんだ? ボクにはそっちの方が不思議だよ。世紀末のスラム街じゃあるまいし。
「大方、大学の対立派閥が、僕を失脚させたがってるんだろうけどね。准教授の推薦でさらに拍車がかかったかな? 権力争いの果てに暴力で脅すなんて、ありがちな悪党だ。呆れて物が言えないよ」
いや、めちゃくちゃ言っていますよ。喋りまくりじゃないですか。
ナミダ先生は訳知り顔で、暴漢どもに警告した。どうやらナミダ先生には、こいつらの黒幕がおぼろげながら見えているようだ。
彼は、ボクら凡人には及びも付かない敵の思惑が、心の動きが、読めるんだ。
全てを見透かす慧眼。
いや、分析力?
心理分析――普遍的無意識を介した、精神の伝心?
「くそっ……撤収だ!」
暴漢どもは、周辺に倒れ伏す同胞を肩で担いだり抱き上げたりして、校門前から逃げ出した。
見れば、向こうの車道にワゴン車が二台停められていて、そこに負傷者を運び込むなり急発進する。
(あれに乗って来たのか)
今さらながらボクは合点が行った。
そりゃそうだ。普通、あんな黒ずくめの覆面で、公道を歩けるわけがない。
かくして再び静けさを取り戻した校門前は、夜の帳が降りたおかげもあて、人っ子一人見当たらなくなった。
空は暗雲に覆われており、月明かりすら存在しない。
目撃者なし、か。
連中もそれを見計らっていたんだろう。
「やれやれ、逃げられちゃったね。ありがちな顛末だ、あるある」
「いや、わざと見逃しましたよね、先生?」
くるくるとステッキをもてあそぶナミダ先生に、ボクは反論せざるを得ない。
いや、これもまた、ボクがツッコミを入れやすいようわざと発言したんだろう。会話のきっかけを生むために。
全く、この先生は抜け目ないね。何気ない言動ですら、人を心理操作する術に長けているんだ。
「これに懲りて、連中も僕にちょっかいかけなくなれば良いんだけど……ちなみに今の荒事、防犯カメラには映らないようにしておいたよ」
「えっ、先生も!?」
ナミダ先生がステッキで指し示した先には、防犯カメラが街灯を照り返していた。
敵がカメラを避けているのは察したけど、ナミダ先生まで?
いくら敵が素人集団だとしても、そこまで配慮する必要があるんだろうか?
むしろ映り込んだ方が、いざというときの証拠にもなるのに――。
「僕が揉め事を抱えてると知られたら、せっかくのスクール・カウンセラーが解雇される恐れもあるからね。うん、ありそうだ」
「そ、そんなこと――」
「あるんだよ。公的機関は特に、そう言った不祥事にはうるさいからね。ルイの勧めで始めた仕事を反故にしたくないし、君という逸材も失いたくない」
「は? ボク?」
やにわ買いかぶられて、ボクはドギマギしてしまった。
ボク、何かナミダ先生に認められるようなこと、したっけ?
あ、ディアナ・コンプレックスだからかな? 貴重な心理サンプルと思われている?
ボクはしどろもどろに髪を乱し、スカートのすそをもじもじといじっていると、ナミダ先生はボクの心を読み取ったのか一笑に付す。
「おおむねそんな感じだね、よくあるよくある」
「よ、よくあるってそんな……どうしてボクの思考が判るんだ、この人は……」
「全ての心は、普遍的無意識で繋がってるからね。感受性の強い人間ならば、他人の気持ちを共感し、同調し、以心伝心で思考が伝わるんだよ」
「そ、そんなテレパシーじゃあるまいし、荒唐無稽なこと――」
「あるのさ、あるある。普遍的無意識の概念は、心理学では常識だよ?」
「ええ~……」
「何にせよ、今日のことは忘れよう。僕も大袈裟に事を広めたくないから」
「警察に通報した方が良いですよ。こんなことが何回もあるなんて危険すぎます」
「あー、実はもう警察には相談してるんだ。極秘にね」
「へ?」
「警察に知り合いが居ると言っただろう? 水面下で根回しはしてるさ」
浜里警部のことか。
最低限の対策は練っているんだ。
すぐに逮捕しないのは、尖兵を泳がせているからだろうか?
連中は所詮、末端のチンピラだ。そいつらを露払いするよりは、大元であるボスキャラを突き止めた方がよっぽど利口だもんね。
「浜里警部によると……管轄や担当が違うから手こずってるそうだけど、少しずつ調査は進んでる。そして、僕自身に被害がない限り、警察も静観するよう念を押してる」
「どうしてですか! 明らかな傷害未遂事件なのに――」
「僕の出世にも響くから、黒幕の正体を暴くまでは騒げないのさ」
「気持ちは判りますけど……」
「どうも黒幕が、僕の大学に関係あるのは間違いないんだ。僕がこの若さで講師を経て、あまつさえ准教授にまで推薦されたのが気に食わないらしい」
ああ、さんざん言われていたね。
対立派閥がどうのこうのって。
相談室の交換殺人も、それが犯人の動機だったっけ。
「大学は派閥争いや足の引っ張り合いがあるからなぁ、あるある。教授への道は狭き門だ……助手やポスドクから成り上がれず、人生を棒に振る博士の多さたるや、社会問題になってもおかしくないよ」
ナミダ先生が、寂しそうに肩をそびやかした。
ステッキを力なく路面に突いて、夜空を見上げる。
派閥争いか……。
今一つ判らないけど、おぼろげには想像が付く。
自分の研究チームから教授や准教授が生まれれば、大学内で発言力も向上するし、待遇も予算も上がるし、学会で幅を利かせることも出来るだろう。
同門内でも、自分を差し置いて他人が出世するのが許せず、嫉妬して、妨害を仕掛けて来る恐れだってある。醜い大人の世界だ。
「現在は、心理学部の汐田教授と、精神医学部の渦海教授による対立が激化してる」
「はい……世知辛いですね」
「でも、精神医学部といえば天下の『お医者様』だ。どこへ行っても引く手あまただろうから、いつまでも大学に残って派閥争いするとは思えないけどね……」
「交換殺人の清田が妄執的だっただけで、実は渦海教授は無関係とか?」
「判らない。とにかく、君も気を付けて帰るんだよ。奴らの狙いは僕だけど」
「はい……先生もお気を付けて」
ボクは考えあぐねつつ、ナミダ先生に手を振った。
一人で帰宅するのは不安だったけど、姿が見えなくなるまでナミダ先生はボクに手を振り続けてくれた。
(ナミダ先生が准教授になったら、スクール・カウンセラーも辞めちゃうのか……)
当たり前のことを、今さらのように思い知る。
スクール・カウンセラーは非常勤だから、本業が忙しくなれば辞職するのは当然だ。
ナミダ先生は大学講師だ。博士号も取得しているから、大学に残って教鞭を取るくらいしか進路がないんだろう。
(単なる講師や助教だと、あんまり待遇も良くないんだっけ)
赤信号で立ち止まる間、スマホで手早く検索してみる。
うん、やっぱりそうだ。
大学に残った研究者や助手は、いわば定職でありながらフリーターに近いという微妙な待遇のようだ。もちろん学振などできちんと収入を確保する学者も居るけど、下手すると下っ端のまま生涯を終えるらしい。そりゃ他人の推薦に嫉妬するわけだよ。
(准教授の椅子をめぐって、ドロドロした怨念が渦巻いている……)
かと言って、医学部のエリートがそんな抗争に加担するとも思えない。
信号が青に変わったので、スマホをスカートのポケットに突っ込んで歩き出す。
横断歩道を渡り終え、対岸の歩道に足を乗せようとしたとき――。
「居たぞ、あの女だ!」
キキキキ――――。
けたたましいブレーキ音と叫び声が、ボクの背後から迫って来た。
何だ、と警戒して振り返ったときには、もう遅い。
スカートのすそを翻したボクが見たのは、眼前に急停車するワゴン車だった。
(さっきの暴漢どもの車!)
黒ずくめの覆面連中が、ぞろぞろと車から飛び出した。一瞬でボクを取り押さえ、抵抗する間もなく担ぎ上げて、ワゴンの中に収納する。
(連れ去られるっ……!)
これって誘拐? 拉致監禁?
まずいな、という認識だけがボクの脳裏で警鐘を鳴らした。
けど、この数じゃどうしようもない。
やっぱり人海戦術って有効なんだな……。
ボクは男勝りなだけの、ただのか弱い女子高生だった。この人数差を覆せる戦力は何もない。だからこそ、こいつらはボクに矛先を変えたんだろう。
ワゴン車が走り出す。どこへ向かっているのかは不明だ。
「こいつ、湯島涙と一緒に居た生徒だ。人質に使えるぞ」
暴漢どもが口々に呟く。
「だが、ただの在校生だろう? 湯島に近しい人間じゃないと駄目じゃないか?」
「それはそうだが、例えば奴の妹もあの高校に勤めてるが、手を出しづらくてな。あの女も結構強そうだぞ。謎のオーラ出してるしな」
「あー。近寄りがたい雰囲気はあるよな、人を寄せ付けない魔性っつーか」
……何の話をしているんだ、こいつらは。
ともかく、ボクがナミダ先生のダシとして誘拐されたのは間違いない。
くそっ。あの人はボクのことを気に入っていた。ボクを人質にするのは有効なんだ。
足手まといには、なりたくないな……。
なんてことを考える間も、ボクは暴漢どもに手足を縄で縛られ、口に猿ぐつわを結ばれて、夜の闇へと消えて行った。
*
3.ボクは暴漢どもに監禁される
ボクは最終的に目隠しまでされて、前後不覚な状態で車から降ろされた。
背中を押されて、縛られた縄を引っ張られて、おずおずと歩き出す。
何これ怖い。
いや、怖いなんてもんじゃない――恐慌だ。
目が見えない状況で足を動かさなければいけない、この焦燥とサスペンス。転んだらどうしてくれるんだ。
そもそもどこへ連れて行かれるのかも定かじゃないので、その心理的恐怖が鼓動を早める。例えばここが断崖の海辺だったり、人知れぬ樹海だったりして、その場で殺されて遺棄される可能性だって充分にある。
何しろこれは誘拐事件なんだから――。
ただ不幸中の幸いにして、連中はボクに一切危害を加えようとはしなかった。
正直、ここでは書けないような暴行を受ける危険も高いと覚悟したけど、その倫理観に関してのみ、こいつらは統制が取れていた……まぁ、ときどき好色そうな気配を感じたりはしたけど。
ボクが男っぽいから、あまり好奇の対象になりにくいのかも知れない。
(こいつらの目的は飽くまでも、ナミダ先生一人ってことか)
それ以外の人間には極力手を出さないよう厳命されているのだろう。ボクをさらうにしても、身柄を拘束するだけで済ませているのが何よりの証左だ。
「よし、そこに置いとけ。目隠しも外していいぞ」
ボクを先導する暴漢が一言、吐き捨てた。
「うす」
という返事が後ろから聞こえる。ボクの背を押して歩行を促していた奴だ。
初めてボクは目隠しをほどかれ、突き飛ばされた。
痛っ!
ボクはよろけて、前のめりに突っ伏す。
スカートのすそがめくれて暴漢どもに大サービスしてしまったけど、連中は大して気に留めていない。
危ない危ない。何が刺激になって欲情されるか判ったものじゃないからね。
奴らが意外と理性的なのは、腐っても賢明な大学関係者だからか?
(ここはどこだろう……埃っぽいな。廃屋か?)
ボクは床に積もった塵埃に顔をしかめた。
瓦礫やガラス片も散らばっている。コンクリート剥き出しの殺風景な部屋だ。内装は剥がれ落ち、調度品も見当たらない。窓ガラスすら取り外されて、風がびゅうびゅう吹き込んで来る。
天井には電球が吊るされ、煌々とボクを照らしていた。
「大学旧校舎の廃墟に着きました」
暴漢の一人が携帯電話で何者かと通話する。
大学。
旧校舎。
廃墟。
ははーん、何となく察しが付いた。
ここがこいつらの拠点なのか……しかも大学って……結構あからさまだなぁ。そんな場所、内部関係者しか立ち入り出来ないだろうに。
勝手に利用しているとしても、もっと足の付かない所、せめて大学と無関係な建物を探せば良いのに。
その辺が素人感覚と言うか、手近なもので間に合わせただけの即席集団であることが推して測れる。
「あー、いててて。あの野郎にこっぴどくやられちまった」
暴漢どもはようやく一息ついた。
ナミダ先生に薙ぎ倒された奴らが、傷口の治療を始めたんだ。
床にどっかと腰を下ろし、尻を突いて、どこからともなく救急箱をいくつか持参する。
自分たちで応急手当が出来る……医療の心得があるのか?
消毒液を塗り、絆創膏を貼り、打ち身には湿布を貼り、ガーゼをかぶせ、止血したり薬を塗ったり、人によっては添え木と包帯まで巻いている。
(……手慣れているなぁ)
ボクは直感的にそう思った。
単に医療機関へ足を運べないせいかも知れないけど。
こんな不衛生な場所で、コソコソと怪我を治すということは、人には言えない蛮行をしでかしている自覚があるようだ。
闇討ちを仕掛けた挙句、返り討ちにあったんだから当然か。かっこ悪いったらありゃしないね。
(じゃあやっぱり、精神医学部の人たちなのか?)
医学部なら基本的な応急手当くらいは出来るだろう。
また、人の心を研究する学問として、心理学と精神医学は共通点がある。
学術的な権威を巡って両学部に何らかの対立があったとすれば、医学部の荒っぽい連中が喧嘩を吹っかけて来ることもあり得るんじゃないか? エリートだの出世だのは関係なく、面子と立場を守るために――?
「何ジロジロ見てんだよ」
暴漢の一人が、床にうずくまったボクへ睨みを利かせる。
そりゃ目隠しを外されたんだから、周囲を観察するに決まっているだろ。
見られたくなければ、目隠しを外すなよ。理不尽極まりないなぁ。そもそもこんな所に拉致された時点で不条理なのにさ。ぶつぶつ……。
「おい、もうじき『教授』が来るってよ」
――教授?
暴漢どもがざわつき始めた。
さっき携帯電話で誰かと話していた奴が、仲間たちに指示を出している。
大ボスのお出ましというわけか。
(教授だなんて、これまた判りやすい渾名だなぁ)
きっと大学の教授なんだろうな。
職場から旧校舎まで、恐らく大して離れていない。電話してすぐ駆け付けられるんだから当然だね。それくらいはボクにだって想像が付く。
(だとすると、やっぱりこいつらはナミダ先生の敵対勢力……大学内の権力争い?)
うーん、考えが堂々巡りしている。
もう少しで何かが掴めそうなんだけど……確証が足りない。条件はそろっているのに。
ただ一つだけ言えるのは、こいつらが紛うことなき卑劣漢ということだ。
大昔、団塊の世代とやらも暴漢だらけで、警察と戦って社会に迷惑をかける馬鹿ばかりだったと聞いたけど、ここに居る連中はさらに大馬鹿だ。
結局、こいつらがやっていることは犯罪でしかない。
罪を犯しても、自分の正しさなんて証明できない。
誰かを傷付け、誰かに疎まれるだけだ。
暴力に訴えること自体が、短絡的で、幼稚で、極悪非道だ。
その時点で、ボクは絶対に共感できない。尊敬も出来ない。単なる忌避の対象へと成り下がる。
大学を出ているくせに、そんなことも判らないんだろうか、こいつらは?
「湯島の野郎はホント目障りだよな。出る杭は打たれるって奴だ」
「ああ。その上、助教や助手の経歴もほとんどないのに、いきなり准教授に推薦されるなんて羨まし過ぎるんだよ。言語道断だろ」
うわ、恨み言が飛び交い始めたぞ。
そうか、やっぱりナミダ先生の出世を妨害したいんだな、こいつら。
ナミダ先生は大学講師で、所属する教授の下で研究助手も務めていたと聞いた。
年齢的に、博士号を取得したばかりで、講師職は一~二年だろう。その経歴で昇進するのは驚異だ。世の中には三一歳で教授に上り詰めた実例もあるというけど、かなり稀だ。
――でも、それが実力主義の世界だろう?
他人の功績を妬み、嫉み、あまつさえ邪魔しようとするなんて、心底みっともない。
こいつらは醜い。
反吐が出そうだ。
本当に吐いてやろうかな。猿ぐつわされているけど、嘔吐すれば外してくれるか?
「教授が来たぞ!」
暴漢どもが立ち上がり、二列に並んで黒幕を出迎えた。
あ、そこは統率が取れているんだ。
妙に体育会系だな。素人集団のくせに。
「みんな、ご苦労」
しわがれた声が廃屋に染み入る。
老獪そうな男性の声だ。
案の定、明かりに照らされたその顔は、しわの寄った初老で、毛髪もいぶし銀のロマンスグレーを放っている。
骨と皮だけの痩せ細った体格だけど、その割には足取りも強く、健康そうだ。
値の張るスーツなのか、埃っぽい廃墟を煙たがり、しきりにゴミを払い落としている。
(こいつが精神医学部の渦海教授って奴か……?)
ボクは床の上から、じろりと見上げた。
教授もボクを睥睨したものの、大して関心なさそうに目をそらしてしまった。
それもそうか……こいつはボクを、ナミダ先生との交渉の道具としか認識していない。
さらうのはボクじゃなくても良かっただろう。要はナミダ先生をおびき出して、脅迫できれば満足なんだ。
「本当にこんな小娘……娘か? ごときが人質として成立するのか?」
教授が手下に尋ねている。
小娘で悪かったな。
というか今「娘か?」って疑問符を差し挟んだだろ。悪かったな、男っぽくて。化粧っ気も洒落っ気も全然ないからね。スカートは穿いているけど。
「この女は、湯島が目をかけてる生徒ですよ。親しげに話してましたから!」
暴漢が取り繕っている。
ふぅん。他人の目には、ボクとナミダ先生はそう映るのか。
ボクたちは、いつの間にか関わりを持ち過ぎた。
心の傷を癒されたり、友達の悩みを聞いてもらったりするうちに――。
「それに湯島は、なぜか警察沙汰にしませんからね! いや、裏では警察の知り合いと連絡を取ってるっぽいですが、表に出すのを避けてます。おかげで、こっちも誘拐や闇討ちが出来るわけで――」
「ふん。まるで直接は争わず、遠回しに論文で中傷合戦を行なったフロイトとユングのようだな。ユングは『リビドーの変容と象徴』という論文でフロイトの思想とは異なる無意識の概念を発表し、それを受けてフロイトも『モーゼと一神教』で真っ向からユングを全否定してのけた……以後、この二人が会うことはなくなった」
教授はこれ見よがしに鼻を鳴らした。
有名なフロイトとユングの確執ってやつか。
「かつての盟友が道をたがえる……フロイトとユングは、さしずめ精神医学部と心理学部だな。そこに籍を置くワタシもまた、この対立から逃れられない。歴史は繰り返す……奇妙な偶然の一致ではないか。ユングは『精神病は診察だけでなく心の物語が重要だ』と悟って独自の分析心理を開眼したが、我々の因縁も病的な物語性を内包していると言える」
な、何か語り始めたぞ……そう言えば交換殺人のときも、精神医学部と心理学部は『フロイトとユングばりに袂を分かちました』って話していたっけ。
「個人としてもユングと同じ誕生日であり、ユングのように年の離れた妻と結婚し、放蕩もしたのだから筋金入りではないか。特別視してしまうのもさもありなん」
だから何だって言うんだよ。
あんまり夢見がちな面相で語らないで欲しいな、気持ち悪いから。
第一、それっぽっちの類似点でユングとカブってるとか、傲慢じゃないかな? 箇条書きのマジックと同じで、たまたま似通っている部分を書き連ねただけで全てが酷似しているような錯覚に囚われるんだよ。
仮に、ユングそっくりだとしても、犯罪をやらかして良い道理なんてない。
馬鹿馬鹿しい。
ボクは延々と考える。この教授がどれほどナミダ先生を嫌っているのかは不明だけど、こんな奴に先生が負けるとは思えないし、思いたくもない。
でも……勝つとしたら、どうやって?
ナミダ先生がボクを救出する見込みは、あるのかな?
この期に及んでも警察抜きで交渉するつもりだとしたら……?
(帰りが遅くなったら、ボクの親が通報しそうだなぁ)
娘の帰りが遅くなれば当然、両親は心配する。
どっちも共働きで帰りも遅いから、ボクの不在に気付くのは深夜を過ぎてからになるだろうけど――。
それまでにボクが解放されれば良いな……無理かな?
ああ、もう、どうしてこうなった。
ボクを巻き込んだ『教授』とやらが、本当に腹立つ。
「それで、湯島は?」
教授が問うと、暴漢の一人が声を荒げる。
「湯島には連絡しました! 人質を返して欲しければ、一人で旧校舎へ来いとね!」
「ふむ。そうか。さて、本当に単身で殴り込んで来るかどうか――」
「来ました!」
「――むっ?」
別の暴漢が遠くで叫んだ。
廃屋の入口に近い方角だ。見張りを立てていたようだ。
たちまち一派に緊張が走る。
教授も部屋の外へ踵を返して「早いな」なんてひとりごちている。
ナミダ先生、迅速だな……というか、来てくれたんだね。ボクなんかのために。
いや、出世の進退がかかっているから、そっちの交渉が主目的だろうけどさ……。
「寂れた廃墟だなぁ、あるある!」
建物に呼びかけるナミダ先生の大音声が、染み入るように反響した。
あの人、こんな声も出せるのか。
隅々までよく通る、明朗な声量だ。
「腐った連中には、腐った根城がお似合いだね! いい加減、僕も辟易したよ。無関係の未成年を誘拐するなんて、そこまで見境がないとは思わなかった」
「ふん。ぬかせ――」
「君たちの悪行はもう見飽きた。滅びた建物にふさわしく、悪もまた滅びるがいい。正義は必ず勝つものだからね……よくある台詞だろう? あるある」
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