深夜零時十五分。廃高校の元学生寮を改築したシェアハウス“ミスルトゥ”では、まだいくつかの部屋に明かりが灯っていた。その一階の厨房横にある部屋で、二十五歳のシェフ、三淵(みぶち)伊月(いづき)は白いパーカーとグレーのスウェットパンツという格好のまま、雑誌を抱えてウトウトしていた。
 そんな深夜の静寂を、不規則なノック音が破る。
「伊月くん、なにか……食べるもの、ちょーだい……。お腹空きすぎて、死にそう……」
 力の抜けたよれよれの女性の声が、ドアの向こうから聞こえてきた。こんな時間にこんな声を出す住人はひとりしかいない。一〇三号室の入居者にして二十九歳の科学捜査研究所法医研究員、木崎(きざき)友紀奈(ゆきな)だ。
 伊月は起き上がって雑誌をサイドテーブルに置き、ベッドを降りた。
「友紀奈さん、お疲れさまです」
 ドアを開けると、長い黒髪を後頭部でまとめた友紀奈が廊下の壁にぐったりともたれかかっていた。朝はアイロンが効いていた白いシャツも黒のパンツもよれていて、トレードマークのキリッとした切れ長の目も、今は力なく垂れている。
 伊月は明るい茶色の髪を右手でくしゃくしゃと乱し、いつもの通り涼しげな目元に似合わない毒を吐く。
「こんな時間まで起きていたら、お肌に悪いですよ。歳を考えた方がいいんじゃないですか?」
「うるさい。やっと仕事が終わって帰ってきたところなの! あんまり言うと侮辱罪で逮捕させるぞ」
 友紀奈は左手を壁について体を起こし、十五センチほど高い位置にある伊月の顔を睨んだ。伊月は口元を歪めて憎たらしい表情を作る。
「僕を逮捕させたら、いったい誰がミスルトゥの食事を作るんです? こんな時間にわがままな住人のために食事を作ろうなんてシェフは、そうそう見つからないと思いますが」
「うるさい、うるさーい!」
 友紀奈は頭を左右にぶんぶんと振った。黙っていればクールビューティとも言えそうなのに、中身はこの通りお子さまである。
「友紀奈さんの方がうるさいですよ。ほかの住人のみなさんを起こさないでください」
 伊月が諭すように言ったとき、一〇二号室のドアが乱暴に開いた。
「うるさい!」
 怒鳴り声を上げて顔を出したのは、ぼさぼさの黒髪に黒縁のパソコン用眼鏡をかけた男性だ。こちらもよれた白いポロシャツにチノパンという格好で、見た感じ三十代後半、自称(?)小説家の道安(どうあん)裕隆(ひろたか)だ。道安裕隆は本名で、ペンネームと年齢は『イメージがあるから』と本人は秘密にしている。彼が本当に小説家なのか、そうだとしていったいどんな小説を書いているのかは、入居者の誰も知らない。そんなわけで、住人からはときに敬意を、ときに揶揄を込めて『先生』と呼ばれている。
 その裕隆先生が伊月と友紀奈に大声で文句を言う。
「あんたらのせいで一行も進まないじゃないか!」
「あなたの筆が進まないのも、あなたが売れないのも、私のせいじゃなーいっ」
 友紀奈が怒鳴り返し、裕隆も負けじと言い返す。
「あんたの事件が解決しないのも、あんたが早く帰れないのも、俺のせいじゃなーい!」
 直後、裕隆は大きな音を立ててドアを閉めた。そのドアに向かって友紀奈はイーッと歯を見せる。
 作家先生と法医研究員の口げんかは、ミスルトゥではお馴染みの光景だ。
 伊月はため息交じりに言う。
「なにか食べるものを作りますから、これ以上騒がず、食堂に来てください」
「さっすが伊月くん! いつも一言余計だけど、頼りになるぅ。好きになっちゃいそうかも~」
 裏庭にたまにやってくる猫にも水槽のメダカにも『かわい~、大好き』と話しかける彼女の言葉を聞いて、伊月は苦笑した。
「僕は猫やメダカと同等ですか」
「未満よりいいでしょ」
 友紀奈は背中を向けたまま言い、廊下をよろよろと歩いて食堂に入っていった。伊月が階段横のドアから厨房に入ろうとしたとき、向かい側にある風呂場から、四十五歳の大学教授、藤枝(ふじえだ)美葉子(みわこ)が現れた。伊月の叔母で、ミスルトゥの所有者でもある彼女は、光沢のあるシルクのパジャマを着て、濡れた髪をタオルでくるんでいる。顔には真っ白な保湿パックが貼られていて、絶対にすっぴんは見せない。
「伊月くんも大変ねぇ」
 伊月はにっこり笑って答える。
「そんな大変なシェアハウスのシェフに僕を雇ったのは叔母さんだったはずですが」
 美葉子は右手の人差し指を軽く左右に振った。
「ノン。叔母さんという言葉は禁止しているはずよ。“マドモワゼル・ミワコ”もしくは“美葉子さん”と呼びなさい」
 伊月は軽く肩をすくめた。熟女の魅力を振りまくこの叔母には、フランス人の恋人がいるとかいないとか……。
「あなたにはこういう忙しいところの方がいいと思ったの。だって、伊月くんったら、勤めていたレストランを急に辞めて、どこかに引きこもっちゃったし――」
 二年前の話を蒸し返されそうになり、伊月は早口で言う。
「そうですね。仕事をくださった美葉子さんにはそれなりに感謝しています」
「それなりにぃ?」
 伊月は表情を消して淡々と言う。
「食事付きシェアハウスを謳っている以上、どんな時間でも求められれば食事を提供するのが僕の仕事だと思っています」
「ふぅん。思った以上に仕事熱心ね。それじゃあ、その言葉通りよろしくね」
 美葉子はひらひらと右手を振って、階段を上っていった。伊月が厨房に入り、カウンター越しに食堂を見たら、友紀奈は椅子に座ってテーブルに突っ伏していた。伊月が入ってきた音に気づいて顔を上げ、ひもじそうな声を出す。
「伊月くん~、早くなにか食べ物~、ごはん~、めし~、食いもん~」
「言い方がだんだん雑になってますよ」
 伊月は言いながら、厨房の電気をつけた。冷蔵庫を覗いて、なにを作ろうかと思案する。常備している卵、作り置きのコールスローや漬け物、白出汁のボトルなどが目に入る。
「こんな時間ですから、お腹に優しい雑炊にしましょうか」
「いやだ。優しくなくていいからお腹にたまるやつ」
「わがままですねぇ。じゃあ、鶏肉を入れますね」
 伊月はため息をつきつつ、冷蔵庫から鶏もも肉と卵を、野菜室から必要な野菜類を取り出した。まずは生姜の皮を剥いてすりおろし、にんじんを短冊切りに、軸を取ったしいたけを薄切りにする。次いで鶏もも肉を小さめの一口大に切った。
「まーだぁ?」
 催促する友紀奈の声を聞きながら、伊月は鍋に水とニンジンを入れて火にかけた。煮立ったら鶏肉を入れ、肉の色が変ったら丁寧にあくを取る。そこに生姜とシイタケと、残りご飯をざるに入れて水で洗ったものを加え、さらに作り置きの白出汁を加えて煮る。白出汁を作り置きしているのは、こういう場合に備えてのことだ。
 野菜に火が通ったら、溶き卵を回し入れてひと煮立ちさせれば、卵がふんわりした優しい味付けの雑炊のできあがりだ。
 疲れた体にも空腹にも優しいし、適度のタンパク質と脂肪分が摂れる。
 伊月は雑炊を大きめの器に盛り、小口切りにしたネギと針海苔をのせた。
「おまたせしました」
 カウンターを回って食堂に運び、友紀奈の前に置いた。彼女は嬉々としてスプーンを取り上げる。
「いただきま~すっ!」
 スプーンですくって大きな一口を食べた直後、左手で口を押さえた。
「あっつっ!」
「できたてですから」
 伊月はしれっとした顔で言い、厨房に戻った。棚から別の器を出して雑炊をよそい、塗り盆にのせる。
「先生に差し入れてきます」
 友紀奈は左手で口元を扇ぎながら言う。
「あんなうるさいおっさんに必要ないわよ」
 伊月は食堂を出ながら、チラリと振り返った。
「こんなうるさい妙齢女性には必要なのに?」
「うるさーい!」
 友紀奈が台ふきを取って投げ、伊月はそれを楽にキャッチした。年季の入った廊下を歩いて一〇ニ号室のドアをノックする。数秒待ったが応答がない。耳を澄ますと、キーボードを叩くカチャカチャという音と、なにかぶつぶつ言う声が聞こえ、伊月は頬を緩めた。どれも裕隆の筆が進んでいる証拠だ。
 伊月は極力音を立てないよう慎重にドアを開けた。六畳の洋室にベッド、本棚、デスクという造りの簡素な部屋で、裕隆は窓に面したデスクに向かい、猛スピードでパソコンに文字を打ち込んでいた。
「先生、夜食に雑炊を置いておきますね。鶏もも肉の出汁が出ておいしいですよ」
「ぬぉおおおお、ここで捜査一課の石頭刑事が言うのだ。『科捜研の証拠が、犯人がおまえだってことを示してんだよ。動かぬ証拠ってやつだ』。しかーし、往生際の悪い犯人はぁああああ!」
 裕隆は脇目もふらずキーボードを打ち続ける。伊月はデスク横のサイドテーブルにお盆を置き、入ってきたときと同じように静かに部屋を出た。
 どうやら友紀奈と話したことで、裕隆の“執筆スイッチ”が入ったらしい。
 伊月が食堂に戻ると、友紀奈はハフハフ言いながら雑炊を食べていた。友紀奈のコップが空になっているのに気づき、伊月は麦茶を注ぐ。
「ねえ、伊月くん」
 友紀奈に話しかけられ、伊月は厨房に戻りながら振り返る。
「なんですか?」
「これって卵雑炊?」
「鶏肉も入っているから、親子雑炊でしょうね」
「そっか。親子か……」
 友紀奈はしみじみとつぶやき、スプーンを口に入れた。味わってほうっとため息をつくので、伊月は怪訝な表情をする。
「どうしました?」
「ちょっとね……。お父さんとお母さん、元気かなって思って」
 言葉遣いが乱暴でがさつな彼女にしては珍しく、しんみりとした声で言った。
「土曜日の昼とか、よくお母さんが親子丼を作ってくれたんだ。仕事で忙しかっただろうに、いつもちゃんと出汁を取ってくれてさ……。そういうところはこだわる人だったんだよねー」
「いいお母さんじゃないですか」
「うん。子どもの頃は当たり前だって思ってたけど、ああやって手間暇かけてくれたのは、私たち子どものことを思ってくれてのことだったんだよね……」
 懐かしそうに目を細めてから、友紀奈は伊月を見た。
「そういえば、伊月くんのご両親は? 伊月くんって私よりも若いでしょ? 年下のくせに生意気だけど、まあ、それは置いといて。伊月くんのご両親は、あなたがこんなところで不規則な仕事をしてても、なにも言わないの?」
 伊月は思わず苦笑した。
「僕に不規則な仕事を強いている張本人が言いますか」
「それはぁ、だってぇ、伊月くんが頼みやすいからいけないんだもん……」
 友紀奈は言い訳するようにぶつぶつとつぶやいてから、スプーンを伊月の方に向ける。
「って、そんなことを言ってごまかそうったってダメ! そもそも伊月くんはなんだってこんなシェアハウスでシェフなんてしてるのよ? 伊月くんの腕なら、星付きとまではいかなくても、そこそこの有名レストランで働けそうだけど!」
「友紀奈さん、お忘れですか?」
「なにが?」
 伊月は人差し指を立てて言う。
「ミスルトゥ入居条件の第一条。“他の入居者について必要以上に詮索しないこと”」
 友紀奈は意味ありげな表情で笑い、伊月は嫌な予感を覚える。
「それは“他の入居者”でしょ? 伊月くんは居住者じゃなくて管理者」
 伊月はわざとため息をついた。
「いやですねぇ、そんなに詮索好きだとお嫁に行き遅れますよ」
「う、うるさーい! 伊月くんはいつも一言も二言も余計なの! そっちこそそこそこイケメンなのに、そんなんじゃモテないよ!」
「別にモテたくはありません」
 伊月はそっけなく言って、食洗機のドアを開けた。洗い終わってピカピカになった食器を棚に戻し始める。友紀奈は黙って続きを食べていたが、空になった器を持ち上げた。
「伊月くん、お代わり」
「人使いが荒いですね」
 伊月は不満の言葉を淡々と述べつつ、厨房を出て友紀奈の器を受け取った。鍋の前に戻って雑炊をよそう。
「よく食べますね。そろそろ体脂肪を気にした方がよくないですか?」
 毒を吐きつつ、友紀奈の前にお代わりを置いた。
「うるさい。こっちは体が資本なの! 食べないとやってられないのよ」
 友紀奈は雑炊をすくったが、スプーンを口に入れたまま固まった。
「どうしました?」
「ふはひふはっはらはにんほーふひにはるほ?」
「は?」
 伊月は目を丸くした。友紀奈はスプーンを口から引き抜き、少し頬を赤くして言う。
「“豚肉だったら他人雑炊になるの?”って訊いたの!」
「食べながらしゃべるから伝わらないんですよ。お行儀悪いですね」
「ちょっと質問に答えてよ!」
 伊月はため息をついて答える。
「おっしゃる通りですよ。牛肉と卵、鮭と卵でも他人雑炊になりますけどね」
「他人、かぁ……」
 友紀奈はスプーンを持った手を口元に当てた。友紀奈の目は目の前の伊月を通り越して、どこか遠くを見ているようだ。
「親子か他人か、そんなに重要ですか?」
 伊月が友紀奈に顔を近づけ、友紀奈はハッとしたように目を大きくする。
「そうだ、あのふたり、本当は親子じゃないだ! 他人だから、父親は輸血を拒否したんだ! きっとそうよ! そうに違いないっ。父親にDNA型鑑定を受けさせればはっきりするわ。どうにかして受けさせなくちゃ。一番の問題は、あの頑固な石頭の刑事をどう説得するか……!」
 友紀奈が真剣な表情でぶつぶつと言った。完全に仕事モードに入った彼女を見て、伊月は口元に笑みを浮かべ、そっと厨房に戻った。

 その一週間後の午後六時前。伊月が夕食の買い物から戻ると、玄関横の談話室で裕隆がソファに座り、スマートフォンで誰かと話しているのが窓越しに見えた。彼の膝の上には宅配便の小包があり、半分破かれた茶色の包装紙から、透明のビニール袋に包まれた新刊本が見えた。出版社から届いた献本だろう。帯には『法医研究員・井戸口(いどくち)怜佳(れいか)の名推理シリーズ、待望の最新刊!』とある。
(へえ、先生はあのベストセラー小説の作者だったのか)
 夜食の差し入れをしたときの裕隆の独り言から、ミステリ作家なのだろうとは思っていたが、あの人気作家・安藤(あんどう)裕(ゆう)だったとは思わなかった。伊月は内心驚きながら、玄関ドアを開けて靴を脱ぐ。
 裕隆は伊月が帰ってきた音に気づくことなく、スマホの相手と会話を続けている。
「だーかーらー、母さん、法医研究員・井戸口怜佳は架空の人物なんだってば! まあ、そりゃあ……モデルにしている女性はいるけど……」
 そのモデルに思い当たる節があり、伊月はゆっくりと廊下を歩く。
「いや、でもモデルって言っても、俺が勝手にモデルにしているだけだよ! その子とは付き合ってない! 付き合うわけもない! ありえない! 井戸口怜佳と同じで気が強いし口は悪いし、母さんだってそんな嫁はいやだろう?」
 裕隆は母親に早く結婚しろとせっつかれているのかもしれない。伊月は含み笑いをして厨房に向かった。ドアから入って食堂を覗くと、美葉子が新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。
「伊月くん、お帰り」
「ただいま。叔母……美葉子さん。こんな時間に食堂にいるなんて、今日はお休みだったんですか?」
 美葉子はピクリとこめかみを動かし、新聞をテーブルに置いた。
「学会だったの。直帰したのよ」
「お疲れさまです」
 伊月は冷蔵庫を開けて、買い物袋の中身を入れ始めた。美葉子が独り言のように新聞を読み上げる。
「小学五年生の城田(しろた)慧(さとし)くん殺害容疑で父親を逮捕、ですって」
「小学五年生の息子を……ひどい話ですね」
 伊月は顔をしかめ、冷蔵庫の扉を閉めた。
「慧くんが病院に搬送されたとき、父親は輸血を拒否したそうよ。宗教的理由だって言ったらしいけど、警察はそのことに疑問を持ってDNA型鑑定をしたの。そうしたら、観念してすべてしゃべったって記事になってる。父親は妻に、慧くんが妻の浮気相手の子だって知らされ、妻の留守中に刺したそうよ。動機を知られたくなくて、宗教的理由だと言って輸血を拒否したんですって。浅はかよね」
 美葉子は新聞を折りたたんだ。右肘をついて顎を支え、厨房の伊月を見る。
「これってきっと友紀奈ちゃんが担当した事件よね?」
 一週間前の食堂での友紀奈の声が聞こえていたのだろう。美葉子は自信たっぷりだ。伊月は小さく肩をすくめる。
「本人は肯定しないでしょうけど、たぶんそうでしょうね。そんなようなことを叫んでいましたから」
「あの親子雑炊がヒントになったわけだ」
 美葉子に言われて、伊月は小さく首を横に振る。
「偶然ですよ」
「そう? 先生も雑炊のおかげで仕事がはかどったみたいだし。『執筆スイッチが入った直後という絶妙のタイミングで夜食を差し入れてくれた』って先生が言ってたわよ」
「それはよかったです。次は美葉子さんにも夜食を差し入れましょうか?」
「結構よ。私、夜十時以降は食事を摂らないことにしているから」
「そうでしたね」
「ところで、伊月くんはどうして友紀奈ちゃんにばかりあんなに毒舌なの?」
 伊月は心臓が小さく音を立てた気がした。そんなわけはないと内心言い聞かせる伊月に、美葉子は妖艶に笑う。
「ここからは“教授・藤枝美葉子の名推理”になるわけだけど、伊月くんは……ずばり友紀奈ちゃんのことが好きなんでしょ?」
 伊月は顔を食洗機に向け、洗い終わった食器を取り出しながら、淡々とした声を出す。
「名推理ではなく、“迷惑”な“迷推理”ですね」
「そうかしら。伊月くんは友紀奈ちゃんが気になるけれど、今以上に好きになりたくないから、わざと毒を吐いて嫌われようとしているように見える」
「叔母さん」
「ノン」
「美葉子さん。心理学を教えているからって、僕を分析するのはやめてください」
「図星でしょ?」
「外れです。好きなのは友紀奈さんじゃありません」
 そう言ってから、伊月はハッとしたように目をそらした。
「じゃあ、友紀奈ちゃんに似た誰かだ」
 美葉子が笑みを含んだ声で言った。
「年上で、しっかりしているようで抜けていて、ひとつのことに夢中になるタイプで……。まだ忘れられない?」
 すべてを知っているかのような叔母の言葉が胸に刺さった。
「美葉子さん」
 伊月は美葉子を見て強い口調で言う。
「ミスルトゥ入居条件の第一条。“他の入居者について必要以上に詮索しないこと”」
 美葉子が意地悪く笑う。
「『伊月くんは入居者じゃなくて管理者』だって言われてなかったっけ?」
 伊月は負けじと美葉子を見返したが、頬骨の辺りが少し赤くなった。そのとき、玄関のドアがガチャリと開く音がした。
「伊月く~ん、たっだいまぁ~」
 廊下を走る音が聞こえたかと思うと、友紀奈が食堂に飛び込んできた。
「早いですね。仕事、クビになったんですか?」
 伊月の言葉を聞いても、友紀奈は笑いながらその場でくるくると回る。
「んなわけないじゃ~ん! 事件の解決に貢献したっていうのに! 伊月くんの親子雑炊のおかげだよ! ありがと! ついでに大好き~!」
 法医研究員である友紀奈は、画像解析やDNA型鑑定などの裏方の仕事をしている。刑事のように被害者や被疑者と直接対峙するわけではないが、友紀奈たちがいなければ、真犯人を突き止めることも、罪を立証することもできない。必要不可欠な仕事だ。遺留品の分析依頼がたくさん入ったり、事件が重なったりすれば、帰宅も遅くなる。そんな彼女は、まさに先ほど美葉子が言った通り『ひとつのことに夢中になるタイプ』だ。そして、そんな彼女を支えられることに、伊月は喜びを感じている。友紀奈だけでなく、裕隆や美葉子、ほかの住人の役に立てているという思いが、今の伊月の生きる糧だ。
「今日はみんなと一緒に七時にごはん食べるからね~!」
 友紀奈はくるくる回転しながら一〇三号室へと消えた。
「『大好き』だって。よかったじゃない」
 美葉子の言葉に伊月はそっけなく答える。
「猫やメダカと同等レベルですけどね」
「恋に関しては相変わらず後ろ向きねぇ」
 美葉子は右手を口に当て、あくびをしながら立ち上がった。
「私は一眠りするわ。七時になったら起こして」
 美葉子が食堂を出て行き、入れ違いで裕隆が入ってきた。
「伊月くん! キミのおかげで新作を書き上げられたよ! いつも夜食の差し入れをありがとう! 前に書いた作品の献本も届いたし、今日はいい日だ」
 伊月はお盆にアイスペールとグラスをのせ、アイスペールに氷を入れた。その隣にブランデーのボトルを置いて、テーブル席に着いた裕隆の前に運ぶ。
「そういうときはこれですよね?」
 ブランデーを見て裕隆は「わかってるねぇ」とニヤリとする。執筆中は髪を振り乱し、分厚いパソコン用眼鏡をかけて別人のようになるが、普段の彼は穏やかで人当たりもいい。
「祝杯上げたら、次のプロットを書かなくちゃいけないけど、今日だけは美酒に酔ってやるぅ」
 裕隆の嬉しそうな声を聞きながら、伊月は窓の外を見た。九月下旬の空は青く高くなり、夏の終わりが近いことを告げている。
(紫乃(しの)さん、あなたを支えられなかった分、僕はほかの人たちを支えたいと思って、この二年やってきました。僕はみなさんをきちんと支えられているでしょうか?)
 青い空に、二年前に他界した幼馴染みの女性の顔が浮かぶ。
 子どもの頃、体が弱くいじめられていた伊月を、ときにかばい、ときに勇気づけてくれた四歳年上の紫乃。調理師専門学校を卒業して一人前になって、彼女と一緒に過ごせたのはわずか一年だけだった。彼女が体の不調を訴え、検査を受けたときにはすでに手遅れだった。伊月は仕事を辞め、最後の最後まで彼女のためにごはんを作った。そんな伊月に、紫乃は亡くなる直前、『今度は私のためじゃなく、誰かほかの人のためにおいしいごはんを作ってあげてね』と言ったのだ……。
 伊月は目に熱いものが浮かび、そっと目を閉じた。伊月がミスルトゥでシェフをしているのは、彼女の最期の言葉に応えるため。
(紫乃さん、僕は今でも、あなたのためにおいしいごはんを作っていますよ……)

【END】