あたしが10の時。パパは死んだ。
 優しくて弱い人だった。細い腕で頭を撫でられる感触と、儚く消えてしまいそうな笑顔を覚えている。
 あたしの記憶の中にいるパパは、いつでも真っ白い部屋の真っ白いベッドの上。
 直視すると白に反射した光で目が眩みそうで、まっすぐに見ることが出来なかった。
「あたし大きくなったら、お医者さんになってパパを治してあげるからね」
 そんな言葉を吐いたことがあったっけ。
「麻里が大きくなるまでに生きてられるかなぁ」
 へなへなと笑うパパの顔を見て、あたしは涙を流したんだと思う。
 ごめんねというパパの顔が頭から離れない。
 パパは肺がんの発覚から五年、苦しい闘病生活を送り、死んだ。

 あたしが15の時。父親ができた。
 優しくて強い人だった。太い腕で頭を撫でられる感触と、豪快で快活な印象がとても苦手だった。
 パパが死んでから、あたしは母親と二人で生きてきたあたしにとって、母親を守ることがあたしの使命のように感じていた。女手一つであたしを育てる母親を、今度はあたしが救う。そう信じていた。
「私の夢は、公務員になって母親を楽させてあげることです」
 そんな言葉を作文で書いたことがあったっけ。
「麻里の好きなように生きていいんだよ」
 母親は当時のあたしにそういったけれど、その時のあたしにはそれがあたしの全てだった。
 だから母親があたしの助けを必要としなくなった時、全てが失われた。
 勉強も評定も進路も目標も。全てが一瞬で無意味な物になってしまって。あたしは高校受験への勉強を辞めた。
 すまんと申し訳なさそうにあたしに接する父親も、あたしを裏切った母親も大嫌いだった。
 あたしは高校に上がるのと同時に、煙草を吸い始めた。



『まーちゃん、やっぱり煙草は辞めた方がいいよ』
『なんで』
『なんでって、いいこと一つもないじゃない』
『ストレス解消』
『そのストレスの原因の何割かはニコチン切れでしょ? 悪質なマッチポンプ。それに煙草で肺でも――』
『それ以上は言わないで』
『……言われたくなければ辞めればいいのに』
 あたしが高校二年生になり、人生で最も華々しいとされる時期を迎えた時。佳晴は人生で最も忌々しいとされる受験期に突入した。
 受験期という事もあり、佳晴の母親は今まで以上に気合を入れ始め、圧はエスカレートしていった。ただ等の佳晴も流石に受験期となればモチベーションは上がるのか、いつもの熟すような勉強とは違い、明確に相手を意識した勉強に変わっていった。
 もちろん彼が目指すのは日本の頂点。東大に入らなければ生きている価値が無いと言われんばかりに、母親からは東大の情報が次々と送られてきた。
『今日も気合入ってますねぇ』
『まーちゃんこそ。ゲームしてないで宿題でもやったら』
『宿題なんて簡単すぎてすぐ終わったよ』
『じゃあ受験勉強でもしたら? 一年早く始めとくと楽だよ?』
『中学校の頃から東大を目指してる人間が言うと、重みが違いますねー』
 スタートダッシュが肝心とはよくいった物だ。小中と優等生で通ってきたあたしは基礎がしっかりしていたのか、勉強に対する抵抗感が少なかったのも相まって高校教育で躓くことは無かった。と言っても高一の範囲での話で、彼が手にする数Ⅲの参考書なんかを捲ってみてもなんのこっちゃ分からない。まぁ、このままいけば多分分かるようになる。
 学校でつるむ騒がしい奴らは案の定脳みそはすっからかんで、よくこの高校に入れたもんだと考えさせられる。そんな人間の中であたしは一種のヒーローで、ちやほやされることも実は楽しかったりする。
 将来の目標なんて全然分からないけど、とりあえず目の前の事だけはやっている。グレても結局は根が真面目なんだ。
『東大に行くの?』
『行ければね』
「行けるでしょ?」
『どうかな』
『春の模試の判定見たよ? 合格確定じゃん』
『この世界に確定なんて言葉は無いんだよ。残念ながらね』
『じゃああたしが東大に入るのも絶対無理だとは限らないね』
『今から猛勉強すれば行けるんじゃない? 東大行きたいの?』
『絶対行かない。うちの学校で東大なんて言った日には教師からも疑われるよ』
『後輩になったら楽しそうなのに』
『楽しいなんて感情ないくせに。あたしは嫌だよ。お前の後輩なんて』
『酷い言いようだ』
 今じゃ学校にいる時以外は殆どこいつと一緒にいるんだ。大学まで一緒になってたまるか。
 去年までは週三のペースで家に来ていた佳晴の悪魔も、今じゃ日曜日に来るだけだ。佳晴が悪魔に対して「集中したいから」と言えばそれまでだった。まぁ実際それで彼も今まで以上に勉強するようになったんだから母親としても満足なんだろう。
『佳晴、パソコン使っていい?』
『スマホあるじゃん』
『データ制限』
『使いすぎなんだよ』
『最近じゃ佳晴だってそこそこパソコン使うじゃん』
『まーちゃん程じゃないよ』
 その会話を合意と取ってあたしはパソコンの前に座る。
 アカウントを選択することを決して間違わぬように慎重に行い、彼のパスワードを入力してログインした。
 このパソコンは佳晴が一人暮らしを始める時に母親から買い与えられたものだ。アカウントは実家の物と共有で、検索履歴や使用頻度まで監視されている。ネットを全面的に禁止されていたらしい過去から比べれば飛躍的な進歩なのかもしれないが、傍から見ればきちんとした地獄だ。
 ただ生憎彼の母親は機械には詳しくなったようで、基本は全てを佳晴に任せていた。アカウントこそ共有で監視できているが、そのアカウントを増やす権限を佳晴が持っていることなんて知らないらしい。
 数日に一回、彼の実家と同期したアカウントで、大学の情報や入試の出題傾向をまとめたサイトを覗く。それだけで彼の母親は信じ切っていた。自分の洗脳が完璧だと思い込んでいるのだろう。だってあの母親にとって佳晴は自分の分身で。自分には向かうことのない存在なんだから。
『絶対なんてないんだよ』
『なにが?』
『なんでもない』
 まさか息子の部屋にこんな悪が住み着いているなんて思いもしないだろう。
『変なこと調べないでよ?』
『佳晴より変なこと調べないって』
『僕なんか変なこと調べてる?』
『変な掲示板にいるじゃん』
『あれは、まぁ』
 お気に入りのタブからとある掲示板を開く。
 誰にも言えない悩みがある人間が集まる匿名掲示板だ。ここで佳晴は特に何かを書き込むわけでもなく、様々な感情に任せた愚痴を読んでいる。
『こんな掲示板に書き込むわけでもなく、読むだけって。相当気持ち悪いよ?』
『そうかもね』
『そうかもって』
『僕さ。前まで自分がおかしいって気が付かなかったんだ。居心地の悪さは感じていたけど、誰しもこんな感じなんだと思ってたんだよ。ここに一人暮らしを始めたのだって勇気が必要だった。親から逃げ出すなんて僕はなんて弱いんだろうって思って。それでも前の生活は窮屈で必死に逃げ出した』
『で、自分の立ち位置がわかったと?』
『情報なんて手を伸ばそうとすれば幾らでも手に入るからね。びっくりしたよ。僕がいる場所が周囲からみたらそんなに不幸だったなんて思わなかった。それに去年まーちゃんと出会って、まーちゃんはインターネットを教えてくれた。でも、掲示板を見てると落ち着くんだ。自分がずいぶんとマシに見える』
『悪趣味』
『人は自分より下がいないと安心できないんだよ』
『ずっと思ってたんだけど、ネットって学校でもやるじゃん? 今までどうして触らなかったの?』
『なんだろう。分からないんだけど、インターネットで他人の情報とかに踏み込めると思っていなかったのかも。公式の情報を扱っているだけのものだと思っていたし』
『それも親の洗脳ってこと?』
『僕が無知だっただけだよ。インターネットは凄いね。この中にすべての知識が詰まっている。そりゃ僕に触れさせたくない訳だよ。向こうにしたら僕にリンゴを食べられちゃ困るからね』
『あたしが蛇ってか?』
『そうかも』
『否定はできないけど』
 溜息交じりにあたしはネットサーフィンを続ける。
 マウスのクリック音と彼のシャーペンの音がやけに大きく聞こえる。
 この静寂が心地いい。家に帰れば、過干渉の男がいると思うだけで嫌気がさす。最近ではここで寝泊まりすることも増えてしまったし。ここでの生活の方が心が休まる。
『そういえば、さっき自分より下がいないとって言ってたじゃん?』
『え? うん』
『それってつまり、あたしのことを下に見てるってこと?』
 佳晴はあたしの言葉にいつもの感情が籠っていない笑みを浮かべる。
『そんなことない。まーちゃんは僕の光。上も下もないよ』
『わけわかんない』
『そう?』
『きもっちわるい』
 あたしの言葉にまた佳晴は笑った。

 佳晴がおかしくなりだしたのはその年の六月あたりだった。
『まーちゃん。ここの掲示板に書き込んでる人達って、どんな思いをして生きてるんだと思う』
『は?』
『辛いって口に出来て、自分がなぜ生きてるのか分からなくなって。それでもなんで生きているんだろうって』
『何言ってんの?』
『僕は思うんだ。だったら死んだ方がマシじゃないかって』
 梅雨の季節特有の陰鬱に頭が腐ってしまったのかと思った。
『そんなの死ねないから生きてるんでしょ』
『どうして? 人間なんて中層のマンションから飛び降りるだけで死ぬことができるのに』
 壊れ始めた佳晴の目はやはりいつも通り死んでいる。あたしはここに来てようやく、彼を蝕む黒い何かを見た。今までは無知ゆえに体の中で留まっていたそれが、光を見て溢れ出してしまったんだと気づいた時にはもう彼にはあたしの言葉なんて響かなくなっていた。
『なにか、あったの?』
『ううん。なにもない。大丈夫だよ。大丈夫』
 そして彼はまた勉強机に向かう。
 まるでバグを起こしたロボットだった。
 勉強していたと思えば突然震えだし、また勉強に戻る。暫く経つとまた発作のように何かを喋り出し、それが落ち着くと取りつかれたように机に向かう。
 そんな状態が一週間は続いた。
『僕は、教師になるんだ』
 そう呟くのが彼の口癖になった。
『医者になんてなりたくない』
 次にそれが彼の口癖になった。
 あたしは彼のいない隙に彼の机を漁り、原因を探した。
 きっと志望校の模試判定が下がってしまったんだろうと決め打ちして、彼の母親が綺麗にファイリングして机に並べたそれを手あたり次第捲っていった。
 しかしそこにあるのはあたしが見たこともない教科ごとの偏差値と全国順位。志望校の欄にはどれも十分な評価が並んでいる。
『怖い』
 それがあたしの第一声だった。
 頭は良いのは知っていたし、何度か模試の結果も見たことはある。しかしこう並べられると恐怖を感じてしまう。いうなればバグを使って無理やり上げたステータスのような。そんな一目見て分かる異常性がそこにはあった。
 それが彼の母親の創り出した勉強の鬼の実力。彼の地獄のような日々の賜物。
 努力は報われる。そんな言葉を吐くにふさわしい結果があたしの目の前には広がっていた。
『でもなにも問題ない……』
 ただそこに彼が壊れ始めた原因は見つからない。
 そんな時、ふと四月の初めに行われた模試の結果を見た。最近返却されたのだろう。ファイリングされた中でも後ろの方にある。しかし、目を引いたのはそれが原因ではない。その結果用紙だけが、まるでランドセルの底でぐちゃぐちゃになったプリントのように皺だらけだった。一度丸められたそれを伸ばしてファイリングしたのだろう。
 目を通してみると内容は一見他のものと区別がつかない。
 高い点数と偏差値。同じアルファベットが並ぶ志望校判定。
『あ……』
 ただ一つだけ他の模試と違う箇所を見つける。
『第一志望……』
 そこには「文科三類」の文字が書かれていた。
 あたしは慌てて、ファイリングされた他のページを見る。どれもこれも第一志望には「理科三類」の文字が書かれていて、そもそも文科の文字すら見えない。
『まーちゃん?』
『――!』
 佳晴の言葉に驚きあたしはファイルを背中に隠して振り返る。
『あぁ、模試の結果か。いいよ。別に見たって』
『えっと』
 佳晴は笑っている。その張り付いた笑顔の奥には何が隠れているのか。到底想像もつかない。
『あ、もしかしてこの間の模試の結果かな。おかしいよね。先生にも母親にも怒られちゃった』
『怒られた……? こんなにいい点数なのに?』
『違うよ。あの人たちが怒っているのは僕が理科三類以外を第一志望に書いたから』
『……なんで』
 佳晴はなんとも思っていないような顔で冷蔵庫を開け、キンキンに冷えた缶珈琲を手に取る。カシュとプルタブが開けられる音が静寂に響いて、彼は続けた。
『最初は先生。模試の後で職員室に呼び出されたと思ったら「第一志望の欄、間違ってるぞ」って。おっちょこちょいだななんて言われたからきっと僕が理科と文科を間違えたとでも思ったんだろうね。だからちゃんと、これであってます。って言ったら不思議な顔をされたんだ』
 珈琲を喉に流し込み、一息をつく。
『どうして理科三類に行けるのにって。このままいけば安泰なのにどうしてこの時期に文転なんかするんだって。だから僕はそこで初めて他人に夢を話したんだ。教師になりたいんですって。……そうしたらなんて返されたと思う? 東大に行って地方の教師に落ち着くのはもったいない。だってさ』
 きっと今まで母親に理科三類を書かされていたんだろう。きっと佳晴を自分の夫と同じように医者の道に進めたいんだ。佳晴自身も受験シーズンになって勇気を振り絞ったんだろう。でもそれを一蹴された。
『結局は文科三類のまま押し通したよ。先生は不服そうだったけどさ。……けどまだそれは良い方。問題はあの人』
『あの母親』
『模試の結果を見た瞬間、殴られたよ。何を考えてるのって。それが先週』
 佳晴が壊れ始めたきっかけか。本人はきっと自分がおかしくなったことに気が付いてないんだろうけど。
『だから意を決して伝えたんだ。教師になりたいって。今までずっと押さえていた自分のことを話した。そしたらさ。殴られもしなかったんだ』
『え?』
『鼻で笑われただけだった。呆れたように溜息をついて「次からはまた理科三類って書きなさい」って』
 佳晴は缶に残った液体をすべて飲み干して、その缶を力なく床に落とした。
『おかしいよねぇ……』
 彼の手は震えている。震えた両手を見つめて、ゆっくりと自分の顔を触る。その行動は自分の存在が消えていないことを自ら確かめるようだった。
『僕は本当に馬鹿だった……。なぜか自分の夢を語ればあの母親も許してくれると思ってたんだ。東大だったら許してくれると思ってたんだ』
 彼は光の無い目であたしを見つめながら、透明な涙を流した。
 その涙は悲しみから出た物なのか、怒りから出た物なのか分からない。それどころか、そんな行動を取る彼の姿が、人間の感情を模倣しようとする機械か何かに見えてしまった。
『僕には最初から、僕が許されていなかったんだ』
 佳晴はふらふらとあたしに近づく。その姿が怖くて後ずさると、彼はあたしに目もくれずに勉強机に座った。
「もういいんだ。……なんか、糸が切れた」
 彼が最初にあたしに言ったことを思い出した。
 じゃあ、僕と同じだ。
 今の佳晴はあの日のあたしと同じだった。母親に裏切られた気がして全てがどうでもよくなったあたしと同じ。あの時あたしを救ってくれたのは紛れもなく佳晴だった。不器用な間の詰め方と何を考えているか分からないその顔の奥が不気味だったけれど、佳晴があたしを助けた。
 だったらあたしがすべきことは今の彼を救うこと。
 なにをすべきかは分からないけれど、手を差し伸べなくちゃ。
『ねぇ……。佳晴』
『……ごめん。まーちゃん。今はちょっと。……邪魔だ』
『――』
 怖かった。
 すべてを諦めてしまった人間の顔を始めて見た。
 パパが死んだときの母親も。父親ができた時のあたしの顔も。まだどこかに光を求める何かがあった。
 そして前までの佳晴も。あたしを光と呼んだ時に見せた表情は、何かに縋りつく物だった。
 でも、今は違う。
 そこにあったのは人間ではなく。恐らく死。
 自己を放棄し、人間としての尊厳を失った操り人形だった。
『……ごめん』
 そうしてあたしは彼から逃げた。
 これがあたしの罪。
 消えることのない罪の最初の一歩。



 私が目を覚ましたのは昼を過ぎたあたりだった。
 いつもと違うカーテンが日射を遮り、目覚めの悪い朝だった。慣れない天井で焦点を合わせる為にぱちぱちと瞬きをする。
「莉緒、いまなん……あ」
 時計を見ることを横着しようとして読んだ名前が空に溶ける。
 そうだ。今日は莉緒がいないんだった。
 カーテンを開けてみると厚い雲が半分に割れて太陽が差し込んでいる。アスファルトは濡れていて、明け方に少しだけ降ったのだろうかと推測してみる。
「墓参りの時に降らなきゃいいけど」
 私は寝ぼけながら階段を降り、母親にそっけない挨拶をする。和男さんはもう出てしまったらしい。世の社会人は夏休みが短くて可愛そうだ。
「お父さんなんか元気だったけど、何かあったの?」
「知らない」
「そう」
 単純な人。そんなに嬉しかったんだ。
 口角が上がりそうになるのを我慢して台所に立ち、冷蔵庫を開けてみる。流石実家。ぎっしりと物が詰まっている。
 きゅるきゅるとお腹が鳴き始めたので、卵とベーコンを取り出しフライパンに火を点ける。大きな欠伸をしていると、台所に立つ私の元に母親が飛んできた。
「なにしてるの?」
「なにって。朝ご飯でも作ろうかなって」
「……は?」
「は?」
「あんた料理なんてできるの? 卵割れるの?」
「割れるよそんくらい」
 卵を割るのは得意だ。莉緒が来る前にもカップ麺によく卵を落としていたし。
「あんた料理するようになったの?」
「まぁ……。最近ね」
 母親の口が大きく開かれたまま動かなくなる。卵の一つくらい余裕で入りそう。
 娘三年会わざれば刮目して見よ。なんちゃって。



 アスファルトの上に広がる水溜りが日差しに照らされて蒸発し、周囲の湿度をグンと引き上げる。それでもまだ向こうの日中よりはマシな田舎の昼過ぎ。
 私は散歩感覚で墓地までの熱帯路を歩く。
 文句の一つや二つ出したいくらいだが、こっちには移動手段がないんだから仕方ない。
 まずはパパの墓参り。こっちはまだ家から近いからいい。問題はその後、佳晴の墓参り。
 静かな住宅街を歩いていると、自分の知らない新しい家がポツポツと建ち始めている。この町も変わっていくんだ。そんなことに少しだけ喜びを感じる。こんな街にひっこしてくる変わり者もいるんだ。
 新規住宅の庭には見覚えのある青のプラスチックでできたプランターが置かれている。プランターの上部には細い黄色の支柱が伸び、そこにアサガオが巻き付いている。ここの家には小学生の子供がいるんだろう。夏休みにひぃひぃ言いながら持って帰った記憶がある。
 そういえば今年はアサガオを見ていなかったななんて思いながら、もう花を閉じてしまった夏の風物詩を見る。
 一日で一瞬だけ花を開いて、殆どの時間は恥ずかしがりのように隠れてしまう。どうしてそんな生態をしているのか分からないが、不思議な物だ。
 気が付けば八月も折り返しを迎えた。
 夏が終わればアサガオの季節は終わってしまう。しばらく経てばこのプランターもただ玄関先に忘れられるのだろう。
「なんか、寂しな」
 今朝見た夢のせいか、どうも感傷的になっている。いや、どちらかというと、お盆のせいなのかな。
 しばらく歩くとパパが眠る墓地が見えてくる。
 お盆開けだって言うのにちらほらと人がいて、お盆に合わせて帰ってこれない人もいるよね。なんて親近感を覚えてみたり。
 今朝の雨で墓石は濡れていたが、せめてもの親孝行として手桶とひしゃくを借りて水を入れて行く。砂利の敷き詰められた歩道を歩きながら様々な墓石の前を通り過ぎていく。
「パパ。ただいま」
 そしてお目当ての場所に辿り着く。私が長瀬になる前の苗字が書かれた墓。パパは一人っ子だからきっとパパが最後に入ることになったお墓。
「ごめんね。お盆に帰ってこれなくて」
 墓の前にはまだ綺麗な花が刺してあって、なんとなくこれは和男さんの物だろうななんて考える。それを水に濡れないように一旦どけて、墓石にひしゃくで水を掛ける。
「暑いよね。墓石も溶けちゃいそう」
 掃除を終えたら花を戻し、持ってきた線香を取り出す。ライターを取り出して火を点けると、白い煙が細く伸びた。
「ライターで驚かないでね。これでもあたし二十五なんだから。煙草だって吸っていい年齢なんだよ?」
 線香を置き、手を合わせる。
「……ごめんね。中々帰ってこなくてさ。パパなら分かってくれると思うんだ。ちょっと帰りにくくて」
 パパの顔を思い出す。
 優しい笑顔で、痩せこけていて、抗がん剤で肌色が多い顔。
「煙草はたまにしか吸わないから安心して。パパみたいに肺がんになったら笑えないもんね」
 前に墓参りに来たのは何年ぶりだろう。仕事を始めてからは来ていないことは確かだった。
「まずは、どこから話せばいいのかな。大学を卒業して、教師になって、それで今は三年目。毎日楽しいって訳じゃないけど、何とか生きてる」
 墓参りはまるで自分と話しているかのようだ。誰もいない場所で故人に向かって言葉を投げる。それは見ようによっては自問自答。
「っと、まぁ、こんな感じで色々あったよ。あとは……。あ、そうだ。昨日ね、和男さんと少しだけ和解したんだ。パパはあの人のことをどう思ってるのか分からないけど。これからは少しくらいまともな娘になるつもり。お母さんとはまだ難しいけど、頑張るよ」
 他に何を話せばいいだろう。
「ねぇ、パパ」
 あ、莉緒の口癖がうつったかも。
「なに? って返してくれたら、いいんだけどな。……いや、それはそれで怖いかも」
 ひとりでくすくすと笑って続ける。
「来年からは極力毎年帰ってくるね。お盆に帰ってくるかは約束できないけど」
 頭を撫でるような風が吹く。
 私は墓標に笑顔を向け、パパに手を振った。
「じゃあね。また今度」
 案外心は穏やかで、自分の中にパパの死を受け入れている自分がいるのが分かった。
 時間は人を変えていく。
 悲しいけれど、これは大切なこと。
「この夏ね。ちょっとだけ前を向いて歩けるようになったんだ」
 自転車に乗れるようになった事を自慢する子供みたいに、得意げに語って見せる。
「だからずっと、見守っていてね。パパ」
 私は手桶を持ち上げ、墓に背を向けた。
 パパとの再会を果たし、残るは佳晴。彼の実家は隣駅だから電車に乗らなきゃ。
 手桶を返し左腕の時計を見ると、もう三時を過ぎていた。どうやらずいぶんと長い間パパと話し込んでしまったらしい。田舎の電車は本数が少ない。何時に向こうにつけるか分からない。
 急いで駅へと向かって歩き始める。歩いていくにはちょっと応える距離。でも、一カ月前の私だったらすぐにへばっていたけれど、ここ最近の私は一味違う。生活習慣と食生活の改善に毎日の運動。驚くほどにサクサクと足が運べる。これも全部彼女のお陰。
 結局駅に着くころには四時近くになってしまい、そこから三十分は電車を待った。電車に乗り込むと程良い冷房と西日が差し込んでいて、私は隣駅までの十分間だけ、目を閉じた。



 あたしが17の時。友人が死んだ。
 それはとても簡単で、いとも呆気ない結末。
 あたしは弱かった。後を追って死ぬこともできずに、ただただ現実を見ていた。
 そしてあたしは壊れてしまった。
 すべてを失って、全てに嫌気がさして。自分を失くしたあたしは贖罪の為に勉強した。
 彼が目指した教師になろうと必死にもがいた。
 だから人間としてのあたしも。きっと。
 あたしが17の時。死んだんだ。



 あたしは梅雨明けから彼の家に行く回数が減った。
 受験勉強の邪魔をしたくないなんて見え透いた嘘を、佳晴は簡単に受け入れ、週に一回から二週に一回。そして夏が終わる頃には月に一回行けばいい程度まで減っていた。
 その分家に帰る頻度は多くなり、両親は喜んだが、あたしにとってはストレスになるばかり。
 彼の家に行かない代わりに彼とのメールを始め、そこが唯一あたしの愚痴の吐きどころとなっていった。
 佳晴といると安心する。それは本当だ。似た者同士、何か通じるものがあったのだろう。ただ実際に会うことに恐怖していたあたしもいた。偶に会う彼はいつも通りの彼で、へらへらと笑い、あたしの言葉に適当に言葉を返す。しかし、一度見てしまったあの顔がどうしても脳裏にチラついた。
 人間関係という物は結ぶのは難しくても、解けるのは簡単で。彼との距離は開く一方だった。
 秋になれば本格的に顔を合わせることは無くなり、冬が来れば彼は最後のスパートに掛かった。
 一日一回のメールで知った情報では、結局母親は佳晴の意見を聞き入れずに東大の理科三類として出願を提出させたらしい。
 そのことに関して彼からの言葉は一切付け加えられておらず、まるで業務連絡だけがつらつらと並べられる文面に、彼の自意識が死んでいることが手に取るように分かった。
 メールの文面もやがて短くなり、終いにはテンプレートのような文が毎日届くようになり。あたしは返信することを止めた。

 結果。鈴鹿佳晴は受験に失敗した。
 後にニュースで報道されていた内容からするに、二次試験の解答を放棄し、面接では一言も話すことすら出来なかったらしい。

 そして合格発表の朝、一本の電話が入った。
 三月の冷たい朝だった。
 カーテンを開けた時に空に広がっていた朝焼けが美しく、その幻想的な景色はあたしの網膜に強く焼き付いている。
 携帯電話の着信音で目を覚ましたあたしは着信に出ながらカーテンを開けた。
 世界は藍色に染まっていて目を見開いた。
『綺麗……』
 口から漏れた言葉に、受話器越しの声が頷く。
『そうだね』
 その声を聴いて初めて、電話の相手が佳晴だと知ったあたしは、なぜ彼が電話してきたのかと考える。なにか特別な日だったっけ?
 カチャと何かが動く音が聞こえた。この音はあれだ。窓の鍵を開ける音。あたしがあの部屋で煙草を吸いにベランダに出る時によく聞く音。
『……佳晴? なにしてるの?』
 返事は返ってこない。代わりにギシギシと何かが軋む音が聞こえた。
『綺麗だね。朝焼けが綺麗だ』
 その声に感情は籠ってなかった。
 何もない抜け殻の声。
『まーちゃん』
 受話器の向こうで鳥が鳴いた。
『ごめんね』
 そして通話は切れた。
 あたしは大きく目を見開いた。
 ただの数分の電話だった。たった数個の言葉だった。
 でも最後の言葉が別れの挨拶だと察するには充分だった。
「……飛んだんだ」
 あたしの目は締まらない。
 目の前の藍色の空が痛い程目に焼き付いた。
 呼び止めることもできずに、佳晴は死んだ。
 悩みを聞くこともできずに、佳晴は死んだ。
 見届けることもできずに、佳晴は死んだ。
 あぁ。
 あたしのせいで、佳晴は死んだ。
 窓を開けると冬の外気が肌を刺した。
 涙は出なかった。声も出なかった。
 数分後、朝の静けさの中で遠くの方で響きだしたサイレンの音が、あたしの耳をいつまでもいつまでも責め続けた。



 電車のアナウンスで目を覚まし、慌てて電車から飛び降りる。
 今行くからさ。夢の中まで出てこないで。ストーカーかよ。
「気持ち悪いなぁ」
 久しく使っていなかった言葉を無意識に出して改札から出る。
 佳晴が死んで私は壊れた。
 二十にもならない子供にとって、身近な人間の死は酷く心を蝕む。
 私に残ったのは死んでしまいたい程の重荷と、死ぬことへの恐怖。
 世界の理不尽さと、世の中への嫌悪。そして自責の念に押しつぶされた。
 佳晴の自殺後、警察に長い間事情徴収されたのも応えたのだろう。
 そりゃあ優等生の家に長い間上がりこむ不良少女は怪しい存在だ。取り調べを受けるにつれ更に佳晴を殺したのは私ではないかと考え始め、もうそこからは記憶がない。
 佳晴への贖罪のつもりで勉強を始め、教師を目指した。何もない自分にとっては、縋りつきたい藁だった。他人の夢を自分の物だと思い込んで、それだけを考え続けた。
 東大には行けなかったものの、そこそこの大学の教育学部に合格し、今ではこの通り、私も抜け殻。
 莉緒に救われなかったら、生きる意味さえ見いだせなかっただろう。
 佳晴の詩は今でも私の中に大きく傷跡を残している。傷跡、いや、生傷と言った方がいいかもしれない。長年のカウンセリングで幾分かはマシになったものの、今でも条件によっては酷い幻覚症状に襲われる。
 ここ最近では特にそうだ。
 莉緒が死について語るもんだから、佳晴の死を呼び起こしてしまったのか。
 それとも、彼女から見る私の像があの時の佳晴と同じなことに気がついてしまったからなのか。
 いずれにせよ私の中で凍り付いていた時間と記憶は彼女の熱によって溶かされた。
 今日はそれの清算だ。
 今まで背けてきた分。きっちりと向き合う。
 それがケジメだ。
 携帯電話の地図を頼りに佳晴がいる墓地へ辿り着く。勿論佳晴が死んでから初めて訪れる。八年間目を逸らし続けてきた罪は重い。
 園内を歩きながら鈴鹿の文字を探す。珍しい苗字だから複数あることは無いだろう。
「鈴鹿、鈴鹿……あ」
 足を進めていると、明らかに一ヶ所、立派な墓地に鈴鹿という文字を見つける。敷地内に生垣と松が植えられ、最近誰かが来た形跡もある。こんな地方に立派な墓地。多分ここに佳晴がいる。
 私は佳晴の両親に酷く嫌われている。鉢合わせでもしたら、なんて考えたけれど最悪の事態は防げたようだ。
「まぁ、息子についていた悪い虫のせいで死んだも同然だから、仕方ないよね」
 私はパパのお墓にやったように掃除をすると、線香に火を点けた。ライターを出すときにポケットから煙草が落ちて、墓の前で笑ってみる。
「銘柄まだ変えてないんだよ」
 呆れられた顔が浮かぶ。
「まだ美味しいとは感じられないけどね」
 線香を供えて、しゃがみ、手を合わせる。
 パパの時もそうだった。故人と話すときにはその頃の自分になってしまう。
 だから私は自分の口から汚い言葉が出ることに少し驚いてしまう。
「……なんで死んだんだよ。……馬鹿」
 すぐに涙は流れ出た。
 八年間氷漬けにしていた涙だ。どれだけ泣いても足りない程ある。
「馬鹿だなぁ。ほんと。あんたは馬鹿でしょ……。死んだら、なにもなくなっちゃうじゃん……」
 そのまま私は泣き始めた。嗚咽交じりの子供じみた泣き方。そのうちしゃがむのもつらくなって両手を前に着く。
 泣きながら今までの生活を順を追って話した。激動の高校生活の事。大学入学後の事。沢山を話して。何かを話すたびに口癖のように謝った。
 これまで墓に来なかったから謝る事すらもできなかった。今まで溜め込んだ八年間の謝罪を彼に向かって投げ続けた。
 顔をぐちゃぐちゃにしている私を見て、きっと彼はいつもの様に無感情な笑みを浮かべている。
「やめてよ、その顔」
 泣いて泣いて、謝って。
 空の雲は流れて、太陽は傾き始める。
「そうだ。ねぇ、佳晴。あたし、高校教師になったよ?」
「あれから、猛勉強して、大学に入って、はさっき言ったか」
「佳晴が先生になってたらもうちょっと上手くできたのかな」
「って言っても、あんた人に教えるの下手糞だったから無理かも」
「……まぁ、あたしは教員免許すら取れないんだけど」
「笑わないでよ? 今年落ちたのはあんたが悪いんだから」
「……あたし、佳晴が目指してた先生になれたかな」
「慣れてるといいな」
 佳晴が笑っている。僕は僕みたいなのを減らしたくて教師になりたかったのに。まーちゃんが僕になっちゃ駄目じゃない。なんて言ってるんだろう。
「それに気づいたのも最近」
「気づかされたって言った方が正しいかも」
「あ、そうだ」
 涙でぐちゃぐちゃの視界で見る墓標には夕日が橙の光を被せている。それを見て莉緒を彼に紹介したいな、なんて思ったり。
「ねぇ、佳晴」
 なに? まーちゃん。声が聞こえたような気がした。
「今ね。心に何かを抱えている女の子と一緒に住んでるの」
「同居って言うか……。匿う、みたいな感じ」
「佳晴があたしに居場所をくれたから。……あたしも彼女に居場所をあげたくて」
「最初に会った時に橋から飛び降りようとしてたんだよ? 信じられる?」
「……あたし必死で。気づいたら彼女を呼び止めてて」
「……彼女を呼び止めることができて、よかった」
 佳晴はまた笑う。
「あたしね。彼女を助けたいんだ」
「方法は分からないけど」
「今度は、絶対に助ける」
 彼は頷いた。
「今度は、逃げないから」
 一人で決意表明を行う。周りから見たら立派な変質者。
 僕を神社の神様みたいに扱わないでくれ、なんて言いそうだから私は笑って否定する。
「だったら手伝って。あたしが莉緒を救うから。何かあったら助けてよ」
 めちゃくちゃだね。
「そうだね」
 私達は笑った。
 カラスが鳴いて時計を見る。既にここに来て一時間が経過していた。
「じゃあ、そろそろ帰る」
 まーちゃん、帰るときはいっつも急だよね。
「仕方ないじゃん。帰る時まで帰ることを忘れてるんだもん」
 バカみたい。
「残念ながら最高学歴はあたしの方が上」
 そうだね
「ほら、死んでろくなことないじゃん」
 まーちゃんはこっちに来ないでね。
「当分行かない」
 じゃあ見ててあげるから。
「見てなくていい。一方的に見られてると思うだけでぞっとする。気持ち悪い」
 いつものだ。
「昔のだよ」
 そう。
「そうだよ」
 そろそろ暗くなっちゃう。
「前は夜中までいたけどね」
 もう若くないんだから。
「ぶっ飛ばすぞ」
 こわいこわい。
「……じゃあね。帰るよ。私」
 うん。じゃあね。
「また、今度」
 私は古い友人との会話を終えて帰路につく。
 私の傷が塞がったとは言えない。
 ただ、その傷を受け入れることは出来たような気がした。
 私の中の時計はゆっくりと動き始める。
 朝焼けの景色は明けた。