『執事のシャルール』へ、ようこそ。

最悪この会社を辞めることになるかもしれない。
でも、やるだけのことはやったよ? と、昨夜声をかけてくれた女性に心の中で報告した。



「失礼します」
庶務課の課長と不安げな様子の見崎史佳が入ってくると、岡部課長はどうぞ前へと彼らを促した。

課長の席から向かって左側に営業二課の課長と保坂。右側に秘書課の課長と見崎史佳が並ぶ。

岡部課長は、保坂に言った通り、そして保坂が答えたとおりのことを寸分たがわず庶務課のふたりに報告した。

そして岡部課長は庶務課の課長と営業二課の課長に、自身のスマートホンの画面を見せた。
いつのまにか石井からなにかを送信してもらったのかもしれない。
一体なにが映っているのかは羽菜子にはわからないが。


ふたりの課長は深い溜息をついた。

「見崎さん、田中さんにあやまりなさい」

庶務課の課長に促されて史佳は泣きそうな顔を見せた。

「私、別にそんなつもりは、まさかそんな……」

言い淀んだが、保坂は黙ってはいなかった。

「はあ? 田中さんがバーでパパ括しているから行ってみろって、君が言ったんじゃないか。俺はまさかって言ったのに、行けばわかりますよって」

「そ、そんなこと、私、言ってませ……」
案の定、見崎史佳は泣き出した。

予想通りの展開に、羽菜子は静かにため息をつく。

それにしても"パパカツ"ってなんだろう? あとで調べようと思ってまだ調べていなかったことをぼんやりと思い出した。
大体の想像はつくが。


「とにかく、今回の事は全てセクシャルハラスメント事案として報告させてもらいます」

見崎史佳の悲しげな涙に同情する人は、どうやらこの部屋にはいないらしい。
岡部課長の断固とした発言に異議を唱える人は誰もいなかった。


「ということで。以上です。お戻りくださって結構です」

時折しゃくりあげる史佳のすすり泣きを聞きながら、
泣きたいのは私のほうだよと、心の中でつぶやいた。

正直泣きたいし、ここで涙を見せた方が可愛い気もあるのだろう。

勝ち負けでいうなら、シクシクと泣けば勝てるかもしれないとも思う。
自分は被害者なのだから。

でもそれをしてしまったら最後。コツコツとここで積み上げてきた十年間の色々なものが、自分の心の中で音を立てて崩れてしまうと羽菜子は思った。

何のためにがんばってきたのか。
少なくとも、年下の後輩女子の意地悪で泣くためじゃない。こんなくだらないことで、経理課のみんなにこれ以上迷惑をかけられない。
そう思えば、涙は心の中で乾いていった。


この騒ぎの結果が、これからどう収まるのかは想像もつかないが、受け入れる覚悟だけはしておこう。そんなあきらめに似た気持ちを抱えながら、羽菜子は立ち上がった。

少なくとも営業二課と庶務課の課長には申し訳ない気持ちで一杯だった。
もちろん岡部課長以下経理のみんなにも。

――忙しいのに、すみませんでした。そして皆さん、本当にありがとうございます。

そう思いながら深く腰を曲げて頭を下げた。





6.勇気の向こう側



「なにかあったんですかねぇ」

経理部の騒ぎは、廊下を挟んで反対側にある情報システム課の目にも映っていた。

「営業の保坂さんと庶務の見崎さんか。何やらかしたんだ?」

「あ、話が終わったかな?」

岡部課長が立ち上がって何を言ったあと、遅れて立ち上がった羽菜子が頭を下げたところだった。

そんな時、自由人の笹木はフットワークも軽い。
「ちょっと聞いてくる」と、なんの戸惑いも見せずに立ち上がった。


羽菜子が顔を上げた時、廊下の向こうから笹木が歩いてくるのが見えた。

――えぇ!?

彼はあきらかに、経理課に向かって歩いて来る。

彼の場合は、興味津々というよりも一体何が起きているのか聞こうという、そんな感じの表情だった。

これはまずい。
羽菜子は慌てて扉に走った。


笹木が経理課の前に着いた時は、タイミングよく保坂が出てきたところだった。

「何があったんスかぁ」

首を傾げ、拍子抜けするほど間延びした笹木の問いかけに、保坂はホッとしたように頭をポリポリと掻いた。

「いやー、ちょっとナンパしようとしただけなのに参ったよ」
「ナンパ? 誰を?」

――やめて!
扉を開けた羽菜子が耳にしたのは、保坂の――。

「田中さんだよ、あんな地味なお」
そこまで言ったところで、次の瞬間、保坂は床に倒れていた。

キャアア!
見崎史佳の悲鳴が響く。

笹木が殴ったのだ。

「さ、笹木くん! やめて」
おろおろしながら、羽菜子が声をかけるが、笹木の耳には届いたのか、届かなかったのか?

「てめぇ、俺の彼女に何した」
彼は鬼の形相で、転がっている保坂を睨め付けた。

飛び出そうなほど目を剥いて笹木を見上げる保坂は、驚きのあまり声にならないらしい。あわあわと口を動かした。

「あ゛!? ハナコに何したって聞いてんだよっ!」

保坂のネクタイを引っ張る笹木を止める情報システム課の面々と、後ろから笹木の上着を引っ張る羽菜子に、野次馬に向けてシッシと手を払う経理課の男性社員。

「や、やめて! 笹木くん!」
「やめろっ! 笹木」

乱れに乱れそれはもう大変な騒ぎになった。



「笹木くん……」

「ハナコ、大丈夫か?」
笹木はヒシッと羽菜子を抱きしめた。

「うん。私は大丈夫だよ……」

――多分。

「あ、あの、みんな見てるから――」



それから三十分後。


すったもんだの末、笹木と羽菜子はそれぞれの課長と共に、会議室に呼び出された。

「いいか、笹木。暴れるなよ」
「はーぃ」

扉の前に課長に念を押されてもなお、笹木は不満たっぷりの様子だった。

結局、石井が手に入れた証拠の画像はSNSのスクリーンショット画像で、そこには見崎史佳が撮ったと思われる『執事のシャルール』のカウンター席にひとりで座っている羽菜子の写真と、コメントがあった。
コメントには『タナカハナコ。ただいまパパ活中』

それを見た笹木の激怒ぶりは凄まじく、SNSに参加して笑っていた庶務課の女の子ふたりにも怒りの矛先は向かった。
相手が女性なだけに、声も荒げずもちろん暴力も振るわないが、
『どういうことか、なぜハナコがこんなことを言われなくちゃいけないのか、ここで、ちゃんと、説明してください』
そう言って庶務課を動かなかったのである。

会議室には、先に保坂や庶務課の女性たちが呼ばれて事情を聴かれたということだった。
そこには経理の岡部課長も同席し、彼女たちが少しでも誤魔化そうものなら容赦しなかったというのは、後から聞いた話だ。


会議室に入ると総務部の部長。
そして専務取締役が待っていた。


「笹木、君が保坂を殴った理由は」

「えーっと、申し遅れましたが、俺と彼女は付き合ってます。恋人として保坂が許せませんでした」
なぜだか意気揚々として上を向いている笹木は、悪びれることもなく当然のように言う。

「だからって、いきなり暴力はないだろう?」

「彼女を侮辱して恐怖に陥れる保坂のしたことはどうなんですか、暴力と同じですよね!? 庶務課のあいつらだって同じだ。SNSでありもしないハナコの噂を流しまくって、悪意ある暴力ですよね? 訴えてもいいですか? 男を送り込んだんですよ? 主犯じゃないですか!」

いまだ怒りが収まらないというふうに、笹木はまくしたてる。

「わかった、わかった。とりあえず落ち着け」

総務部長と専務取締役がやれやれとため息をつく。

「田中さん、笹木はこう言っているが、君たちが付き合っているのは本当なんですか? 直接関係はないが一応、彼が暴力をふるった理由として確認させてください」

総務部長がそう言って、羽菜子を振り返った。

「――はい。お付き合いさせていただいています」

実はそんなつもりはないし、彼がどうしてあんなことを言ったのかわからないが、ここはそう言わないと笹木の立場が苦しくなるだろう。
そう思って、羽菜子はうなずいた。

満足げに羽菜子を見ていた笹木は聞かれてもいないのに、

「これからプロポーズしようと思ってたんですけど、なるべく早く結婚することにします。危ないんで」
と言い出して止められた。

「笹木、お前はもういい」


羽菜子はただただ真っ赤になって、うつむく。
お願いだからもうそれ以上なにも言わないでと、心の中で笹木に訴え、祈るばかりだった。

正直既にへとへとに疲れ切っていた。
予想を大幅に超える事態に、自分はなにか、とてつもない間違いをしたのではないかという不安で、笹木の暴走についても、声を出して止める気力もないほどに。

そんな羽菜子を察してか、総務部長は優しい声で語りかけた。

「田中さん、今回は大変でしたね。勇気を持って告白してくれてよかった」

「あ、あの。すみませんでした」
「いやいやいいんだよ、謝らないでほしい。いいんだよ、田中さん。君は怒ってしかるべきことをされたんだ。まぁ怒ったのは君じゃなかったが」

総務部長はギロリと笹木を見た。
当の笹木はそんなことは気にも留めないらしく、胸を張ったままムッとしている。

「会社としては二度とこのようなことがないよう注意はするが、なに分こういった事は、私たちの見えないところで起きる。今後ももし、おかしいと思うことがあれば気兼ねなく上司に報告してください」

「はい。ありがとうございます」

最後に総務部長は「まぁ、でも今後は大丈夫だとは思いますが」と、凶暴な番犬に呆れたように、笹木をもう一度ギロリと睨んで話を終えた。




夕方退社する前に羽菜子が岡部課長に確認したところによれば、一番の被害者である羽菜子の申し出により、今回に限りは全員お咎めなしということになりそうだということだった。

「本当に、それでよかったのですか?」