秋。平日の夜。帰宅ラッシュ。駅には雨が降っている。傘をさし帰路につく人の流れ。

 その中で、ひとり出口で立ち止まる加波子(かなこ)。加波子は傘を持っていない。でも近くにコンビニや傘を売っている店はない。雨の降る夜空を見上げ、加波子は呟く。

「タクシーで帰るほどの距離でもないしなぁ…。」
 
 加波子はひとりぽつんと立っていた。きっとこの後、自分は傘をささずに歩いて帰るのだろうと、雨に降られ濡れて帰るのが自分らしいと、加波子は思っていた。

 すると後ろからひとりの足音がした。でも加波子の耳には入らない。加波子は物思いにふけ、ただただ雨の夜空を眺めていた。

 そんな加波子を見つける(りょう)。足音は亮のものだった。

 ひとりで雨を見つめる小柄な女。加波子は微動だにしない。亮は不思議に思いつつも、後ろから少しの間見ていた。そして亮は少しずつ加波子に近づき横から声を掛けてみた。

「あの。」

 誰かに声など掛けられたことのない加波子は、目を見開き、跳ねるほど驚く。

「はい!」

 加波子は降り向く。背が高めの、作業服を着た男がそこにいた。

「傘、持ってないんですか?それとも迎えを待って…。」
「いえ!傘が、ないんです。」

 亮は自分の持っていた古い小ぶりのビニール傘を加波子に差し出した。

「どうぞ。」

 突然のことで混乱する加波子。

「いや、でも、ご自身が濡れちゃうじゃないですか…。」
「俺は…。」

 雨の様子をうかがう亮。これくらいの雨なら濡れても構わないと思った。

「俺は大丈夫です。どうぞ。」

 加波子は差し出された傘をそっと受け取る。

「じゃ…。」

 亮は一言言い放すと、すぐに雨の中を走っていった。加波子が礼を言う間もなく。

「ありがとう…ございます…。」

 加波子は雨の中走る亮の後ろ姿に、小さく礼を言う。そんな亮の姿を加波子はずっと見ていた。見えなくなるまでずっと。

 そして加波子は傘を見つめる。駅でひとり、ぽつんと。

 加波子は思い切り傘を開いた。やっと駅から一歩踏み出した。加波子と亮、それぞれが帰路につく。雨は止まない。

「あの人、大丈夫かな。傘返さなくちゃ。…でもどうやって…?」

 加波子は立ち止まり傘を見上げる。ため息をついたその時、加波子は見つけた。傘にプリントされた文字を。それはどこかの社名と電話番号のようだった。でもはっきりとは見えない。

 急いで帰る加波子。アパートの玄関を開け、ろくに雨水をはらっていないその傘を部屋に広げる。

「相原工場株式会社…。」

 そこには、雨に濡れた希望の傘、傘から落ちる確かな雨粒、そして雨の音。

 それがふたりの最初、ふたりが交わった瞬間だった。