「麻里さん。他にやりたいことは?」
「……これ、難しくない?」
「難しいですね。でも、楽しいじゃないですか」
私は朝からノートと睨めっこを続けている。
表紙を捲って数ページは彼女とのルール。その次にはこの本のテーマである命題の証明問題。そこからは私の「したいこと」を綴っている。
ノートに書く項目は彼女のアドバイス通りに書き進めていった。
まずは直近でしたいこと。次に少し足を運べばできること。それから実行するのが難しいこと。そして一生のうちに行いたいこと。
色々と書いた。頭を悩ませた。しかし、ぱっと頭に浮かぶことはそこまで難しくないことばかり。彼女のように壮大な願望は浮かばなかった。
買い物に行って日用品を買い足す。料理をできるようになる。温泉に行きたい。
「もう浮かばないよ」
「まだ百個も書いてないじゃないですか」
「でもそんなに浮かばないって」
「まぁ、普通はそうですよね」
明日が来ることが普通になってしまった私には難しい問題。
文字通り一生懸命に命を燃やす彼女とは違う。
そもそも私は無気力な人間なんだ。夢も希望も考えてこなかった。
だから私の願望は漫然と命を繋ぐことだけ。
「じゃあ、夏休みらしいことを書いていきましょうよ」
「夏休みらしいこと?」
「山に行ったり。海に行ったり。もっと細かく書いてもいいんですよ。あの山に登りたいとか。海岸でスイカ割りしたいとか」
「私がそんなことしたいと思う?」
「これを機に変わってみるとか」
「それは難しい」
「変わりたいとも思いませんか?」
「今の所はないかも」
「仕方ないですね……。じゃあ、変わりたいと思う時があったらそれを書きましょう」
「来ないと思うけどなぁ」
「分からないもんですよ。未来って」
私よりも年下な筈なのに、その言葉には説得力がある。私も、この私から変わりたいと思う日が来るのだろうか。
「やっぱりさ、莉緒のノート見せてよ。私だけの頭じゃそんなに沢山思いつかない」
「それは絶対に駄目って言ってるじゃないですか」
「なんでよぉ」
「麻里さんて本当にデリカシーないですよね」
「自覚はしてる」
「いや、多分麻里さんが自覚してるレベルよりも実際は遥かに酷いと思いますよ」
莉緒は自分のノートを私物の一番下に隠す。
ノート書き始めてから、何度も彼女に彼女のノートを見せてくれと頼んでは怒られた。
「これは私の全てなんですよ? それを見せてくれとか。どういう神経してるんですか」
「昨日は見せてくれたのに?」
「最初と最後のページだけです。始まりと終わりは誰だって同じなんですよ。どうせ人は死ぬんですから」
「莉緒の証明に付き合わせてくれるって言ったじゃん」
「それとこれとは別です。私だって恥ずかしいんですから!」
私の手の中にある本はただのノート。私はまだこの本に書いたことを全てやり遂げることができるとは思っていない。
でも莉緒は違う。莉緒はあの本に書かれる事象は全て完遂できると信じている。それこそ必死に彼女はそれを熟そうとする。
だから彼女にとって、あれは予知書。
ただのやりたいことを連ねたノートではない。
でもそう考えると、やっぱり見てみたいじゃん。
彼女がどのような人生を想像しているのか、気になってしまうじゃないか。
「絶対に見せませんからね!」
「何も言ってないじゃん」
「顔が言ってます!」
莉緒は少しずつ私から距離を取って、天敵に怯える小動物のように威嚇する。
「麻里さんも、大人なんだからもっと人の心を読み取ってください」
「私には無理」
「諦めないでください!」
私はノートに願望を書き込むことを諦め、ペンを放り投げる。
コロコロと転がったペンは莉緒の足元へ向かった。
「限界ですか?」
床に寝転がった私を覗き込むように莉緒の顔が視界をうめる。
「はい。限界です」
諦めることが得意な私はその問に即答して目を閉じる。
「じゃあ、読んでもいいですか?」
「自分のは断固拒否する癖に人のは見るんだ」
「別に嫌だったら見ませんけど?」
「私が拒まないのを知ってて言ってるでしょ」
「はい」
「……いいよ。勝手に見ろ見ろ」
「はーい」
勝負に勝ったかのように莉緒はにぃと笑い、私を飛び越えるようにしてノートに近づく。
ふむふむ、なんてわざとらしく声を出しながら莉緒は私の欲望を読んでいく。テストを目の前で採点されている気分だ。流石にこればかりは緊張する。
「全部は難しいかもしれないけどね」
だからそんな言い訳を挟んでみたり。
「これって夏休みにやりたい事ですか?」
「まぁ、そのつもりで書いたけど」
「じゃあ、全部やりましょう」
「は?」
「そんなに難しいことじゃないですよ。夢が無いのか、高望みをしていないのか。そんなに難しい事、書いてないですし」
「いや、無理でしょ」
「どれが?」
「温泉旅行とかさ。なんとなく書いたけど。実際予約とかもう埋まってるんじゃない?」
莉緒は私に首を振る。こればかりは私が正しいと思うけど。
「麻里さん。こんな言葉を知っていますか?」
「なに」
「思い立ったが吉日、です!」
難しい言葉を言い放ったつもりなのか、してやったり顔を披露する莉緒。多分小学生でも知ってるよ。その言葉。
「そうはいってもさ」
「やりたいって思ったら、すぐにやりなさいって――」
「いや、意味は知ってる」
知識の披露を邪魔された莉緒は不機嫌な顔を見せながら携帯を取り出す。
なにやら私への文句をぶつぶつと言いながら検索を掛けている。そんな姿を眺めていると、一分も経たずに携帯の画面をこちらに向けてきた。
「ほら、こんなにありますよ。今週は流石にきついですけど、来週からだったら沢山。熱海とかいいかも」
画面に映るのはしっかりとした温泉宿。熱海なんて言っているし、きっと立派な宿なんだろう。お値段が張りそうなのは間違いない。
「夏休みだから高いですね。えっと、あ、こことかどうです? 一泊二日で一人二万」
少なくとも高校生の金銭感覚ではない。彼女の行動力に舌を巻きながら、私は頭を傾げて悩んでみる。温泉には入りたいけれど別に宿に泊まりたいとう欲はない。それだったら日帰り旅行でもいいし。
「咄嗟にその値段は結構厳しくない? 移動とかにもお金かかるでしょ」
「別に私は気にしないですけど」
「絶対におかしいって。その感覚」
彼女の口座に多額の数字が刻まれていることは本当だ。私と生活を始める時に彼女は証明と言って、お金を降ろした際の明細を見せてきた。貯金をしない大人よりは多いであろうその残高に驚いたが、彼女の羽振りの良さはおかしい。あの貯金だってこの夏で使い切ってしまっては駄目だろうに。
「あ、変な想像しないで下さいよ? 私だってお金の使い方は分かってます。財布のひもを締める時と緩める時をわきまえているだけです」
「やけになって、散財してたりしない?」
「私はこれからちゃんと生きていくんですよ? それこそ自殺じゃないですか。お金は命の次に大切な物ですもん。ちゃんと考えてますって」
「ならいいけど」
「麻里さんこそ、財布のひもを締めっぱなしじゃないですか。お金は溜める為にあるんじゃないですよ?」
「私は使う先が無かっただけ」
「趣味もなければ、買い物もしない。料理も口に入れば何でもいい。そんな生活してたら、そりゃ溜まりますよ」
そんな生活に慣れてしまったから、お金を使う事にも躊躇ってしまうんだ。
宿なんかに泊らなくても、家で眠れれば十分だし。態々慣れない枕を使うこともないし。料理だって莉緒の手料理の方が絶対美味しい。
「じゃあ、なにかお祝いにしましょうよ。何かないですか? 記念日とか」
「うーん」
「あ、教員採用試験のお疲れ様会とか」
「それはあまり乗り気にならないかも」
「えー」
だって多分落ちてるし。欲を言えばあの日の事はあまり思い出したくない。
記念日か。
自分のことに無頓着だから、記念日なんてものを決めたことも……。
「あ、私、来週誕生日」
「それを忘れるってどうなんですか」
「大人になると忘れるもんなの」
誕生日か。すっかり忘れていた。友達に教えたこともなかったから、祝われたこともないし、あまり実感がない。私の場合は高校生の頃から誕生日は忘れていたし。
「良いじゃないですか。麻里さんの誕生日旅行!」
「ほんとにやるの?」
「やりましょ? 宿ここでいいですか? 箱根とか草津とかも調べてみます?」
目を輝かせながら私を覗く彼女の言葉に首を振ることなんてできなかった。
「……わかったよ。行こ。温泉。莉緒の好きな所でいいから」
「やった!」
こうして私は少しずつ変えられていく。
変わりたいと思う日は来ないなんて言ったけれど、実のところはもう既に変えられていた。
私は現在進行形でこの少女と共に変わっていく。
嫌な気持ちがしないのが、実に厄介な所ではある。
「麻里さん。これどうですか?」
「んー。可愛いじゃん」
「こっちは?」
「可愛い」
「もう!」
適当な相槌を打つ私に莉緒は地団太を踏み、灰色のニット帽を揺らす。
周囲の視線が私達に集中した気がして心地悪い。
「服なんてただの布って言ってたの莉緒じゃん」
「言いましたけど!」
夏も本番。外に出ればすぐに汗が流れ出す。
朝の散歩に出ただけで服は濡れ、洗濯機はフル稼働する。
昨日、何とかノートに書く項目を増やそうと頭を捻りながら書いた「服をもう少し増やしたい」なんていう、なんともしょうもない願いを莉緒に見つかり、こうして今私達は外にいる。
「だって莉緒、何着ても似合うんだもん」
「それにしたって返事に熱が無さすぎるんですけど」
「褒められたところを否定しないところ好きだよ」
「私も私のこういうところ、好きです」
「なんだかなぁ」
皮肉を含めた言葉を笑顔で頷き咀嚼する彼女に、私は珍しく溜息をついてみたり。
最寄りの商業施設内にある服屋。服を悩んで「似合う?」なんて、恋人のようなことをするには少し不釣り合いな客層の店。日中だからか隣には老夫婦と子連れの女性が買い物をしている。
「じゃ、これ買ってきます」
「はーい」
結局彼女は、悩んでいた二着を両方ともカゴに入れレジへ向かう。
そんな彼女を見送りながら、私は私で適当に夏服をカゴに放り込んでいく。彼女も自分の買い物の速さには自信を持っていたけれど、私の方が早いかもしれない。服に頓着がないのはお互い様だ。
「どうせ部屋と近くの公園に行くだけだしな」
汗をかいても目立たなそうな色の服がカゴの中に増えていく。こうして人間は年に比例してデザインセンスが変化していくんだ。幼い頃は軽蔑さえした服装に一歩ずつ近づいて行っている。
まぁ、だからと言って若い格好をする気力もなく、私はどんどんと人生に落ち着いた人達のような服装に寄っていく。
薄手のシャツ。軽い素材のデニム。私は店内を物色しながら他に必要な物を探してうろうろと歩き回る。
「こんな服、着れないよなぁ」
店の各所でポージングするマネキンたちは煌びやかな服を身に纏っている。私には縁遠いそれらをぼーっと見上げてみる。こんなふわふわとしたスカート、履いたこともない。
「そういえば麻里さん。スカート持ってないですよね」
「――っ。びっくりしたぁ」
「ごめんなさい。マネキンに憧れの目を向けてたので、つい」
「憧れてないし」
「本当ですか? 実はふわふわな服を着てみたいなとか思ったことありません?」
「そんなこと思ってたらもっと美的センスも磨かれてる」
学校にだってパンツスーツを着て行ってるくらいだ。そもそもスカートを履かない。
「莉緒こそスカート履かないの?」
「私ですか?」
「莉緒だってスカート持ってないじゃん」
「履いてほしいんですか?」
「だって、女子高生って」
「そうやってすーぐ女子高生はって言いますよね」
「だって……」
「教師として駄目だと思いますよ? もっと個々を見た方がいいです。一括りにして欲しくありません」
「じゃあ、聞かせてよ。莉緒はなんでスカート履かないの? 参考までに」
「好きじゃないから」
「……それだけ?」
「そんなもんですよ」
莉緒はハンガーラックに掛かった短めのスカートを一枚手に取ると、自分の腰に当ててみる。
「麻里さんが履いてほしいって言うなら履きますけど?」
ひらひらと体を揺らす莉緒を見る。また適当な返事をしたら怒られそうで、少しはまじめに考える。それでも、私に女子高生のファッションなんて分かる筈がない。
「ごめん。よくわからないや」
「もう!」
莉緒は荒々しくスカートをラックに戻して私を睨む。
「ごめんって。だってよく分からないんだもん。全部似合うから余計に莉緒に合ってるのか分からない」
莉緒はここが店内だと忘れているような大きさで溜息をつく。
「麻里さんって本当に自分の意思がないですよね」
「だって、私以外が見て変に思ったら、責任取れないし」
「別にいいんですよ。他の人の目なんて。麻里さんが私に合うと思うならそれでいいんです」
彼女の怒る姿は何度見ても可愛らしい。それだから余計に先日声を荒げた彼女の怒りが際立って見える。私をまっすぐ叱った彼女の顔が脳裏を過った。
「だって服なんて麻里さんにしか見せませんもん」
「ここにだっていっぱい人いるけど?」
「あんなの空気だと思えばいいんですよ。視線が怖いので他人は空気だって思うようにしてます」
「大胆な考え」
「だから私の世界にはずっと麻里さんしか映ってないんですよ?」
大胆な告白のようなセリフに私はたじろぐ。
どぎまぎとマネキンに視線を逃がす私を見て面白そうに笑う彼女は、何かを思いついたかのように両手を胸の前で合わせた。
「そうだ。ねぇ、麻里さん。私の全身をコーディネートしてくださいよ」
「え?」
「よく番組とかでやってるじゃないですか」
「いや、無理無理。スカート一つ分からないんだよ?」
「だから余計面白そうじゃないですか。すぐにやろうとは言わないので。数日後またデートしましょ? 買い物デート。それまでに勉強しておいてください」
「えぇ、めんどくさい」
「言うに事欠いてめんどくさいは酷くないですか? 麻里さん好きでしょ? 勉強」
「都合のいいことばかり言うんだから」
「私らしいでしょ?」
「そうだけど」
言葉が少しだけ砕け始めた莉緒はあざとく私を見上げる。
この面倒な感情も、多分良いものだ。だって心のどこかで、そのデートを楽しみにしている私がいる。
「しょうがないなぁ」
「やった。私の一張羅にしますね」
「そんなこと言うと、オーダーメイドのスーツとかにするよ?」
「つまんない」
「じゃあ、あまり期待しないでね」
「はーい」
家に帰ったらまずは女子高生の私服を色々と検索しよう。駅前で雑誌を買ってもいいかもしれない。そして。
色々な策を巡らせる私は、不意に笑う。
「どうしたんですか?」
「いや、なんでも」
やっぱり私は勉強が好きなんだと自覚して、少し嬉しかっただけ。
「おぉ、打ちますねぇ」
「決定打かなぁ」
エアコンの効いた部屋で見るのは、炎天下の中で汗を垂らす高校生たちの姿。
夏の代名詞。甲子園。
「麻里さん、よく見るんですか?」
「んー。まぁ、去年とか夏はずっと暇だったし」
「こんなに一生懸命な人たちを見て、よくもだらだらと生活できましたね」
「今の莉緒だって人のこと言えないじゃん」
「じゃ、どこかに行きます?」
「とりあえずゲームセットまで見ようよ」
「感情移入しちゃうタイプですか?」
「どうだろ」
朝、いつもの様に公園を散歩していると、少年たちの声が聞こえた。まだ正午にもなっていない公園でキャッチボールをする少年たちの会話で、今日から甲子園が始まることを知った私達は、こうして家に帰るや否やテレビの前に座っている。
「知らない高校同士の勝負も結構楽しめるものなんですね」
「逆に自分の高校とかだと楽しめなさそう」
「なんでですか?」
「甲子園とかになれば、全校応援とかあるでしょ?」
「そうなんですか?」
「全校生徒で応援に行くんだよ。そうなったら引率しなきゃじゃん?」
「そういう意味ですか」
でも、うちの野球部はそこまで強くないから安心。
「私、甲子園初めて見たんですけど、なんかいいですね」
「今まで見たことなかったの?」
「スポーツに触れてこなくて」
「何かにハマってたら、今も変わってたかもね」
中学校の保健体育の教科書にも載っている。ストレスはスポーツや趣味で発散しましょう。彼女にもそれがあったなら、狂気的な熱の入れ方で何かしらの才能を発揮していたかもしれない。
「……そうかもしれないですね。こんなに全力な顔、高校生が出来るなんて知りませんでした」
「それは世界を知らなすぎじゃない?」
「なんとなくは分かってたつもりなんですけど、こうしてみるとやっぱり違います。だってこの人達、この勝負に命が掛かってそうな顔をするんですもん」
数年分の青春を捧げてその土を踏む戦士たちの顔には、莉緒の言う通り覚悟が見える。でもそれも莉緒の目に比べたらまだまだぬるい。恐怖を抱くほどの激しい炎は球児にはない。
そんなこと、本人には言えないけど。
「莉緒は勝ってる方と負けてる方、どっちを応援するタイプ?」
「負けてる方、ですかね」
「そのこころは?」
「なんとなくですけど、やっぱり逆転って気持ちいいじゃないですか。それに、死を目前にしてまだ諦めていない顔は、見ていてぞくぞくします」
彼女は画面に釘付けになっている。
九回裏。点差は二点。ツーアウト。一塁。
バッターの顔が大きく映される。その顔には闘志があったが、私には怯えているように見えて仕方なかった。
「麻里さんは?」
「え?」
「どっちを応援するタイプですか?」
「私は別にどっちかを応援したりしないかな」
「それ、つまんなくないですか?」
「そうでもないよ? 映画を見たりするときも登場人物に感情移入しないけど、十分楽しめるし。この演出良いなとか、そういう所見ちゃう」
「やっぱりつまらなそう」
「そうかな」
甲高い音と共に画面が揺れた。
大きく打ちあがった球は夏の空に吸い込まれていく。
実況の声が諦めの色に変わり、数秒後に画面にはゲームセットの文字が浮かんだ。
「終わっちゃいましたね」
「逆転は無かったね」
明るい顔と暗い顔が交互に移される画面が続き、ハイライトが始まったあたりで莉緒はリモコンを手に取り、画面を暗転させる。
「見ていて熱いですけど、負けた選手の顔を見なきゃいけないのは辛いですね」
「感情移入しちゃうと特にね」
「人が悲しんでるのを見て楽しめませんよ」
大切な物が壊れていくのを見たくない。だっけ。彼女が初日に言った言葉だ。
きっと純粋で美しい感性を持っているんだろう。私は画面の向こうに素直に感情を共有できない。
「麻里さんて、何か運動してたことあるんですか?」
「なんで?」
「してなさそうだなって」
「失礼な」
「中高とか何やってたんですか?」
「中高は何もやってない」
「ほら、やってないじゃないですか」
「大学から始めたんだよ」
「サークルってことですか?」
「うん」
「勝手なイメージなんですけど、大学の運動系サークルってまともに運動してないイメージがあるんですけど」
「なんとなくわかるけど、私がいたところは結構ちゃんとやってた方だと思うよ?」
部活と銘打っている所と比べては全然だと思うが、サークルとしてはよくやっていた方だ。
驚くべきなのはそんな部活で私が四年も続けられたこと。
「ちなみに何やってたんですか?」
「笑わない?」
「なんで笑うんですか。そんな特殊なスポーツなんですか?」
「いや、むしろ。超メジャー」
「じゃあ笑いようがないじゃないですか」
私は少しだけ躊躇ってから、大学時代の何割かを消費したサークル名を口に出す。
「……マラソン」
予想通り、莉緒は吹き出した。
それもそのはずだ。だって毎朝莉緒と行っている散歩ですらバテている人間が数年前まで軽やかに走っていたなんて、姿を想像できないだろう。
「……悪かったね。三年間も全く運動してないと何もできなくなるんだよ」
「いや、でも、流石に酷すぎじゃないですか?」
「そんなに言わなくても……」
「だって麻里さん、初めて私と合った時も少し走って息を切らせてたじゃないですか」
「体力の低下は怖いよ?」
あと数年もすれば莉緒にも分かると言い聞かせて、私はこの話題から逃げる為に席を立つ。
「本当にマラソンやってたんですか?」
それなのに彼女は私を逃がすまいと質問を投げかけてくる。
「やってたよ。そりゃ、毎日って訳じゃなかったけど練習はしてたし。市のマラソン大会とかには毎年出てたし」
「ゴールしてたんですか?」
「なんとか」
「すごい。でもそもそも大学から始める人っているんですか?」
「そこそこいたよ。体力づくりで入った人もいたし。まぁうちの大学、走る系は本格的な部活が色々あったからそこに入らない人たちの集まりだったけどね」
例えば駅伝とか。
大学の駅伝チームが少し有名なせいで、キャンパスの周りを走ると視線を向けられて恥ずかしかった記憶がある。だから地域のマラソン大会に参加するときも大学名は隠していたっけ。
「そういえば、ここに引っ越すときにシューズとかも持ってきた気がする」
「下駄箱に無いんですか?」
「不思議なことに」
「じゃあ、押し入れの奥にでも入ってるんじゃないです?」
「そうかもね」
「……ここに来て一回も走ろうとは思わなかったんですか?」
「そもそも大学の時に走ってた理由が、疲れるからってだけだったし。こっちに来てからは仕事がそれに代わっちゃった」
「変な理由で走っていたんですね」
大学に入りたての頃は心の傷がまだ生々しいままで、夜になると度々あの夢を見ていた。
だからくたくたになるまで走って、気絶するように眠れば夢を見ることもない。なんて考えていたんだろう。
実際、サークルに入ってからは夢を見る頻度も減った。
それに、走っている途中は他のことを考える余裕もなく、頭の中を空っぽにできる感覚があって、それがとても好きだった。
だがら別に走ることが好きだったわけじゃない。
毎日くたくたになるまで授業と雑務に追われれば、仕事だってこれに当てはまる。それにこっちは同時にお金も貰えるし。
「ねぇ、麻里さん」
「なに?」
「麻里さんは部活とか担当してないんですか?」
「え」
「高校教師ってなにかしらの部活を担当させられるんじゃないですか?」
「うーん」
「なんですかその変な返事」
部活か……。職員室にいると度々聞く響きだ。とても嫌な響き。
「担当してるよ?」
「夏休みなのに何もないんですか?」
「ほとんど活動ない部活だし、活動してても私、行ってない」
「それ、どうなんですか」
「教頭みたいなこと言わないでよ」
「ちなみに何部なんですか?」
「文芸部と園芸部」
「……両方とも存在を知らなかったです」
「二つとも最小限の人数しかいないからね」
私がこの学校に来た時、丁度文芸部の先生が移動になって枠が空くという話を耳にして、真先に手を上げた。
若いからなんて理由で運動部に配属させられたら最後、ボランティアで奴隷のように毎日働かされる。百歩譲って働くことは疲れるから良いにしても、体育会系のノリには絶対についていけない。そもそも球技とか苦手だし。
だから「本を読むのが大好き」「書いたこともある」なんて適当な嘘を並べて楽な文化部を手に入れた。期待通り私の仕事は少なくて文化祭の前後にしかやることは無いし、活動にも顔を出さなくていい。ただマイナー文化部が楽なことは他の先生も重々承知で、こうして今年からは園芸部も押し付けられてしまった。
「園芸部とか、それこそ今忙しいんじゃないですか?」
「そこはちょっと生徒と共謀してなんとか」
女子生徒が集まってできた園芸部。活動はしているが、野菜作りなんていう本格的なことはしていない。どちらかと言えば仲のいいメンバーの溜まり場といった印象。
だから私は彼女たちに提案をして、それを向こうも飲んでくれた。頭のいい生徒は助かる。
「向こうも教師に来てほしくないし、こっちも活動なんて行きたくない。ウィンウィンでしょ?」
「今、私の中で麻里さんへの信用がガタ落ちなんですけど」
莉緒は私に蔑むような目を向ける。それもしかたない。
「たまに行ってるから大丈夫だって。その時にお菓子でも差し入れすれば完璧」
「なんかもう。最悪ですね」
「考えてやっていかないと、潰されちゃうから」
大学の同期にも一年で教員を辞めた人は少なくない。だから私みたいな人間には適当にやるのが一番。
文芸部にも本気で書いている生徒はいないし。大会などが無い部活を担当出来て良かったなと喜ぶべきこと。
「ちょっと麻里さんを見る目が変わりました」
「クレバーだって?」
莉緒は鼻で笑う。その反応はちょっと傷つく。
「じゃあ、そんな麻里さんに罰を与えてあげましょう」
「私、許しを求めてないんだけど」
「まぁまぁ」
莉緒は立ち上がり、謎のポージングをする。
「何それ」
「今調べたら、バスで十五分くらいの所にあるっぽいんですよ」
半身になって両手を頭の近くで組む。それを思いっきりスイングして見せる。
「えー。嫌だよ。やったことないし」
「やったことないからやるんじゃないですか」
バッター。莉緒。影響されやすい彼女は、エア素振りを始める。
「でも、さっき書いちゃいましたもん」
「どういうこと?」
「私のやりたい事ノートに書いちゃいました。バッティングセンターに行きたいって」
そういう事かと私は頭を抱える。
そしてすぐに、それなら仕方ないなと返す私がいる。
未来の予知がそう書かれたのならば仕方ない。どれだけ拒否しても結局は行くことになるんだ。
「わかった。今から行くの?」
「はい」
「じゃ、ちょっと準備してくる」
「はーい」
彼女の細い腕でバッドを振れるのかは分からないが、バッドとヘルメットが可愛らしく似合うことは間違いないんだろう。
「俺たちの夏が始まった」
適当なことを言いながら素振りをする莉緒を横目に、私は押し入れの中に眠る靴を探してみたり。
「麻里さん今日はどこか行ったりするんですか?」
朝の目玉焼きを口に運ぶ私に、莉緒はいつもの様に予定を確認してくる。
私に予定がある方が珍しいのによく毎日聞いてくるもんだ。ここで首を振れば莉緒が今日の予定を提案するんだろう。でも今日はいつもの私ではない。
「ごめん。今日は予定あるんだ」
「お、珍しい」
「やっとかなきゃいけないことがあって」
「どこ行くんですか?」
「学校行って書類を出すのがメイン。あとは買い物とかかな。トイレットペーパー無くなりそうだし。あとは電気代とガス代を払いにコンビニ行って……」
教員採用試験の失態を学校側に報告されていないかひやひやしている。ただでさえ夏休みの部活動に一切顔を出していないのに、迷惑を掛けたと知られれば文句の一つや二つでは収まらないだろう。まぁ、部活の方は無給なんだから、とやかく言われる筋合いはないんだけど。
どちらにせよ面倒は嫌だ。見つからないように忍び込んでとっとと書類を渡してしまおう。
「学校ですか……」
「一緒に行く?」
「うーん」
不登校を自称している彼女にとってやはり学校は近づき難い場所なのか。いつもであれば私が出かける場所に必ず付いてくるはずなのに、悩むとは珍しい。
天秤にかけるようにして悩む彼女の助けになればと、私は外出のついでに立ち寄る場所を考える。
「あとは、本屋とか」
「あー。それは魅力的」
「旅行の買い物もしちゃう?」
「それ私行かないと駄目じゃないですかぁ」
とは言いつつも莉緒はまだ一緒に行くと言わない。
他にどこかあったっけ。何か大切な用事があったような……。
「あ、もう一つあった」
「どこです?」
莉緒は私に期待のこもった眼差しを向ける。でも、残念。そんなに嬉しい場所じゃない。
「良い場所じゃないよ。病院。ちょっと用事あって」
数日前の宿泊費の支払いをまだ済ませていない。受付のお姉さんにはいつでも大丈夫ですとは言われたが、流石に一週間以上時間を空けるのはマズい。覚えているうちに払っておかないと。忘れた頃にあの額面を見るのは、それだけで心臓に悪い。
「……病院、ですか?」
「うん。ちょっとね」
「どこか悪いんですか?」
「いや、ちょっと違くて」
「お見舞いとか?」
「まぁ、そんな感じ?」
「麻里さんにそんな知り合いいたんですね」
「まぁ、多少はいるでしょ」
妙に質問を投げかけてくる彼女に私は嘘を重ねていく。
一つの嘘は少しずつ膨らんでいき、少しずつ弁明する機会が失われていく。
「……ちなみにどこの病院ですか?」
「ん? 気になるの?」
「いえ、ちょっと」
莉緒は言葉を濁す。
「えっと、知ってるかな。駅の向こう側にある大学病――」
「――っ」
変なことは言わなかったはずだ。言わなかったはずなのに、彼女は過剰に反応した。
目は見開き、口は閉じられていない。まるで信じられない光景を目の当たりにしたような表情。
「どうした?」
「……いえ」
「私、何か変なことでも言った?」
「別に、何も変じゃないですよ」
「そう」
様子がおかしいのは確実だった。
ただそれ以上に踏み込むのが怖かった。
莉緒がこれ以上近づかないでくれと訴えているような感覚がして、躊躇ってしまう。
だから私は言及せずに、茶碗を手に取り箸を動かした。
今日の目玉焼きのお供はウスターソース。普段よりも刺激の強い味が口に広がり、白米が進む。
それなのに今度は莉緒から手を広げてくる。
「ねぇ、麻里さん」
「ん?」
「お見舞いに行くって、本当ですか?」
「……なんで?」
「いや、なんでって言われると、何とも言えないんですけど。……ごめんなさい。やっぱり何でもないです」
もしかして私の嘘がバレてるのだろうか。
バレているとしたらどこから?
莉緒を盗み見ると、もう話を終えたとばかりに食事に戻っている。
もし、これが私の嘘を晴らす機会なのであれば、私は正直に話すべきなんだろう。そうして亀裂を少しでも小さいうちに止めておかないと。
あぁ、もう。なんでこんなこと考えなきゃいけないんだ。
浮気をしたカップルでもないんだから、話してしまおう。別に私は悪くない。
「ごめん。……お見舞いは嘘」
「――っ! じゃあ……」
莉緒の目つきが鋭くなる。やはりバレているのか。
「うん。この間さ、私が朝に返ってきた日あったでしょ?」
「……はい」
「実は私、前日に倒れて病院に搬送されてたんだよね。だからその入院費を払いに行かなくちゃ……って」
「……え?」
心配したんだからと怒られるのかと思った。しかし、私の目の前にあるのはキョトンとした顔。
気の抜けたような音を喉から出す莉緒に、つられて私も返してしまう。
「え?」
「あ、いや。……続けてください」
「続けるも何もそれだけ。えっと……。熱中症? だったんだと思うけど、倒れちゃって。そのまま救急車で運ばれて。病院で一晩過ごして。それで結構な額を請求されちゃってさ。まいったよ」
私は次こそ来るであろうお怒りに備えるようにへらへらと笑って見せる。
だが返ってきたのは心配の声。
「なにそれ、大丈夫だったんですか!? なんで、言ってくれなかったんですか!」
「え?」
その心配は、私が搬送されていたことを予期していなかったような慌てぶり。
ウソがバレているのかどうなのか、分からなくなってきた。
「あ、もしかして麻里さんがその翌日に気分が悪いって横になったのも、それの影響ですか……? もう、本当になんで言ってくれなかったんですか!」
「いや、あれは多分違うと……」
「それに熱中症って。ちゃんと水分は取ってました? 緊張で頭に血が上っちゃったんですか?」
気づかなくてごめんなさいと謝りながら、私の不注意にも怒っていく。
正確に言えば熱中症なんてかかってないけど、この嘘は明かせない。パニックになって気絶しましたなんて言ったら、心配で済む話ではなくなってしまう。
それにそこまで話せば、私の過去も離さなければならなくなる。
「えっと……。ごめん?」
「なんで黙ってたんですか」
「心配すると思って」
「当たり前じゃないですか!」
この反応はどっちだ。
彼女はなぜ私の言葉にあんな反応をしたのだろう。
「……よかったです」
「なにが?」
「何でもありません」
「……そう」
私はまた目玉焼きと白米を口に運ぶ。
何度か咀嚼しながら彼女に質問するべきか考える。
勇気を振り絞って嘘を明かしたんだから、これくらい聞いても罰は当たらないだろう。
「なんでさっき、お見舞いが嘘だって分かったの?」
「…………。なんとなく。ですよ」
「それだけ?」
「それだけです。驚いたのも急に病院なんて単語を麻里さんが出すからです」
「そっか」
「それに麻里さん、嘘下手ですし」
「そうかな」
「はい」
それだったら私のトラウマも彼女に筒抜けになっているのか。
「で、結局どうする? 一緒に行く?」
「……ごめんなさい。遠慮しておきます。……病院、嫌いなので」
病院が好きな人間なんていない。ただ、莉緒の声色は妙に私の頭に残った。
「謝らなくていいよ。じゃ、旅行の買い出しは明日行こうか」
「はい」
病院が嫌いか。病院の場所を伝えた途端肩が跳ねていたのを覚えている。彼女の抱える問題になにか関係があるのだろうか。
お互いのことを詮索してはいけない。二人のルールでそう決めたが、やはり気にはなってしまう。
正直な所、彼女に直接聞かずとも調べられることはある。例えば。今日病院に言ったときに「藍原」の苗字を探してみたり。学校に行ったときに他の先生に聞き込みをしたり。
私がしようとすれば出来ることは沢山あるけれど、それをしたところで彼女の問題が解決する訳でもない。
知られたくないのなら私は知らないまま彼女と接する方を選ぼう。
「……麻里さん。ソースどうですか?」
「え、あぁ、まぁ嫌いじゃない。かな」
「上の空ですね」
「え?」
「病院で何か探そうと思いました? 別に何もありませんよ。麻里さんが考えてるものはなにもないです」
私はさっきの莉緒のように肩を跳ねさせる。
彼女は鋭い。まるで心を覗かれているみたいだ。
「……そんなこと考えてないよ」
「ほら。やっぱり、嘘、下手じゃないですか」
彼女の親、はたまた姉妹とか。そういった親族が病院にいてもおかしくはないと思った。親族の死を考える時間があれば、彼女の考えの深さにも納得がいく。って、とても不謹慎なことを考えてるな。
「私の周りはみんな元気ですよ。本当に、死とは無関係な普通の人ばかりです」
「……ごめん」
「いいんですよ。元はと言えば私が秘密にしているのが悪いんです」
彼女はいつもの笑顔を取り戻す。そこには先程の焦りは微塵も見えなかった。
彼女が反応したのは本当に病院という単語に対してだったのだろうか。考えたくはないが、私の問題が彼女に筒抜けになってしまっている可能性だってある。
私の不安定さを知っているとして。そんな中、私が病院に行くと言い出した。だからそれに反応した?
「莉緒さ」
「なんです?」
「莉緒の抱えてるもの。教えてはくれないんだよね」
「……そうですね」
「そっか。何でもない。ごめん」
じゃあ、逆に私は?
私は自分の過去を莉緒に打ち明けることができるのだろうか。
今の私はその問いに、首を横に振ることができない。
恐らく何かのタイミングがあれば、きっと彼女に話してしまう。それ程までに私は莉緒に心を開いてしまっている。
多分その時は近い。
私が心を開くことで、彼女も私に心を開いてくれればいいんだけど。
そんな淡い期待を膨らませながら過ごす朝。
夏も折り返し地点。
彼女との共同生活が終わるまでに、何かが起こる。それだけはなんとなくわかった。
ピンクと青のトラベルセット。持ち運び用の小さいシャンプーとトリートメント。その他ありふれた旅行道具。
私と莉緒の手にはそれぞれ一つずつ袋が下げられている。
半月前にも訪れた大型商業施設を歩く私達の足取りは軽く、急遽決まった旅行に心が弾んでいるのが分かる。
「よかったんですか?」
「ん?」
「この間みたいに別々に行動しなくて」
「私は前回も、一緒に行く? って聞いてたじゃん」
「そうでしたっけ?」
彼女との距離は縮まった。以前は別々で行動していた私達も、こうして隣を歩くようになった。半月も一緒に生活していたら、誰かに見られてしまうかもなんて危機感は麻痺してしまった。生徒と出くわす可能性も前は考えていたが、今ではそれも別にいいかと思ってしまっている。
「私と一緒にいると、変な噂が経っちゃいますよ?」
「別にいいんじゃない? なんかもう、それでもいいかなって」
「駄目ですよ~」
莉緒は嬉しそうに大きく腕を振りながら歩く。その姿はやはり小学生の女の子の様で、私の頬も勝手に緩む。
「ほかに買う物ってありましたっけ?」
「んー。粗方買ったんじゃない? 何か莉緒は欲しいものある?」
「私は今の所、大丈夫です。麻里さんは?」
「どうしよっかな。新幹線で読む本とか?」
「私がいるのに、本読んじゃうんですか?」
「……でもさ。電車の中って喋りづらくない?」
「そんなことないですよ。本読むなんてもったいないです」
施設をぶらぶらと適当に歩く。色々な店が目に入るが、これといって欲しい物もない。
隣でぴょこぴょこと歩く灰色のニット帽を見る。買い物が楽しいのだろう。欲しいものは無いと言いながらも、物珍しそうに周囲を見回している。
私がプレゼントした灰色のニット帽と元々莉緒が被っていたニット帽。彼女はその二つを毎日交互に被っている。雨が降ったら洗濯が間に合わなそうだ。もう一つくらいプレゼントしてもいいのかもしれない。
あ、そうだった。そういえば。
「そうだ。この間言ってたやつ。莉緒の服を私が選ぶってやつ、やる?」
「急ですね」
「丁度買い物にも来たからさ」
「麻里さん、私に隠れて勉強してましたもんね」
「……知ってたの?」
「だって麻里さん携帯見てる時にチラチラ私のこと見てたじゃないですか。あんなことされれば誰でも気付きますって」
「あまり期待しないでね」
莉緒が頷くので、私達はアパレルのフロアへ移動する。
実は、もし莉緒がこの話を持ち出して来たらと思って、既にこの商業施設内の店はネットで予習済み。私は迷うふりをしながら目当ての店へ足を進める。
ここ数日、莉緒の服を考えることに結構な時間を費やした。最適解が出たのかは分からないけれど、莉緒は私が好きならば何でもいいと言っていたから、これで正解なんだろう。
普段ならば一人で入らないであろう店に入り、二人でゆっくりと店内を回る。
一度店員が近づいてきたが、莉緒が私の後ろに隠れるので適当にあしらった。
「私達、周りからどう見えてるんだろ」
「どうって?」
「教師と生徒って言うのは見て分からないじゃん? でも、友達って言うには年も離れてる」
「麻里さんだって若いし、友達に見えるんじゃないですか?」
「いや、莉緒の見た目が幼すぎるから」
「怒りますよ?」
「でも、親子には見えないじゃん? 姉妹とか?」
「麻里さんと私、全く似てないじゃないですか」
「それもそうだ」
目つきの悪く死んでいる私とキラキラ輝く大きな瞳の彼女じゃ姉妹には間違われないだろう。
目当ての物をラックから探しながら、私は考える。友達、に見えていればいいけど。そもそも友達ってすごく幅の広い表現だし。年が離れていても仲が良い関係だってあるか。
「麻里さんと私の関係って何なんでしょうね」
ぼそっと莉緒が呟き、私の手が止まる。
「家主と居候?」
自分と莉緒を交互に指差しながら首を傾げてみると、莉緒も真似をする。
「介護者と要介護者の間違いじゃないですか?」
「最近は私だって多少は」
「まだまだです。目玉焼きもまともに焼けない人が何言ってるんですか」
「料理なんてできなくても生きていけるでしょ」
「あ、じゃああれです。お母さんと子供。勿論私がお母さんの方で」
また私の手が止まる。
「莉緒に育てられたら、性格曲がりそう」
「元々曲がってるじゃないですか」
「じゃあ、莉緒に育てられたのかも」
「女手一つでここまで育てるには苦労しましたよぉ」
「――」
会話のノリでふざけてみただけ。分かってはいるけど、心の中に小さな痛みが生まれる。
「どうしました?」
「いや、なんでもない」
「ふーん」
莉緒はじっと私を見た後、興味を失ったかのようにふらっと別の棚に向かう。
懐かしい痛みはすぐに引き、胸の中からなくなった。私はまた引き続きラックに手を掛ける。
まずはスカート。莉緒には何でも似合うから取っ掛かりに迷う。スカートを使うという条件を指定してくれたのはありがたい。
幾つか絞った候補の中から私は黒い膝丈の物を手に取る。
キュロットスカート? だっけ?
スカートに見えるけどズボンみたいな。勉強して手に入れた知識だ。触るのは初めてなのに名称を覚えてしまっているのが悪い癖だ。こんなのテストに出ることでもないのに。
スカートが嫌いな莉緒に無理やり履かせるのは抵抗がある。だからこれが丁度いいかななんて。
手に持ったものを腕に掛け、私は別の棚に移動する。
でもどうして彼女はスカートが嫌いなんだろうか。私もスカートを履かないタイプの人間だけど、莉緒みたいな可愛さを持っていれば履こうと思えるかもしれない。
莉緒なら似合うのに、勿体ないな。
そう思いながら服を選ぶ私の頭の中は、もう着せ替え人形で遊ぶ少女の思考回路。ファッションに無頓着な私でも、あれだけ顔のいい人形なら楽しくなってしまう。
次に見たのは夏物のカーディガン。淡い色が並ぶのを端から触っていく。
いっそのこと思いっきり可愛いのにしてやりたいな。彼女が自分じゃ買わなそうな色。
身長の低い彼女にはサイズが多くないから、小さめのレディースでも彼女には多分余る。なるべく彼女の小さな体に合う物を探し、視界に映った薄い桃色を手に取る。
こんなもんかな。あとは目星をつけていたシャツを取り、コーディネートが完成。
黒の膝丈スカート。桃色のカーディガン。襟付きの白いシャツ。
落ち着きと清楚な印象の中に、年相応の可憐さがある。……気がする。
莉緒に着せたい服か。多分少し違う。これは私の中にあるあこがれの服。
過去の私が着たかった服だ。
「荒れてたからなぁ、私」
私が高校生の時に着たかった服。というよりは、大人になった私があの頃こんな服を着ていたら、なんて後悔している服。
グレてしまった高校生活、こういった可愛い服を着て、まじめに友達と遊んで、生活を謳歌して。そうしていれば今は変わったんだろうか。
佳晴に出会わなければ、今の私と違った私がいたんだろうか。
そんな今を想像することなんてできないけど。
「麻里さん?」
「……びっくりした」
「麻里さん、一人でぼーっとしてること多いですよね。寝不足ですか?」
「それもあるかも」
「さっき雑貨の所にアロマありましたよ。少しは変わるかも」
「うーん。どうだろ」
心配するように私の顔を下から覗き込む彼女に服を手渡す。
「これ、選んだ奴。気に入るかは分からないけど」
「ありがとうございます! じゃ、試着してきます!」
嬉しそうにその布を受け取り、足早に試着室へ向かう彼女を見る。
あぁ、自分のできなかったことを他人に押し付けるのはこういう気分なのか。
そんな背中を見送りながら、口の中に自己嫌悪の味が広がった。
「……狡いなぁ、私」
自責の念に捕らわれながら莉緒を追いかける。店の端、細い通路に試着室は備え付けられていて、私は壁にもたれるようにして彼女の着替えるカーテンを見つめる。
「ねぇ、莉緒」
「え? なんですか?」
カーテンの一部が開き、莉緒がそこから顔だけを覗かせる。
「あ、いや。着替えてからでいいよ」
声を掛けることに失敗し、私は彼女の衣擦れの音を聞きながら手持ち無沙汰に踵をトントンと壁に打つ。
暫くして物音は無くなり、莉緒が着替え終わったことが分かる。鏡でも見ているのだろうか。静かになった莉緒に私はもう一度声を掛ける。
「莉緒」
「なんですか?」
今度はカーテンが開かない。だから私はカーテンに話しかける。
「一つさ、提案があるんだけど」
「提案?」
「ん」
「なんですか? 今度は私が麻里さんの服選びましょうか?」
「そうじゃなくてさ」
カーテンを凝視したまま、私は小さく息を飲む。
そろそろ踏み込まないといけない。彼女の問題に少しでも近づいて、解決策を見出さなければならない。だから私は余計なお世話を口に出す。
「その服を着る時はさ。……ニット帽、被らない練習しない?」
彼女はニット帽をかぶる理由を鎧だと言っていた。外部からの視線を弾く強固な心の鎧。それが何かと直結しているのかは分からないけど、いつまでも殻にこもっている訳にいかないだろう。
人は慣れる生き物だ。殻を剥かれてから暫くは痛くて痛くて仕方ないかもしれないけど、どうせいつかは慣れていく。私がトラウマと寄り添って生きていけるくらいだ。きっとどうにかなる。
「どういう意味ですか?」
「意味なんてないよ。私のコーディネートにはニット帽が含まれてないってだけ」
「……なるほど。そういう事ですか」
「どう?」
「仕方ないですね。スタイリストには逆らえません」
「ありがと」
莉緒は恐らく私の考えなんてお見通し。それでも私の案に乗ってくれるということは、きっと彼女も周囲からの目を克服したいんだろう。
物音のしなかったカーテンの向こうで、小さな音と床にそれが落ちる音が聞こえる。
そしてカーテンが開かれた。
「……どうですか?」
帽子を取ったからか、それともスカートを履いているからか。少し恥ずかしそうに体を揺らす莉緒を見て胸に様々な感情を抱いた。
今の私が過去の自分にしてほしかった恰好。その存在が目の前にいることに、きっと私は目を見開いてしまったんだと思う。それを見て恥ずかしがる莉緒は、すぐにカーテンを閉めてしまった。
「あ、ごめん。似合ってるよ莉緒。想像してた通り」
「……そうですか」
「気に入らなかった?」
「いえ、とても気に入りました」
「よかった」
「あの、これ、旅行に着て行ってもいいですか?」
「え? まぁ、いいけど」
「ありがとうございます。帽子を取る練習にもなるので。……じゃあこれ脱いじゃいますね。このままレジに行く訳にもいきませんし」
分かったと伝えて私はまた壁にもたれる。深いため息が漏れ、慌てて口を押えた。
「お金は出すって言ったじゃないですか」
「プレゼントってことで、いいでしょ?」
「そりゃ、嬉しいですけど……」
試着室から出てきた彼女が真っ直ぐにレジに向かったので、咄嗟に私が会計を済ませた。私の着たかった服を着せてしまった罪悪感があったのかもしれない。
ただ彼女に何かを買い与えることで快感を得ている私もいる。なんでも喜んでくれるから、その顔を見ているとこっちも嬉しくなってくる。これは言語化するならばなんて言葉が適切なんだろうか。国語は苦手ではないけど、自ら表現するのは話が別。つくづく私は教師に向いていないのかもしれない。
「あ、麻里さん。これ」
「ん?」
せめてものお礼にと、私の分の荷物まで両手に下げた莉緒がその荷物ごと腕を上げて何かを指差す。
「花火大会。八月九日って明日じゃないですか」
「そうだね」
「麻里さん、どうせ行かなそうですよね」
「莉緒も人込み苦手でしょ?」
「はい。私も毎年家から音を聞く程度でした」
「行きたい?」
莉緒は少しだけ悩んで、首を縦に振る。
「麻里さんと一緒なら」
「じゃ、行こうか。それこそ夏って感じのイベントだし」
「麻里さん。夏の行事苦手じゃなかったんですか?」
「苦手だったよ。でもさ」
「でも?」
「莉緒と一緒なら参加しないと後悔するかなって。明日、眠るときに後悔しそう」
莉緒は嬉しそうに笑う。
「それは仕方ないですね。後悔はしたくないですし」
「何年ぶりだろ。花火大会」
「私も。……って、まともに行くのは初めてかもしれません」
「え?」
「だからエスコートしてくださいね。麻里さん」
「人込みだから頼りにならないよ」
「まぁ、期待せずに期待しておきます」
「なんだそれ」
笑いながら店内を歩く私たちの足取りは、毎日の輝きに弾んでいた。
「麻里さん。おはようございます!」
目覚ましも鳴り始めぬ午前八時。私は莉緒の声で叩き起こされる。
いつもよりも一時間近く早い起床に戸惑う私に、莉緒は身支度をしろと訴える。机の上には既に湯気の立つ朝食が並べられていて、私は目を擦りながら口にブドウ糖を入れた。
「で。これはなに?」
「なにとは?」
「なんで今日はこんなに朝が早いのかってこと」
「九時には家出ますから」
「は? どこに行くの」
今日は夕方から花火大会に行く約束。花火なんだから早めに家を出たとしても夕方だろう。それ以前にどこかに行こうというのだろうか。
それにしても急すぎる。朝になってから報告するなんて、私じゃなかったら予定が入っているかもしれないのに。
これだから莉緒は。
毎日忙しくて。唐突で。慌ただしくて。私の毎日を否応なしに色づけてしまう。
「で、どこ行くの?」
「花火大会って言ったら浴衣じゃないですか」
「……まさか、買いに行くとか言わないよね?」
「まさか。レンタルですよ。昨日帰りの電車で調べたんです。当日に着付けまでやってくれるレンタルのお店」
「予約とれたの?」
「はい。他の所より千円くらい高いお店でしたけど、何とか全日に予約とれました」
「昨日予約したなら昨日言ってよ。びっくりしたじゃん」
「サプライズと思って」
数時間寝かせるくらいだったらその場で言ってくれても変わらないだろと思いつつ、口に朝食を運ぶ。
「ていうか、よく空いてたね」
「残念ながら朝一の回ですけどね」
なるほど。開店直後だから予約が空いていたのか。朝から浴衣を着て、夜まで待ってるのはしんどいだろうし、分からなくもない。
「近いの?」
「電車で二駅くらい」
「じゃあ一人で行ってきなよ~」
花火大会に行くんだから浴衣を着ないと始まらない。なんてことは莉緒が言いそうな言葉ではあるけど、わざわざ私が保護者役としてついていく必要もない。そもそも私には浴衣を着てほぼ丸一日を過ごす気合なんてない。
「何言ってるんですか。麻里さんも来るんですよ」
「だって私行っても莉緒が終わるまで待ってるだけでしょ? だったらこんな炎天下で外に出たくない」
「違いますって」
莉緒は溜息交じりの呆れ顔を向ける。
溜息をつきたいのはこっちだ。まさかな、なんて思考がよぎるが、そろそろ目の前の少女の考えも読めてくる。
「麻里さんも着るんですよ。浴衣」
やっぱり。
「言ったじゃないですか。花火大会と言ったら、浴衣ですもん」
「私は着ないよ」
「残念ながらそう言うと思って、もう麻里さんの分も予約済みです。代金は私が持つんで安心してください」
「なんで……」
「誕生日プレゼント、パートワンです」
今度はいたずらに成功した子供の様な笑顔。
こうなった莉緒は止まらない。半月の共同生活で私が学んだのは彼女に対して諦めること。
私は莉緒よりも大きな溜息を吐き出して、代わりに白米を飲み込んだ。
夜の帳が下りはじめ、段々と藍に染まっていく道の上を少女が歩く。
カランカランと鳴る足元には下駄。黒と深いえんじ色の浴衣には白の蔦模様。そして薄い桃色の帯。短い髪は結ってはいないが、外の風に揺れるその髪はそれだけで私の目には珍しい。
「大丈夫? 莉緒」
「え?」
私の声に反応して彼女が振り返ると、その短い髪が揺れる。
「そろそろ人も多くなってきたし。きつくなったらすぐに言うんだよ?」
「なんですか、人を病人みたいに」
「だって、今日は帽子被ってないし」
「あー」
照れくさそうに髪を手で弄りながらゆらゆらと揺れて見せる。左右にふわりと舞う髪を私に見せつけながら、どうですか? なんて聞いてくる。
「はいはい。可愛い可愛い」
「それ、浴衣への感想じゃないですか。そっちじゃなくてこっち。いつもは帽子に隠れてるんですよ? 何か感想とかないんですか?」
「だって家の中でいつも見てるし」
「つまんなーい」
莉緒の髪は空の藍に溶けるように黒い。その黒は世界に漆を零したように黒く、白い肌を際立たせる。
それに加えて、その黒は近くの街灯の光を反射して偶に輪のように光る。天使の輪って言うんだっけ? それがとても綺麗で、彼女に似合っていて、目を逸らしたくなる。
「どうしたんですか?」
「ううん。なんでもない」
「麻里さんこそ大丈夫ですか? 人込み、私ほどじゃないにしろ苦手でしょ?」
「私は大丈夫。今は慣れない格好をしてる緊張の方が強いから」
「似合ってますよ?」
「やめてよ」
溜息をつきながら視線を下げるとそこにも見慣れない布が映る。浴衣なんて着たのはいつぶりだろう。ひょっとすると小学生の頃まで遡るかもしれない。浴衣に帯に下駄。占めてレンタルで六千円と少し。お金を払って窮屈さと辱めを受けるなんてとんだイベント。
いざ会場に足を運んでみると、浴衣を着る人はそこまで多くなく、どこか浮いているように感じる。
年の離れた二人が浴衣で歩いているのが目立つのか、それとも莉緒の顔が周囲の目を引いているのか、すれ違いざまによく視線を向けられる気がする。その度に自分が恥ずかしい格好をしているように思えて胸が跳ねて。きつく巻かれたさらしがそれを押さえつけて苦しくて。
莉緒に乗せられて浴衣を着たことを後悔すらしている。
「そんなに機嫌悪そうにしないで下さいよ」
「正直もう帰りたい」
「何言ってんですか。大丈夫ですって、似合ってますよ」
「やめてって」
「綺麗ですよ?」
「だからやめてって」
深い溜息をつく私を見て莉緒はからかうように笑う。そんないつもの構図が広がった時、けたたましい拍手と歓声が広がり視界が晴れた。
慌てて空を仰ぐと、そこには大きな赤い花。
少し遅れて鼓膜が大きく揺れ、夏を感じさせた。
「始まりましたね」
「始まったねぇ」
「どこか座れるところ、行きましょう?」
頭上には続けて花が咲き続ける。オープニングの勢いは激しく、出し惜しみはしないと言わんばかりに鼓膜が振動を続ける。
道に溢れた人たちは皆立ち止まり空を見上げている。
前を行く莉緒は興奮を抑えきれない様子で、立ち止まる人間の間を縫いながら隙を見て空を見上げていた。その顔は子供の見せる表情そのもの。
私はと言えば、そんな莉緒の顔を見ることも、空を見上げることもせず。ただただ人にぶつからぬように前だけを向いて歩き続ける。
目的地を目指すようにただ前を見て歩く。それしかできない。
だって。
その少女の顔も、その空の模様も、私にはまだ眩しかったから。
すこし歩いて私達は会場から少し離れた公園に腰を下ろした。
手には屋台で買った焼きそばとりんご飴。それによくわからない光る剣のおもちゃ。
「屋台の食べ物は高いって言って買わないタイプかと思ってた」
「逆に高いからいいんじゃないですか。特別って感じがします」
「そのおもちゃも?」
「はい。ちょっと気になったので買っちゃいました」
「子供っぽくて莉緒と印象違うかも」
見た目の幼さには似合ってるけど。
「こういうの、いいじゃないですか。その瞬間だけ価値のあるものってあると思うんですよね」
「あー。修学旅行のお見上げとか」
「そんな感じです。きっとこれも今日が終わればただのゴミになっちゃうんですけど。それでも、あとでふと出てできた時に今日の事を思い出すきっかけになるじゃないですか」
「そっか」
プラスチックの剣を空に掲げてスイッチを押すと、赤と緑に安っぽくチカチカと光る。
きっと私も小さな頃はこれを見て憧れを持ったのかもしれない。だってお祭りの場ではこの玩具はなによりも高価で無価値で。持っている男子はきっと人気者だった。
今ではもう、思い出せない感情。
夏の空気を胸いっぱいに吸い込んで伸びをする。浴衣はきつくて苦しいが、袖の隙間に流れ込む空気は心地よかった。八月の風に僅かな火薬の香りを感じながら空を見上げると、また一発の花火が打ちあがる。
「ゆっくり花火を見るの。本当に久しぶり」
「麻里さん、お祭りに来るイメージ無いですもんね」
「うん。子供の頃から来なかったなぁ」
「親と一緒にお祭りとか行かなかったんですか? 私、あんまりそういう記憶なくて。みんな普通はそうやって行くんだと思ってました」
小さく体を跳ねさせて、考える。
もう隠さなくてもいいか。
別に大した話じゃない。私のほんのちょっとだけ普通とは違う家族の話。それでも、どこにだってある特別ではない家族の話。
「じゃあ、私も莉緒と同じ、普通じゃない人なのかも」
「え……?」
私の切り替えしに莉緒は私の顔を見る。不安そうに歪む目は、私の地雷を踏んでしまったのか不安になっている目だろう。ちょっと言い方を間違えたかもしれない。
「ごめん。変ないい方しちゃったかも」
「え、いや……」
「私のお父さん、私が小さい時に死んじゃって。だから、こういうイベントってあまり来たことないのかも。それこそ、屋台の食べ物は高いから勿体ないなんて思ってたし」
私の口角はへらへらと上がり、喉は次々に言葉を並べる。
気を使って欲しいわけでもないけど、伝えたら気まずくなる話だ。いつもなら極力避ける話題を出すと、こうやって口が回るのか。
まるでいつもの莉緒みたい。
「え、あ、ごめんなさい」
「いいのいいの。もう何年も前の話だし。もう慣れちゃったから。ただ莉緒には話してもいいかなって思っただけ」
本当に大した話じゃないんだ。
「えっと、なんて言えばいいのか分からないですけど。じゃあ、気にしません。……ありがとうございます」
「お父さんが亡くなられた原因とかって、聞いてもいいですか?」
「え?」
「あ、ごめんなさい。不謹慎ですよね。忘れてください」
「ううん。ちょっと病気でね。私が小学校に上がる頃にはもう入院してたから、パパとの記憶はまともな記憶は全部病院の中なの」
春も夏も秋も冬も。あの人の記憶には病院の消毒液の匂いが付きまとう。
その匂いは私からすれば父親の香りで、小さい頃は大好きで。それから少し経ってからは大嫌いな匂い。
あの清潔すぎる白は、私から大切な物を奪う匂い。
「パパ……?」
「え?」
「いま、パパって」
「言ってた?」
「はい」
「うそ。恥ずかしい」
「可愛いですね。麻里さんのイメージと違ってビックリしました」
「……忘れて。ちゃんとした記憶が昔のばっかりだから呼び方まで戻っちゃったんだ」
「良いじゃないですか。それもいい記憶ですよ」
「……そうだけど」
話してしまえば簡単な過去。
今では丁度今の時期。お盆の季節にしか思い返すことのない記憶。
「じゃあ、実家に帰らなきゃならないじゃないですか」
「そうなんだよね。でも、今年は莉緒もいるしさ」
「それは駄目ですよ」
「なんで」
「なんでって、お父さんが悲しむからに決まってるじゃないですか」
「莉緒ってそういう考え方するんだ」
「そういうって?」
「なんかもっとドライな考え方すると思ってた」
「失礼ですね。怒りますよ?」
「だっていつも淡々と話すから」
「それは当事者だからです。でも、残された方はまた別ですよ。それに忘れられたら寂しいじゃないですか。私だって死んだらお盆くらい会いに来てほしいですもん」
一切私の方は向かず、打ち上げ花火を見上げながら莉緒は話す。
また一つ、莉緒という人間を知ることができた気がした。
「ごめん。行かない言い訳に莉緒を使っただけ。本当はあんまり行きたくないの」
「なんでですか?」
「……気まずくて」
「お母さんと仲悪かったりするんですか?」
「まぁ、そんな感じ」
「じゃあ、今まで大変だったですね」
そっと頭を撫でられるような言葉に驚きながら、私はゆっくり首を振る。
「ううん。私が悪いの。……昔は仲が良かったんだ。お父さんが死んでからは特にね。二人で生きて行かないとって思ってたし、お母さんは私が守らなきゃって思ってた。だから将来お母さんを楽にしてあげるんだなんて思って沢山勉強してたし、性格も生真面目になっていったし。こう見えて昔は優等生だったんだよ?」
「にわかには信じられませんね」
「でしょ?」
二人でクスクスと笑う。
「でもさ、丁度高校受験モードでピリピリしてた頃、お母さんに知らない男を紹介されてさ。その時なんか糸が切れちゃって。あー、この人は私の助けなんて必要なかったんだって考えちゃったら、もう何もできなくなっちゃったの。それで、結構荒れちゃった」
「それで煙草も?」
「……よく覚えてるね」
「煙草を吸ってる麻里さんが想像できなくて、ずっと違和感だったんですよ。今度、吸ってみてください」
「なんか恥ずかしい」
「あとでせがみますね」
無言が続いて私は言葉を探すために空を見上げる。沈黙が生まれないこの場は良い。空を見上げるだけで、会話に待ったがかけられる。
「その、新しいお父さんとは?」
「ずーっと気まずい関係。一番荒れてた時からのスタートだからね。色々と迷惑もかけちゃったし」
「優しい人なんですか?」
「うん。優しいって印象が筋肉つけて服着て歩いてるような温厚な人。体が大きいんだ。それが昔は怖かったってのもあるけど」
「……やっぱり帰りましょうよ。実家。なんか今の麻里さんならそのお父さんとも話せそうですよ?」
「……そうかな」
「まだ一カ月も一緒にいないですけど、私にもわかりますもん。麻里さんすごく変わりましたよ? 今までできなかったこともできちゃうくらいには変わりました」
「莉緒が言うと本当にそんな気がする」
「それでも不安なら裏技を教えちゃいます」
「裏技?」
「はい。ノートに書くんですよ。お父さんと打ち解けるって。そうすれば絶対に叶います」
「莉緒らしい」
未来を作る魔法のノート。莉緒の後押しがあれば、その奇跡を信じ切れていない私でも、逃げ道を断つくらいには役立ちそうだ。
「善は急げですよ。もうすぐお盆は終わっちゃいますけど、墓参りに期間なんてありません」
「……そうだね。じゃあ、来週にでも帰ろうかな。実は母親からいつ帰ってくるのかってメール来てるんだ」
「それなのに帰らないつもりだったんですか?」
「まぁ、毎年何かしらの口実をつけては逃げてたから」
「……帰るの何年ぶりですか?」
「社会人になってからは帰ってないかも」
「ちゃんと帰ってください! というか帰りなさい!」
「はーい」
もう一人の母親ができたかのように叱られる。それがどこか心地いい。
ここ最近帰省が頭にチラついていたから、丁度いい機会だ。
お父さん……パパの墓参りと。それと、佳晴の墓参り。
パパのは数年ぶりだけど、もう片方は本当にいつぶりか分からない。
存在を頭から追いやっていたくらいだ。それが墓参りに行こうと思うようになったのはそれこそ奇跡だろう。
最近夢に出てくることに対して文句の一つや二つ言ってやりたい。
びっくりするかな、あいつ。
あの能天気な顔に冷や水を浴びせられるなら、楽しみだ。なんて、緊張を誤魔化す為に自分で自分に虚勢を張ってみたり。
「どうしました?」
「ううん」
莉緒が私の顔を覗き込む。
私はそれから逃げるように空を見上げた。
莉緒の顔を直視できなかった。私を暗い闇の奥から引っ張り上げてくれた彼女を見るのが、気恥ずかしい。
多分それは今、心の底から彼女に感謝してしまっているから。
そして逃げた視線の先で見る花火は、プログラムの一部の終盤に差し掛かり、夜空を埋める程に咲き乱れる。
「綺麗……」
夜空に咲く花々に私の視線は釘付けになる。
まるでそれに吸い込まれるように、私の網膜は日の花に焼かれた。
赤に緑に金。頭上に数々の花が爆音を轟かせながら咲いては、すぐに枯れてく。
炭酸ストロンチウムに硝酸バリウムにチタンの合金。高校化学の範囲である炎色反応の応用。受験期に興味本位で調べた知識を今でも覚えている。
昔、父親と一緒に見た花火は、それをただ本当に空に咲く火の花だと認識して、綺麗な物というカテゴリに分類していたのに。いつからかそこに不純物のような知識が混入してしまった。
毎年毎年、その美しいはずの花に感動を覚えなくなっていく自分を客観視して、こうして人間は大人になるんだなと感想を持っていたことを覚えている。
毎年、そうだった。
そうだった、はずなんだ。
花火の音を聞いても心は跳ねず。祭りが開かれても足は向かわず。
地域の盛り上がりなんて私には一切関係なくて、その日はただ過行く日々の一部でしかなかった筈なのに。
今年は無性に胸が騒がしい。
鼓膜が強く震える度に、心臓が呼応する。
網膜が炎に焼かれる度に、感情が躍る。
「ねぇ、麻里さん」
「ん?」
不意に空を見上げる莉緒が口を開く。
その声は破裂音の間に生まれる闇に見事に溶け、はっきりと私の耳に聞こえた。
「綺麗ですね」
視線は空の黒に向けたまま、唇だけを滑らかに動かす。
薄暗い中で動く彼女の横顔を見つめる。
そしてもう一度花が咲き、空が光り、彼女の輪郭が明瞭になった時、私は息を飲んだ。
あぁ、そういう事か。
「綺麗」
咲いて。鳴って。散って。
それは派手で華々しくて、そして儚げで。
もう一度空に咲いた花に私ははっきり「綺麗だ」と感想を持った。
この感情を私は知っている。
息が止まって、心拍数が跳ね上がって。そして熱が生まれる感情。
空に浮かぶ花は、目の前の少女に似ている。
空に浮かぶ花は、彼女が一生懸命に燃やす彼女の命に似ている。
だからこれ程までに惹かれ、胸を抉るんだ。
「花火みたい」
「なにがですか?」
「莉緒が」
「私ですか?」
「莉緒は、花火に似てる」
「そうですか?」
「うん」
「あー。でも、わからなくもないです」
「不服?」
「まぁ、でも、あんなふうに死ねたら本望ですね」
莉緒は笑う。
「高く飛んで、空高く舞い上がって。そしてこの上なく綺麗な花みたいに死ねたら。私は、うれしい」
瞬間。今日一番に高く花火が打ち上げられる。煙を尻尾のように伸ばしながら高く高く舞い上がる。
そして、夜空に赤い花が咲いた。
大きな花弁を広げて華々しく一瞬の命を誇示する。
その激しい激しい爆発は刹那の沈黙を掻き消すように、最後の存在証明を響かせる。
「綺麗……」
無意識に私はその花に手を伸ばした。
一瞬で燃え尽きてしまうその儚く激しい花に手を伸ばす。
ただ、私の左手はその熱を掴むことは出来ずに、夏の空気をかき混ぜた。
「麻里さん……?」
気が付けば私の目からは一筋の涙が伝っていて、慌てて右手の指でそれを拭う。
「ねぇ、麻里さん。……大丈夫ですか?」
私は虚しく散った空の花と、隣で咲く激しい命、その両方に目を向けることが出来なくて、その場で静かに視界を手の平で覆った。
「大丈夫。ちょっと、眩しかっただけ」
感情を落ち着かせようと大きく吸い込んだ空気からは、確かに夏の匂いがした。
「やっと着いたー」
電車を降りると、世界は蝉の音で充満している。心なしかいつもよりもその声が激しく聞こえるのは緑の深い場所に来たという気持ちから来ているのだろうか。
電車を乗り継ぐこと三時間。
目の前には「箱根へようこそ」なんて大きな看板が構えられている。
周囲には観光客と思われる人間しかいない。ホームを見回すとまさに観光地らしく、様々な施設の広告が並んでいる。その延長でふと隣を見てみると、長旅に少々疲れ気味の莉緒が汗を拭っていた。
「大丈夫?」
「はい。こんなに電車に乗ったの、久しぶりだったので、ちょっと疲れちゃいました」
家を出る頃のウキウキと弾むような顔はもうなく、萎れた花のように芯の無い立ち姿の莉緒は笑う。
温泉街だったら正直どこでもよかった。温泉に入って宿でゴロゴロして、そんな非日常を味わえればよかったから、行き場所は莉緒に任せてしまった。莉緒は熱海と箱根とその他何か所で迷っていたが、探した宿のホームページが気に入ったとかそんな感じの適当な理由でここに来ることになった。
「とりあえず行こっか」
「はい」
左手首の腕時計が示す時間は午後一時。予定は軽くしか決めていない。
とりあえず駅前で適当にお昼ご飯を済ませて、どこかへ観光へ。宿のチェックインは五時ごろ。それまで適当に見て回って、って。結局全然予定決まっていないじゃん。
「莉緒、お腹空いた?」
「麻里さんは?」
「微妙」
「私もです」
ふらふらと駅から出ると辺りには饅頭やらかまぼこやらのお土産が並ぶ店が並ぶ。箱根って何が有名なんだろう。調べておけばよかった。
駅前に人はいるもののメインの商店街ではない寂しい雰囲気がある。ここの駅の数駅前で一気に人が電車から降りる場所があったからそっちが箱根の核となる駅なんだろう。莉緒がここで降りると言っていたから何かしら理由はあるんだと思うけど、それにしてももう少し賑わいがあってほしかった。折角の旅行だし。
「お昼ごはんどうしよ」
「麻里さんが大丈夫なら私は後でも」
「でも、山の方行ったら飲食店なさそうじゃない?」
「流石にあるんじゃないですか? 観光地だし」
「じゃ、先に観光回っちゃおうか」
「はーい」
莉緒は携帯を弄りながらうんうんと唸っている。これから観光に行く場所も実は莉緒に一任している。莉緒の行きたいところに、と言えば聞こえはいいが、実際は私が面倒臭いだけ。
予約した宿が山を登った先だったから、そっちの方角に進むことしか知らない。
「私、行きたいところがあるんですけど、いいですか?」
「いいよ。莉緒に任せる。近いの?」
「まぁ、そこそこです」
「どんなとこ?」
「ガラスの美術館らしいです」
「へぇ」
美術館か。旅行先の珍しい美術館に行くのは、旅行の醍醐味と言えるかもしれないが、ガラスの美術館とはまた面白い。有名な作品が展示されているのか、はたまたガラスの歴史をなぞる美術館なのか。知識欲が僅かに疼く。
「そこでいいですか? バスでニ十分くらいらしいですけど」
「うん。いいよ」
「まぁ、美術館の最寄り駅で降りたんでそこ以外に行く場所もないんですけどね」
「だろうと思った」
自販機でお茶を買ってからバスの待機列に並ぶ。列にはそこそこの人が並んでいて、皆照り付ける太陽に汗を滲ませていた。
現地に到着してみると期待以上に施設は広く、予想以上に人で賑わっていた。老夫婦や若いカップルに紛れてちらほらと子供の姿も視界に入り、夏休みを感じさせる。
入ってすぐに大きな池を取り囲むような庭園が広がる。水辺に掛かる橋やアーチ状のモニュメント。そして緑と共に並ぶガラスのオブジェ。
視界を揺らすたびに必ず視界のどこかがキラキラと光る。そんな幻想的な空間の中を歩く。
「正直ここまで期待してなかったかも」
「そこそこ有名みたいですよ? ここ」
「莉緒、こういうの好きなの?」
「まぁ、見るのは」
生返事が返ってくる莉緒を見てみると、空間に広がるガラスの煌めきを瞳に映したような眩しい目で辺りを見回している。相当気に入っているらしい。太陽が私達の肌を焼くがそれもお構いなしに、ゆっくりゆっくり足を進める。
室内に入れば、また雰囲気は打って変わった。先程までの庭園では子供の声が環境音に交じっていたが、一度屋根の中に入るとコツコツと鳴る足音だけが響く様な空間が広がる。やはり子供には美術館はつまらないものなのだろうか。視界にも子供は映らない。
作品は壁に掘られたショーケースの中に展示されている。建物自体も作りが凝っていてまるで海外の教会にいるようだった。
アーチ状の梁のようなものが天井に掛かっていて、実際展示には関係ないであろう箇所に興味が引かれる。ヴェネチアングラスって書いてあったし、建物もイタリアを意識しているのだろうか。やはり専門性の必要となる分野は難しい。私の浅い知識では何も分からない。
「ねぇ、麻里さん。なんかここでバイオリンのコンサートあるらしいですよ」
「今日? 偶然」
「いや、なんか夏休み中はほぼ毎日やってるっぽいです」
「なんかありがたみが薄れた」
「ごめんなさい」
「有名な人なのかな」
「わかんないですけど、調べてみます?」
「別にいいや。時間は?」
「あと少しで始まると思いますよ。この建物の中の小さいホールでやるみたいです」
「行く?」
「まぁ、せっかくなんで」
美術館を進んでいくと視界の開けた空間に出る。と言ってもそこまで広い場所ではない。三階建てのデパートの吹き抜けくらいの大きさだ。美術館の内部で壁や天井は不規則に曲がっていて、素人目でも良い環境ではなさそうだと分かる。
無料のコンサートに文句を言っても仕方ないが、観客は結構な数いるようで。設けられた椅子やベンチに入りきらず、立ち見の客もちらほらと目に入る。みんな一様に期待に胸を膨らませている様子なので、つられて私も少し期待してみたり。
私達はあまり人のいない壁際によって遠目からそれを見る。暫くすると美術館のスタッフの司会セリフと共にバイオリンを持ったふくよかなヨーロッパ系の男が登場した。挨拶もほどほどに演奏が始まり、私はそれに耳を傾ける。
お世辞にも音楽を聴く方ではない私には音の違いは分からなかった。それでも流石プロだなと思うくらいにはその音は私の琴線に触れる。生のバイオリンを聞く機会なんてそこまで多くない。いつしか私は目を閉じてその空気の振動に身を預けていた。
三十分程の演奏が一瞬のように過ぎ去った。終わってみればそれは心地よい時間で、始まる前は少し長いなと感じたそれも、もう少し延長しても良いと思える時間だった。
「よかったですね~」
それは隣の少女も同意見だったようで。
「私バイオリンの演奏生で見たの初めてです! 空気って震えるんですね」
「気に入った?」
「はい! 目で見て楽しんで、おまけで耳で楽しませてくれるなんてすごいお得感です」
「言われてみればそうかも」
美術館の順路を進みながらする会話はどことなく明るい。芸術に触れるとテンションがお互いに上がるらしい。
「麻里さん、お腹すきました?」
「んー。まぁ、ほどほどに?」
「さっき外の庭園の端に」
「あったね。レストラン」
「ちょっと高そうでしたけど、この際、味覚もって考えちゃう私は欲張りですかね」
「すっごく欲張り。でも、私も同じくらい欲張りかも」
「どんな感じの店なんですかね」
「美術館がこれだからイタリアンじゃない?」
「最高ですね」
それから私達は少し高めのレストランに移動し、少し贅沢をしたランチを食べ。おまけに食後の珈琲なんかも頼んじゃったりして、旅行という非日常を楽しんだ。
食後にふらふらと園内を散歩してみたり、お土産を覗いてみたり。
お土産コーナーはかなり広く、三階建ての建物全てがそれにあてられていた。三階ではリアルタイムにガラス細工職人がその技を見せており、高熱のバーナーとガラスの棒が見る見るうちに芸術品になっていく過程に私達の口は塞がらなくなったり。そんな光景を見せられれば財布の紐も緩むもので、その後私達は別々に買い物を始めた。
私は来週急遽変えることになった実家への手土産として、ガラス細工と関係があるのかは知らないが綺麗なボトルに入った酒を一本買った。酒の置かれる場所の近くは比較的高価な物が並んでいて、ショーケースに並ぶアクセサリーなんかも目に入る。
綺麗だけど私が付けてもな、なんて思いながら見ていた筈なのに、気が付けばこれは莉緒に似合うだとか、莉緒に付けてほしいだとか、そんな考えに変わっていて笑ってしまう。
莉緒はアクセサリーとか嫌がるだろうな。
そう思いながらも私は悪戯心半分に、ショーケースの端にある比較的安いものの中から莉緒に似合いそうなイヤリングを買った。
主張し過ぎない小さくて透明のガラス。
店員さんに包んでもらったそれを丁寧に鞄にしまい、私は何気ない顔で莉緒と合流した。
「この後どうするの?」
「今何時ですか?」
「もう少しで四時」
「じゃあもうチェックインは出来ますね」
「ようやく温泉だ」
「麻里さん、すぐ宿に行きたいですか?」
「どうして?」
「いや、実はなんですけど、ここの近くにある場所にちょっと寄ってみたくて。そんなにいるつもりはないのでちょっと見て終わると思うんですけど」
「別にいいよ。どこ?」
「ここから歩いてもいける所なんですけどね……。えっと」
なぜか莉緒は恥ずかしそうに私から視線を逸らす。
恥ずかしがる莉緒が珍しくて、私はそれを覗き込むように腰を曲げる。
「なんでそんなに恥ずかしがってるの?」
「いや、ちょっと、なんか言いづらくて」
「なにそれ」
私がケタケタと笑うと、莉緒はそれに怒るように小さく頬を膨らませながら、私を上目遣いで見上げる。
「……麻里さんは、星の王子さまって読んだことありますか?」
「え、なに? もう一回」
「星の王子さま」
一切予期していなかった場所からの話題を唐突に出されて私は軽く混乱する。
「えっと……。星の王子さまってあの学級文庫とかによく置いてあるやつ?」
「はい。サン=テグジュペリの星の王子さまです」
「作者の名前は覚えてないけど、読んだことはある気がする。それこそ小学生の頃だけど」
最後まで読んだかは覚えていないけど。なんとなく覚えてる。小さい星の王子さまが色んな星に行って色んな人と話す話。内容もほとんど覚えていない。
「で、その星の王子さまがどうしたの?」
「えっと……。ここの近くにそれのミュージアムがあるんですよ」
「それに行きたいと」
「麻里さんがいいなら」
なぜかいつもと違いやけに低姿勢な彼女に笑みがこぼれる。
「私が駄目っていうことなんて滅多にないでしょ」
「でも、早く温泉行きたいかなって」
「莉緒が行きたいところあるなら任せるって。ほら、私って主体性ないし」
「そういえばそうでしたね」
じゃあ、行きましょうと莉緒の顔に活気が戻る。この旅行のプランニングが強引だったから私に遠慮しているのだろうか。
あ、もしかして私が明日誕生日だから気を使ってくれているのかも。この旅行も元はと言えば私の誕生日を祝うなんて名目だった気がするし、ありえなくはない。
そんな気使わなくていいのに。
一足先に外に出る彼女を追うように私もエアコン下の室内から出る。蒸し暑い空気と鋭い日差しが私を襲うがそんなことお構いなしに莉緒についていく。
視界はキラキラと光り、彼女と歩くその道はまるで夢の世界の様だった。
ガラスの美術館から歩いて数十分。目的の園内に入ると周囲は西洋の街並みに変貌した。作者はフランスの出身だという事を莉緒から聞き、この街並みもフランスの再現なんだろうかなんて考えながら見上げてみる。石造りの家や井戸、教会なんかが並び、それに隣接するようにヨーロピアンガーデンなんて書いてある庭園が広がる。閉園時間まで一時間と少しとなった園内には人影は少なく、異国の地に二人で降り立ったかのような感覚だった。
「好きなんですよ」
「星の王子さま?」
「恥ずかしくて誰にも言えないですけどね」
「恥ずかしくはないでしょ」
「だってなんか。幼く見えないですか?」
「そんなことないよ」
ここまで足を踏み入れても作品の内容はほとんど思い出せない。園内には作品に登場するキャラクターの像がいくつか点在したけれど、それを見ても誰だかはっきりとしない。
「なんかごめんなさい」
「なにが?」
「つまらないですよね。私だけはしゃいじゃって」
興奮を押し殺すようにして私のテンションに合わせていた彼女が申し訳なさそうに口にする。
そんなにつまらなそうにしていただろうか。顔に出てしまっていたなら申し訳ない。
「もう話の内容も覚えてないからなぁ。ここに来るならもう一回読んでおけばよかった」
「ごめんなさい。私もここを知ったの今日の朝だったので」
「ううん。大丈夫。分からなくてもそれなりに楽しめるから」
私は西洋風の町中を見回す。作品を知らなくてもこの雰囲気だけで充分楽しめる。
「でもそれじゃ……」
「あ、じゃあさ、莉緒が解説してよ。どうせ客もそんなにいないし、迷惑にはならないでしょ」
「それいいですね。賛成です」
私は運よく無料の案内人を雇い、そのままふらふらと園内を歩く。
「麻里さん、この話ってどれくらい覚えてますか?」
「うーん。ほんとにほとんど覚えてないよ。小学校の低学年じゃないかな、読んだの。それこそ学校に置いてあったのを読んだ気がする」
「例えばどんなキャラクターが出てきたなとか」
「主人公? でいいんだっけ? 砂漠に飛行機が墜落した人。その人と星の王子さまが会話をする内容だったのは覚えてる。王子さま、地球に来るまで色んな星を渡り歩いてきたんだっけ。内容は覚えてないけど」
「結構覚えてるじゃないですか」
「そう? 実は記憶力はなぜかいい方なんだ」
「それはにわかに信じられないですねー」
これでも結構いい大学を出てるんだけどなぁ。なんて面倒臭い返しをしてみても、莉緒は鼻で笑うように私の記憶力に首を振った。そんなに頭いいイメージ無いのかな。私。
「あ、この人とか分かりません?」
敷地の端にある小さな教会に向かうと、いくつかのキャラクター像が出現した。机に座って怖い顔をしている男と、棒を持っている男、かな。
「全然わかんないや」
「星の数をただただ数え続ける男と、灯台の火をただただ点けたり消したりしている人です」
「……そんな話だったっけ?」
「そうですよ。二人とも違いはあれど使命に捕らわれてしまった人達」
「なんかもっとファンタジーな世界観だと記憶してた」
「小学生が読んだらファンタジーに読めるんじゃないですか?」
「そうかも。よくあるもんね。大人になってから読むと意味が変わってくるやつ」
「多分この作品も同じ類だと思いますよ」
夏が終わったらもう一度読んでみようかなと思いながら、そのキャラクター達の像を見る。花壇の中に浮かぶ彼らはお世辞にも幸せそうな顔をしていない。
「莉緒はこのキャラクター達、好きなの?」
「……どうでしょう。物語の登場人物としては好きですけど。キャラクターとしてはそうでもないかもです」
「なにそれ」
「伝えたいことは色々とあるとは思うし、物語的には仕方ないとは思うんですけど、ただそういうキャラクターだって言われても、朝から晩までその仕事を全うしてる彼らが私は可哀想に見えちゃうんですよ。憐れんだ目で見ちゃいます。だってこの人達の生活は私から見たら幸福とは呼べないんですもん」
莉緒の感受性は高い。これまでの生活からも十分にそれは分かる。必要以上に考えて、必要以上に感情を起伏させて。それでこそ彼女だと言えるのかもしれないけど、やっぱり隣で見ている私からは生き辛そうだななんて感じてしまう。
「このキャラクター達はきっと、私に似てるんだろうね」
「……はい。私にはそう見えました」
「そのさ。本編ではそうやって何かに縛られてるキャラクターに王子さまはなにか言及したっけ?」
「たしか、してたと思いますよ。特に星を数えるだけの人には辛辣だった気がします」
「そっか……。じゃあやっぱり少し可哀想だね」
「強く言われたからですか?」
「ううん。王子さまはその人達にその後なにもしてあげなかったから。……なんとなく覚えてるんだ。あの王子さま、行く星々の問題は解決してないよね。私さ、小学生にしては大人びた考え方してたんだと思う。当時、王子さまのこと無責任だなって思ってたもん」
「確かに。言うだけ言って去っていきますもんね。そういう見方をすればそうかもです」
私は止まっていた足を前に進め、二人のキャラクター像から離れて小さな教会へ向かう。莉緒はそんな私の背中を慌てて追う。
「だったら私はこのキャラクター達より幸せだよ」
恥ずかしい台詞だったから莉緒から私の顔が見えない今がチャンスとばかりに呟いてみる。
「どういうことですか?」
「私の星に来た王子さまは無理やり私を変えてくれたから」
違う価値観を提示されるだけされたこのキャラクター達は王子さまが去った後にふと自分の生活のことを考えてしまうかもしれない。今の自分が幸せかそうでないのか。考えるだけ無駄なことが頭にチラついてしまうかもしれない。それまで無知なりに幸せだった彼らにとってそれは不幸でしかない。
だったら私はきっと幸せな方。
「私、ですか」
「だって私、変わったもん。最近自覚できるくらいには、変わった。莉緒に変えられた」
「夏が終わったら私はいなくなっちゃうんですよ? それこそ無責任です」
不安げに呟く莉緒の声は沈んでいる。多分俯いているのだろう。
そんな彼女に私はまた熱い感情を抱く。
恋心の様でそうではない。でも多分、幼い私だったら勘違いしていただろう程に恋心に近い感情。
むずがゆくて、こそばゆくて、温かい感情。
私は莉緒にもっと恥ずかしい台詞を吐きたくなって、くるりと体を反転させる。背景に教会を背負って放つこの言葉は少し重いかもしれないけど、なんだか今の気分にはぴったりだった。
「じゃあ、もっと私を変えてよ。莉緒がいなくなっても、その後に私が幸せだって思えるくらい、私を変えて」
告白のような言葉に莉緒は目を見開く。
そしてすぐにその目を逸らした。
「これ以上麻里さんに踏み込んでいいんですか?」
私はその言葉に迷うことなく、首を縦に振る。
「莉緒になら、いいかなって」
「私気付いてますよ? 麻里さんまだ大きいものを私に隠してる。それを私に見せちゃったら、きっと傷だらけになっちゃいます。きっとすごく痛いです。それでもいいんですか?」
私はまた頷く。
「多分私のこれはさ、この先の人生を考えても莉緒にしか話せないんだと思う」
「そんな大層な人間じゃないですよ」
「大層な人間だよ」
莉緒は驚いたような顔をして溜息をつく。
「なんか今日の麻里さん、いつもと違います」
「旅の恥はなんとやらってね」
「それ使い方あってます?」
「まぁ、雰囲気は?」
莉緒は長い溜息をつきながら私の隣を通り抜けて教会へ入る。
「やっぱりさっきのキャラクター達、麻里さんに似てます」
「なんで?」
「だって王子さまが彼等に抱いた台詞が今、そのまま引用して私の気持ちになりますもん」
「それってどんな台詞?」
教会の中に入った彼女の頭上には小さなステンドグラスの窓がキラキラと輝いている。それに負けないくらいの美しさで彼女も笑っていた。
「大人って、何を考えてるんだか、ほんとにわからないなぁ」
「疲れましたぁ~」
「そうだね~」
二人並んでベッドに倒れ込む夕方。窓から入る日差しは橙色。顔を埋める枕はいつもよりも柔らかい。
莉緒の予約した温泉宿は正面玄関の風格から高級という二文字が相応しい雰囲気を放っていて、一度宿の名前を確認してしまう程だった。勿論客への対応もそれ相応のものを準備されていて、接客に慣れていない私達はびくびくしながら部屋へ案内された。
この宿の中では恐らく一番小さいであろう二人部屋。普段の私の部屋よりも小さい部屋だが、流石はリゾート地。そこに狭さは感じられず寧ろその纏まった空間に安らぎを覚える。茶色に統一されたフローリングの一室にはソファにテレビ、ダブルベッドが置かれ、大きく開かれた窓からは箱根の緑が広がる。
ベランダに出ればこの宿の目玉ともいえる備え付けの客室露天風呂。私達は真先にベランダに出てその檜の箱に興奮し、一通り室内を見て回った後こうしてベッドに倒れ込んだ。
「麻里さんへとへとじゃないですか」
「莉緒に言われたくない」
「二十超えると下り坂って言いますもんね」
とりあえず寝転がったまま莉緒の足に蹴りを一発お見舞いする。
「いたーい」
「私まだ若いから」
「まだ若い人は年のこと言われて人のこと蹴ったりしないですよ」
「うるさい。そもそもその下り坂の人間と同じ体力してる若者ってどうなの」
「なんか最近体力なくなってきちゃって」
ミュージアムを出てからは顕著にそれが表れていた。疲れを感じ始めた私の横で息切れしていたくらいだ。何度か心配したがその度に大丈夫だと言うのでそのままにしたけれど、やはり体調でも悪いのかも。
振り返れば昨日の花火大会も疲れていたように見えたし、最近の朝の散歩もそう言われてみればと思うところがある。先入観の方が強いかもしれないけど。
「夏バテ?」
「んー。どうなんでしょ。私夏バテってなったことないんですよね」
「怠くなったり食欲がなくなったり?」
「じゃあ、麻里さんは年中夏バテじゃないですか」
「そうやってすぐ誤魔化すんだから」
「別に誤魔化してはないですけど……」
莉緒は体を捩らせながら短い脚で私の足を弱々しく蹴り返す。彼女の裸足が私の太ももに当たり、それがひんやりと冷たかった。
「麻里さん温泉入ってこないんですか?」
「私?」
「だって、ずっと入りたがってたじゃないですか」
「まぁ、そうなんだけど。莉緒は?」
「えっと、私は……。いいかなって」
申し訳なさそうに声を小さくする莉緒に驚く。折角箱根まで来て温泉に入らないなんて、メイン料理を食べない様なものじゃないか。
「なんで?」
「いや……」
「やっぱり体調悪い?」
「えっと」
「生理?」
「……躊躇いなく聞きますね。恥ずかしながらそれも理由の一つではあるんですけど」
「わざわざ私の誕生日に合わせたの? 温泉入れなかったら元も子もないじゃん」
「違うんですよ。いつもならもう終わってるんです。なんか偶々長引いちゃって」
「あー」
それに関しては何とも言えない。運が悪いと言ってしまえばそれまで。
彼女の体調が悪いのもそれに関係しているんだろう。
「って、それだけじゃないですから。そもそも私、長引いてなくても温泉には入ってなかったと思いますし」
「なんで」
「……温泉、慣れてないんですよ」
隣を見てみると、莉緒は顔を枕に埋めている。声が籠って聞きづらい。
「こういうとこ、あまり来ないの?」
「あまりっていうか、ほとんど行ったことないです」
「それで恥ずかしいってこと?」
「……まぁ、そうです」
「なにそれ可愛い」
「馬鹿にしないでください。……他の人の裸とか、ほとんど見たことないんですよ。だからなんか怖くて」
「見たことないって……」
たまにそういう子もいる。高校教師になって最初の年、引率としてついて行った泊まり込みの学校行事でそんな小さなトラブルを経験したこともある。その時は特別に教師陣の入浴時間にその子を招いたんだっけ。教師に見られるのはなんとか平気だけど、同級生にはどうしても無理だと泣いていたのを覚えている。
思春期だと自分の体を見られることにも抵抗があるだろうし、温泉施設に行くことの少ない子には色々と難しいことがあるのだろう。
莉緒も人生経験が偏っている人種だし、そういう何かがあるのだろう。
「だから麻里さんが薄着でうろうろするの正直苦手だったんですよ」
「……ごめん?」
「麻里さんの家なので、謝る必要はないですよ」
「言ってくれればよかったのに」
「言えないですよ。それにもう慣れましたし」
無垢な彼女を無意識に苦しめていたことを知り、ほんの少しだけ申し訳なくなる。でもまぁ、彼女の言う通りあそこは私の家だし、仕方ないよね。
「じゃあなんで温泉に行こうって」
「麻里さんが行きたいって言ってたからですよ」
「無理しなくてよかったのに……」
「無理はしてないですよ。私はここの客室露天風呂で十分です。これでも楽しみにしてきたんですよ?」
私は彼女の気遣いが嬉しくて。そして私の為にそんなことをしてくれる彼女にお礼を言いたくて。枕に顔を埋めたままの彼女の頭をそっと撫でてみる。頭に手が触れた瞬間、びくっと体を跳ねさせる。もじもじと落ち着かないように動いた後、震えるように体を固くしていたが、そのうち緊張を解いて頭を撫でられることに抵抗しなくなっていく。
「ありがとね。莉緒」
「何もしてないですよ」
「こんな楽しい誕生日はじめて」
「麻里さんの誕生日明日じゃないですか」
「そうだっけ?」
「自分の誕生日くらい忘れないでください。本当に記憶力いいんですか?」
「冗談。流石に覚えてる」
「もう」
莉緒の小さな頭を撫でる。ゆっくりゆっくり、その短い髪に手の平を合わせていく。
黒く細い髪はさらさらと私の指を滑り落ち、夏の日差しに当たり続けた頭からはシャンプー越しに彼女の匂いを感じる。
「私が髪の毛を触らせるなんてレアなんですよ?」
「そうなの?」
「物心ついてからは誰も触ってません」
「誰も?」
「はい。誰も。親でさえも触ってません」
私の手が少しだけ止まる。
「でも今日は機嫌がいいので許します」
「そんなに重大なことだとは思ってなかった」
「髪を触られると、かなりのストレス値が出るらしいですよ」
「嫌ならやめるけど?」
「……やっぱり今日の麻里さん、少しおかしいです」
緊張を隠すためにへらへらと笑いながら、私はまた彼女の髪を撫でる。
彼女のパーソナルスペースはきっととてつもなく広い。私との共同生活は彼女にとって異常なレベルの行為なんだろう。学校での彼女の姿を見たことは無いけど、恐らく誰も寄せ付けない雰囲気を醸し出しているんじゃないか。顔が整い過ぎて近寄りづらいというか、そもそも考えていることが周囲と違い過ぎるというか。彼女への理解を深めるとそんな光景が浮かぶ。最初は莉緒に友達が多そうなんて印象を抱いていたのに、不思議なものだ。
「莉緒、お風呂部屋ので済ませちゃうんでしょ?」
「はい。っていってもここの客室風呂、凄いんですよ。見晴らしもいいし、露天風呂だし。それに檜だし。ちょっと有名らしいです」
「じゃ、私も一緒に入っていい?」
「……え?」
濁点が付いたような驚きの声が返ってくる。距離を詰めるには裸の付き合いから。私も人に見せられる体をしている訳じゃないけど、自分の過去を話すならそれくらいの恥をかかないと踏み出せない。
それに、一緒に温泉旅行に来たのに私だけ大浴場になんて行けないじゃん。
「駄目?」
「…………駄目じゃ、ないです、けど」
「そっか」
より強く枕に顔を埋める彼女の頭をまた撫でる。恥ずかしがっている彼女は可愛い。まるで初めて一夜を共にする若いカップルみたいだななんて考えながら、そもそも自分にそんな経験が無かったことを思い出す。
「……準備してきます」
莉緒は不意にベッドから起き上がると、私から逃げるように荷物を置いた壁に向かう。そして幾つかの袋を手に取って今度はトイレへ向かう。家出をしてきた彼女の手荷物は可愛いポーチなんかではなく、薬局の紙袋やスーパーのビニール袋。その可愛げのなさと彼女の顔とのミスマッチが莉緒らしくて笑ってしまう。
暫くして莉緒がベランダに出るので、私はそれを目で追った。
「こっち見ないでください」
「だってガラス張りなんだもん。目に入るじゃん」
「目瞑って寝ててください」
「はーい。しばらくしたら行く」
莉緒の機嫌を損ねないように、私は彼女の言い分を聞きベッドにまた倒れ込む。目を閉じて数分待つとベランダからお湯の音が響き、その数秒後に檜の箱からお湯が大量に流れ出る。
いい音だ。私の家だとシャワーが多いから浴槽の音はあまり聞くこともない。目と鼻の先で莉緒が風呂に入っている光景を思い浮かべて危なさを感じたけど、同居生活をしていてなにを今更と笑い飛ばした。
私は極力外の風景を見ないように動きながら荷物をまとめ、入浴の準備を済ませる。
服を脱ぎ一応髪を束ね、左の手首に多めの髪留めのゴムを通した。
温泉用にと買った新品の手ぬぐいで体を隠しながら窓を開けると、心地よい風が体に当たる。裸で風に当たるのも久しぶりだ。夏の外気温は全裸には丁度良い。風邪をひく心配がないのが夏の露天風呂のメリット。
「ねぇ、麻里さん」
「ん?」
「ここ、絶対一人で入る大きさですよ?」
「だろうね」
「だろうねって……。分かってたんですか?」
「まぁ、だいたいそうじゃない?」
驚きつつ私を睨みつける莉緒の視線を避けながら、桶で浴槽から湯を掬って体に掛ける。
「狭い所に二人で入るのも一回くらいいいでしょ。旅の恥は――」
「だからそれ、私がいる時点で使い方違うんで」
旅先には知り合いなんていないから恥をかいても大丈夫的な言葉だっけ。
「莉緒との生活も一時的な物なんだし、似たようなものでしょ」
もう三分の二に差し掛かる同居生活の終わりをわざと口に出しながら、私はもう一度体に湯を掛ける。
「ほら詰めて」
立ち上がって上から見下ろすように莉緒を見る。変な所で律儀なのか、礼儀正しいのか、あれだけ恥ずかしがっていたのに、湯船にタオルを浸けていない。だから彼女は何も隠さないまま無防備にすべてを晒している。
風呂なんだから当たり前なんだけど、その肌面積の多さに少し驚く。莉緒の裸をちゃんと見るのは初めてかもしれない。いつも露出している箇所ですら白いのに、普段布に隠れている場所は更に一段と白さが増す。白を通り越して不健康に青く見えるその肌は美しかったが、あまり人間味を感じなかった。
「なに見てんですか」
私の視線に気が付いたのか莉緒は体を隠すように身じろぐ。それでもちゃんと私の入るスペースを空けるように詰めてくれるので、私は右手で持った手ぬぐいを浴槽の淵に置きながら、左手で照れ隠しをするように鼻をかいた。
「……隠さなく――」
「なに?」
「何でもないです。早く入ってください。なんでベランダに全裸で立ってるのに仁王立ちでいられるんですか」
「別に誰も見てないから」
「見てたら問題ですよ。ほら、早く入ってください」
莉緒に急かされながら私は湯船に足を入れる。足先から熱めのお湯に浸かっていき、ゆっくりと体を檜の箱に収めていく。その過程で私の体積分の水が零れ落ち、また豪快に音を立てた。
私と莉緒は肩を並べるようにして外を眺めている。空は橙が終わり、殆どが藍色に変わっていた。夏の空気には蝉が一生懸命存在を誇示して喧しい鳴き声が溶け込んでいて、目の前に広がる緑は青々しく生い茂っている。まさに夏。夏の夕暮れを二人で暫くの間、黙って見ていた。
「ねぇ、悲しいときって、夕日が見たくなるよね」
莉緒がポツリと言葉を漏らした。
「え?」
「これも引用です」
「王子さまの?」
「はい」
よほどさっきのミュージアムが楽しかったのだろう。去ってもなお余韻が抜けきれない彼女に子供を見る時の可愛さを感じる。
「麻里さんは夕日ってどんな時に見たくなりますか?」
「その質問難しいね」
「そうですか?」
「だってそんなこと普通考えないよ。夕日を見たらどうか、ならまだしもどんな時に夕日を見たいかなんて考えたこともない」
「私は考えますよ」
「死ぬときに見たいとか言うんでしょ」
「……よくわかりましたね。正解です」
「これだけ一緒に入れば分かっちゃうよ。嫌でもね」
額の汗をぬぐうように左手で顔を撫でる。湯船にその手を戻ると静かに水面に波紋が生まれた。
「綺麗な夕日ができる日の法則って麻里さんに言いましたっけ?」
「なんだっけ。聞いたような聞いてないような」
「雨ですよ。午前中に雨が降って、午後はカラっといい天気になって。そんな日の夕暮れは空が綺麗に橙に染まるんです」
今日は雨が降ってないんで五十点くらいです。なんて言いながら莉緒は水面に映る藍色をぱしゃぱしゃと弄ぶ。
「私の人生って、言ってみれば雨続きみたいなものだったんですよ。そこから人生ノートを書き始めるようになって。無理やり自分の人生を晴れにしようと藻掻いてるんです。だから最期の日はそんな一日がいいなって。雨が降って晴れて、多分私の人生に虹は似合わないので雨上がりはすこし泥で汚くて。それで太陽が沈む時には真赤に世界が染まる。そんな一日」
莉緒との出会いを思い出す。あの空が真赤に染まった夏の入り口。空の赤を背負う彼女の姿はとても美しかった。
きっと彼女もあの美しさに魅了されていたのだろう。あの景色が美しかったから彼女は死に近づいた。死に近づいたから、きっと彼女はまだ生きたいと思えた。
「私、命って炎だと思うんですよ。毎日毎日燃料を投下して消さないように守っていく炎。弱くても強くても駄目で、丁度いい火力を保たなきゃいけないんです。あまり強すぎると、燃料が直ぐになくなっちゃいますから」
例えば、なんて、莉緒は初日に私に説明したような例を持ち出す。
「芸術家って短命の方が多いじゃないですか。何かを創り出すって相当エネルギーを使うから、だから芸術家は命の炎を激しく燃やして早くに燃料を使い切っちゃうんじゃないかなって。これも比喩なんですけどね。多分生活リズムとかそんな話だと思いますけど、なんとなくかっこいいじゃないですか。そう考えた方が」
やっぱり言葉にするのは難しいですと唸る莉緒を見る。すると莉緒は恥ずかしがって私の顔に腕を突き付けて無理やり首を逆に回そうとする。
「こっち見ないでください」
「もしかして恥ずかしさを誤魔化す為に難しい話してる?」
「……そういうのは分かっても口にしないもんですよ?」
「じゃあ黙る」
「もう遅いです」
沈黙が生まれ、軽やかな水音だけが響く。
無言の状態に耐え切れなくなるのは莉緒だと分かっていて、私は無言を貫いてみる。すると案の定、莉緒はすぐに続きを話し始めた。
「私。自分で言うのは烏滸がましいけど、芸術家の人達と同じだと思うんです。人生の燃料を過剰に燃やして生きてるって自覚があります。なにも作ってないので無駄遣いとも言えるんですけど。暗いのが怖いから炎を大きくして少しでも明るくしようとしてるんだと思います」
「ちょっと分かるかも」
「え?」
「命を燃やしてるって表現。莉緒から言われなくても、勝手に莉緒にそういう印象持ってた。……莉緒の目ってさ、たまに燃えてる時があるの。って、急に詩的な表現になっちゃったけど。……なんて言えばいいのかな、ギラギラしてて怖い時があるって言えばいいのかな」
「そうなんですか」
「初めて会った時とか、なぜか莉緒が怖くて足が震えたもん」
そう言うと莉緒はケタケタと笑った。
「知らなかったです」
「言いたくなかったからね」
もう一度莉緒は笑い、声のトーンをさっきまでの真面目なものに戻す。
「私が怖いかはともかく、私は命を燃やしてるんです。だからほら。夕日って空が燃えてるみたいでしょ? ピッタリかなって。燃える世界に燃え尽きる私。そんな綺麗な世界で私は死にたい。だから私は死ぬときに夕日が見たいんです」
「そういえばそんな話だったね」
「はい。次、麻里さんの番です」
莉緒は私に会話を投げる。
「私、か」
「どんな時に見たいですか?」
「夕日……」
「夕日の話じゃなくてもいいですよ?」
「え?」
「何でもいいです。話したいことがあるならなんでも。私は何でも聞きますよ」
莉緒の目は優しく、私を救ってくれる慈愛に満ちているように見えた。
私の過去。私のトラウマ。
私の終わりと今の私の始まり。
全部、莉緒に話してしまおう。
全部、蹴りをつけてしまおう。
きっと潮時だ。
この道が正しいと思っていた私に、莉緒は間違っていると言ってくれた。そして正しい道に手を引いてくれた。
そんな莉緒になら話してもいい。
そんな莉緒だから、救ってくれる。
過去のまま凍り付いてしまった私の時間を莉緒なら溶かしてくれる。
彼女にはそれだけの熱量がある。
「じゃあ、一つ。話をしていいかな」
「はい」
「ちょっと長くなっちゃうかもしれないけれど」
「どんな話ですか?」
「莉緒に合わせるなら、そうだな。じゃあ、朝焼けの話。私の過去の話」
「聞きますよ。どれだけ長くなっても」
私は一度湯船に深く浸かる。温かい水が体をほぐして口も軽くしてくれる。
ふと、莉緒の顔が見たくなって首を捻った。
もう一度くらい彼女を恥ずかしがらせてもいいだろう。
悪戯心で私の隣にいる美しい少女を見る。
視線が合うように顔と顔が向き合い、彼女の白い肌が私の網膜を焼く。
そしてその美しさの中に不純物が混じった。
「莉緒、鼻血……」
「……え?」
真白な肌に一筋の赤が流れている。さらさらと鼻から流れ落ち、あっという間に首、鎖骨を下ると水面に到達した。
「大丈夫?」
ゆっくり水面に彼女の赤が広がっていく。
莉緒は動かない。驚いたように目を見開きながら動かない。
「莉緒?」
「…………鼻血?」
ようやく動いた莉緒はゆっくり自分の口元を手の甲で拭う。白い肌の上に彼女の赤が広がり、それを視界に収めた莉緒は固まる。いや、固まったように震えだした。水面は彼女を中心として波を作りはじめ、その波は彼女の赤を運ぶ。
「ねぇ、莉緒? 大丈夫?」
「…………やだ。――やだ――やだ」
最初はゆっくりと、そして次第に加速して莉緒は何度も何度も自分の口元を擦る。
「莉緒、大丈夫。鼻血くらいすぐに止まるって」
「やだ、やだ……」
「のぼせちゃっただけだよ。長話してたからさ。血行が良くなったんだって!」
聞く耳を持たない彼女を何とか正気に戻そうとへらへらしながら彼女を宥めてみる。しかし彼女は一向にこちらを向かない。
どう見てもおかしい。周囲の言葉なんて耳に入らず、彼女の目はうつろに揺れる。
私はこれを知っている。
「とりあえず上がろ? 立てる?」
私は震える彼女の体に触る。その体は熱くて冷たい。
脇の下に手を入れ、とりあえず湯船から出そうとする。
口元を真赤にした彼女の顔は真青で、白と赤と青がチカチカと私の視界で揺れて、脳を掻き回す。
「ほら、せーの」
掛け声と共に彼女を持ち上げ、浴槽の淵に座らせる。
座らせるや否や、彼女は私の手を手繰り寄せ、勢いよく抱き着いた。
私の背中に手を回し、力強くも弱々しく体にしがみつき、胸に顔を埋める。
「ねぇ、……。やだ。ねぇ……。やだよ」
震えた手は固く、私を話さない。
「やだ、やだ」
私はこの状況に驚きながらも咄嗟に彼女の頭を撫で始める。
「私、やだよ……」
ゆっくりゆっくり彼女の心拍数を下げるように頭を撫でていく。
「大丈夫。大丈夫」
彼女がどうしてここまで鼻血を恐れているのかは分からない。血が怖い? そんな馬鹿な、さっきも生理だと言っていた。血が怖いなら毎月こんなことをやっているのだろうか。そんな筈はない。じゃあ、どうして。
私は腕の中にいる少女を何一つとして理解できないまま、無責任な言葉を吐き続けることしかできない。
「……こわい」
「大丈夫だよ。私が付いてる」
「やだ……。もう、やだ」
「大丈夫。大丈夫」
かなりの時間をそうやって体を抱きしめたまま過ごした。
少女の鼻から流れる血はしばらく止まらず、浴槽は血で汚れた。
少女のパニックが収まり、鼻の血も止まる頃には空は星空に変わっていて、いつもより多くの星が空に浮かんだ。
「大丈夫だよ。私がいる」
そんな言葉を何百回と掛けた。
「大丈夫。落ち着いて」
意味のない言葉を何百回と囁いた。
少女の身体から力が抜け、眠りに落ちる寸前、小さく彼女の喉が鳴る。
「おとうさん。おかあさん。……せんせい。……まりさん」
そして莉緒の意識はすっと抜け落ち、血だらけのまま寝息を立て始めた。
静かに、日付は変わった。
静かに、私は二十五歳になった。
静かに、眠る莉緒の頬に手を添えた。
静かに、私も目を閉じた。
部屋は暗い。
日付が変わってどれほどの時間が経っただろう。
ダブルベッドの上には莉緒と私の体。
拭ききれなかった血液は彼女の皮膚の上で固まり、白い身体に美しく文様を作っている。
シーツを汚さぬようにバスタオルの上に寝かせた彼女の体に、また別のバスタオルを掛ける。夏の夜は蒸し暑く、これくらいで風邪をひくことはないだろう。
私はその隣で今日のために買った新しい寝間着を身に纏い、横になっている。
風呂場でパニックを起こした莉緒を部屋に連れ戻し、どうにか寝かせつけた後、彼女は何度か目を覚ました。彼女の意識ははっきりしていたが明らかに目に光は灯っていない。体調の確認の会話を何度か交わし、彼女の意見を尊重して救急車は必要ないと判断した。
だから私は彼女に何もしてあげられないまま、こうして隣で眠る彼女の顔を眺めていることしかできない。
まだ太陽が空に浮かんでいた数時間前の彼女の行動を思い返す。自分の血液を見て真青になりながら混乱する彼女。私はあの行動に覚えがある。
そう。あれはまるで高校生の時の私。
佳晴が死んでからしばらくの間、私は先ほどの莉緒のようなパニック障害を度々発症させていた。莉緒のあれは私のそれと同じだった。何かの心意的ショックがフラッシュバックして自分に制御が利かなくなる現象。だったら彼女が抱えているものも何かしらのトラウマなのか。例えば私と同じように、身近な人間の死。大量の血を見てパニックを起こしたところを見ると納得できないこともないが、普段の生活で日常的に目にする血液で毎回同じような症状を起こしているのだろうか。
彼女の中身が真暗な闇のように見える。どこまで進んでも先は分からず、輪郭すらも視認できない。そんな不安を胸の中で御しつつ莉緒の頬に手を当ててみる。白い頬は冷たく滑らかで、人間というよりは人形という表現がしっくりくるような完成された顔だった。撫でるようにしてゆっくり下へ手の平を動かし彼女の首を撫でるように触れる。そこからはしっかりと心臓の鼓動を感じ、私はまた胸をなでおろす。
「ん……」
首を触られたのが不快だったのか莉緒は私の腕から逃れるように身動ぎ瞼を開ける。
何度かゆっくりと瞼を開閉させ、首を回す。壁に掛かった時計を見て時間を確認すると、数秒間の情報整理と思われる硬直のあと、私のほうに向き直り弱々しい笑顔を見せた。
「……ごめんなさい。こんなみっともない姿見せちゃって」
「ううん。大丈夫だよ」
私が首を振ると、莉緒は申し訳なさと恥ずかしさが同居したような表情でへへへと笑って見せる。
私はそんな笑顔に胸を熱くしながら、もう一度莉緒の頬に手を添える。そこには先ほど感じた冷たさはなく、人間の温かさがあった。
「ねぇ、麻里さん」
「なに?」
「お誕生日、おめでとうございます」
「忘れてた」
「うそだ」
「うそ」
力無く二人で笑いあう。
「麻里さん、二十五歳かぁ」
「なに? また歳だって言うの?」
「いや、遠いなって」
「気づいたらあっという間だよ」
「それでも、やっぱり私にはすごく遠いですよ」
莉緒はごろんと体を転がし、天井を見上げる。その眼はずっと遠くを見据えていて、まるで天井を超えて星空を見ているようだった。
「そういえば莉緒の誕生日っていつなの?」
「秘密です」
「教えてよ」
「別に面白くないですよ?」
「でも知りたいじゃん?」
「……やっぱり駄目です」
「えぇ」
「じゃあ特別に季節だけ。……前に私が言った、死んだ時には木を植えたいって話、覚えてますか?」
突然話が過去に飛ぶ。莉緒との会話は忙しい。私は急いで過去を振り返ってその時の記憶を深い場所から引っ張り上げる。
「……樹木葬、だっけ?」
「よく覚えてますね。麻里さん、本当に記憶力いいのかも」
「そう言ってるじゃん」
莉緒はまた私の言葉を鼻で笑い、話を続ける。
「実は私の家には既に一本、他の記念樹があるんですよ。誕生記念樹ってわかりますかね。死んだときに植えるのとは別に、こっちは生まれたときに親が子供に植えるんです」
「知ってるよ。最近よく聞くもん」
「それがヒントです。私の家には杏の樹が植えられているんです。私の誕生日には毎年杏の花が咲くんですよ。何月かは教えてあげませんけど」
誕生記念樹を植えてくれる親。やっぱり莉緒の両親は彼女に良く接していると考えていいのだろうか。彼女の抱えている問題を今でも考え続けている。彼女は否定していたが親からのストレスという問題を可能性の一部からずっと外せないでいた。
親に悪意がなくたって子供は心に傷を負うものだ。中学の時の私しかり。親の教育で追い詰められた佳晴しかり。
「杏の花の時期くらい知ってるよ。春でしょ。桜に似てる花」
「わぁ、すごい」
「これくらいは一般教養」
「じゃあばれちゃいましたね。私の誕生日。春なんですよ。小さい頃は麻里さんが言う通り自分の木に咲く花を桜だと思い込んでました」
ね、そんなに面白くないでしょ? と、こっちを横目に見て莉緒は鼻を鳴らす。
「ううん。いいことを聞いた」
「何がです?」
「だってこれから杏を見るたびに莉緒を思い出せるもん」
「……麻里さん、たまにロマンチックなこと言いますよね」
「そう?」
自覚のない私に莉緒はため息をついて天井を見つめる。
「……私、庭に植わっている杏の樹、嫌いなんですよ」
「杏の花、綺麗じゃん」
「綺麗すぎるんですよ。私がこんなにも毎年必死に生きてるのに、何もしてなくてもあの花は毎年その季節になれば凄く綺麗に咲くんです。なんだか私の必死さが馬鹿みたいじゃないですか」
理不尽な言いがかりをつけられる杏の樹に同情する。
「だから年を一つ重ねる度に、この樹には負けたくないって思ってるんですけど。中々枯れないんですよね。樹って」
「可哀想」
「それに花言葉も嫌いです。臆病な愛とか疑いとかそんなのばっかりで。私、なよなよしてるのって嫌いなんです。昔の自分を見てるみたいで」
「昔の?」
「……何でもないです。この話はここで終わりにしましょう。杏の話もお終いです。これ以上する話題もないですし」
「なにか杏のいいところないの? このままじゃ莉緒のせいで私も杏が嫌いになっちゃう」
「なんでしょうね。杏酒がおいしいくらいじゃないですか」
「えーっと。未成年さん?」
「麻里さんだって、高校の時に煙草吸ってたんでしょ。お互い様」
深夜の会話は脳みそを使わないで済む。頭に浮かんだ言葉をするりと投げれば、向こうからも同じように適当な返事が返ってくる。それが心地よい。
「こんな人間でも学校の先生になれるんだよ」
「先生失格の一か月だけどね」
「莉緒も共犯」
自分の非行に話題が向いたことに居心地の悪さを感じ、天井を見たまま体を動かす。すると左手に莉緒の右手が触れたので、そのまま軽く手を握ってみる。びくっと莉緒の体が跳ねた。
「莉緒さ、家の杏で杏酒作ってるの?」
「……はい。親が毎年律儀に作ってます」
「じゃあさ、莉緒の二十の誕生日に一緒に飲もうよ。今までの人生なんか振り返りながらさ」
莉緒は私の言葉を聞きながら一度強く手を握り返し、私の言葉を聞き終えると同時にその力を抜いた。
「……それは、約束できません」
「そっか」
「約束は、できません」
もう一度莉緒は震えた声で言い切る。
私がそれに返事するように長い息を吐くと、部屋は深い深い沈黙に溺れた。
「ねぇ、麻里さん」
それから会話が生まれたのは深夜を回りしばらく経った頃。あと一時間もすれば空が明らむといった時間帯だった。
お互いに何度か浅い眠りに落ちては、すぐに目を覚ます夜。
丁度私は瞼が重くなる瞬間で、意識を手放しそうになった時、繋がれた私の左手に彼女の力を感じ体をびくつかせながら目を覚ました。
首を回転して顔を横に向けると、そんな私にくすくすと笑いながら天井を見つめている莉緒がいる。
どうしたの? と擦れたような声を投げかける。すると莉緒はこちらを向くこともないまま、真面目な表情になり、言葉を天井に投げかけた。
「……麻里さんの話、聞かせてよ」
ずっと遠くを見るその目と私の目は交わらない。
「麻里さんも、今の私になら話せでしょ?」
言葉の意味が分からないと首を捻ってみると、彼女は笑って続けた。
「だって今の私は絶対麻里さんより弱いじゃん。弱い人になら、自分の弱い所も晒せるでしょ?」
繋がれた手が解かれ、莉緒の指が私の手の平を登る。
そして私の左手首に巻かれた腕時計の上に彼女はそっと手を重ねた。
「ねぇ、麻里さん。一つ、聞いていい?」
「……なに?」
「私さ、麻里さんを変えられたかな」
「なに、今更。昼間も言ったでしょ。私は莉緒に変えられた」
「……私さ、麻里さんを救えたかな」
「……なにそれ?」
莉緒はおもむろに上体を起こした。彼女の体に掛けていたバスタオルがはらりと滑り落ち、その細く白い裸体が月明かりに照らされる。
私はその身体を直視できずに目を逸らし、先程までの彼女のように天井を見つめることで視線を逃した。
「私はね。麻里さんに救われたんだ」
「私、何もしてないよ」
「したんだよ。……してくれた。だから今度は私の番だった」
「意味が分からない」
莉緒は息を吸い、私の手首に圧力がかかる。それを感じて私の身体は固まり、汗が噴き出る。
四肢は硬直し動かず、左手を彼女から逃がすこともできない。辛うじて動いた首を回し、天井から自分の左手に視線を移動させる。
私の腕に彼女の手の平が重なっている光景に釘付けになっていた。
「私ね。知ってるんだよ」
私の左手首でカチカチと時計が秒針を鳴らしている。五月蠅い程に時を刻んでいる。
「麻里さんが辛い思いをしてきたって知ってる」
莉緒はその腕時計を私の左手首から静かに外した。
「本当は逃げたいんだって、知ってる」
そうして露わになった私の手首に莉緒の涙が落ちた。
皮膚の色が変色したリストカット痕の上に彼女の涙が落ちた。
「気付いてたんだ……」
「二十日も一緒に過ごしてるんだよ? 気付かない筈ないじゃん」
「隠せてると思ってたんだけどな」
「寝る時に腕時計する人なんていない。家にいたっていつも何か手首につけてるんだもん。すぐわかる」
「そっか」
「麻里さん、隠し事下手だもんね」
ずっと手首を隠して生きてきた。
外に出る時はファンデーションを必ず乗せるし、手首を露出させる時にはそれ用のテープすら使用してきた。だから多分、誰にもこの傷の存在は知られていない。
「ずっと隠して来たんだけどな」
「多分気付いてる人いると思うよ?」
「そうかな?」
「話題を出していいこともないし。きっと放っておいてくれてるんじゃない?」
「それはそれでショック」
いつしか私の身体から力は抜けている。瞬間的に緊張した筋肉が弛緩し、ベッドにだらしなく体重を預けていた。
「でも、私は少し嬉しい」
「なにが」
「だって、この傷を言及したのは私が初めてってことでしょ?」
「だね」
「じゃあ、この傷の意味を知っているのは麻里さんと私だけってことになるね」
「それが嬉しいの?」
「嬉しい」
莉緒の言葉は砕けている。たまに彼女がリラックスしている時に出る素の彼女。
私が心を開き始めているから彼女もそれに応えてくれているのだろうか。
莉緒は私の痣をそっと撫でながら笑う。夏の月に照らされるその顔はとても美しく光っていた。
「汚いでしょ。かなり昔の傷なんだけど、ずっと消えないの」
「汚くないよ。それにこういうのは消しちゃいけない。消えちゃったらその時の自分を忘れちゃう」
「私は、忘れたいかな」
「駄目。今の麻里さんはその過去があってここにいるんだもん」
「今の場所、そんなに気に入ってないからなぁ。知らない線路に乗ったまま、気づけばここまで来ちゃった」
莉緒と目が合う。
「ある人の夢、でしたっけ?」
「え?」
「麻里さんが言ったんですよ。別に自分は教師になりたい訳じゃなかったって」
「あぁ」
この話をしたのももう一週間以上前のことか。
「聞かせて。麻里さんの過去。この傷も。心の傷も。私なら受け止められる」
「うん」
元より彼女に話す覚悟はできていた。
だから私はゆっくり深呼吸をして目を瞑る。
すると彼女は私の隣にもう一度寝転がり、手探りで私の左手を掴んだ。
彼女から差し伸べられた手をまるで救いの手のように強く握り返し、私は話し始める。
「どこから話せばいいのかな」
「一番最初から聞きたいな」
「長くなりそうだね」
「いいじゃん。チェックアウトまではまだまだ長いからさ」
「そうだね」
私は一から彼女に話し始めた。
それは長い長い私の過去。
今の私が誕生したきっかけ。
「おはようございます」
朝、目覚めた彼女はまだ気分の悪そうな顔をしていて、それでも私に心配を掛けまいと気丈に振る舞い朝の挨拶をした。
私と彼女の手は繋がれたままで、目を覚ました私はそれに赤面してすぐに手を離す。大の大人が恥ずかしい。
「離しちゃうんですか?」
「え?」
「手」
「だって」
結局私の過去話は朝の七時頃まで続いた。
過去話をしていると途中から半ば夢を見ているような感覚に襲われ、話し終えると同時に私の意識は泡となって消えた。莉緒もそれは同じなようで、二人で目を覚ましたのはチャックアウトまであと少しという太陽も真上に昇る時間帯だった。
「莉緒、大丈夫?」
「少し気分は悪いですけど大丈夫です。昨日はごめんなさい」
「いいって。気にしないで」
「そして、ありがとうございます」
「ううん」
「ありがとうございます」
莉緒は私の過去に何一つとして言葉を返さなかった。
それが莉緒の優しさなのかは分からないが、きっと今のお礼には過去話を打ち明けたことに対する感謝も含まれているのだろう。感謝しなければならないのは寧ろこっちの方なのに、先を越されれしまった。
私達はそれから急いでチェックアウトを済ませて、そのまま帰路についた。
莉緒は体調は大丈夫と観光を続けようとしていたが流石にそれは容認できず、駄々をこねる子供を連れて帰る母親の気分を味わいながら温泉旅行は終わりを告げた。
彼女のパニック症状の原因は分からないまま。謎は深まっただけだ。ただ彼女の身に何かがあるという疑念は確信に変わった。
すべてを開示した私に彼女も心を開いてくれたら、なんて淡い期待を持ちながら私達は一晩締めきってサウナと化した我が家に帰るのだった。