『執事のシャルール』へ、ようこそ。

でも、悲しいかな。時計の針は進んでも、事態はなにも変わらない。
涙と一緒に自分の体が溶けて消えてしまうこともないのだ。

ここでいつまでも泣いてはいられない。マスターが心配しないよう、涙をしっかりとぬぐって席に戻った。

戻るとすぐ、料理が運ばれてきた。

「チーズハンバーグです」
とろりと溶けたチーズを纏っているハンバーグだった。

その他に、砕いたナッツが絡んでいるレンコンとサーモンとブロッリーのサラダ。コーンスープ。

ここで頂く最後になるだろうディナーが、子供のころから大好きなハンバーグであることに胸が熱くなる。

デザートのチーズケーキを出しながら、小声でマスターが言った。

「こちらはサービスです」

「……あ」
それ以上は言葉にならなかった。

静かな店内を満たすのは、口数の少ないマスターの優しさとジャズ。

――ありがとうございます。


肉汁が溢れるハンバーグにチーズを絡めて口にすると、牛肉の旨味を包み込んだチーズが溶けだして口の中いっぱいに美味しさがひろがった。

美味しいと思ったら、うっかり頬を涙が伝ったけれど、拭ったら泣いていることがわかってしまう。
我慢することが礼儀だ。泣くなら家でと、羽菜子は自分に言い聞かせた。

こんな時も薄暗い店内はいい。
多少泣いたところで、他の人には気づかれずに済むのだから。

お皿が空になり、気持ちが落ち着いたところで汗を拭くふりをして顔をぬぐい、席を立った。



会計を済ませると「防犯ベルはお持ちですか?」とマスターが聞いてきた。

「え? あ、はい」

「そうですか、さっきの男がちょっと心配で」
マスターは心から心配してくれているようだった。

「ありがとうございます、心配してくださって。今日はタクシーで帰ることにしたんです。さっきスマートホンで呼んだので、多分もう着くころだと思います」

「それならよかった。ああいう男はしつこいかもしれませんから、今後も充分気をつけてください。とっさの時はスマートホンのAIに叫ぶといいですよ『××、110番して』ってね」

「なるほど!」
思わず感心して羽菜子は目を丸くした。と同時に感傷的な気分は吹き飛んで、あははと笑顔がこぼれる。

「またのお越しをおまちしております」

「はい。ありがとうございます」

店を出ると一方通行の路地裏にタクシーが入って来るのが見えた。

ホッとしてタクシーに向かって手を上げ、歩き出そうとした時。店の扉が開くカランカランという音がした。

振り返ると、出てきたのは店内にいた女性客。
時々見かける、おそらく羽菜子と同じくらいの歳のOLさんだった。

「あの……」
戸惑ったような彼女の瞳は、あきらかに羽菜子に向けられている。

なんだろうと首を傾げる羽菜子に、彼女はなにかと思い詰めたように小さく頷いてから、口を開いた。

「負けないで……負けないでください。またここに来てくださいね」
そう言って、右手で小さなガッツポーズを作って、ぎこちなく笑う。

――あ。

彼女は、羽菜子の後ろ側のテーブル席にいた。保坂とのやりとりも全て聞こえていたのだろう。


「あ、ありがとうございます。――また来ます。来ます、必ず」

今の自分の顔に浮かんでいるのは、彼女よりももっと不器用な笑みに違いないと思う。
泣いているか笑っているかわからないような顔をしているだろう。

それでも羽菜子は精一杯の笑顔を作り、ガッツポーズを返した。

うんと頷いて、女性は店内に戻っていく。



タクシーの中で羽菜子は心を震わせながら思った。

――これは私だけの問題じゃない。

彼女のためにも、きちんと否定しなければいけない。

店にひとりで来ている女性にも、男性にも、そして『執事のシャルール』のためにも。

このままにはしておけないんだ。



5.戦う時




その夜は、ほとんど眠れなかった。

保坂の好色で下品な笑顔が脳裏に浮かび、悔しさと怒りで吐き気が込み上げた。

声をかけてくれた彼女のためにも、助けてくれたマスターのためにも、そして自分のためにも。
『執事のシャルール』を守らなければいけない。

――あの店は女性がナンパされるためにひとりで行くような店じゃないのだから。


保坂のことだけでなく噂のほうも、できることならなんとかしたい。

ただの噂だからと否定しないでいると、肯定したことになってしまうことがある。既に噂が営業まで伝わっているとなると、会社全体に行き渡っているかもしれない。

経理課の地味なアラサー女子の噂にみんなが関心を持つとは思えないが、噂を信じて行動を起こす人物が保坂だけとは限らない。
羽菜子が店にいなくても、他のひとりで来ている女の子をそんな目でみられた困る。


心配なことはひとつあった。
もしかしたら外泊した話になるかもしれないということだ。

――笹木くんには……。彼には知られたくない。巻き込みたくはない。
恥ずかしい噂が、どうか、どうか彼の耳には届きませんようにと願うばかりだった。


――とにかく、そのためにも早くなんとかしなきゃ!

強い決意をもって迎えた次の日の朝。

コーヒーをひと口飲んで気持ちを落ち着けたところで、小声で隣の席の加住先輩に話しかけた。

「あの、ちょっと相談が」



否定といっても、ひとりで保坂に対峙するだけの勇気はないし、うまく事を収める自信もない。

いざとなると根性なしの自分が情けないが、どうしたらいいか、まずは信頼のおける加住先輩に相談することにした。

どこで先輩に話を聞いてもらうかは迷うところだった。
会議室に呼び出すほどでもないし、かといって休憩室や給湯室のように誰がいつ来るかもかわからない場所では話しにくい。となるとここが一番安全で無難だと思えた。ぼそぼそした小さい声なら、部屋の男性たちに内容までは聞こえないだろう。

そんな様々なことを思い巡らせながら、羽菜子は小さな声で、それでもはっきりと加住先輩に声を掛けたのだった。



加住先輩は内緒話を察して、羽菜子に体を寄せて、耳を傾けた。

「実は昨夜……」

『執事のシャルール』での出来事をひと通り説明した。

もし二度目があったら人事課にハラスメントとして相談しようと思っているが、やはり不安なので、いま人事課に訴えたほうがいいでしょうかと。そう言うつもりだった。

ところが、話の途中で驚いた加住先輩が「えっ!」と声を上げたのである。

「ちょっと、なにそれ!」

岡部課長も他のふたりの男性社員も、ギョッとして仕事の手を止めた。

「どうしました?」

「え、いや、あの」

「田中さん、これは許しがたい事件よ。課長にもみんなにも聞いてもらわなきゃ」

「――え」


結局羽菜子は、岡部課長を含む経理課全員を相手に説明することになった。

「――というわけで、それ以上なにかされたわけではないんですが、昨夜ちょっと怖かったので、一応相談したほうがいいかと思いまして……」


「わかった」

そう答えた岡部課長の動きは早かった。

営業に電話をして保坂を呼び出したのである。


「君のところの部下の保坂と一緒に来てください」

――え?

「いますぐだ」

岡部課長の口調は淡々としているが、怒り心頭というのが全身から滲みでていた。

「その店のマスターに感謝だね、田中さん」
加住先輩の前に座っている関さんが、そう言ってしきりに頷いた。

「ほんとですよ。それにしてもなにか変な噂でもあるんでしょうか、ちょっと営業の同期に聞いてみますね」
羽菜子の向かいに座る後輩の石井がそう言ってスマートホンを手にした。

加住先輩は怒りが収まらないようで、
「どこからどうみても真面目な田中さんになに妄想してんのかしら、気持ち悪い」
腕を組んでブツブツと文句を言っている。


「みなさん、すみません……」

これから一体どうなってしまうのか。
途方に暮れる思いで羽菜子はしょんぼりと小さくなった。


「いや、言い辛いことをよく言ってくれた」
岡部課長の声は毅然としていて、彼女を見つめる目は優しい。


と、そこに「失礼します」と、営業二課の課長と保坂が来た。
どうぞと、岡部課長は自分の席の前に来るよう、彼らを促した。


「私から簡単に説明します。昨夜うちの田中がレストランバーで食事をしているところに保坂が現れて、
『俺でどうよ。で? いくらなの?』『隠すなって、ここで男探してるんだろ?』『大丈夫だよ、誰にも言わないからさ』と言って迫られたということだが、どういうことですか」


――ひぇ!?

いきなりで、あまりにも直球すぎる岡部課長の発言に驚いて、羽菜子は椅子から転げ落ちそうになった。

「なんだって?」
営業二課の課長は仰天して保坂と羽菜子を見比べた。

「田中は店のマスターに助けられたと言っています。君は店を追い出されたそうですね」

営業二課の課長は、保坂を怒鳴りつけた。
「本当なのか!? 保坂!」

「いや、あの、す、すみません、いや、俺ただ、確認したかっただけで。なんにも、な?田中さん、俺、結局なにもしていないよな?」

「保坂さん、あなた、言葉の暴力ってわかります?」
加住先輩がすかさず抗議して、
「なんの確認ですか」
岡部課長はどこまでも冷ややかにそう聞いた。


営業二課の課長はさすがに部下のことはかわいいのだろう、諭すように問いかけた。

「保坂、お前は一体誰から何を聞いたんだ?」

保坂は店を追い出された時にしたような苦虫を潰したような顔をして、溜息をつく。
あれくらいで騒ぎやがってという気持ちが、片方の目を歪める仕草に現れていた。

確かに実際なにかをされたわけじゃないし、羽菜子もいまのこの状況を望んだわけではない。
これが正解だとか正しいとかそういうことはわからないけど、でも、こうしなければ結局自分は、"バーで男を探している"ことにされてしまうのだ。
このままでは、『執事のシャルール』に二度と行けない。
決着をつけなければ。

負けちゃいけないと自分に言い聞かせて、ジッと保坂を見つめて羽菜子は立ち上がった。

「保坂さん。私は今後も第二第三の保坂さんに、昨日のようなことを言われ続けるのかもしれないという恐怖を、受け入れることはできません」

自分でも驚くくらい、はっきりとした声で言う事ができた。
それは多分、昨夜声をかけて応援してくれたあの女性の勇気のおかげだと思う。


羽菜子と保坂を皆が交互に見つめる中、ガラッと音をたて羽菜子の前に座っている石井が立ち上がった。
そして岡部課長の席に向くと、課長にスマートホンの画面を見せた。

画面を見た課長は、眉間のしわを一層深めて保坂に向き直った。

「保坂。この場で解決したいなら、正直に答えてください。誰になにを言われたんですか」

またひとつ溜息をついた保坂が、もごもごと言う。