「なんで、って。鳴瀬先輩が好きだからですよ」
 心底不思議そうな声だった。
「よくわからない……」
「なにがです。ほかになにがあると?」
 もう海を見ている場合ではなかった。ただひたすら崩れたラテアートを見るしかない。
 まるで今の自分のようだった。心揺らして情けない姿をさらしているような。
「もしかして、……昔なにかあったとかですか?」
 言いかけて、言い淀んで、でも結局言われた。
 濁して言われたけれど、言いたかったことはわかる。昔の交際相手、もしくは付き合っていなくても男性になにか乱暴にされただとか。そういうたぐいのことだろう。
「それはないよ、別に悪いことなんて。……そりゃ、振られたけどそのくらいで」
 そこに関してはちゃんと言っておかなければなので、幸希は早口で言った。最後はぼそぼそとしてしまったけれど。
 振られたのは『なにかあった』に入るのかと思ってしまったゆえに。
 でも誰かを振るのは別に悪いことではないはずだ。傷つける行為ではあるけれど仕方のないこと。
「……でも、付き合った人はいたけど、こんなにいろいろしてもらったことはないよ。だからよくわからない……」
 なんとか言ったけれど、今度は不思議そうに言われた。
「なにも不思議なことはないと思いますが。好きなひとにはなんでもしてあげたいし、優しくしたいでしょう?」
 その言葉はあまりに純粋だった。
 でもそのとおりだ。シンプルなことだ。
 幸希だって、今まで好きになったひとにはそうしてきた。
 なんでもしてあげたいと。
 優しくしたいと。
 でも自分が受ける身になってしまったら、そうあるのが当然だとは思えなくなってしまった。
 続ける言葉はやっぱり「わからない」しかなくて、でも流石にもう繰り返せない。
 しばらく沈黙が落ちた。店内BGMのクラシックだけがその場を流れる。
 やがて戸渡がぽつりと言った。
「鳴瀬先輩は、優しくされることに慣れていないんですね」
 それは真理だった。
 そうだ、付き合った人はいてもきっと本心からの優しさをもらったことはなかった。
 惰性や打算。そのようなものをきっと無意識に感じていたのだろう。
 それで思った。
 振られても、ああ、当然だったのだ、と。
 幸希の表情が変わったのを見たのだろう。戸渡は手を伸ばしてきた。
 そっと幸希の手からティーカップを取り上げる。テーブルに戻してしまった。
 その空いた手を取られる。今度は両手で包み込むように。
「それなら僕が教えましょう。優しくされることを、……そうですね、大切にされることを」
 目を閉じた彼に言われる。
 包まれた手はあたたかった。熱々のラテが入っていたティーカップよりも。
 それは、ひとの持つぬくもり。
 ゆらりと幸希の視界が揺らいだ。今度は伝わってきたあたたかさが涙を零させる。
「私でいいの」
「先輩がいいんです。僕が優しくしたいんです」
 幸希は言うのをとてもためらったのに、あっさりと言い切られた。
 違う意味で言葉が出てこない。代わりに頷いた。
 ぽた、と涙が落ちるけれどそれはまるで意味が違っていただろう。
 戸渡が嬉しそうに笑った気配がする。そっと、幸希の手を握る両手に力がこもった。
「ねぇ、顔をあげて、見てみてください。ここからの景色は綺麗でしょう。今夜はずっと見ていませんか」
 ここ24時間営業なんですよ。こんなかわいいお店なのに。
 言って微笑んできた笑みがあまりにあたたかくて、そう、優しくて。
 心に染み入って、でもそれはもう痛くはなくて。
 じんわりとあたたかいラテのように心を満たしていった。