オフィスに戻っても、仕事を再開しても、幸希の気持ちは晴れなかった。
 一瞬でも『二股』なんて思ってしまったこと。
 そして志月がほかの女性と仲良くしていることを嫌だと思ってしまって、自分の心の狭さを思い知らされたこと。
 そんなことを心に抱えていては楽しい気持ちになれるはずもないではないか。
 もやもやとした気持ちのまま家に帰って、適当に食事を作って。
 テレビを見ながらちまちまと紅茶をすすっていたところへ、スマホが鳴った。
 電話だ。ライン通話。

『戸渡 志月』

 名前を見てぎくりとした。
 別に電話をかけてきたってなにもおかしくない。
 おかしくないけれど。
 今、あまり話したい気持ちではなかった。なんだか余計なことを言ってしまいそうだったから。
 でも無視もしたくない。話したい気持ちも確かにある。
 ちゃんと確かめたい。志月は昼間見た女性のものではなく、自分の恋人なのだと。
 どうしようか、迷って、迷って。
 十秒以上が経って、待機時間も切れそうになって幸希は観念した。スマホをタッチして、電話を取る。
「はい」
『ああ、幸希さん。すみません、取り込みでした?」
「ん……うん、ちょっとね」
 なかなか幸希が出なかったからだろう。ほっとしたような志月の声。
 それを聞いても幸希の心は晴れなかった。
 おまけに『取り込み中だったか』なんて気を使ってもらったのに、返事を濁してしまう。
 でも志月は特に奇妙にも思わなかったらしい。
『今度のデートなんですけど、二週間くらい空いちゃってもいいですか? ちょっと予定が立て込んでて』
 現状予定は立っていなかったので、なにも問題はなかった。
 普段ならば「うん、いいよ」と答えていたはずのそのこと。
 今はそんな言葉、出てこなかった。だってあのような様子を見てしまったから。
 『予定』とは。
 『誰と会うのか』。
 そんなことが気になってしまって、だめだ、だめだと思ったのにぽろっと口から出てしまった。
「……誰と会うの?」
『……? 後輩ですけど』
 志月は不思議そうな声を出した。幸希がそんなことを聞くとは思わなかったのだろう。
 そうだ、こんな束縛するような言葉。今まで言ったことはない。
「水木くん?」
 志月の後輩として知っている水木の名前を挙げたけれど、志月はそれを否定した。
『いえ、違いますけど』
 しかし『違う』としか言ってもらえない。
 具体的な関係や名前を挙げて貰えないことに、妙に気分が揺れた。
 不安感や疑い、おまけにいらだちの方向へ。
 ああ、こんなことつまらない女しかしないことなのに。
『……なにかありました?』
 それには志月も流石に不審を抱いたらしい。ちょっと黙ったあとに訊かれた。
 気付かれてしまったことでさらに自分が嫌でたまらなくなって、幸希は濁すようなことを言う。
「……なにかあったっていうか、……ごめん。ちょっと」
『……僕がなにかしましたか』
 また、沈黙。
 そのあと志月が言った。
 幸希の胸がずきりと痛む。
 志月はこういうひとだ。すぐに自分になにか非があるのではないかと心配してくれる。
 けっして幸希が悪い、なんて責めたりしないのだ。
 いくらおかしな様子を見せても。
 不安がっても。
 そんな弱さを見せたとしても。
 だから今回も幸希が見てしまった、志月にはなんの非もないことに勝手に苛立っている、なんて疑いもしないのだろう。
 年下だというのに志月のほうがずっと大人、というか人間ができているではないか。
 思わずくちびるを噛んでいた。くちびるの薄皮がはがれる。
 ちり、と小さな痛みが生まれた。けれど胸に詰まったたくさんのみにくい感情に比べればそんなこと、ささいすぎる。
「なにもしてないよ」
『でも幸希さんらしくありません』
 言われて、今度こそはっきり苛立ってしまった。