結局、来てくれなかった。LINEにも、既読はついていない。
「海音、海音は今、何してるの?」
今日来たら、絶対殴ってやる。
だけど、心の奥底では、「今日も来ないではないか」と思ってしまう。
まるで、私以外のすべての人が私を忘れてしまったかのように。
そんなことない。そう信じたい。
時刻は午前十時。今日の朝も、結局食べられなかった。
「海音、早く来て・・・」
外がざわついている。
「何、何が起きているの?」
とうとう天使が私を迎えに来たのだろうか?だとしたら、私は海音を一生呪ってやる。私を見捨てた、海音へ。
いや、最初に捨てたのは私かもしれない。
そうか、だから海音は来なくなったのか。そうだよね、私から関わりを立っておいて今頃こんなこと言って。海音からしたら嫌だよね。私みたいな人間。
だとしたら、外にいるのは天使じゃなくて悪魔か。
「ごめんね海音、こんなお姉ちゃんで。」
ドアが開く。

俺は走る。ただ、無心で。
身体の節々が悲鳴を上げるが、必死に足を動かす。
とある建物についたのは午前八時。
「ここか。」
俺は乗り込んでいく。
「失礼します。」ドアを開ける。
「誰だね、君は。」
見た目は四十代半ば。おそらくこの人が部長だろう。
「水無月文音の弟の水無月海音です。」
「ああ、文音君の弟か。どうした?文音君から連絡は受けているぞ。」
心臓が張り裂けそうになる。だけど、言うしかない。
「皆さんに、手伝ってほしいんです。」
「それじゃ何を言いたいか分からんだろ。なんだ、君はからかいにでも来たのか?」
「姉からどのようら連絡を受けたのかは知りません。ただ、姉貴は味覚忘却症と診断されました。このままでは、姉は死んでしまいます。だから、皆さんに手伝ってほしいんです。」
「ちょ、死ぬってどういうことよ。先週は元気だったのに。」
受け入れてくれないことは承知済みだ。だけど、受け入れてくれないと、俺の博打はここで終わってしまう。
「お願いします。このままだと、姉貴は・・・」
「人のことをバカにしないでよ!子供だからって、容赦しないよ!」
まずい、この展開は。
「で、私たちに何ができる?」
「部長、何言ってるんですか?こんな子供のお遊び!」
「だけれども、文音君はうちの社員だ。いや、それ以上に私は一人の人間として文音君を救う義務がある。もし、その手伝いができるのなら、私は喜んで協力しよう。誰か異議のあるやつはいるか!」
誰も、何も言わなかった。
「見苦しいところをお見せしてしまったな。で、私たちに何ができる?」
「あ、すみません、二度も聞かせてしまって。」
「構わないよ。それより文音君のことだろ。」
「最初は俺も姉貴の原因が何か分からなくて、正直今もよくわかりません。
だけど、もし姉貴が「ありがとう」の味を忘れてしまっているとしたら、今の姉貴の病状に説明がつくんです。」
「「ありがとう」の味か。難しいな。」
「俺も、こんなことが本当に起きるのかはわかりません。だけれども、少しでも可能性があるのなら俺はその可能性にかけてみたいんです。バカな話だとは分かっています。それでも、お願いします。」
「言っただろう。私は喜んで協力すると。それで、私たちには何ができる?」
「多分、「ありがとう」で姉貴の心を埋め尽くすしかないと思います。姉貴が「ありがとう」を思い出すまで。そのための準備はしてきました。」
「そうか。よし、みんな、行くぞ。」
「はい!」
「ありがとう、部長。ありがとう、皆さん。」
「最後に一つだけ忠告しておこう。君みたいな美男子が泣くのはもったいないぞ。」
いい人と出会えたな。姉貴。

次聞いたのは聞き覚えのある声と、クラッカーの音だった。
「ごめんね、そしてありがとう、文音。」
「みんな、どうしてここに?」
今日は休みという連絡はしておいた。それにどうやってこの場所を知った?
「ありがとう、文音君。そして、君もいい弟を持ったものだ。将来はうちに欲しいくらいだってそんなことはどうでもいいのだが、君の弟が話しがっているぞ。」
「海音!」身体が、勝手に走り出していた。
海音に体を預ける。すごくずっしりとした身体。海音って、こんなに大きかったんだ。
「姉貴、本当に、一人にしてごめん。そして、ありがとう。」
この瞬間、何かが変わった気がした。
「もう、二度と離さないから!大好きだから!海音。」
「俺も、大好きだよ、姉貴。」
「こんなのずるいよ、本当に。本当に・・・」
「姉貴、いやだと思う。だけど、食べてほしい。」
海音が取り出したのはオムライス。
「もう冷めちゃったと思うんだけど、ダメか?」
一瞬吐き気がする。だけど、オムライスにケチャップで書いてある文字を見て、目と心が潤む。
「今までありがとう、そしてこれからもよろしく姉貴。 海音より」
何か分からない。自分に何が起きているか分からない。だけど、今なら食べられる気がするんだ。
「分かった、食べる。」
決意は海音にも伝わったらしい。
「ありがとう、姉貴。」そう言って私を離す。
オムライスを口に運ぼうとする。途中、拒否反応が出るが、必死に耐える。
みんなが私を見守っている。なら、私もその期待に応えたい。
とうとう、口に入った。
「美味、しい。」
その瞬間、私を含めみんなの目が見開いた。
「海音、海音、本当に、ありがとう。」やっと、言えた。
ああ、せっかく海音が心を込めて作ってくれた美味しいご飯なのに。
また涙の味しかしなくなった。
海音が駆け寄ってくる。私はそれを両手を広げて待つ。
奥を見ると、みんなが喜び、泣いている。
私、こんなにたくさんの人に迷惑かけてたんだ。
海音がダイブしてくる。
海音も、泣いていた。
私は残りのオムライスを平らげた。
結局涙の味しかしなかったけど。

どれくらい泣いていただろう。
姉貴は、何も言わずに俺を支えてくれていた。
途中、オムライスをがっついて食べているところを見た時は微笑んだ。
そうか、そんなつらかったんだ。
久しぶり、と言っても二日ぶりに触れた姉貴のただでさえ細い身体はさらに細くなっていた。
そんなことはどうでもよかったんだ。俺はただ、また姉貴と笑いあいながら一緒においしいご飯が食べられる。それだけでよかったんだ。
姉貴は、その日のうちに退院した。
この日は、最高の日だった。
みんな、本当にありがとう。