加波子は生きる。その日も出社前、駅の近くの郵便ポストに手紙を投函する。毎月有給を取り、静岡へ出向いた。手紙の返事は来ない。面会も毎回拒否される。でも加波子はめげなかった。

 静岡。晴天。太陽が眩しい。所では運動会が行われていた。ひとりベンチに座る亮。亮のその目は、どこも見ていない。すると誰かが近づいてくる。別室の男だ。

「おー、お前か?何もしゃべらないロボットってのは。」

 その男は40代くらいの体格のいい男だった。亮の隣に座る。亮は微動だにしない。何も言わずに座っていた。

「お前は何したんだ。」

 男は亮を見る。亮の左手の小指にすぐ気がつく。男は空を見上げる。青い空を。

「お前も大変だな。いいようにこき使われてよ。お前みたいなやつをオレは何人も見てきた。」

 男は続ける。今度は真っ直ぐ前を見る。

「オレは人を殺した。目の前でカミさんと息子を殺したやつをな。」

 亮は初めてその男を見る。

「今でも夢見るんだよ、カミさんと息子の夢をよ。…でももう戻ってこねぇんだよな、カミさんも、息子も。」

 男は亮を見て言う。

「お前はまだ若い。守りたいものがあるなら守り抜け。自分の身を削ってでもな。」

 遠くから男を呼ぶ声がする。

「おー!交代だ交代!」

 男は亮の背中を力強く叩く。

「行け、若僧。」

 亮はしぶしぶグランドへゆっくり走る。その男の言葉がひどく胸に沁みた。足を進めれば進めるほど、亮の心に響いていた。

 東京。少し曇っている。加波子はテーブルの上のスマホを前に、ラインの返事の嘘を考えていた。健からのラインだ。

 日曜、空いてる?

 鋭い健にはどんな嘘も通用しないことはわかっていた。それでも嘘を考えた。

 友達と会います

 ベタな嘘、ベタな内容だ。

 わかった
 またラインする

 健は加波子の嘘を飲んだ。加波子はホッとした。

 加波子の中には亮しかいない。しかしその亮の確信は何ひとつない。亮が加波子に残したものは、記憶と『早く治せ』の文字だけ。自分の気持ちしか確かなものがなかった。

 その自分の気持ちの自信さえなくなりそうで、健と会うのが怖かった。亮への気持ちは錯覚なんじゃないか、本当に存在するのか。残った記憶すら揺らいでしまうのが怖かった。

 何があっても亮のことは忘れたくない。せめて心の中に、ずっと亮は居て欲しかった。何があっても。

「寒くなってきたわねー。カナの誕生日が近くなると冬が来るーって思うわー。」
「やめてくださいよ、人の誕生日を目安にするなんて!」

 喫茶室・ジョリン。いつものように友江とランチ。

「そういえば先輩。いい男、見つかったんですか?」
「んーそうねー。何人かいい人はいるんだけど…。何かが足りないのよねー。何なのかしら。私にもわからない。」
「それは…残念ですね。」
「それより、あんた。毎月有給取って何してるの?…あ、健さんと会ってるんでしょー?聞いたわよ、友達から。2人いい感じだって。」
「有給は秘密です。健さんとは関係ないし、何もないです。なのでこの話はもうおしまい。」
「何よそれー。あんたね、わかってる?これ以上ないチャンスよ?」

 友江は話し続けているが、加波子の耳には入ってこない。途中、加波子がそっと言う。

「先輩。遠くにある確かなものと、近くにある優しいもの。先輩だったらどっちを選びますか?」

 加波子の表情はどこか寂しそうだった。そんな加波子の顔を、長年一緒にいた中で友江は初めて見た。一瞬友江は戸惑ったが、真剣に考え、答える。

「私だったら、近くにある優しいものかな。それでその優しさにたっぷり甘える。遠くに確かなものがあったとしても…きっと色んなものに負けちゃうと思うわ。私はそんなに強くないから。」
「そうですか…ありがとうございます、先輩。」

 11月20日、時刻は23時59分。加波子はベッドの上でスマホを見ていた。日
付が変わる。11月21日になった。加波子の誕生日だ。加波子はスマホを置く。

 狭いベランダに出て手擦りに手を置く。月がよく見えた。加波子は月を見ながら想う。亮のことを。ずっと。

 暗い所内、狭い雑居。亮は静かに立ち上がり、小さな四角い窓を見る。月が見えた。

 加波子と亮。同じ月を見ていた。同じ下弦の月。しかしそれを、ふたりは知らない。