窓を流れる景色が見慣れた頃になると、加波子は落ち着きを取り戻していた。しかしやるせない気持ちは拭い切れはしない。

 駅に着く。変わらない駅。変わらない街。何が現実でどこまでが本当なのか。そもそも何が真実なのか、加波子はわからなくなっていた。

 アパートへと歩く。アパートの下。呆然と立ち、ため息をつく加波子。階段を上る。そして踊り場で足が止まる。誰かいる。ドアの前に。確かにいる。でも加波子の感は鈍っていた。

 そうであってほしいと願いながら、一段一段、それを確かめながらゆっくり上る。徐々に見えてくる。

 亮だ。亮がそこに座っていた。加波子はさらに現実がわからなくなる。

 自信のない目の加波子。本当に亮なのか。加波子はそっと荷物を置き、亮にゆっくり近づく。加波子も座り、亮と目を合わせる。加波子は亮を見つめ、確かめる。目、頬、唇。亮の頬に触れようと、加波子が手を近づけた瞬間。亮は目をそらす。

「冷てぇな。前来た時は、なりふり構わず抱き着いて、会いたかったって泣きじゃくったくせに。今日は指一本すら触れない。俺がムショ上がりだからか?犯罪者だからか?」

 パシッ

 冷たい音が響いた。加波子は亮の頬を思いっ切り叩いた。そして気色のない目と気色のない小さな声で加波子は言う。

「私がどれだけ心配して、辛抱して我慢して…。どれだけ…虚しかったか…。」

 加波子は荷物を拾い、玄関を開ける。

「入って。」

 ふたりは部屋に入る。亮にとっては久しぶりの加波子の部屋。

「座って。」

 加波子は亮を、亮のために買った布団の上に座らせる。加波子はその布団をしまうことなくずっと敷いていた。誰も使うこともないのに。

 加波子はため息と一緒に床に荷物を置き、亮のすぐそばの床に座る。亮の目を見ずにゆっくり聞く。

「いつ…帰ってきたの?今日も、手紙出しちゃった…。」

 そんな話に答えることもなく、亮はまた皮肉る。

「どうしたんだよ、今日。いつもより洒落て。男か?」

 加波子も答えない。答えず立ち上がる。亮に背を向けて。加波子は服を脱ぎ始める。カーディガンを乱暴に脱ぎ捨て、ストッキングを脱ぐ。

「何やってんだよ。」

 加波子の手は止まらない。ワンピースのファスナーに手を掛けた時、亮は叫ぶ。

「やめろ!」
「やめない!」

 加波子も叫ぶ。ワンピースが加波子の足元にふわっと落ちる。加波子は黒のキャミソールワンピース姿になった。背を向けているため亮の表情は加波子にはわからない。加波子は感情を亮にぶつける。

「証明したいの、私の気持ち。」

 そして加波子は頭だけ少し亮に向ける。

「体で。」

 それでも亮は冷たくあしらう。

「そんなのどうだっていい。」
「よくない!」
「ふざけんな!」
「ふざけてなんかない!」

 叫び合うふたり。亮は小さく言う。

「…俺にお前は触れられない。俺の手は汚れてる。」

 亮は自分の手を見る。背を向けたまま加波子は言う。

「汚れてなんかない。私にはわかる。」
「お前に何がわかるんだよ!」

 加波子は振り返り、亮の前に座る。そして亮の左腕を両手で掴み、自分の胸元に亮の手のひらを当てる。月と星が亮の指に触れる。

「ここが、わかってる。」

 加波子は両手で亮の頬をやさしく包む。そしてキスをし、亮を見つめる。

「抱いて、亮。」

 加波子はまたキスをする。加波子のキスはどんどん激しくなる。頬にあった手が頭へと。亮の髪をくしゃくしゃにする。そして腕で亮の背中を覆う。

「…亮…。」

 名を呼ぶその声は、前来た時と同じ声だった。声、トーン、やさしさ、切なさ。全く変わっていなかった。

 耳元で囁かれた瞬間、亮から理性が消える。本能があらわになる。今まで抱えてきたものが飛び、飛ぶなら加波子と一緒に。そう思った亮は加波子を押し倒す。

「待って。聞いて。」

 ふたりの感情は破裂寸前。

「亮、愛してる。」

 そう言う加波子はほんの少しだけ微笑んでいた。その言葉を亮は確かに受け取った。

 ふたりは深く深いキスをする。激しく激しい愛を愛し合う。亮のためのシングルの狭い布団の中で。

 愛したいから愛する。ただそれだけだった。

 何度も重なり合うふたり。

 ふたりは初めて重なった。