戸渡との思い出はあまりない。
 なにしろ幸希が高校三年生の夏休み前に入部してきて、半年も経たずに幸希は受験のために部活動を終えてしまったのだから。
 幸希は今年二十八なのだから、きっかり十年前になるのだろう。十年前は制服を着て高校に通っていたなど、懐かしいが過ぎる。
 戸渡の入部は唐突だった。部長の友達の女子が「新しい部員が入るから」と言ってきたのだ。「え、今?」と幸希やほかの部員の女子は言ったはずだ。
「そう! しかも男子よ!」
「へー。変わった子だね」
 誰かが言った。
 茶道部は極端に小さい部活ではない。男子部員もいるが、たった二人である。しかし彼らは二年生であったため、彼らのあとを継ぐにはちょうどいいのかもしれない、などとそのとき思った。
「なんか、やってた部活を辞めて新しいとこに入りたかったんだって」
「ふーん。それで茶道ねぇ、やっぱ変わってるわ」
 そのように、部員からの評価は最初から『変わり者』であったのだ。
 しかし戸渡が入部してしまえばその評価はすぐに薄れた。別に極度に変人というわけではなかったのだ。
 明るくて、先輩の言うことはよく聞いた。
 雑務も進んでこなした。
 二年生の男子の先輩にも懐いたようだ。
 溶け込むのは早かったのだが、いかんせん二学年も下で、そして幸希は特に部長や副部長などの役職にもついていなかった。単なる一部員だったのだ。
 よって、世話をする機会も、そうなかった。なので「後輩の一人」くらいに思っていたし、向こうもそう思っているだろうと思っていた。
 ただ、肝心の茶道の腕は悪くはなかった。
 「叔母さんが茶道教室に通ってるんです」などと言っていたので、見よう見まねくらいはしていたのだろう。飲み込みも早かった。
 しかし後輩としては、強いていうなら『多少優秀』くらいであったほかは、突出した印象も無かったのである。
 そんな後輩と出会うなんてねぇ。
 その日の夜。仕事を終えて、一人暮らしの自宅でまったり一人酒をしながら幸希は思わず高校時代のアルバムを取り出していた。
 酒豪というわけではないが、気が向けばたまに缶チューハイ一本を開けたりする。それは疲れていたり、嫌なことがあったりしたときが多いのだったが、今日はなんとなく良い気分でチューハイの缶を開けた。
 アルバムを見たところで、写っているのは同級生が過半数だった。
 当時はケータイもそれほど普及しておらず、カメラ付きのケータイなど最新型で、持っている者などほとんどいなかった。ほとんどの者が持っているケータイの画面だってモノクロだったのだ。その後数年でケータイは目覚ましい進化を遂げたのであるが、まぁそれはともかく。
 そのために、ケータイに懐かしい写真が残っている、ということもなく。高校時代の想い出を見るのであれば、古風ではあるがやはりアルバムなのであった。
 ただ、そのうちの一枚に幸希は、ふと目を留めた。
 それは部活で撮った集合写真だった。三年の秋、だったと思う。写真の人物は秋冬の制服、つまりジャケットスタイルであったから。
 『当時の部員の想い出に』と集合写真を撮ったことをなんとなく思い出した。そしてその中に、ちゃんと戸渡は居た。
 写真のメインは三年生で、彼は当時一年生であったので、はしっこに立っている。
 その顔を見ればすぐにわかった。髪は少し長くなったし、染めたのだろう、ダークブラウンになってはいたが、顔立ちはほとんど変わっていない。少し精悍になったとは思うが。たれ目気味の優しい眼をしていた。
 しばらくその写真を眺めて、幸希はぐびりとチューハイをひとくち煽った。
 グレープフルーツのチューハイ。そのほろ苦さが、幸希を『今』に連れ戻す。
 お酒などを、しかも一人で飲むような大人になっているのだ。
 十年前。
 私はこの子となにを話したろう。
 考えたけれど、あまり思い出せなかった。部活の連絡や、単なる雑談しかしなかったのだろう。そのくらいに、彼の印象は希薄だった。
「あっ!鳴瀬先輩!こんにちは!」
 しかし戸渡には意外とすぐに再会してしまった。
 とはいえ、仕事絡みである。「鍵を借りにきました」とやってきたのだ。
 幸希の会社が管理している物件の鍵。客に紹介したり、写真を撮ったりするために鍵のやり取りは時々ある。今日の戸渡の用事もそれであった。
「こんにちは。どこの鍵?」
 鍵の受け渡し程度であれば、幸希でも扱える仕事。簡単な書類に、名前や会社名、携帯番号などを書いてもらうだけでいいのだから。よって、接客中だった営業の男性はそちらに専念してもらうことにして、幸希が応対した。
「第三ライオンズマンションです」
「ああ、あそこね。綺麗なところよ」
「そうですかぁ。お客さんから写真を撮ってほしいって頼まれまして」
 何気ない会話を交わしながら鍵を管理しているボックスを開けて、取り出す。目当ての鍵はちゃんとそこにあった。
「はい。ここに会社名と……」
「はーい」
 書類を示すと戸渡は素直に幸希からペンを受け取って、さらさらと会社名やらを書いていく。この仕事では慣れていて当たり前のことなのに、なんだか返事をする声は明るかった。
 やっぱりワンコみたい。
 内心、くすくすと笑いたくなってしまった幸希だった。
 なんだか年の近い男性とこれほどフランクに話せていることが、幸希は不思議だった。
 とはいえ、こんなこと、学生時代はよくあったはずなのだ。
 高校時代は男子とも普通に会話していた。大学時代もそうだった。
 いつのまにか気構えてしまうようになっていたみたい。
 もしかして、結婚とかを意識してしまうような年齢になっちゃったから、余計なことを考えちゃってるのかなぁ。こういうのが良くないのかも。
 戸渡が鍵を受け取って帰ったあと、幸希はちょっとそう思った。
 ただ、戸渡とフランクに話せるのは、高校時代の後輩だから。それは確かなことだった。
「あっ、鳴瀬先輩ですか! ちょうど良かった! すみません! あの鍵、ライオンズマンションの鍵! 貸してもらっていいですか!?」
 閉店間際。
 突如響いた電話を取ったのは幸希だった。
 「虎視(こし)不動産です」と、会社名をはじめに名乗られただけで、すぐにわかった。戸渡だ。
 勢い込んで言われたことは、鍵を貸してほしいとの要望。確かに電話で鍵の貸し借りの予約を取り付けることはあるが、これほど遅くなってからそういう電話が来ることは滅多にない。
 戸渡もそれはわかっているのだろう。勢い込んではいたが、すまなさそうな響きが確かにあった。
「いいけど、いつ? 明日?」
 それでも幸希は軽い調子で返事をしたのだが、戸渡の声が更に『申し訳ない』という響きを帯びた。
「それが、今から……」
 幸希は黙ってしまう。
 今からなど。
 あと三十分もしないうちに、店を閉めるというのに。
「ほんっとうに申し訳ありません! 客にちょっと無茶言われちゃいまして……」
 第三ライオンズマンションは、いわゆる高級マンションだ。つまり、契約もそれだけおおものになるというわけ。動く契約書も、得られる金額も多くなる。
 戸渡にとっては、移転後初めての大きな仕事なのかもしれない。頼み込む声は必死だった。
 しかしこういうことだ、ただの事務職の幸希には判断できない。
「……ちょっと待って。店長に相談してくる」
「はい! すみませんがお願いします!」
 電話を一旦保留にして、店長のもとへ向かう。ことの顛末を話した。
 店長は勿論渋る。
「第三ライオンズは明日、内見予定が入ってるんだよな。昼からだけど、万一間に合わなかったらウチが困る」
 言われて幸希は口惜しくなった。
 後輩が困っていて、きっと藁にも縋る思いで電話してきたのだろう。なんとか都合をつけてやりたい。
「もし、今日中に返してくれるんでしたらどうですか?」
 幸希の提案には、やはり渋られた。
「もう閉店だろ。今日は俺、残業できないんだよ。このあと本部と飲み会で」
 店長は一応、と言った様子でほかの社員にも聞いてくれたが、みんな首を振った。
 そうだろう。出来れば残業なんてごめんだ。それもほかの会社の都合に合わせてなど。
 悪く言ってしまえば、うちにはなんの関係もない、と言ってしまって良いこと。
 幸希はもう一度絶望しそうになったが、そのとき思いついたこと。
 一応、それなりの社歴と信頼はある。それに賭けることにした。
「じゃ、私が残ります。鍵を返してもらって、受け取ってから戸締りして帰ります。駄目ですか?」
「鳴瀬が?」
 幸希は事務職という立場上、残業をすることがほとんどなかった。
 そもそも基本の仕事自体がキリのない仕事なのだ。書類を渡されては入力し……というルーティンワーク。サボることは許されないが、ノルマもない。急の雑務でも入らない限り、定時になれば切り上げてさっさと帰ることのできる、ホワイトな仕事なのだ。
「うーん……。しかし万一……」
 店長はやはり渋った。
 が、戸渡のいる虎視不動産とは取引歴も長い。頼みを蹴るのも関係が悪くなってしまうかもしれない。
 翌日の業務と今後の取引を天秤にかけているのだろう。
 数秒悩んで。
「わかった。代わりに受け取ったら帰る前に、鳴瀬が俺に必ず電話してくれ」
 店長は連絡の電話をすることで呑んでくれた。幸希は、ぱっと顔を輝かせてお礼を言う。
「!! はい! わかりました!」
 長く保留にしてしまったが、通話を再開した先にきちんと戸渡はいた。
「了承、取れたよ。返してくれるのは何時になりそう?」
「ありがとうございます!! えっと……九時とかになっちゃうかもですけど……」
 嬉しそうに戸渡は言ったが、すぐに申し訳なさそうな声を出す。
 それはそうだろう。あと二時間近くはある。
 幸希はちょっとがっかりした。あと二時間も待ちぼうけだ。これほど長く残業をしたことなどない。でも、ここまできて引けないではないか。
「わかった。待ってるね」
「ありがとうございます! 本当にありがとうございます!!」
 電話を切る前、戸渡は何度も繰り返した。
「いいから、早く取りにおいでよ」と言って、電話を切った。
 あとは、戸渡が訪ねてきて鍵を渡して……事務所で待っているだけ。損をするのは自分だというのに、どうしてこんなに必死になってしまったのか。電話を切ってから思う。
 「じゃあ仕方ないですね」とあっさり引くこともできた。
 それは、戸渡が後輩であるからだ。
 少なくとも、そのときの幸希はそう思っておいた。
「え!! 鳴瀬先輩が待っててくださったんですか!?」
 息せききって奪うように鍵を持っていった戸渡が、幸希の会社に帰ってきたとき。
 時間は既に九時を回っていた。
 鍵を返してくれたあと、社内にいたのが幸希だけと見て戸渡は目を丸くした。ほかの社員が居てくれると思っていたのだろう。
「ちょっとほかの人は都合がつかなくて」
 それは本当のことだったが、そこでちょっと悪戯心が湧いた。
「感謝してよね」
 言うと、戸渡は顔を歪めて、ばっと頭を下げた。
「ほんっとうにすみません! こんな遅くまで……」
 その様子はやはりワンコのようだった。叱られたワンコだ。
「いいよ。代わりに契約、ちゃんと取っておいでよ」
「それは勿論! いい感触でしたから!」
 勢い込んで言う、今度は嬉しそうだった。なんとかなって、心底ほっとしているのだろう。
「お礼にゴハンでも奢らせてください!」
 言われて、幸希は驚いた。
 お礼を提案されるとは思わなかった。それもご飯なんて。
 確かにお腹は空いている。ぺこぺこといってもいい。普段ならとっくに帰宅して食事を済ませている時間なのだから。
 誤魔化すためにデスクの引き出しにストックしているお菓子をつまんではいたが、そんなものでは到底足りなかった。
 しかし、後輩にご飯を奢ってもらうなど。
「悪いよ、後輩になんて」
「いえ! なんのお礼も無しなんて男がすたります!」
 十年ぶりの再開とはいえ、後輩に変わりはない。
 手助けをして当然だと幸希は思っていたし、実際そう言ったのだが、戸渡は引かない。
 まぁ、確かに。
 男の子だし。
 女に助けてもらったならお礼をしたいって思うのは普通かもしれないかな。
 思って、幸希はちょっと悩んだあとにそれを受けることにした。
 ただし、条件は付けた。
「わかった。でも、奢りは五百円までにしてね?」
「……え? なんで五百円?」
 きょとんと首をかしげた戸渡に、補足する。
「ワンコイン、ってこと」
「……はぁ」
 戸渡は「よくわからない」という顔をした。
「それ以上は勿体なくて、受け取れないから」
 言った幸希に、やはり首をひねる仕草をしたものの、戸渡は「わかりました」と言った。素直だなぁ、と幸希は思ってしまう。
「えーと、じゃ、どこにしましょ……。先輩はお酒とか飲みますか」
「飲むけど、明日も仕事だからお酒はやめときたいかな」
「そう、ですよね。明日も平日……。うーん……」
 幸希の返事に戸渡は随分考えてしまったようだ。当然、ランチならともかく、夕ご飯で五百円は随分ハードルが高い。下手をすればマックでもそれ以上行ってしまうだろう。
「戸締りしてくるから、それまでに考えておいてね」
 猶予を与えて、幸希は社内へ向かった。とはいえ、過ごしていた事務所をちょっと片付けて、パソコンと電気を落として入口を施錠するくらいだ。あとは、約束した通り店長に電話。
 さて、どこへ連れていかれるやら。
 楽しみにしつつ、幸希は自分のパソコンの『シャットダウン』ボタンを押した。


 戸渡くんはワンコみたいだから、ワンコイン、なんてね。
 そのくらいのシャレのつもりだったのだ。
 戸渡に連れていかれたのは、ピザ屋だった。なかなかオシャレな店だ。
 どちらかというと、『イタリアン』より『アメリカン』。カジュアルな感じだ。
 店内のモニターには、アメリカの映画が無音で流されている。代わりにアロハ的な音楽が店内に流れていた。
 席に案内されて、メニューを開いて戸渡が言った。
「ここ、まさに『ワンコイン』なんです。この中なら、どれでも五百円!」
 メニューの示された場所にはピザが七種類ほど並んでいた。定番のマルゲリータや、三種チーズ、パイナップルなんかが乗った変わり種まである。
「へぇ、すごいね」
「そうでしょう。しかも値段の割にはなかなかなんですよ」
 勿論、それ以上の値段がするピザやほかの料理もメニューに並んでいたので、ワンコインピザはやはりそれに見合ったクオリティなのだなというのは想像できた。どちらかというと、メインで食べるよりは大勢でやってきていくつか注文して、シェアして摘まむためのものなのだと思う。
「足りなかったら、すみませんけど」
 おずおずと言われたけれど、それは当然である。
「わかってる。自分で注文するから」
「すみません」
「ううん、私がそう言ったんでしょ」
 ちょっとだけ悩んで幸希が選んだのは、定番のマルゲリータだった。トマト味は好きなのだ。そして無難なところから攻める性格上、定番から試してみたい。
 運ばれてきたピザは、五百円と思えないほどきちんとしていた。生地もそれなりに厚みがあって、トマトソースもチーズもたっぷりかけられている。
「ん! 美味しい!」
 ぱくりと食べて、幸希は思わず言っていた。
「良かった」
 戸渡はほっとした、という顔で言って、自分の頼んだピザを食べる。それも五百円のもので、バジルソースがかかっていた。
 『ワンコイン』のディナーはなかなか楽しかった。
 勿論、話題は高校時代のことからはじまった。
 茶道部のこと、幸希が卒業したあとのこと。
 そこから大学の話を軽く聞いて、今の不動産業に入った話が締めであった。
 もう時間も十時を回っている。いい加減帰って寝なくては、明日の仕事に支障が出てしまう。
 戸渡もわかっているのだろう。自身も仕事のはずだ。適当なところで話を切り上げてくれた。なかなか気の付くことだ。
「今日は本当にありがとうございました。ご迷惑をかけてすみません」
「ううん。お礼はちゃんともらったからね」
「お礼になってれば……いいんですけど」
 戸渡は言ったが、幸希はじゅうぶん満足していた。
 駅まで一緒に行き、どうやら家は逆方向の電車らしいので構内で別れた。
 慣れたホームへ向かいながら、今日は楽しかったな、と思った。
 やはりピザだけでは物足りなくて、サラダとソーセージを自腹でオーダーしてしまった。
 でも、『ワンコイン』の選択としてはなかなか悪くなかったじゃない。
 などと、戸渡と別れた帰り道、幸希はちょっと上からの視点で思ってしまったのだった。
 それ以来、戸渡とはたまに連絡を取るようになった。仕事関係でそうそう会社に訪ねてくることはないのだが、例の『ワンコインディナー』の帰りに「ラインとか交換しませんか?」と持ち掛けられたので、幸希に断る理由はなかったので「いいよ」と交換した。
 そのために、ぽつぽつとたまにやりとりがある。
 とはいえ、たいした内容ではなかった。
「茶道部では点前の会に行きましたよね! 鳴瀬先輩とは確か二回くらいしかご一緒しなかったですけど」
「そうだよねぇ。会も二ヵ月に一回くらいしかなかったし」
 こんな想い出話をしたり。
「鳴瀬先輩って、高校時代の友達とは連絡とってます?」
「うん、たまに会うよ」
「そうなんですね!僕もたまに会うんです。やっぱり学生時代の友達って、大人になってからできた友達とは違いますよね」
 交友関係の話であったり。
 つまり、男性とする『ライン会話』としては平和すぎたといえる。幸希がなにも『彼氏候補』として意識することなどないほどには。
 しかし、それがひっくり返ったのは、ある出来事であった。


 その頃、幸希には少し憂鬱なことがあった。
 それは本社へのおつかいへ頼まれたときに起こったこと。「鳴瀬さんってカレシいるの?」などと、本社の課長に訊かれて、あとから思えば馬鹿なことだと思うが「いません」などと言ってしまった。
 それ以来、課長……新木(あらき)という……は、妙に頻繁に駒込店へ電話をかけてくるようになった。
 店長も不自然に増えた電話には気付いただろうに、「目ぇつけられたかね」などと笑い飛ばされておしまいだった。男はこういうところがデリカシーないから嫌だ。と幸希は何度も思ったことを今回も思わされた。
 「新木課長は妻子持ちだし心配することなんかないさ」なんて言って、それ以来なにも配慮してくれない。
 『心配すること』なんて、幸希にはたっぷりあるというのに。ある意味、シングルの男性よりやっかいではないか。
 そしてコトは幸希が危惧したとおりに転がってしまった。
「今度、食事でも行かない?」
 ただの業務の電話ではない電話が会社にかかってきて、幸希はうんざりした。会社の電話を私物化するなど。かといって、携帯番号やラインの交換などもっとごめんであるが。
「木曜はどう?」
 テンプレのような、『不倫目的』の誘いであった。
 家庭を持っている男性が別の女性に手を出そうと思ったら、家族サービスが必要になる金曜や土日以外になることが多いといわれている。女性向け雑誌や、webのコラムでも。そのくらいには愚かな男だ、とそこで既に幸希は思ってしまった。
 新木課長自体、そういう目でなど見られないし、おまけにセカンドになんてなるつもりはなかった。
 しかし、直属ではないとはいえ上司であるのではっきりとなど断れない。パワハラとセクハラを同時に受けているようなものである。
「すみません、ちょっと用事があるんです」
 断ったものの、新木課長がそれで引くわけもない。
「じゃ、来週の月曜。それならどう?」
 幸希は黙ってしまう。
 二度、『用事がある』と言うのも躊躇われた。
「あの、……あ、すみません! ちょっと来客が。失礼します!」
 結局無理のある電話の切り方をして、その場は逃れた。が、それだけで引いてもらえるはずもない。
 なんと直接店舗に押しかけてこられたのである。適当な理由はくっついていたが、明らかに『別に課長自らやってこなくてもいい』という用事であった。
 それでも、一応ほかの社員の目があるので、と楽観していたが、彼は相当図太かった。社内から幸希のデスクまでやってきて、デスクにもたれて話しはじめたのだ。
 こんな場所では二人きりも同然ではないか。恐怖にも近い感情を覚えてしまう。
 そして無理やり約束を取り付けられてしまった。
「じゃ、明日の夜にね」
 心底嫌だと思っていたが、仮にも上司である。行かない選択肢などなかった。
 連れていかれたのはそこそこ高級なフレンチの店であったが、食事の味などわからなかった。砂を噛んでいるようなものである。
 これなら家で適当な食事を作って食べるほうが、百倍美味しく感じると思った。
 それどころかテーブルの下で新木課長の手が伸びてきて、幸希の脚に触れる。
 幸希の背中に鳥肌が立った。吐きそうになるのを必死でこらえる。
 そんなひどいディナーもなんとか終わり、当たり前のように新木課長は「もう一軒行こうか」などと言ってきた。どこへ連れていかれるかなど定かではないが、脚に触れられた以上のことがあるに決まっている。
 もう逃げだしたい。
 泣きたい気持ちでいっぱいになった幸希であったが。
「幸希さん! ……あれ? その方は?」
 そこへ救いの手が差し伸べられた。
 繁華街の一角。駅の方角からやってきた男性。そこにいたのは、戸渡であったのだ。
 おまけに普段の『鳴瀬先輩』ではなく、『幸希さん』と呼んできた。動揺していた幸希はそれに気付かなかったが。
「あ、……会社の、上司です」
 はっとして、やっと言った。
 それだけで戸渡は事情をはっきりと察してくれたのだろう。
「そうなんですね」
「誰かね、きみは」
 新木課長は不快感全開といった顔と声で言う。せっかく若い女の子をどこぞに連れていけそうになっていたところに、若い男に割り込まれたも同然なのだ。
「幸希さんとお付き合いさせていただいている、戸渡といいます」
 戸渡の言ったことに仰天したのは、新木課長だけではなかった。むしろ幸希のほうが驚いてしまったかもしれない、爆弾発言。
「は? 鳴瀬さんはカレシはいないと……」
 動揺した声で新木課長が言ったことで、幸希は事情を理解した。
 戸渡は、幸希が『望まない相手と付き合わされている』と見てとって、助けてくれようとしてくれているのだ。
「あの、……別の会社の方なので、社内では黙っていて……」
 しどろもどろになりつつも、幸希もそれに乗る。
 そして戸渡が「虎視不動産の戸渡です」と告げると、今度こそ新木課長は黙った。同業として、無碍にもできないのだ。
 おまけに戸渡の会社、虎視不動産は近年、大きく成長しつつあった。幸希と同年代なのはわかっただろうから、それなりの立場があるか、もしくは期待されているとわかったのだろう。
 そんな会社の相手が彼氏だと名乗ったのだ。コトがこじれれば面倒なことになる。
 「チッ」と舌打ちでもしたげな様子で新木課長は「そう。じゃ、また」と去っていった。
 散々不快感を与えてきた男が去っていき、幸希は心底、ほっとした。一歩間違えば、妙な場所に連れ込まれそうになっていたかもしれないのだ。戸渡には感謝しなければいけない。
「あ、ありがとう。戸渡くん」
 ほっとしたあまり、脚が震えた。
 それには気付いただろうに、戸渡は特に手を伸べたりしなかった。そのくらいには女性の扱いに慣れているようだ。
 ただ、不安であった幸希を安心させてくれるように、笑みを浮かべてくれた。
「いえ。気が進まない様子だったので。良い関係ではないようだったので割り込ませてもらいました」
「ううん。本当に助かった」
 はぁ、とためいきが出た。
 そして思いつく。
「助けてもらっちゃったね。お礼をしないと」
 幸希の言葉には、今度は声に出して、くすっと戸渡は笑った。
「鳴瀬先輩からも、ワンコインですか」
 幸希もつられて、くす、と笑ってしまった。自分の言いだしたことを、そのまま返されたので。
「うん。じゃ、ワンコインで一杯どう?」
「いいですね。嫌なことがあったんです。美味しいものでも飲んで、忘れましょう」
 新木課長などではなく、それなりに気心知れている戸渡相手であれば、なにも心配することなどなかった。幸希は飲みに行くことを提案し、戸渡も嬉しそうに答えてくれた。
 平日のことで、あまり時間もなかったので近くのバーにしておこうという話になり、そこへ向かいながら、ふと戸渡が謝ってきた。
「さっきはすみません。図々しい呼び方をしました」
 そこで初めて幸希は気付く。
 呼ばれたのは普段の『鳴瀬先輩』ではなかった。
 『幸希さん』。
 初めて名前で呼ばれた。彼氏の振りをしてくれたのだから、当然ではあるのだが。
 それはなんだかくすぐったい響きだった。
「ううん。むしろあれで新木課長も本当に彼氏だと思い込んでくれたみたいだから」
 バーに入ってオーダーしたのは、約束通りワンコインのドリンク。
 戸渡がその中で選んだのは、ソルティドッグだった。幸希は弱めのお酒にしておこうと、ピーチフィズにしておく。
「戸渡くんは、彼女がいるの?」
 本当は彼女の一人でもいるのかもしれない。だとしたら、「彼氏です」と名乗らせるなど失礼だったのでは。
 そう思った幸希であったが、戸渡は簡単にそれを否定した。
「いえ、いませんよ」
「そうなんだ」
 迷惑をかけなかったことに、幸希は、ほっとした。
「鳴瀬先輩も……」
「いないよ」
「そうなんですね」
 戸渡とこのような会話をすることは初めてだった。しかし不思議と不快感はない。
 そして気付く。男性と二人でバーに入ることすら、数度しかなかったのに緊張などなにもない。短い期間であったが彼氏であった男性と入ったことはあるが、妙に落ち着かずにそわそわしてしまったというのに。
 恋愛に関する話はそこで打ち切りになり、他愛のない雑談になった。それは幸希に気まずい思いをさせないように、という戸渡の気遣いだったのかもしれない。
「いずれは店長になりたいんです。まずはそこを狙うのが当座の目標ですね」
 賃貸営業職としては、当たり前のことを戸渡は言った。
 そして社ではすでに主任が目の前に迫っているのだと。そもそも主任候補として店舗移動を命じられたということらしい。幸希のふたつ下、つまり二十六歳としては出世コースといっても良いだろう。
「優秀なんじゃない」
 幸希の褒め言葉には、戸渡は素直に「ありがとうございます」と言った。ちょっと胸を張って。
 その様子はまたも、「よしよし」をされた大型犬のようで、幸希はまたおかしくなってしまう。
「鳴瀬先輩は、ずっと駒込店で事務ですか」
 訊かれたので幸希も素直に答えておく。
「最初はアキバ店にいたんだけどね、駒込店がオープンってことで三年くらい前に異動になったきりかな。まぁ、事務ってあんまり異動とか無いから」
「そうですよね。うちの事務の子も二人いるんですけど、店舗に長いって言ってましたよ」
 そっか、店舗だから事務の子もいるんだ。
 当たり前のことをいまさら思い知った。
 幸希はそんな自分に驚く。まるで『戸渡と同じ店舗に勤務している女の子』を、意識しているかのようだと思ったので。
 話は盛り上がって、飲み物は一杯では足りなかった。