母は『ありきたりかと思って、漢字にこだわったのよ』と言うけれど、声に出せばハナコはハナコでしかない。
病院で『タナカハナコさん』と呼ばれて席を立った時の、ああ、そんな感じの人って言っていそうな周りの雰囲気とか、『お前の名前って、なんかジミだよな』って、地味の意味もまだわかっていない子供の頃、男の子にからかわれたりしたこととか、自分でも妙に納得してしまう。
――笹木くんの名前もそう。
遊ぶと書いてユウ。いかにも自由な彼らしい名前だ。
「えー、行こうよ、行こうよ」
「でも叶野さん来ないんでしょう?」
「またぁ、そんなこと言ってないで」
話の内容から飲み会の相談らしい。叶野さんというのは海外事業部のイケメンなので、社内の独身男女で飲み会でもあるのだろう。
「笹木さん誘おうよ」
「ええ? でもこの前も断られちゃったからなぁ」
「きっと彼女がいるんでしょ、私も何度か誘ったけど迷惑そうに断られちゃったし」
「えー、そうなんだぁ」
ここが職場であることを忘れそうになる会話を、羽菜子は意識的にシャットアウトした。
背中を向けたまま、ただコーヒーが完全にカップに落ちるのをじっと待つ。
気が遠くなるほど長い数十秒に耐え、ほっとしながらコーヒーカップを持ってその場を離れながら、なんとなく、まだ新人と言われていた頃の自分を思い出してみた。
記憶の中の自分は、肌はピチピチしていたし、スーツは借り物のように馴染んでいなかったけれど、今の自分とほとんど変わらない。
痩せっぽちで地味な経理の女子。
少なくとも彼女たちのような華やかさは全くなかったなぁと、思う。
それでも、儀礼的とはいえ飲み会に誘われることもあった。
社会人としてこういう付き合いもできなければいけないという妙な責任感に後押しされて、一度だけ出席したけれど、その時の居心地の悪さったらなかった。
楽しくもないのに作る笑顔は自分でも呆れるほど引き攣っていたし、流行の歌も知らずテレビドラマもわからず、話題には何ひとつ、ついていけなかった。しまいには緊張しすぎてグラスは倒すし、ようやく口から発した言葉は見当違い。
このまま夜空に溶けてこの世から消えてしまいたいと思いながら帰ったその日の経験がトラウマになり、それ以来飲み会には行っていない。
誘われることすらなくなってから久しいが、会社主催の飲み会も強要してはいけないという世の中の風潮のおかげで、なにも困ることはなかった。
そんな感じなので、羽菜子には恋人がいるはずもなく、心配する田舎の母が時々親戚からお見合いの話を持ってくる。
三十五歳になったら考えるからと断っているけれど、あと数年で約束の時を迎えてしまう。そう考えると気が重かった。
歳を重ねただけで、この厄介な性格が変わったわけじゃない。
見合いをしたところでろくに会話もできないだろうし、上手くいくとは到底思えなかった。
そんな自分を振り返り、今後の人生を考えると、不安と寂しさで押しつぶされそうになる。
ひとりで生きていくのは別にいいとして、病気をしたらどうなるんだろう、
仕事がなくなったらどうやって生きていったらいいのか。
そもそもなんのために生きているのか。
ついにはそんなことまで考えて暗くなる。
――そんなこと、いま考えても仕方がないのに。
気を取り直してコーヒーを飲みながら、今夜のメニューはなにかなぁ、と考えた。
彼女には唯一の楽しみがある。
それはお気に入りの店でディナーを愉しむことだった。
2.レストランバー『執事のシャルール』
定時でオフィスを出た帰り道。
道なりに十分ほど歩き、左に曲がった路地裏に何軒か飲食店が並んでいる。その真ん中あたりにあるオレンジ色の明かりが漏れる店。
『執事のシャルール』
今から五年前。
ぼんやりと歩いていて迷い込んだ路地裏で、偶然見つけたレストランバーだ。
金曜日だったと思う。
ちょうど今頃の年末で、街はクリスマスの装飾に彩られてキラキラして、忘年会とかパーティとか、道行く人々はなんだか浮かれているような夜だった。
なにか嫌なことがあったわけじゃなかったと思う。
仕事を終えて通りに出た時には、落ち込んでいたわけでもなかったし、多分、今日の夕ご飯は何を作ろうかなぁとかそんなことを考えていただろう。
それが羽菜子の日常だったから。
でも歩いているうちに、道行く人々のちょっとした笑顔とか楽しそうな話声に追い詰められていくような、そんな感じがして、
気がついた時には、とてつもない寂しさとか、やるせなさで心が一杯になっていた。
誰か、私のことをギュッと抱きしめてくれませんか。
優しく、愛してるよって囁いてくれませんか。
そんなこを紙に書いて、街角に立ったら、誰か、誰か優しい人が拾ってくれるかな?
そんなできもしないことを考えた。
メイン通りのイルミネーションが眩しすぎるのがいけないんだと、避けるように路地裏に入った。
暗い通りにホッとして肩を落とすと、ぼんやりとオレンジ色の灯りが見えて。
カウンターにはひとりで座っている女性や男性がポツリ、ポツリといて、何か美味しそうに食べていた。
その日を境に、羽菜子はそこで時々、最低でも毎週金曜日。
『執事のシャルール』でディナーをとることを楽しみにしている。
アンティークなドアベルが揺れて、カランカランというという重い鈴の音が響き、
マスターの低音ボイスが耳に届いた。
「いらっしゃいませ」
古いヨーロッパを思わせるアンティーク調の設えの店内は仄暗く、ガラスシェードから洩れる優しいオレンジ色のあかりが灯っている。
長いカウンターが奥に向かって伸びている。
カウンター席がメインで、その他には向かい合わせに一人ずつしか座れないテーブル席がいくつかあるだけだの小さな店だ。
グループ客が来ても一緒にテーブルを囲むことはできないので、客は一人か二人のことが多い。
その客を迎えるのはマスター。
歳は四十代だろうか。店の一部のように雰囲気に溶け込んでいる彼は、すらりと背が高く物静かで白シャツに臙脂のネクタイをして黒いベストを着ている。まっすぐに伸びた高い鼻、涼やかな目元、意思が強そうに結んだ口。
もしも彼がチェーンつきの眼鏡をかけたら?
そんな想像をするとワクワクしてしまう。
マスターの前世は間違いなく執事だ。羽菜子は彼を見る度に、そう確信する。
そして他にもうひとり、若い男性のバーテンダーがいる。
若いバーテンのほうは学生のアルバイトかもしれない。同じ人ではなく、何人かが交代しているようだ。
特徴的なのは、そのバイトの若者もマスターも申し合わせたように静かな佇まいをしていて、客の注文を聞くなどの他は、余計なことはしゃべらないということ。
ついでに言うと、彼らはなぜこんな小さな店に?と不思議に思うくらい、揃ってイケメンだった。
羽菜子はいつものように奥へと進み、カウンターがちょうどカーブを描いているあたりの席に腰をおろした。
頼むメニューはいつも同じ。
「おまかせディナーをお願いします」
変わらぬ注文に、マスターもまた同じように答える。
「かしこまりました」
レストランバーという割には店のメニューは少ない。
食事となると『おまかせディナー 千五百円』という一種類しかなかった。
しかも、大変申し訳ありませんがという腰の低い前置きと共に、アレルギーや好き嫌いがある方には対応致しかねますという注意書きが付いていて、何が出てくるのかは、聞かないとわからない。
アルコールやチーズの種類は豊富なのに、料理となると客に選択の余地を与えないという一風変わった店である。
それでも、おまかせディナーはとても美味しいし、価格は税込千五百円なのに料理に合わせてグラスワインがつくことを思えばかなりお得なので、常連の客は多いようだった。
注文を終えたところで、羽菜子は奥の壁を振り返った。
焦げたような濃い茶色の壁の中に浮かび上がる、深紅の薔薇――。
額縁に飾られているそれは、幾重にも重なり合い、濡れたように輝いている。
ふっくりと艶やかで、どんなに見ていても見飽きないこの店のシンボリックなその花を、彼女はじっと見つめた。
静かなジャズに耳を傾けながら、頬杖をついて薔薇を見つめていると、つまらない毎日が紅い花弁によって価値あるものに塗り替えられていくような気がした。
変わらない毎日。
嫌なこともそんなにない代わりに、楽しいこともない。
"彼氏もいないだろうけど、きっと友達もいないよね。タナカ ハナコとか、名前まで地味すぎてウケる"
"寂しくないのかな。あのままおばさんになっちゃうんだよ"
"あとニ十年くらい経ったら、白髪になったあの人が、あの席にいるよね"
"きゃあ、ありえそうで、こわーい"
"でもさ、田中さんって何が楽しくて生きているんだろう?"
女の子たちが囁くそんな陰口も、燃えるような紅に吸い込まれて、溶けていく。
ひとしきり眺めたところで、羽菜子は店内に目を向けた。
店の一番奥のテーブル席には女性客。他にカウンターの中央付近には男性。
どちらもひとり客だ。
女性は多分おまかせディナーだろう。
男性はスマートホンを見ながら、ウイスキーかなにか、琥珀色のお酒を飲んでいる。
マスターもバーテンもどの客も誰一人会話を交わすことはない。
ただ音楽が流れるだけ。
同じ静寂な空間でも経理課のそれは違う。
緊張感のないこの居心地のいい沈黙が、彼女はなによりも好きだった。
全ての我慢はここに来るため。
そう思うだけで、十分幸せになれた。
「お待たせしました。サルスエラでございます」
「うわぁ、美味しそう」と、思わず声が漏れた。
若いバーテンがにっこりと目を細めるが、羽菜子はそんなことにも気づかず、湯気の立つ魚介の煮込み料理に魅入った。
ムール貝、アサリ、海老、イカ、あとはなんだろう?
トマトとニンニクとサフラン、他にナッツをペースト状にしてオリーブオイルと混ぜて煮込んだ具材と絡めてまた少し煮込むスペイン料理、サルスエラ。
自分でも作ったことはあるが、使った材料は冷凍のシーフードミックス。
食材が全然違うことを差し引いても、なにもかもが全くの別物だった。
今夜は金曜日だし、今週は忙しくて来れなかったし、残業続きのご褒美にワインをおかわりしてチーズも頼もう。
羽菜子は、そう決めた。