「……こんばんは」
 待ち合わせをしていた駅前の広場で会って、顔を合わせるのは非常に気まずかった。再会してから、志月に対してこんな気持ちを抱いたことはない。そしてそれは志月も似たような表情だった。
「お疲れ様です」
 言われて、はっとした。仕事上がりならばこちらの挨拶のほうが適切だ。
「あ、お疲れ様!……です」
 言ったあとに、なんだか気まずくて「です」など付け加えてしまった。
 志月がそれに、ちょっと困ったように笑った。
「行きましょうか」
 でも言われたのはそれだけ。なので幸希も「うん」とだけ言って、志月の隣に並んだ。並んで、志月の行くほうへついていく。
 会う前に駅のトイレでメイク直しをしてきた。クマだってもう一度コンシーラーとファンデーションを塗って隠しなおしたし、アイシャドウとリップも少し濃くした。
 厚化粧ではないけれど、オフィスメイクよりは一歩進んだメイクを。恋人に会うのだから。
 歩く間、手は繋がなかった。
 一緒に歩いて、毎回手を繋いでいるわけではない。
 けれど、会った日は一回は手を繋いでいる。今日は右手が妙にすかすかして感じた。
 志月もそう感じてくれているだろうか。左手を寂しく思ってくれているだろうか。
 でも幸希から手は伸ばさない。
 ちゃんと謝って、許してもらって、元通りの関係に戻れるまで。
 それをする資格は自分にはない、と思う。
 志月が幸希を連れて行ったのは、小さなイタリアンのお店だった。
 定時後だ。おなかは空いている。緊張でそれどころではないというのはあったけれど。
 それでも食べるものは欲しかった。お茶では足りない。
「なににしますか?」
 メニューを差し出してくれて、志月は言った。
 けれどその内容は幸希の頭にちっとも入ってこない。なんだかどれも同じに見えてきてしまって。
 実際、そうだったのだろう。
 今重要なのは、なにを食べるかではない。
 なにを話すかなのだから。
 結局無難に「ナポリタンのセットで」などにしてしまって、志月も「じゃあ僕も同じで」などと言った。
 そしてそこで、一応の準備は整ってしまう。
 ちゃんとしないと。
 自分に言い聞かせて、すう、と幸希は息を吸い込んだのだが。
「幸希さん」
 その前に志月がなにか言おうとした、のだと思う。幸希の名前を呼んだ。
 ぎくりとして幸希は思わず言っていた。
 ちょっと大きめな声をあげてしまって。
「ストップ!」
 幸希の勢いが良かったからか、声が大きかったからか。
 志月はわずかに身を引いた。
「……なんですか」
 1、2秒黙ったあとに、志月は言った。
 ちょっと不満そうだった。彼は彼で、言おうとすることを決めてきたのだろ うから。それを遮られれば不本意だろう。
「志月くん、謝るつもりでしょ」
 でもそれを言わせるわけにはいかない。
 幸希は言った。
 志月が「遮られるとは思っていなかった」という表情で、返事をする。
「え、……いけませんか」
 その返事に対する態度は決まっていた。
 今日一日で思い切ってしまった幸希は、きっぱり言う。
「ダメ。だって、悪いのは私だから」
 志月はなにも言わなかった。
 なにも言えなかった、のかもしれない。幸希がそのような言い方をするのは初めてだったので。きっと想定外だったのだろう。
 今まで通り優しく接して、「いいんですよ」なんて許してくれる気だったに決まっている。
 でももうそれには甘えられない。
「……そういうところ、甘やかさないで」
 一拍置いて、幸希はそのとおりのことを言った。
 志月がごくりと息を飲んだのがわかる。
 数秒黙り。
 でも言ってくれた。
「……わかりました。ではもう謝りません」
 幸希は、ほっとする。
 そこへサラダが運ばれてきた。
 けれど食べているどころではなかった。幸希はフォークに手を伸ばさなかったし、志月も同じだった。
 サラダはテーブルに放置されたままだが、幸希は、ばっと頭を下げた。
「ごめんなさい。なにから謝ったらいいか、わからないけど」
 言った。
 志月はしばらく黙っていた。
 なにを言ったらいいのかわからないのだろう。彼にとっては想定外の展開になっただろうから。
「でも、一番謝りたいのは、……嫌な言い方して、ごめんなさい」
 それでも志月はなにも言わない。
 事実なのはわかってくれるだろう。
 嫉妬したことより、声をあげたことより。
 嫌味を言うような言い方になったこと。
 それが一番。
「……それは、僕もですよ」
 やっと、という様子で志月は言った。
 今度はそれが幸希の想定外であった。
 きっと「そこはそうですね」などと言われると思っていたのだ。
 志月は笑みを作った。『作った』といえるくらい、努力した、という様子ではあったが。
「幸希さんの気持ちを考えないような言い方をしました。そこは全面的に幸希さんが悪いんじゃありません。幸希さんにそういう言い方をさせたのは僕です」
「……またそうやって」
 志月の言ったことはやはり優しすぎた。
 幸希は思って、言う。なんだか拗ねたような言い方になってしまった。
 そこで志月はまた笑顔を作って、だろうが、少なくとも笑顔を見せてくれる。
「いえ、事実です。甘やかしじゃありません」
「……志月くんは、優しすぎるよ」
 幸希はそう言うしかなかった。志月が『甘やかし』たり、もしくは幸希の機嫌を取るためなどではなく、本気でそう思っているだろうことがわかったから。
 このやさしいひとに大切にしてもらっていること。有り余る幸福だったのだ。
 志月の言い方ひとつ、表情ひとつ。
 でもそのすべてから幸希に伝わってくる。
「言ったでしょう。好きなひとには優しくしたい、と」
 それは幸希に告白してくれた日に、あたたかいカフェラテを前に言ってくれたこと。
「僕はそういう気持ちを忘れたくありません」
 きっと志月の気持ちはあの日と同じなのだ。
 忘れたくない、なんて思わなくてもこのひとは変わらないと、幸希は思った。だって、そこが彼の根幹なのだから。
「幸希さんにも悪いところはあったかもしれません。でも僕の態度だって完璧じゃなかったんです。だから、……仲直り、しましょう」
 言われて、幸希の表情は崩れた。
 泣きたい気持ちになって。
 でもそれは、嬉しさから。
 泣き笑い、というのだろうか。涙はこぼさなかったけれど。
「それは私が言うべきだったんだよ」
「あ、取っちゃいましたか……すみません」
 志月は言って、そしてくすっと笑った。
 今度は作った笑顔ではなく、本当の笑顔だ。幸希にはわかった。
 心の中が熱くなって、すぐにでも志月に抱きつきたくなったけれど。
 それはすべてディナーを食べ終えて、店を出てからにしておいた。
「食べましょう」
「僕たちの仲直りを祝って」
 と言ってくれた志月とパスタをおいしく食べたあとに。
「幸希さんは真面目ですよね」
 初めての喧嘩……というのか、そこまでいかぬいさかいか。それが起こってから一ヵ月ほどが経っていた。
 暖房を入れた幸希の部屋。コーヒーを入れたマグカップを手に、志月が言った。
「どこが?」
 幸希も同じようにマグカップを持っていたが、ひとくち中身を飲んで尋ねる。唐突にそんなことを言われた意味がわからなかったので。
 飲んでいるホットコーヒーがおいしいくらいに、季節はもうすっかり冬の手前まできている。
 コートも厚手のものにした。
 服も新しくニットやウールのものを買った。
 季節の変化。
 幸希は寒いものがあまり好きではなかったが、服を選んだり、ホットの食べ物や飲み物といった季節のものを食べられるのだけは楽しいことだと思う。
「一ヵ月くらい前。僕とちょっと衝突したとき、自分を責めたでしょう」
 志月に言われて幸希はちょっと顔をしかめた。あのことはできれば思い出したくない。
 が、志月の口調にも言葉にもまるで責める色はなかった。普段通り、おっとり優しい口調だ。
「反省するのは普通のことじゃないかな」
 あまり話題にしたくなかったが、言われてしまったことは仕方ない。幸希は言った。
 言ったことは本心だ。
 自分が悪かったのだ。
 自分を責めて当たり前だ。
 反省するべきところだったのだから。
 そのように幸希は思ったのだが。
「確かになにか悪かったな、と思うことがあったら反省は必要ですけど」
 志月は目の前のテーブルに置いてあった皿に手を伸ばした。薄いクッキーを一枚手に取る。
 幸希もつられるように手を伸ばしていた。
 くるみの入った、さくさくしたクッキー。幸希の気に入りのケーキ屋さんで扱っている焼き菓子だ。
 いさかいを起こしてしまったお詫びとして、あれから一週間ほどあとに「ワンコインで」と、幸希が買ってあげたもの。
 クッキーはワンパック500円だった。ワンコイン、だ。
 志月は勿論「そんなお気遣い」と言ったけれど、幸希は「せっかく買ってきたんだから、もらって」と押し付けた。
 「それじゃ、……いただいておきます」と受け取ってくれたのだが。
 それを「今度一緒に食べましょう」と言って、実際に今日のおうちデートに持ってきてしまうくらいには、やはり志月は優しいのだった。
 今回は、ワンパック500円のクッキー。
 これまでには、ピザだったりポカリ1本だったりした。
 なにかしてあげたり、してもらったりするたびに、『ワンコイン』。
 一枚のコイン分の気持ちが行き来している、と、クッキーを買いながら幸希は思ったのだった。
 別に純粋に『相手になにかしてあげたい』という気持ちで自分はしているし、多分志月からもそうだと思う。
 それでもなにかにつけて、二人でいたずらっぽく言い合う。
 スタートは自分が志月のことを、『ワンコのようだからワンコイン』なんてシャレのつもりではじめたことだったのに。いつのまにか、二人の合言葉のようになっていた。
「あそこ、ほかの女の子に優しくしないで、って言っても良かったんですよ」
 さく、とその500円で買ったクッキーをかじって、志月は言った。さくさくと咀嚼する。
 自分もひとくちクッキーをかじったけれど、幸希の言う声は濁ってしまった。
「それは……さすがに」
 はっきり嫉妬の気持ちを口に出すなんてみっともない。
 そんな、彼氏を束縛するような女になんて、なりたくなかった。少なくともそれを表にだしたくはなかった。
「でも幸希さんは、少なくともはっきり言わなかった。それは自制心がいることだったかもしれないのに。嫌な思いをしたのは確かだったでしょうに」
 言う志月の声は優しかった。クッキーを食べてしまって、ティッシュでクッキーの粉を拭う。
「……だって、オトナなんだから、そんなつまらないことで」
 幸希はやっぱりもにょもにょと言ったのだが、志月はやはりそれを簡単に否定した。
「それができない大人も、世の中には多いですよ?」
 言われて、それはなんだか少し嬉しかった。
 立派なひとだ、と言ってもらったようなものなので。幸希はちょっと笑った。
「それならできるほうでいたいよ、私は」
「僕もですよ」
 当たり前のように言った志月のほうが、やっぱり自分よりずっと真面目じゃないか、と思うのだけど。
 幸希は違うことを言った。
「……ほら。志月くんもやっぱり優しい」
 やさしさをあげます。
 そう言ってくれた、あのときのことを思いだしたから。
 そして志月も幸希の言葉からそれを思い出したのかもしれない。懐かしそうに、といえる表情で笑う。
 表情からなんとなくそれがわかるくらいになってしまったことを、幸希は嬉しく思う。
「そうですか? そう思ってもらえているなら嬉しいですね」
 声も嬉しそうな色でそう言って。
「これ、開けていいですか」
 次に志月が手に取ったのは、甘栗の袋だった。先日、デートに行った中華街で買ったものだ。甘栗のそこそこ大きな袋詰め。
 これは別にワンコインではない。幸希が「食べたいから」と勝手に買ったものだ。
 今日のお茶うけに、とテーブルに置いておいた。
 クッキーを食べていたのでまだ未開封だったけれど、幸希も食べたいと思っておいていたので、「いいよ」と簡単に答える。
 ぱり、と甘栗の袋を開けて、志月は新しい皿に栗をころころと出した。
 それを見ながら、ふと幸希の思ったこと。
 ちょっとためらったけれど、優しさに甘えてみようか。
 今の『甘え』は、きっと悪いものではないだろうから。
「じゃ、優しいついでに……な、なにか変わったんだけど、わかる?」
 幸希の言葉に、志月は甘栗に手を伸ばしていた手を留めて、きょとんとした。
 幸希の目を見つめる。
「えっ……、えーと……気付かなくてごめんなさい」
 やっぱりまたそこから謝るのだった。
「謝らなくていいから。わかる?」
 それは実にささいなことで、別に志月がわからないとしても不思議はない。
 ただのたわむれだ。
 でも、ちょっとそんなやりとりで遊んでみたかった。
 志月は数秒、悩む様子を見せた。いくつか考えたようだったが。
「……えーと……ちょっと痩せました?」
 言われた『回答』に、幸希の頬はかぁっと熱くなった。
 痩せた、と言われたこと自体は嬉しかったが、以前は太っていたと思われていたのか。
 そう考えてしまったので。
「そ、それは言わなくていいの!」
 実際に体重は落ちていた。それは体型にも着実に反映されていたようだ。
 ウエストを測ったり、などはしていなかったし、毎日鏡で自分の顔を見ていれば、顔つきの変化だってすぐにはわからない。他人のほうがわかるだろう。
 けれど、そこを言われるのは嬉しいような、恥ずかしいような。
「え、そ、そうだったんですか、すみません」
「……まぁ、本当だけど……」
 謝られた。
 けれどダイエットが成功して嬉しかったのは本当だったので、視線をさまよわせてごにょごにょと言うと、志月はやはり嬉しそうな顔をしたようだ。声が、ほっとしている。
「やっぱりそうなんじゃないですか」
「でもそうじゃなくて! あ、……新しいセーター買ったの!」
 嬉しくはあるが恥ずかしいので話題をそらしたいと思ってしまった幸希は、自ら回答を口にした。
 今日のセーター。
 アイボリーでやわらかなニット。
 先週、新しく買ったもの。
 仕事帰りの駅隣接のデパートで偶然見つけたものだったが、一目惚れだった。形はシンプルだが、胸元のビジューがかわいらしかったのだ。値段もそれほどしなかったこともあって、数秒迷っただけで買ってしまったもの。
 ……勿論着るのは、今日が初めて。
「ああ……あの、」
 幸希の『正解』に、志月は『思い当たった』という顔をした。
 そのあと、あの、とちょっと気まずそうに言って、そのとおりの理由を口に出す。
「……去年着ていたという可能性も考えられて」
「それはそうだけど」
 確かに去年の冬は、まだ志月と再会していなかった。
 なので『去年のものを出してきたのかもしれない』と思って、初めて見るものだと思ったようだが、口に出さなかったらしい。
 でも気付いていてくれたのだ。ぽうっと胸の奥があたたかくなったが、次の志月の言葉でそれは熱いものへ変わった。
「かわいいですね」
 う、と幸希は詰まる。その言葉を誘導したも同然だったので。
 けれど、それを望んでいたのも事実。
「あ、ありがとう……」
 素直にお礼を言うと、今度志月はにっこりと笑った。人懐っこい笑み。
「でもそんなふうに言ってくれる、幸希さんのほうがかわいらしいです」
「……また恥ずかしいこと」
 しれっとそう言うのはやめてほしい。嬉しいけれど、心臓がいくつあってもたりないではないか。
 どくどくと鼓動を速くしてしまったというのに、志月はどうでもいいことを言ってきた。
「本心です。はい、口開けてください」
 差し出されたのは、綺麗に剥けた甘栗。いつの間にか剥いていたらしい。
「誤魔化さないで」
「誤魔化してません。ちょうど剥けましたから」
「……剥くのなんて数秒のくせに」
 幸希はそのとおり指摘したのだが、口の前まで甘栗を差し出されてしまった。
「いいですから、はい、あーん」
 観念する。
 子供にするみたいにしなくても、と思ったのだが。
「おいしいですか?」
「うん」
 聞かれたので、もぐもぐと噛みながら頷く。
 甘栗は中華街では一年中売っているが、やはり栗だけあって、秋や冬が一番おいしく感じる、と思う。
「今度はラーメンでも作りに行きましょうよ」
 志月が今度は自分で食べるのだろう、新しい甘栗を剥きながら、何気なく言った。
 ラーメン?
 確かに志月はラーメンが好きだと言っていたし、実際に二度ほど一緒に食べに行ったことはあるけれど、作る、とはいったい。
「作るの?」
「はい。カップヌードルミュージアムっていうところがあってですね、そこでカップラーメン作りの体験を……」
 さらさらと答える志月。次のデートの予定が立っていく。
 夏から秋になって、そして今は秋から冬へと変わろうとしていく。再会したときは夏だったのに、志月と過ごす季節ももうみっつめだ。
 一周するときにはなにがあるのだろう。
 それまで何回も会って、いろんなときを二人で過ごして。
 もっと仲を深められていったらいいな、と思う。
「もうひとつ、食べますか?」
 聞かれたので幸希は「食べる」と言ったのだけど。
 志月は自分のくちもとに甘栗を持っていった。くちびるで軽くくわえる。
 それを見ただけで意味がわかり、幸希の胸が高鳴った。

 もう、馬鹿。

 思ったのだけど、それは口に出さずに、幸希はそっと顔を近づけた。
 幸希のくちびるに届いたのは甘栗だけでなく、その先にある志月のくちびるも、だった。
 ぴゅう、と体に吹き付ける風に幸希は思わず身を縮めた。海辺にきているのだ、海を渡ってきた潮風が体に直接吹き付ける。
「寒いのに、すみません」
 隣を歩く志月が謝ってきた。幸希が寒そうにしたのがわかったのだろう。
「大丈夫」
 少しは強がりであったものの、冬であれば当たり前のことかなとも思う。
 12月にもなって、真冬といえる季節。この寒いのにデートとしてわざわざ外へ出なくても、と思うのであるが。
 とはいえ、ずっと外にいるというわけではなく、先程までは暖房のきちんと効いた室内にいた。
 水族館へ行ったのだ。海辺に建っている水族館。
 いるかショーが有名な水族館で、ショーの運営に力を入れているために、海から直接水を引いているかの飼育をしているらしい。それで海辺なのだと。
 志月に「水族館へ行きませんか」と誘われたとき、遠いしなぁ、寒いしなぁ、おまけにこの寒いのに水を見るのもなぁ、と思わなくもなかった。
 都内であれば街中にある水族館だってあるのだ。百歩譲って水を見たいとしても、そういうところへいけば、遠出をしなくても寒い思いをしなくても水族館を堪能できる。
 けれど実際にきてしまえば、そんなおっくうだった気持ちは吹っ飛んだ。
 青く透ける水がとても美しい。水槽が壁のように隙間なく続いていて、もちろんその中は水で満たされていた。
 抜けるような、ブルー。そしてそこに生えている海藻、置かれている石。すべてが海を模して作ってある。
 作りものの海ではあるが、そこには確かに魚たちや、ほかにも貝だの哺乳類だの、海の生き物たちが暮らしている場所なのだ。美しくて当然だろう。
 どこまでも続くような青の中。ルートを歩く中で、頭上にも水槽が梁めぐされているエリアがあり、それを見たとき幸希は思わず、わぁ、とはしゃいだ声をあげてしまった。
 こんな大掛かりなつくりは街中の小規模な水族館ではできないだろう、と思う。
 歩く廊下の上を見上げれば、頭上を魚が泳いでいく。澄んだ水の中を。
 それはとても気持ちよさそうだった。
 お魚はいいな。自由に泳げて。
 スイミングなどはからきしの幸希はちょっと、そう思ってしまった。
 それに、海の動物、いるかやペンギン、シロクマなどもいたのだが、彼らはなんだか寒い中がむしろ心地いい、という様子に見えた。
 それはそうかもしれない、彼らは北極や南極、極寒の地に暮らしているはずの生き物だから。
 温度管理がされている水族館では、もちろん一年中適温なのであろうが、冬という季節。こんな様子を見て『心地よさそう』と思うのは、自分たちも寒さを感じて共感しているからかもしれない。
 そう思って、真冬の水族館も悪くなかったな、と思った幸希だった。
 見ていくうちにそういう気持ちになっていたので、午後に見たいるかショーはとても楽しかった。
 飼育員の指示通りに水の上を走ったり、ぴょんと跳ねたりするいるかたち。
 なんと器用なことだろう。
 自分がいるかでも、ああいう芸はできないだろう。
 そんなことを言ったら志月に笑われたけれど。
「志月くんはスポーツできるからわからないかもしれないけど」
 膨れた幸希の言葉には、「スポーツと芸は違いますよ」とまた笑われた。
 そんな水族館やイベントも堪能して。お茶を飲んで「ちょっと外を歩きませんか」と志月が言った。
 熱い紅茶を飲んで体があたたまったところだったので軽く「いいよ」と答えたのだが、外に出て歩きはじめてから、幸希はちょっと後悔した。
 寒いのは苦手なのだ。厚手のコートを着てきて、マフラーをしてきたのにそれでも寒い。
 12月という以外にも、今日はちょっと冷え込む日であると言えたかもしれない。
「寒いのに、すみません」
 幸希の気持ちを察したように、志月はもう一度謝った。
幸希が寒さが苦手だということは、一応話してあったのだ。再会して、付き合って冬を過ごすのは初めてなので、実感としてはまだあまり感じていないだろ うけど。
「でももうちょっと先まで行っていいですか。あそこから見える夕焼けがとても綺麗なんですよ」
 志月が指さしたのは、ちょっとした展望台のようになっているところだった。水族館からまだ十五分も歩いてきていなかったし、それにここからであればそう遠くもなさそうだったので、幸希は「いいよ」と言っておく。
 本当にすまない、と思ってくれているのは伝わってきたけれど、同じくらい幸希に見せたいと思ってくれるのだろう。その、『綺麗なものを見せたい』と思ってくれる気持ちが嬉しかったから、寒さよりも幸せが勝つ。
 それに志月の言葉通り、そろそろ日も暮れる。今日は晴れていたから、夕焼けはとてもうつくしいだろう。
 寒いから、見たら帰ってもう一度お茶でも飲みたいけれど。
 ああ、でもこのあとはディナーの約束をしていたのだ。このあとどうするかは話さなかったが、夕焼けを見終えたということは、もう夜の時間になっているだろうから、すぐにゴハンかな。と幸希は想像した。
 今夜はちょっと美味しい、そしてちょっと高級なフレンチ料理を食べに行く。
 それは単に、デートであるという以上の理由ももうひとつあった。
 先日、志月は勤めている虎視不動産、日暮里店、店舗の主任に任命された。
 同業とはいえほかの会社の事情までは勿論知らない幸希にとっては唐突な報告だったので驚いたが、辞令があったその日、志月は仕事あがりにすぐライン通話をかけてきて、「やりました!」と報告してくれたのだ。
「主任になります!この12月からすぐに!」
「おめでとう!」
 主任候補として日暮里店に転属されたのは初めて会った頃に聞いたけれど、実現させるかどうかはまた別問題である。それは志月の手腕であり、実力であり、そして努力の成果である。
「主任になってしまえばこっちのものですね。店長の話だってすぐ出ますよ」
 志月は常よりずっと饒舌になって、おまけに話の大きいことを言った。けれどそれは同業として、幸希にも『あり得ることだ』とわかる話であった。
 この業界は上へ進むのが、とにかく早い。
 新入社員。
 ヒラの営業。
 営業のリーダー。
 店舗主任。
 そして店長。
 そのあとはたいがい本部へ行って、統括的な職に就くのが一般的なルート。順調に成果をあげられれば、上へ進むのはそう難しくはない。
 とはいえ、『順調に成果を上げる』のが難しいのだが。
 コンスタントに契約を取って、稼いで、売り上げに貢献して。そのようなことがとても大切。
 逆にその点でつまづいたりして一旦停滞してしまうと、のぼるのが難しくなってしまう。
 そこを見事にくぐり抜けて、ジャンプできた志月を眩しく、そして恋人としては誇らしくも思ったのだった。
 ディナーのことを考えたきっかけから、その報告のことを幸希は思い出した。
 あの報告がきた日の夜は、自分のことのように嬉しかったな。恋人が出世できたのだから当たり前だけど。
 思い出しているうちにも、ぽつぽつ会話をしながら志月の示したほうへ二人で歩いていく。このあとのディナーでは志月のことを大いに祝ってあげなければ、などと考えつつ。
「手、あったかくなりましたか」
 途中、手を繋いでくれた志月が訊いてきた。幸希はそのまま、「あったかいよ」と答える。
 今日は外を歩くとは思わなかったので、幸希は手袋を持ってこなかった。外に出たときちょっと後悔したのだけど。
 今日は家まで志月が車で迎えにきてくれたし、車で出掛けるということは帰りも車だろうなと思って、少し遅くなってもあまり遅い時間に外を歩くことはないだろうと楽観していた。手袋を持ってこなかったのは、そういう事情でだ。
 そのことを直接話しはしなかったが、志月は幸希がそういう考えで手袋を持ってこなかったのを察したのだろう。
 「すみません」と「ちょっとでもあったまればいいんですけど」と手を繋いでくれた。普段するように。
 でも、なんだかいつも……そう、夏にしていた頃よりも……ずっとあたたかく感じた。
 嬉しいと思う心の問題だけではない。
 実際の温度として、志月の手はずいぶんあたたかかったのだ。それに包まれていれば、冷えた手もあったまってしまう。幸希に比べてずいぶん大きな手であることも手伝って。
 志月は手がもともとあたたかいからか、手袋も普段あまりしていない。
 秋の深まる頃、つまり寒くなりはじめた頃に、手袋やマフラーなどといった防寒具のことが雑談に出たとき言っていた。
 あまり必要を感じないのだという。
 一応持ってはいると言っていたが、車移動が多いこともあって、あまり使うことはないのだと。出勤時もしかり。
 そのとき「プレゼントを贈るのなら、手袋はナシってことか」と思ったので、幸希はちゃんと覚えていたのである。やっぱりプレゼントを贈るのなら、実用性があるもののほうが良いと思うので。
 そんな、手袋がなくともあたたかい大きな手。夏から何度も繋いできたけれど、握られると安心する手だ。
「手の冷たい人は、心があったかいって言いますね」
 志月が言ってきたので、幸希はちょっと懐かしくなった。
 学生時代に言い合った、ただのこじつけだ。
「小学生みたいなこと」
「そうですか? 僕はいい比較だと思いますけどねぇ」
「そうだけど」
 そんな子供のこじつけをそう取れるのがすごい、と思う。
 志月の思考はいったいどうなっているのだろう、と思うことがある。こんなにひとのことを気づかって、優しい受け取り方をして。
 幸希は今までこんなひとと付き合ったことはなかったし、その接し方にたくさん幸せをもらった。
 今だって、右手がとてもあたたかい。幸希の冷たい手をあたためてくれながら、その一方で幸希の冷えた手も肯定してくれるのだ。
「ああ、ちょうどいいですね。沈みはじめたところです」
 五分ほどでたどり着いた展望台はちょっと小高くなっていて、海が良く見えた。
 寒い中を歩くのはおっくう、と思っていたのに、景色を見れば幸希の思考はやっぱりまるで変わってしまった。
 空は青からオレンジへ変わっていくところで、まだ暮れはじめ。青とオレンジのグラデーションが一番綺麗なタイミングだろう。
 ここから陽はだんだん沈んでいくだろうし、暮れていく様子はもっと綺麗だろう。
 それにすべて見ないうちに、陽の落ち切る前にここを出れば真っ暗になる前に、ここまできた志月の車が停めてある駐車場へ帰れるだろう。用意周到過ぎる、と思う。
 水族館のこともそうだ。
 どちらかというと積極的ではない幸希の手を引いて歩くように、志月はどんどん引っ張っていってくれる。
 前へ。前へと。幸希がちょっと面倒だなぁ、と思ってしまうところへも。そしてその先には必ず良いことが待っているのだ。
 幸希はこの手をすっかり信頼できるようになっていたし、この手を取れるようになったことをとても嬉しく思う。
「綺麗だね」
 幸希は言ったけれど、そのあと付け加えた。
「寒いけど、空気が綺麗だから良かったかも。空や海は、冬のほうが綺麗に見える、っていうし」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
 幸希の言葉が肯定的だったからか、志月は、ほっとしたように言った。ここまで幸希が寒そうにしていたので、寒い思いをさせてしまったことを、悪いと思っていたのは明らかだったから。
 ……優しいひと。
 そしてその優しいひとは、不意に幸希に向き直った。
「幸希さん」
 声をかけられて、幸希は志月のほうを向く。なんだか妙に真剣な顔をしていて、幸希はどきりとした。
 これはなんだか、告白のよう、いや、もう付き合っているのだからその先。
 プロポーズかなにか。
 なんて思って、幸希は身構えてしまった。
 やぶさかではなかったけれど。
 でも今日、なんてまるで考えていなかったのだ。
 内心ごくりと唾を飲む思いでいた幸希だったが、志月はポケットからなにかを取り出した。
 まさか指輪。
 なんて予想してしまった幸希だったが、出てきたのは綺麗な小さな箱、などではなかった。
 それどころか志月の手に入って見えないほど小さいもののようだ。まさか直接指輪を握りしめているわけでもないだろうに、なんだろう。
 不思議そうな目をして見たであろう幸希の前に手を差し出して、志月は手を開いた。
 しかし手に入っていたものを見て、幸希はもっとわからなくなってしまう。
 そこにあったのは、金色のコインだった。
 日本円ではない。
 外国のお金、なのだろうか?
 少なくとも幸希は見たことがないものだ。ドルやユーロではない。
「これ、『ビットコイン』っていうんです」
「うん?」
 名前を言ってくれたけれど、幸希はそれを聞いたことがなかった。不思議そうな声の相づちになる。
「まだあまり流通していないですからね。仮想通貨、ってやつです。これからこういうものが主流になるとは言われているんですけど、まぁそれは本題ではないのでいいです」
 さらっと説明されたけれど、志月がなにを言いたいかはまるで見えてこない。仮想通貨などを見せて、どうしようというのか。
「この『ビットコイン』。これ自体に価値はありません。服一着ネットショッピングするくらいの感覚で買えます」
 まるでわからないので、幸希はそれを聞くしかなかったのだが。
「でもこれは『仮想通貨』。ここにお金が入っています」
 価値はない、と言われたが、それは想像するに、SUICAなどのICカードなどと同じ仕組みなのだろう。
 カード自体は500円くらいで作れる、プラスチックと少しの金属でできた板でしかない。
 でもそこにお金をチャージすれば、電車に乗ることもできる。コンビニで買い物もできる。
 そしてそんなICカードに現金をチャージするように、このコインにお金が入っている、と。
 いったいいくらくらい入っているというのか。
 何気なく思った幸希だったが。
 次の志月の言葉ですべてを理解した。
「今、目にはできませんが。入っているのは、僕のお給料三ヵ月分くらいでしょうか」
 仮想通貨うんぬんより、それはずっとわかりやすかった。
 『お給料三ヵ月ぶん』。
 それが示す、定石のものがある。
 そしてこのシチュエーションと志月の声、言葉。そこですでにわかってしまった幸希は、なにも言えなかった。
「僕はこのコインに入っているだけの誠意をあなたに渡したいです」
 そんな幸希の目をまっすぐに見つめて、志月は言う。
「もらってくれますか」
 答えなんて決まっていたのに。
 幸希はつい、笑ってしまう。指輪を差し出されるより、なんと自分たちらしいことか。



『わかった。でも、奢りは五百円までにしてね?』

『……え?なんで五百円?』

『ワンコイン、ってこと』



 半年前。初めてコインのやり取りをしたことを思いだした。
 そして志月もそれを覚えていて、それから交わした数々のコインを思って、こういう形で渡してくれようと思ったのだろう。
 ささいなことを大切にしてくれる、優しいひと。
 このひとの手を取らずしてどうしようというのか。
「私で良ければ」
 幸希の顔が、ふっとほころぶ。
 冷たい風の吹く中なのに、とてもあたたかかった。
 実際に体が熱くなっていたのだと思う。
 よろこびに、幸せに。
 志月の手につままれたコインが、幸希の手に乗せられる。
 『お給料三ヵ月分』が入っているというのに、コインは嘘のように軽かった。
 それでもしっかりと手の上に乗って、存在していることを感じられる。
 小さなコインは暮れていく夕日を反射して、金色がきらりと光った。





 コイン一枚からはじまった関係。
 コイン一枚が、すべてを変えていく。
 てのひらで輝く一枚。とても軽い。
 けれど二人を繋ぐ、あかしになってくれることは確かなことだった。


 (完)