「あっ、鳴瀬先輩ですか! ちょうど良かった! すみません! あの鍵、ライオンズマンションの鍵! 貸してもらっていいですか!?」
 閉店間際。
 突如響いた電話を取ったのは幸希だった。
 「虎視(こし)不動産です」と、会社名をはじめに名乗られただけで、すぐにわかった。戸渡だ。
 勢い込んで言われたことは、鍵を貸してほしいとの要望。確かに電話で鍵の貸し借りの予約を取り付けることはあるが、これほど遅くなってからそういう電話が来ることは滅多にない。
 戸渡もそれはわかっているのだろう。勢い込んではいたが、すまなさそうな響きが確かにあった。
「いいけど、いつ? 明日?」
 それでも幸希は軽い調子で返事をしたのだが、戸渡の声が更に『申し訳ない』という響きを帯びた。
「それが、今から……」
 幸希は黙ってしまう。
 今からなど。
 あと三十分もしないうちに、店を閉めるというのに。
「ほんっとうに申し訳ありません! 客にちょっと無茶言われちゃいまして……」
 第三ライオンズマンションは、いわゆる高級マンションだ。つまり、契約もそれだけおおものになるというわけ。動く契約書も、得られる金額も多くなる。
 戸渡にとっては、移転後初めての大きな仕事なのかもしれない。頼み込む声は必死だった。
 しかしこういうことだ、ただの事務職の幸希には判断できない。
「……ちょっと待って。店長に相談してくる」
「はい! すみませんがお願いします!」
 電話を一旦保留にして、店長のもとへ向かう。ことの顛末を話した。
 店長は勿論渋る。
「第三ライオンズは明日、内見予定が入ってるんだよな。昼からだけど、万一間に合わなかったらウチが困る」
 言われて幸希は口惜しくなった。
 後輩が困っていて、きっと藁にも縋る思いで電話してきたのだろう。なんとか都合をつけてやりたい。
「もし、今日中に返してくれるんでしたらどうですか?」
 幸希の提案には、やはり渋られた。
「もう閉店だろ。今日は俺、残業できないんだよ。このあと本部と飲み会で」
 店長は一応、と言った様子でほかの社員にも聞いてくれたが、みんな首を振った。
 そうだろう。出来れば残業なんてごめんだ。それもほかの会社の都合に合わせてなど。
 悪く言ってしまえば、うちにはなんの関係もない、と言ってしまって良いこと。
 幸希はもう一度絶望しそうになったが、そのとき思いついたこと。
 一応、それなりの社歴と信頼はある。それに賭けることにした。
「じゃ、私が残ります。鍵を返してもらって、受け取ってから戸締りして帰ります。駄目ですか?」
「鳴瀬が?」
 幸希は事務職という立場上、残業をすることがほとんどなかった。
 そもそも基本の仕事自体がキリのない仕事なのだ。書類を渡されては入力し……というルーティンワーク。サボることは許されないが、ノルマもない。急の雑務でも入らない限り、定時になれば切り上げてさっさと帰ることのできる、ホワイトな仕事なのだ。
「うーん……。しかし万一……」
 店長はやはり渋った。
 が、戸渡のいる虎視不動産とは取引歴も長い。頼みを蹴るのも関係が悪くなってしまうかもしれない。
 翌日の業務と今後の取引を天秤にかけているのだろう。
 数秒悩んで。
「わかった。代わりに受け取ったら帰る前に、鳴瀬が俺に必ず電話してくれ」
 店長は連絡の電話をすることで呑んでくれた。幸希は、ぱっと顔を輝かせてお礼を言う。
「!! はい! わかりました!」
 長く保留にしてしまったが、通話を再開した先にきちんと戸渡はいた。
「了承、取れたよ。返してくれるのは何時になりそう?」
「ありがとうございます!! えっと……九時とかになっちゃうかもですけど……」
 嬉しそうに戸渡は言ったが、すぐに申し訳なさそうな声を出す。
 それはそうだろう。あと二時間近くはある。
 幸希はちょっとがっかりした。あと二時間も待ちぼうけだ。これほど長く残業をしたことなどない。でも、ここまできて引けないではないか。
「わかった。待ってるね」
「ありがとうございます! 本当にありがとうございます!!」
 電話を切る前、戸渡は何度も繰り返した。
「いいから、早く取りにおいでよ」と言って、電話を切った。
 あとは、戸渡が訪ねてきて鍵を渡して……事務所で待っているだけ。損をするのは自分だというのに、どうしてこんなに必死になってしまったのか。電話を切ってから思う。
 「じゃあ仕方ないですね」とあっさり引くこともできた。
 それは、戸渡が後輩であるからだ。
 少なくとも、そのときの幸希はそう思っておいた。