2.ボクは職業の競合に辟易する
スクール・アドバイザー。
スクール・ソーシャルワーカー。
ちんぷんかんぷんなボクを見た中肉中背のヒラメ顔――清田だったか――が、ふふんと見くびるような笑みを浮かべた。
うわ、こいつムカつく。
様子がおかしいんだよね、この人。
校長に雇われたらしいけど、どこか裏がある印象だ。今だって、明らかにボクたちを挑発したよね?
「自分はスクール・アドバイザーという肩書きでしてね。湯島さん、あなたは文科省が定めたスクール・カウンセラーですが、アドバイザーは地方自治体による人選なんですよ」
「存じてますよ」形だけ握手するナミダ先生。「とはいえ、アドバイザーは地方自治体ごとの設置ですから、全ての都道府県にあるとは限りませんし、予算も少ないのが玉に瑕ですね、あるある」
ナミダ先生、にこやかに皮肉を返してないか?
ヒラメ顔に真っ向から食い下がる格好だ。握手した手に力が入り過ぎている。
清田は薄ら笑いのまま軽く受け流した。
「まぁ母体の違いですからね! と言ってもこの職に就く資格条件は、スクール・カウンセラーと大差ありませんよ。臨床心理士、公認心理師、精神科医、大学教員など……自分はあなたと同じ国立実ヶ丘大学の精神医学部で助手を勤めています。お見知りおきを!」
「精神医学部……渦海教授の差し金ですか。あるある」
ナミダ先生は苦虫を噛み潰した。
うずみ?
知らない名前が登場したので、ボクはきょとんと呆けてしまう。
「得心が行きました。清田さんが僕に敵愾心を抱える理由」
「何をおっしゃるんですか湯島さん! 確かに自分の精神医学部と、あなたが所属する心理学部の汐田教授とは仲が悪い、犬猿と言われるほどにね。ですが、ここでは相談業務を分かち合う仕事仲間じゃないですか、あっはっは!」
乾いた笑いが虚しく響いた。うわべだけの友好であることがバレバレだ。
大学内部での対立、か……学部ごとや派閥ごとに競争があるとはよく聞くけど、ここまで露骨に押し出されるとは思わなかったよ。
ナミダ先生の在籍する心理学部で、彼が師事する汐田教授。
清田の在籍する精神医学部で、奴が師事する渦海教授。
――どう見ても、ナミダ先生にスパイを送り込んだ構図じゃないか!
ナミダ先生は露骨に面白くなさそうな態度で、握手をほどいた。
「うちの汐田教授と、あなたの渦海教授は相容れないことで有名です。心理学に関する意見の対立がしょっちゅうで、さながらフロイトとユングばりに袂を分かちましたから」
「それはまた大袈裟な例えですね!」
「大方、僕がカウンセラー業務をきっかけに『准教授』推薦をもらったことで、対立するあなた方が慌てて妨害工作に乗り出した……と言った所でしょう? うん、ありそうだ。ライバル学部の台頭を阻止するために刺客を派遣した、と」
「刺客だなんて人聞きの悪い! 湯島さんの精力的な課外活動が准教授推薦に繋がったので、精神医学部から自分が出向いて湯島さんに横槍――おっと口が滑った――協力したいなぁと思っただけです! あっはっは!」
今、横槍って言ったよね?
こいつの魂胆が丸見えなんだけど。
(ナミダ先生を邪魔して、准教授の推薦を白紙撤回させるつもりなのか!)
姑息な奴らだな。少なくともナミダ先生の活動を監視するつもりなのは確かだ。
ナミダ先生の面相がいよいよ険しくなる。大学のいざこざを外部にまで持ち出されて不機嫌なのと、何より滝村先生を放置してしまっているからだ。
本当は一刻も早く相談業務を再開したいだろうに……。
「さぁ湯島さん、そこの女性教師は自分が診ましょう。スクール・アドバイザーは教職員へのコンサルテーションに特化しています! カウンセラーはすっこんでて下さい!」
「なっ……」
大胆不敵な宣戦布告だった。手柄を横取りする気満々じゃないか。
「……もはや湯島氏はお呼びではない……」
うおっ、ノッポの霜原までナミダ先生に敵対する気か?
二人で共謀していそうだな。清田と同様、実は誰かの差し金なんだろうか?
ナミダ先生は仕方なく霜原に向き直る。
「あなたはスクール・ソーシャルワーカーでしたっけ?」
「……いかにも。ソーシャルワーカーは心理相談ではなく、社会福祉の立場から助言と援助を与える職……就労資格も社会福祉士や精神保健福祉士などが条件となる……」
「観点からして異なりますよね。心理学ではなく、福祉の立場から相談に乗るという」
「……児童相談所を始めとする行政機関との連携や……社会保障および生活保護を提供するなど、カウンセラーにはないパイプを持っている……先日あった学費滞納の件も、ソーシャルワーカーならば役所や行政に働きかけ、誰も傷付かずに解決できただろう……」
要はカウンセラーより優秀だって言いたいのか?
とんだ傲慢だな。ていうか喧嘩売っているだろ、こいつ。
「……それと……汐田教授とは血の繋がった親子でもある……」
「え!」
ナミダ先生がのけぞった。
体勢を崩しかけて、慌ててステッキで重心を支える。あのナミダ先生が意表を突かれるなんて、よっぽどのことだぞ。
「……霜原という苗字は母方の姓だ……汐田とは離婚している……汐田は教え子と浮気して、あっさり母子を捨てたのだ……だから決して汐田を許さない……奴の心理学部が栄えるのを許さない……」
「私怨を職場に持ち込むのって、迷惑ですよ。よくある話ですけど」
「……黙れ……汐田に捨てられ、母子家庭で育ったからこそ……社会保障の重要性を実感したし、先の浅谷親子にも同情できるのだ……」
この人が福祉に従事する理由は、それか。
副業でソーシャルワーカーに就いたのも、そこが原動力なんだな。
(期せずして、ナミダ先生の恩師に敵対する連中が参入して来た。こんな奴らが高校の相談員になるなんて……)
ボクは眩暈が止まらなかったね。
どう考えても足の引っ張り合いになりそうだよ。協力関係なんて嘘っぱちだよ。
「……心理学など下らない……ソーシャルワーカーならではの手法で、女性教師の悩みを解消してみせよう……支援できることがあれば、遠慮なく話していただきたい……」
「え、え? その、わたくしは――」
あちゃー。
滝村先生が困っているぞ。
そりゃそうか。唐突に新しい相談員が出現しても、簡単には信用できない。そのつど説明し直すのも手間がかかるし、悩みを蒸し返されるようで辛いだろう。
「――今日はお開きにしましょう」
ナミダ先生が手を叩いて、場を収めた。
こんなしっちゃかめっちゃかな状況では、相談なんて出来やしないからね。
「僕は明日も半日だけ出勤しますから、そのとき改めて相談に来て下さい」
「は、はい……失礼します」
滝村先生は逃げるようにソファから立つと、携帯していた小物入れをギュッと握りしめて退出した。
賢明だね。カウンセラー、アドバイザー、ソーシャルワーカーの三すくみ――いや、三つどもえかな――に囲まれたら、心が押し潰されそうだ。
それを一番おもんぱかれるのは、やっぱりナミダ先生なんだよなぁ……。
「ふふん。うまく相談者を逃がした格好ですな!」にやつく清田。「ですが自分たちも、今日は顔合わせに来ただけです。明日もお邪魔させていただきますよ?」
「本当に邪魔なので来ないで下さい。あるある、存在自体が害悪、よくある」
「またまたご冗談を」
「本気ですけど?」
「……湯島氏は明日、半日しか来ないのだろう……?」含みを持たせる霜原。「……ならば、不在の間に滝村先生の悩みを解決すれば……手柄を横取りできる……何より、困っている女性を救えるのだ……ふふふ……」
「は? 霜原さんまで何を言い出すんですか」
「……母子家庭で育ったから判るんだ……苦労する女性の姿は見て居られない……」
この人も相当ひねくれた育ち方をしたんだな。女性を優遇したい気持ちは判るけど。
「カメリア・コンプレックスですね、あるある」
ナミダ先生が霜原に告げた。
けど、あいにくノッポの霜原は心理学に明るくない。福祉が専門だからだ。コンプレックス名なんか知る由もない。ボクも初耳だった。
「……何だそれは」
「カメリア・コンプレックスは、困っている女性を見捨てられない男の性ですよ。例え見ず知らずの他人でも、女性と見れば世話を焼かずに居られない歪んだ親切心です」
「……だから何だ……社会福祉士として、社会的弱者である女性を放っておけないのは当然だろうが……! 不愉快だ、失礼する……!」
ノッポは踵を返して、捨て台詞とともに部屋を出て行く。
続いて清田も、大仰な溜息を吐いてからナミダ先生へ手を振った。
「じゃ、自分も今日は退散しますかね。明日からよろしくお願いしますよ?」
正直、二度と来るなってボクは思った。
きっとナミダ先生も同じことを考えたと確信している。
*
――翌日の午後は、あいにくの雨が降り出した。
とんでもない土砂降りだ。まるで、今日起こるであろう波乱を暗示するかのように。
(朝は雲一つなかったのになぁ……)
ボクは保健室に向かいがてら、廊下の外を眺めて肩を落とした。
今日、ナミダ先生は午後から出勤する予定になっている。彼の居ない午前中は穏やかな空だったのに、午後になった途端この豪雨だ。
(ボクは置き傘があるけど、それよりもバスや電車が遅れないか心配だよ)
なんてことを思いつつ、放課後の日課である泪先生との邂逅に胸を躍らせる。
制服のすそをはためかせて、軽やかに戸口を開けたんだ。
「泪先生、こんにち――」
「ええええ~~まだ大学に残ってるのぉ~?」
「――は?」
入室するや否や、泪先生が金切り声を上げていた。
椅子から立ち上がり、白衣をひらめかせてウロウロしている。
手にはスマホを持ち、誰かと通話しているようだ。
「もしもし、お兄ちゃ~ん? 雨のせいでバスも大幅に遅れてるっぽいけど~、いつまでも立ち往生してたら、今日は欠勤扱いにされちゃうよ~?」
立ち往生?
ナミダ先生、まだこっちに来ていないのか?
雨は意外な所で影響を与えているようだった。
「えっ? 昇進の話が立て込んでるの? バスが動かなくてちょうど良かった? ぶ~ぶ~。お兄ちゃんが来ないと私が寂し……じゃなかった、昨日の連中に出し抜かれちゃうよ~? 今も、お兄ちゃんが居ない隙にノッポが滝村先生の相談に乗ってるし~」
ノッポ……ソーシャルワーカーの霜原か。
抜け駆けしているんだな。女性を見ると助けずに居られない『カメリア・コンプレックス』だっけか?
「アドバイザーはまだ来てないよ~。居るのはノッポだけ。あのヒラメ顔もお兄ちゃんと同じ大学なのよね? 奴も雨で足止め喰らってるのね。ざまぁ~」
泪先生、ボクが後ろに居るのに、口汚い言葉を吐いておられる……。
あ、でも、ボクも一度でいいから泪先生に冷たく卑下されたい。
『さっき学内で顔を合わせたよ、あるある』
スマホの向こうから、ナミダ先生の声が漏れた。
どうやら本当に大学から電話しているようだ。
顔を合わせた、ってあのアドバイザーと? いくら同じ大学でも、違う学部ならめったにすれ違わないと思うけど。
『ご丁寧に、僕の居る汐田研究室まで挨拶に来たよ。どうやら偵察のようだ』
「うわ~、陰険」
『今も建物の角から、遠目にこっちを監視してる。あるある、本人は探偵気取りで隠れてるつもりでも、傍目にはバレバレってこと、よくある』
「気持ち悪っ。ストーカーじゃん! でもいいな~、私もお兄ちゃんを見張りたい!」
『ルイも落ち着け。ま、相手は敵対する渦海教授の手先だからね。しばらく泳がせておくさ…………あっ皆さん、お疲れ様です!』
不意に、ナミダ先生の口調が代わった。背景がガヤガヤと騒がしくなる。
知り合いが通りすがったのか?
『ルイ、待っててくれ。研究室の助手仲間が帰るらしいから、途中まで見送って来る』
「え~、私ってば放置プレイ?」
『いいから…………あっ、そうですね、雨が強くて視界が悪いですね、あるある』
泪先生のぼやきを無視して、ナミダ先生はポスドクとやらと会話を始めた。
スマホの通話はつながったままだから、内容も筒抜けだ。
『えっ、傘を持って来てないんですか? あるある、朝は晴れてたから油断して傘を忘れること、ありがちですよね。へぇ、汐田教授の傘を借りるんですか』
汐田教授の傘?
『教授から許可もらったんですか。でも、あの人の傘って派手ですよ? ほら、これ。ピンク色のストライプ……』
ピンク色の傘かよ。
確かに派手だなぁ。しかもストライプ。よほど慣れてないと相当きついと思う。
『色彩心理学的に、ピンクは恋愛や人間関係を円滑にする作用があります、あるある。心の調和を重んじる汐田教授らしいですが……うわ、本当に使うんですね』
何やら楽しそうなことになっているな。
この様子だと、ポスドクもきっと男性だろう。なかなか珍奇な絵面に違いない。
『ではお気を付けて…………ふぅ。じゃあルイ、ボクもそろそろ高校へ向かうよ』
「えっ、本当?」即座にスマホへ狂喜する泪先生。「お兄ちゃん急いでね!」
ナミダ先生も雨の中を突貫する決心が付いたようだ。
ようやく通話が終わった。泪先生は兄の到着を待ちきれずルンルンと小躍りしたが、くるりとターンを決めた所でボクと目が合い、ビクッとたじろぐ。
「ファッ!? 沁ちゃん、いつから居たの!」
「えっと、割と最初から」
「居るなら言ってよね~! もう、人の電話を立ち聞きするなんて悪趣味~!」
「すみませんでした。けど今の罵声、もっと浴びたいです、お願いします」
「あ~ん、お兄ちゃん早く来て~」無視されるボク。「早くしないとソーシャルワーカーが滝村先生の悩みを解決しちゃうよ~」
「そんなにピンチなんですか?」
「あいつはカメリア・コンプレックスだから、女性には優しいのよ~。さっき様子を見たら、すっかり打ち解けてたもん。このままじゃ滝村先生を救うのも時間の問題――」
「……うわああああああああ!」
「――よ?」
そこまで述べた瞬間だった。
廊下の彼方から、まさにソーシャルワーカーの叫び声が谺したんだ。
ボクは咄嗟に保健室を飛び出した。すると、職員室からも教師たちが顔を覗かせている最中だった。みんな、奥にある相談室を向いている。
相談室のドアから、腰を抜かした霜原が這う這うの体で退室した。巨躯に似合わない怯えようだ。彼の服装が、ところどころ赤い。
(何だあれ。血痕か?)
見れば、相談室の床からとめどなく流血があふれていた。誰の血液だ?
「……滝村先生が……死んでいる……!」
「ええっ?」
ボクも泪先生も、全速で廊下を走り抜けた。
校則違反でごめんなさい、なんて謝っている場合じゃない。
「うわ~。滝村先生ってば、首筋をカミソリで切断されたのね~」
泪先生が口許を手で覆い、見たままを語った。
そう――滝村先生は首の右にある頸動脈を携帯カミソリで切り裂かれ、絶命していた。
傍らには小物入れが封を開けた状態で捨て置かれ、化粧道具やコスメ用品などが露見していた。恐らくカミソリも、女性が顔のウブ毛を剃ったりするのに使うものだ。
室内一帯が血の海に染まっている。頸動脈の出血は派手だから、そこらじゅう血まみれになってもおかしくない。
「……ほんの少しトイレへ席を外した隙に……まさか自殺されるとは……!」
じ、自殺ぅ?
霜原が愕然と呟いた。女性を救えなくて、悔しそうな語り口だった。
*