冷蔵庫を開けると、腸詰と燻製チーズが大量に入っていた。満月は昨日だったっけ。そんなことを思いながらカレンダーを確かめると、どうやら昨日がそうだったらしい。
そろそろ、アレの日かな。
毎月恒例の特別な日が、やってこようとしていた。
***
「明日、有給とったから」
「えー、毎月毎月合わせてくれなくても良いのに」
私の宣言に対して、彼はチーズを頬張りながら答える。
「今月はいつもの周期と比べると少し遅いね。体調の変化? それとも月の光の具合かな」
「ここ最近雨が降っているからかも」
毎月訪れる、私たちにとって特別な日。月に一度の特別な時間。それが、あと数日で来る。
「薬も貰いに行かないとだね。鎮痛剤、切らしちゃってるでしょ」
「そうだね。もういつ来るかもわからないし、貰っとくよ」
彼はチーズの袋を空にして、私が焼いた腸詰に手を伸ばす。皿に山盛りにされたそれが、みるみる彼の細い体に吸い込まれていく様子は不思議だった。
「ハサミも研ぎに出してたのが昨日戻ってきたし、食料も十分用意した。薬さえ手に入ればカンペキよ」
テーブルの上に置かれた、10人分はあろうかという量の料理は、あっという間に彼の体に収まっていく。
「私、有給と合わせてあと3日は休みだから、いつでもバッチこいだからね」
「いつもありがと」
用意した料理を全て平らげた彼は、満足げな顔をしながら風呂場へ向かっていった。シャワーを浴びるのだろう。
彼を見送って、魔法瓶のお茶を飲む。ラジオの電源を入れて、82.5MHzにつまみを合わせると、ちょうどクラシックの番組が始まるところだった。
『今夜は、特別な人と過ごす時間にぴったりの曲をお送りします。数年に一度の珍しい満月の夜も終わり、また普通の夜がやってきました。』
落ち着いた声のナレーションの後に、静かに音楽が始まった。ふと思いついて、タオルを持って彼のいる風呂場へ向かう。
風呂場のドアを開けると、彼は頭を流しているところだった。
「びっくりした。急に開けるんだもん」
どうした、と振り向く彼の顎から、雫が垂れる。
「あ、いや、この背中も、何日かすると見れなくなるのかなって思うと今のうちに触れておこうかなというか、なんというか」
「じゃあ背中、流してくれる?」
私に向けられた背中は普段見るよりも少し大きく見えて、手で直接触れると、とても暖かい。
タオルに石鹸をつけて少し泡だてて、背中を擦る。擦っているうちに、どんどん背中でタオルが泡立ち始めた。面白くなってゴシゴシ擦っているうちに、私は気づいた。
彼の背中全体に、うっすらと毛が生え始めている。背中だけではない。全身の体毛が、急激に濃くなり始めている。
「ねえ、毛伸びてるよ」
背中の泡を湯で落としながら声をかけるが、彼には、私の言葉などすでに聞こえていないようだった。
どうやら、今月の発作が始まったようだ。
獣のような呻き声を上げながら風呂場の床にうずくまった彼の体は、灰色の体毛にみるみる覆われていく。頭は人間のものから、狼のものへと形を変え、全身の骨格が少しがっしりとしたものにミシミシと変形する。痛みに悶えながら姿を変えていく彼を、私はうっとりしながら眺めていた。
彼は、じっくりと痛みを味わいながら、人狼へと変身を遂げた。
そう、彼は突発性獣人化症候群なのだ。
***
「痛み止めなかったから死ぬかと思ったよ。君もただ見てるだけだし」
「ごめんって」
彼の毛を乾かしながら謝る。全身から生えた彼の灰色の体毛は、子犬の毛のように柔らかい。この毛も、明日になったら処理しなければいけないんだな。そう思うと残念だった。ドライヤーの風で、彼の健康な柴犬みたいな耳が、パタパタした。
「それにしても、難儀な体質だねぇ」
突発性獣人化症候群。五百万人に1人しかいないと言われる奇病。一ヶ月に一回、正確には満月になるごとに、彼は半人半獣の存在となる。大抵一晩経てば元の姿に戻る。他にも細かい症状やそれに関する体質を抱えており、病気に対する理解もそれほど進んでいないこともあって、この病気の人は大分苦労しているらしい。
「せっかく休み取ってもらったのに、まさか今こうなるとは思わなかったよ」
そうだね、と返事だけして、彼のマグカップに温かい麦茶を注ぐ。この状態の彼の嗅覚は犬のそれと同格であり、匂いや刺激の強いものは厳禁なのだ。
「まぁ、後の処理とかすることを考えたら休みとって正解だったと思うよ」
「そうかなぁ……そうとも言えるか」
人狼と化した彼は、人間の姿の時よりもずいぶん精悍な顔立ちになる。真っ黒な目に、スラリと伸びた鼻、鋭い牙が口を開くたびに見えてドキドキする。
とりあえず、と彼は続ける。
「明日の準備だけしたら僕は寝るよ。朝、元に戻るときにまた痛い思いはしたくないし、薬飲んで寝る」
私が研ぎに出した鋏と、先週の新聞、バリカン、剃刀、爪切りとやすり。手慣れた様子で道具を揃えおえると、彼は歯を磨き始めた。
鋭い歯が規則正しく並び、その間を歯ブラシが走り回る。人間のものよりは幾分か薄くなった舌が、開いた口の中に見えた。
「なに?」
私の視線に気づいたのか、歯磨きを止めて私を見る。
「いや、なんでもない。ちょっと見惚れてただけ」
彼は、少し眠たげに、くすぐったそうに笑った。
***
皿を片付けてから、洗濯物のスイッチを入れた。明日のチラシに赤ペンで丸をつけて、ふと壁にかけてある写真を見る。私と人狼が肩を組み、一緒に写っている。そういえば、私と彼が出会ったのも満月の次の日の夜だったな。コーヒーの温もりだけが残ったカップを流し台に置いて、部屋の電気を消した。
トイレに行ったあと、彼の布団に潜り込む。私の布団は隣に敷いてある。でも、この特別な日は、彼に黙って一緒に寝ることにしていた。
薄いパジャマの布越しに、彼のふわふわした毛を感じる。普段よりもがっしりした骨格なのに、抱き心地はぬいぐるみのように柔らかい。少し高めの体温をもっと感じたくて、肩に腕を回して密着した。
「トイレ行ってもいいかな」
突然耳元で声がして、心臓がドキリと跳ねる。
「起きてたの?」
「睡眠薬、飲み忘れたなって思って」
こっそりこんなことをしていたことがバレて、今度は私の体温が上がるのがわかった。
「いや、まあ、たまには……」
そっか。とだけ呟くと、彼は私の腕の中から抜け出て、そのまま寝室からも出て行った。
「気持ち悪がられたかなぁ……」
水が流れる音を聞きながら、ひとりごとをこぼした。
枕元の時計を見ると、まだ夜11時をすぎたくらい。秒針が3周しても彼は戻ってこない。彼の体調の心配と、嫌われたかもしれないという心配を両手に抱えてリビングに行った。
リビングの窓が開いている。いつから晴れていたのか、空には千切れて小さくなった雲が少しと、既に欠け始めている月が浮かんでいた。
月明かりがカーテン越しに部屋に差し込んで、はっきりと異形の輪郭を照らしている。
ピンと立った耳、服の間から溢れる柔らかい毛、スラリと伸びた鼻と口、がっしりした肩のラインが緩やかにスマートな腰に流れ、腰のところからはみ出た尻尾に辿り着く。
振り返った獣人が言う。
「僕といっしょにいてくれて、ありがとう」
窓から吹き込む風で白いカーテンがはためいて、急に彼が遠くへ行ってしまいそうな気がした。
「なに、急に」
逆光のせいなのか、彼の灰色の毛を一本ずつ数えられそうなくらい、彼のことがよく見れた。
今まで何度も見たはずな微笑みが、こんなにも儚く、慈愛に満ちていたことを、私は今、初めて発見する。
「今、言っておくべきことだと思ったんだ。なんとなく。」
私の精一杯の強がりを、彼は柔らかく受け止めて。温かく、柔らかく、優しく彼の腕が私を包む。ふかふかの胸をいっぱい抱きしめて、私はもうひとつ発見した。
これこそが、しあわせのさわり心地なのだと。
そろそろ、アレの日かな。
毎月恒例の特別な日が、やってこようとしていた。
***
「明日、有給とったから」
「えー、毎月毎月合わせてくれなくても良いのに」
私の宣言に対して、彼はチーズを頬張りながら答える。
「今月はいつもの周期と比べると少し遅いね。体調の変化? それとも月の光の具合かな」
「ここ最近雨が降っているからかも」
毎月訪れる、私たちにとって特別な日。月に一度の特別な時間。それが、あと数日で来る。
「薬も貰いに行かないとだね。鎮痛剤、切らしちゃってるでしょ」
「そうだね。もういつ来るかもわからないし、貰っとくよ」
彼はチーズの袋を空にして、私が焼いた腸詰に手を伸ばす。皿に山盛りにされたそれが、みるみる彼の細い体に吸い込まれていく様子は不思議だった。
「ハサミも研ぎに出してたのが昨日戻ってきたし、食料も十分用意した。薬さえ手に入ればカンペキよ」
テーブルの上に置かれた、10人分はあろうかという量の料理は、あっという間に彼の体に収まっていく。
「私、有給と合わせてあと3日は休みだから、いつでもバッチこいだからね」
「いつもありがと」
用意した料理を全て平らげた彼は、満足げな顔をしながら風呂場へ向かっていった。シャワーを浴びるのだろう。
彼を見送って、魔法瓶のお茶を飲む。ラジオの電源を入れて、82.5MHzにつまみを合わせると、ちょうどクラシックの番組が始まるところだった。
『今夜は、特別な人と過ごす時間にぴったりの曲をお送りします。数年に一度の珍しい満月の夜も終わり、また普通の夜がやってきました。』
落ち着いた声のナレーションの後に、静かに音楽が始まった。ふと思いついて、タオルを持って彼のいる風呂場へ向かう。
風呂場のドアを開けると、彼は頭を流しているところだった。
「びっくりした。急に開けるんだもん」
どうした、と振り向く彼の顎から、雫が垂れる。
「あ、いや、この背中も、何日かすると見れなくなるのかなって思うと今のうちに触れておこうかなというか、なんというか」
「じゃあ背中、流してくれる?」
私に向けられた背中は普段見るよりも少し大きく見えて、手で直接触れると、とても暖かい。
タオルに石鹸をつけて少し泡だてて、背中を擦る。擦っているうちに、どんどん背中でタオルが泡立ち始めた。面白くなってゴシゴシ擦っているうちに、私は気づいた。
彼の背中全体に、うっすらと毛が生え始めている。背中だけではない。全身の体毛が、急激に濃くなり始めている。
「ねえ、毛伸びてるよ」
背中の泡を湯で落としながら声をかけるが、彼には、私の言葉などすでに聞こえていないようだった。
どうやら、今月の発作が始まったようだ。
獣のような呻き声を上げながら風呂場の床にうずくまった彼の体は、灰色の体毛にみるみる覆われていく。頭は人間のものから、狼のものへと形を変え、全身の骨格が少しがっしりとしたものにミシミシと変形する。痛みに悶えながら姿を変えていく彼を、私はうっとりしながら眺めていた。
彼は、じっくりと痛みを味わいながら、人狼へと変身を遂げた。
そう、彼は突発性獣人化症候群なのだ。
***
「痛み止めなかったから死ぬかと思ったよ。君もただ見てるだけだし」
「ごめんって」
彼の毛を乾かしながら謝る。全身から生えた彼の灰色の体毛は、子犬の毛のように柔らかい。この毛も、明日になったら処理しなければいけないんだな。そう思うと残念だった。ドライヤーの風で、彼の健康な柴犬みたいな耳が、パタパタした。
「それにしても、難儀な体質だねぇ」
突発性獣人化症候群。五百万人に1人しかいないと言われる奇病。一ヶ月に一回、正確には満月になるごとに、彼は半人半獣の存在となる。大抵一晩経てば元の姿に戻る。他にも細かい症状やそれに関する体質を抱えており、病気に対する理解もそれほど進んでいないこともあって、この病気の人は大分苦労しているらしい。
「せっかく休み取ってもらったのに、まさか今こうなるとは思わなかったよ」
そうだね、と返事だけして、彼のマグカップに温かい麦茶を注ぐ。この状態の彼の嗅覚は犬のそれと同格であり、匂いや刺激の強いものは厳禁なのだ。
「まぁ、後の処理とかすることを考えたら休みとって正解だったと思うよ」
「そうかなぁ……そうとも言えるか」
人狼と化した彼は、人間の姿の時よりもずいぶん精悍な顔立ちになる。真っ黒な目に、スラリと伸びた鼻、鋭い牙が口を開くたびに見えてドキドキする。
とりあえず、と彼は続ける。
「明日の準備だけしたら僕は寝るよ。朝、元に戻るときにまた痛い思いはしたくないし、薬飲んで寝る」
私が研ぎに出した鋏と、先週の新聞、バリカン、剃刀、爪切りとやすり。手慣れた様子で道具を揃えおえると、彼は歯を磨き始めた。
鋭い歯が規則正しく並び、その間を歯ブラシが走り回る。人間のものよりは幾分か薄くなった舌が、開いた口の中に見えた。
「なに?」
私の視線に気づいたのか、歯磨きを止めて私を見る。
「いや、なんでもない。ちょっと見惚れてただけ」
彼は、少し眠たげに、くすぐったそうに笑った。
***
皿を片付けてから、洗濯物のスイッチを入れた。明日のチラシに赤ペンで丸をつけて、ふと壁にかけてある写真を見る。私と人狼が肩を組み、一緒に写っている。そういえば、私と彼が出会ったのも満月の次の日の夜だったな。コーヒーの温もりだけが残ったカップを流し台に置いて、部屋の電気を消した。
トイレに行ったあと、彼の布団に潜り込む。私の布団は隣に敷いてある。でも、この特別な日は、彼に黙って一緒に寝ることにしていた。
薄いパジャマの布越しに、彼のふわふわした毛を感じる。普段よりもがっしりした骨格なのに、抱き心地はぬいぐるみのように柔らかい。少し高めの体温をもっと感じたくて、肩に腕を回して密着した。
「トイレ行ってもいいかな」
突然耳元で声がして、心臓がドキリと跳ねる。
「起きてたの?」
「睡眠薬、飲み忘れたなって思って」
こっそりこんなことをしていたことがバレて、今度は私の体温が上がるのがわかった。
「いや、まあ、たまには……」
そっか。とだけ呟くと、彼は私の腕の中から抜け出て、そのまま寝室からも出て行った。
「気持ち悪がられたかなぁ……」
水が流れる音を聞きながら、ひとりごとをこぼした。
枕元の時計を見ると、まだ夜11時をすぎたくらい。秒針が3周しても彼は戻ってこない。彼の体調の心配と、嫌われたかもしれないという心配を両手に抱えてリビングに行った。
リビングの窓が開いている。いつから晴れていたのか、空には千切れて小さくなった雲が少しと、既に欠け始めている月が浮かんでいた。
月明かりがカーテン越しに部屋に差し込んで、はっきりと異形の輪郭を照らしている。
ピンと立った耳、服の間から溢れる柔らかい毛、スラリと伸びた鼻と口、がっしりした肩のラインが緩やかにスマートな腰に流れ、腰のところからはみ出た尻尾に辿り着く。
振り返った獣人が言う。
「僕といっしょにいてくれて、ありがとう」
窓から吹き込む風で白いカーテンがはためいて、急に彼が遠くへ行ってしまいそうな気がした。
「なに、急に」
逆光のせいなのか、彼の灰色の毛を一本ずつ数えられそうなくらい、彼のことがよく見れた。
今まで何度も見たはずな微笑みが、こんなにも儚く、慈愛に満ちていたことを、私は今、初めて発見する。
「今、言っておくべきことだと思ったんだ。なんとなく。」
私の精一杯の強がりを、彼は柔らかく受け止めて。温かく、柔らかく、優しく彼の腕が私を包む。ふかふかの胸をいっぱい抱きしめて、私はもうひとつ発見した。
これこそが、しあわせのさわり心地なのだと。