「すみません、遅くなりました」
 自分で言ったよりずっと早く来てくれたというのに、志月はそんなことを言った。
 マンションのオートロックを解除して、そして上まで上がってきてもらって、玄関の鍵も開けて。
 顔を合わせたなりそんなことを言うものだから。
「なに言ってるの、早すぎるよ。仕事……」
 言いかけたが、きっぱり言い切られる。
「言ったでしょう。仕事より幸希さんが大事です」
 言ってほしかった言葉。直接もらえたことに、涙が込み上げた。
 そんな幸希の肩に触れて、「寒いですから」と志月は部屋の中へと導いてくれる。
 幸希のマンションは独り暮らしらしく小さなもので、居室のほかには小さなキッチンとバスルーム、トイレしかない。
 なので居室にそのままベッドを置いている。無理をして小さなソファも置いているのだが。
「寝ててください」
 キッチンでやかんをコンロにかけようとしたのだがストップをかけられる。言われて幸希は「でも、お茶……」と言いかけたのだけど、やはり言い切られた。
「そんなお気遣いはいいですから。体を大切にしてください」
 ぐいぐいと居室へ追いやられてしまう。
 確かにそのとおりなのだけど。
 ベッドに幸希を座らせて、志月はその前の床に腰を下ろした。
「喉、渇いてませんか。ポカリ買ってきました」
 持ってきているビニール袋には、ほかにも色々入っているようだ。
「ワンコインですよ」
 ポカリを掲げて、ちょっと困ったように笑った。幸希を元気づけるために言ってくれたのは明らかだったので、幸希も笑う。
「嘘。120円はするでしょ」
「嘘じゃないです。ドラッグストアで買いましたから」
「そっか」
 水分補給はしっかりしないとですよ、と言われたので、幸希はありがたくそれを飲む。ポカリは幸希の家に来る直前買ってきてくれたのだろう、冷たくてとてもおいしかった。
 ずいぶん喉が渇いていたことを、幸希はそれでやっと自覚した。つい、ごくごくとたくさん飲んでしまう。
「もう一本ありますよ」
 そんな幸希を見つめる目は優しくて、幸希はポカリを勢いよく飲んでしまったことをちょっと恥ずかしく思った。
「もう大丈夫」
「そうですか。じゃ、冷蔵庫をお借りして入れておきましょう」
 幸希が言ったので志月はポカリを持つ手を引いて、またビニール袋に手を入れた。
「あとはおかゆとか……ゼリーとか……」
 次々に支援物資が出てくる。
 おまけに「幸希さん、桃のゼリーが好きですよね」などと好物を差し出されてたまらなくなった。視界が歪んで、ぽろぽろと涙が零れる。
「ありがとう」
 幸希を見て志月は驚いたようだったが、すぐにふっと笑って、腕を伸ばしてくれる。幸希を抱きしめてくれた。
「泣かないでください、恋人として当たり前のことですよ」
 今ばかりはそのやさしさに甘えたい。幸希はしっかりと志月にしがみついた。
 そこで、ふっと志月が言う。
「幸希さんは、ちょっと無理をして一人で抱え込みがちなところがありますね」
 幸希はどきりとした。
 それは以前、亜紗に言われたことだ。
「風邪だって今日引いたんじゃないでしょう。ここしばらくこの業界忙しかったですし」
 なにも言い返せなかった。
 職種は違えど、同じ業界で働いている以上、どのくらい仕事が忙しいかは把握されている。無意識のうちに無理を押していたと気付かれてなんだか居心地が悪い。まさにそのとおり。
「もっと頼ってください。僕は年下ですけど、ちゃんと大人ではあるつもりです」
 連絡をためらったこと。
 良かったのか悪かったのかはわからない。
 志月の抱える忙しさを気遣ったこと。
 逆に甘えてほしいという、志月の気持ち。
 どちらを大きく取るべきだったのかは。
 けれどそう思って、しかも口に出してもらえるということは、もう少し、もう少しだけ彼に身を預けても良いのだと思う。
「……ありがとう」
 そのひとことだけで、幸希にきちんと伝わったことはわかってもらえたのだろう。すぐに志月の声はやわらかくなった。
「早く治して、デートに行きましょう。昼間送ったライン、見ました?」
「うん」
「幸希さんの好みそうでしたよ。そう遠くもないですし、今度の休みに幸希さんが良くなっていたら……」
 抱きしめながら、そんななんでもない話をしてくれる。
 でもそれは、なんでもなくなどない。
 とても貴重で、かけがえのないものだ。
「ありがとう」
 ぽろっとまた涙が零れたけれど、今度のそれはあたたかく頬を濡らしていった。