「おめでとう!」
「おめでとう!」
青天の下、降り注ぐのは、色とりどりのフラワーシャワー。
しかし浴びるのは勿論、幸希ではない。
純白のドレスを着て、満面の笑みを浮かべた、今日は世界で一番綺麗な女の子。以前、秋葉原店に勤めていたときの同僚の女の子の結婚式に、今日は参列していた。
参列するのに気は進まなかった。ここ数年、ひとの結婚式……特に同性の友人や仕事づきあいの人々……に参列するのが、どんどん億劫になっている気がする。
理由なんて明らかだった。
その主人公になれるのが自分でないこと。
そして主人公、つまりヒロインになれる望みもないこと。
そんな状況でひとの幸せなど心から祝えるほど、幸希は人間ができていなかった。
おまけにご祝儀までごっそり持っていかれる。
今月、住んでいるマンションの更新で苦しいのに。
なんて事情まで頭に浮かんでしまう。
仲のいい子、例えば先日会った亜紗くらいの親友ともいえるほど仲のいい子なら別だ。明るい気持ちで、心からの喜びで参列できるし、ご祝儀だって喜んであげようと思う。
でも今日の『お呼ばれ』は、それほど仲の良かった子ではないので、そんなことなどが負担に思ってしまったのだ。
ちょっとだけ嬉しかったのは、普段着られないかわいいドレスが着られることくらい。
幸希の今日着たドレスは、控えめなダークトーンではあるものの、ピンク色だった。スカートはふんわりしていて、ウエストにはりぼんがついている。
数年前に買ったものだ。一目ぼれして気に入って買ったものだったけれど。
今日着てきたのは、ちょっと悲しい、現実的な事情。
『こんな明るくてかわいらしいドレス、次に着られる機会があるかわからない』ということ。
あと数年もすれば、『ピンクのドレスなんて、もう子供っぽすぎる』と自分で思ってしまうかもしれないし、性格の悪い人には「あの歳で」なんて陰口さえ叩かれるかもしれない。
年々結婚式の参列が億劫になっているのも、自分がどんどん取り残されてしまっている自覚が生まれてしまうから。
それは実家での出来事が顕著だった。なにかのきっかけで両親などに「結婚式に参列してきた」などと話せば「あなたはまだなの」「早くしなさいよ」と言われることは確実だった。
それも年々負担になっていっている。
私だって、好きで一人なわけじゃないよ。
彼氏ができても続かないのだって、なんでなのかわからない。
反論は勿論、口になどできないのだけど。困ったように笑って「ごめんね」と言うしかないのがまた情けない。
そんな事情で帰り道は、なんだかどんよりとした陰鬱な気持ちになってしまった。
一応誘われはしたのだけど、二次会はパスした。
そう仲の良い子でもないので、断るのは簡単だった。
「ごめんね、明日早いから」
そんな言い訳だけで、「いいよいいよ」と許されてしまう。
ああ、もう。これほど関係の薄い子なのに、お金も休日も、そして気持ち的な面でも、失うもののほうがずっと多かった、なんて愚痴っぽいことまで頭に浮かぶ。
両手に持っている荷物も重い。夏なので上着などを持ってくる必要はなかったけれど、なにかと持っていくものはある。
それにたくさんもらった、お土産類。
あとお裾分けされたお花。こんなのすぐに枯らしてしまうのに。
それに引き出物のカタログ。最近よくある『この中から好きなものを選んで注文して』というやつだ。やたら分厚くて重い点は、普通の引き出物より良くないところ。
もうどうでもいいから適当なものでも寄越せばいいのに、なんてなげやりな思考すら浮かぶ。
おまけに普段履く以上の高さの、しかも慣れないハイヒールの靴は足が痛かった。
もしもシンデレラだったなら、このハイヒールをもとにして王子様が探しに来てくれるのに。
そんなことを思って、幸希は自嘲の笑いを浮かべた。
王子様、なんて十年遅い。
十年前だったらうまくいっていたかというと、そんなこともないと思ってしまうのがまた悲しいところ。
幸せな結婚式に参列してきたはずなのに、幸せな気持ちで帰路につけない自分が情けなくてたまらない。
良い子であれば「あの子は幸せになって良かったなぁ」「私も頑張らないと!」と思うところなのに。私は性格が悪いのかな。
思いながらも駅へ入って、帰路の路線へ向かった。
電車のホームで、はぁ、とためいきをついて電車を待つ。スマホを見たかったが、荷物を両手に持っていたので出すのも面倒だった。
いいや、どうせすぐ帰るんだ。
思って、ぼーっとすること、数分。
やっと『電車がきます』とアナウンスが流れたときだった。
そのスマホが、ぴこんと鳴ったのは。
それはライン通知だった。
あれ、誰だろ。
今日会った誰かかな。
もしくは会社の連絡。
もしくは友達。
もしくはお母さんなどの家族。
考えられる可能性はいくらでもあった。
どれも急ぎの用事ではなさそうだけど、一応見ておこう。
電車に乗って、網棚に「よいしょ」と引き出物なんかの、邪魔なくらいに大きな袋を置いてしまって。パーティー用の小さなバッグから幸希はスマホを掴み出した。
そこでライン通知画面を見て、ちょっと目を丸くしてしまう。
『戸渡 志月』と表示されている。
戸渡だ。
なんの用事があって?
連絡を取るのはちょっと久しぶりだった。
ラインも電話もこなかったし、あれから会社に訪ねてくる機会もなかったのだろう。幸希の勤める店舗にやってくることもなかった。
ぽんと通知画面をタッチすると、会話履歴が表示された。
まずかわいいスタンプが押されているのが目に入る。『お久しぶりです』と、大型犬がお辞儀をしているスタンプ。
このスタンプを初めて見たときは、くすっと笑ってしまった。まさにワンコらしい戸渡らしすぎるスタンプではないか。
おまけにこれは、なにかのオマケでもらえるものでなく、ちゃんと売っているものだ。つまり、選んで買ったのだ。
ということは、自分がワンコに似ているということは多少自覚があるのだろうか、と思ってしまったこともあって。
『こんばんは。お久しぶりです』
ラインはそれではじまっていた。
『今度、巣鴨に内見に行って、直帰なんです。早めに終わるんで、ご飯でもいかがですか?』
続く言葉に、幸希はちょっと驚いた。誘われるとは思わなかった。
確かに巣鴨エリアと、幸希の勤める駒込エリアはかなり近い。だから食事くらい誘われるのはまるで不自然ではないのだけど。
いいとしの男女が食事を共にするのだ。
まさか、戸渡からもなにかしら意識するものがあるのだろうか?
ちょっと胸が高鳴った。
『いいよ。何日?』
高速で返信を打ち込みながら、幸希は思ってしまった。
彼氏候補。
先日、亜紗から言われたことが頭をよぎってしまったのだ。
結婚式に付随してきたあれそれで、弱気になっていたところだったからかもしれない。そんな打算的なことを考えてしまったのは。
そしてまたそんな自分に嫌気がさしてしまう。
ひとのこと、そんな入口から好きになりたくない。
ましてや、戸渡は大切な後輩だ。まるでモノのように考えたくなどなかった。
心から「このひとと一緒に居たい」と思えば別だけれど。
そういう気持ちになれたなら、いいひとだとは思う。
けれど、今はまだ。
でも戸渡から返ってきたのは嬉しそうな返信だった。そっけないライン画面でもわかるくらいに。
『やったー』と大型犬がやっぱり万歳していた。
まるで高校生同士のラインではないか。幸希はおかしくなってしまった。
『明後日なんですけど。18時前には駒込に行けます』
『おっけー。火曜日だね。定時の予定だから大丈夫だと思うよ』
『ありがとうございます! なに食べましょうか?』
それでも、そんなやりとりは楽しかった。
結婚式で感じてしまった、似つかわしくないマイナスの感情。
それも薄らいでしまうほどに。
戸渡と打ち合わせをして決めた、今回の食事はイタリアンだった。
チェーン店ではなく、ちょっと良いお店を提案されたので驚いた。初めて一緒にご飯を食べたときは気軽なアメリカンなピザ屋だったために。
まるで、これはデート。
思ってしまって幸希は自分を諫める。
そういうものではない。
単に、自分は先輩で、そしてあちらから近くに来る用事があって。
それだけ。
それでもその日はいつもよりも少しかしこまった格好をしてしまった。
普段から職場には制服がなく、オフィスカジュアルで良いことになっているのだが、ちょっとだけ休日にも着ているようなかわいいものを取り入れた。デートなどでなくても、ただの後輩でも、男性と一緒に食事に行くのだから、という理由付けで。
「お疲れ様です」
予定通り定時退社ができて、幸希が外に出るとそこに戸渡が待っていた。
「どこかに入っていて待っててくれてよかったのに」
一応駅前なのだから、近くにカフェなどもたくさんあるのだ。暑い折、こんな道路のそばで待っているのは暑かったろう。
「いえ、そこまで時間なかったですから。五分くらいしか居ませんでしたよ」
確かに18時に定時だから、その10分後くらいには出られる、とは言ったけど。本当に五分だけだったのだろうか、と思いつつも確かめるすべはない。
「ごめんね、きてもらっちゃって」
二人で歩きだしながら言うと、戸渡はさらりと否定する。
「そんなことないですよ。むしろお付き合いありがとうございます」
「ううん、……」
ちょっと言うか迷った。
けれど、口に出してみる。
「誘ってもらえて嬉しかったよ」
「本当ですか!」
戸渡は、ぱっと顔を輝かせた。
ああ、また褒められたワンコのような顔をする。
無邪気で人懐っこい顔だ。
「僕も先輩とご飯食べたかったんですよ。今日行くところですね、パスタの種類がとても豊富で、麺の種類、あ、太さとかですね、そういうのから選べて……」
今から行く店について色々と話しはじめる。
戸渡は話も上手い。そもそも新木課長から助けてくれたあたりから、コミュ力も話術もあるようだ。
彼女はいないと言っていたけれど、どうしてだろう。
背の高い横顔をちらりと見上げながら思った。
これほど性格も良くて、顔もなかなか。彼女の一人や二人すぐできるだろうし、早ければ結婚などしていてもおかしくないのに。むしろそのほうが謎だと思う。
「ここです」
細い道を入った先。
洗練された印象の、ちょっとかわいらしくもある外観の店だった。
「素敵だね」
「そうでしょう」
幸希が褒めるとまた嬉しそうな顔をする。
中も外観と同じだった。
白い木のテーブルと椅子。まさに女の子が好みそうな店だった。
こういうところ、男の人は普通は彼女とくるんじゃ。
思ったけれど、戸渡に「飲み物はなににします?」と訊かれて考えるのをやめておいた。
「飲みますか?」
お酒にしますかと訊かれたのはわかったけれど、明日も仕事だ。
「今日はノンアルにするよ」
それは普通の返事だったと思うのだが、戸渡も「じゃあ僕もそうしましょう」と言った。
「いいんだよ? 飲んでくれて」
飲みに行ったことも一度あるのだし、そのときも複数杯飲んでいた。それなりに酒は好きなのだろうと思ったのだが。
「実は車なんですよ。駅チカのパーキングに停めてて」
言われたことに納得する。それでは酒は飲めない。
ここのお店は少し街中で入り組んだところにあって、停めづらいので駅前に停めたのだろう。
「そうだったんだ。あ、営業車?」
「いえ、今日は自分の車で」
あれ? 内見で直帰って言わなかったかな。
なのに自分の車で?
内見ということは、普通は会社の車を使うものだと思う。ちょっと不思議に思った。
「なににしますか?」
流されてしまった。
意図的なのかそうでないのかはわからないが言われて、引っかかったことは置いておくことになってしまう。
それでも店にきているのだからとりあえず注文しないと。
思った幸希は「飲み物はジンジャーエールで……パスタはどれにしようかな」とメニューを見た。
「コースにしますか? そうするとパスタが二種類選べますよ」
やりとりをする。
戸渡は自分のメニューを幸希に見せて、色々指さしてくれた。
もう夕ご飯の時間。ダイエットをしていてお昼を控えめにしているので、おなかはずいぶん空いていた。
今日だけはダイエットのことは忘れて食べてもいいかな。せっかく人と食べるんだし。
思って幸希は「このコースにしようかな」と決めた。
すると戸渡は「じゃあ僕もこれで」と言う。
「え? 好きなの選んでいいんだよ?」
男の人には少し少ないかもしれない。
思って言ったものの、戸渡はさらりと言った。
「同じものが食べたいです」
その言い方はかわいらしかったけれど、言われた内容にはどくりと心臓がざわめいた。
一体どういう意図なのかさっぱりわからない。
食事に誘ってくれたことから、外で待ってくれていたことも、ノンアルに付き合ってくれたことも、ほかにも色々と。
勿論幸希とて子供ではないのだ。それが示すこともなんとなくわかる。
でもこれほど優しい気遣いを受けたことはない。
わかる、けれど実感としてはわからないし信じられない。
だというのに、どきどきしてしまっている幸希をよそに、戸渡はなんでもない話をしてくるのだ。
「今日見てきた物件、なかなかおもしろいところだったんですよ。半地下になってて、ちょっと隠れ家みたいな」
「内見っていっても身内だったんです。親戚で……来年大学に入る子なんで下見も下見ですけどね」
「なので、まぁ……ちょっと遊び的なやつで」
幸希はそれに相槌を打つしかなかった。普段、積極的に話ができていたことはもう飛んでいた。
しかしそれもご飯がくれば落ち着いた。とても綺麗に盛り付けられていて、おいしかったので。
「このパスタ、もっちりしていてとてもおいしいね」
幸希が言葉少なだったのは気付いていただろう、戸渡はほっとしたような顔をして同じようにパスタをフォークで巻き取った。
「お店で作っているそうですよ。生パスタだそうです」
「そうなんだ。道理で」
前菜、サラダ、スープ、パスタ、そして肉料理。
一番品数の少ないコースだったのでそれだけだったけれど、幸希にはじゅうぶんでおなかいっぱいになった。食後の紅茶を飲みながら、「とってもおいしかった!」と満足の笑みを浮かべてしまうくらいには。
「気に入ってもらえて良かったです。先輩と一緒に食べられて嬉しかったですから」
こうやってまたどきどきさせてくるのだ。
困る、と思う。
嬉しいけれど、どういう反応をしていいのかわからないから。
お会計は割り勘だった。「ワンコイン以上ですからね」なんて茶化したことを言いながら、それでも端数を少し多めに払ってくれた。
「車で来たって言ったよね。どこに停めたの?」
店を出て、さぁ帰ろうと幸希は言った。
そして戸渡も「駅前の、ちょっと裏の道で……そこしか空いてなかったんです」と答えたのだけど。
歩き出そうとしたとき。
不意に右手になにかが触れた。それがあたたかかったものだから幸希は仰天してしまう。
思わず、ばっとそちらを見たのだけど、戸渡はただ微笑んだ。
「行きましょう」
そのまま歩き出したけれど、幸希はパニックに陥っていた。
右手があたたかい。戸渡の大きな手にすっぽり包まれてしまっている。
手を繋いでいる?
いや、繋いでいるとはいえないかもしれない。
幸希からその手は握り返せなかったのだから。ただ握られるままになるしかない。
今までの彼氏はやはり、こんなことをしてくれなかった。
抱きしめることはされたし、することだってされたけど、手を繋ぐということをしてくれたひとはいなかった。
つまり、そのくらいには大切にされていなかったのだろう。
こんなことはある意味、初めてのデートのようなものであった。
どうしよう、どうしたら。
そこで初めて思い至る。
帰るつもりだった。
でも戸渡がそんなつもりでなかったら?
待ち合わせをして、食事をして、そのあとこんなことをされたら。『行くべき場所』だってあるかもしれない。
それを想像した瞬間、頭の中は沸騰してしまう。経験がないわけでもあるまいに。
男として見ていなかったわけでも、彼氏候補として見ていなかったわけでもあるまいに。
そこまで考えが及んでいなかったのだ。
もう戸渡のほうは見られなかった。
俯いて悶々とするしかないのに、戸渡の口調はまるで変らなかった。少なくとも、変わらないように聞こえた。
「今度は中華とかどうですかね」
「恵比寿でおいしいお店を見つけたんです」
「上司に連れてかれたんですけどね、はじめは面倒だと思ってたんですけど……」
などなど。
でもなにを言われているのかわからなかったし、なにを言われているかなどどうでもいいことだったのかもしれない。取られている手がすべてだ。
駅のほうへ向かい、裏の道へ入り、人通りが少なくなってきた。
良かった、本当に駐車場へ行くのだろう。
幸希は少し、ほっとした。
けれど『ほんの少し』だった。
なにか言われるのだろう。それがなんなのかはわからないにしろ、恋愛的ななにか、違っても男女の仲に関連することであることははっきりしていた。
駐車場が見えてきて、幸希の心臓は破裂しそうになる。
結局ここまで手は握り返せなかった。
戸渡はそれをどう取っただろう。拒絶に感じただろうか。振り払いはしなかったけれど、明確な受け入れでもなかったのだから。
駐車場の、前。不意に立ち止まられた。
戸渡がこちらを見ているのがわかる。
そして一瞬あとには、幸希が想像したことが身に降りかかった。
取られていた手を離されて、伸ばされる。
あっと思ったときには胸に抱きこまれていた。心臓が一気に冷える。
喜びではなかった。そうでないとも言い切れないのだが、ただ一番大きいのは、戸惑い。
「鳴瀬先輩」
言われた声はとても近かった。耳元まではいかないが、頭のすぐ上から降ってくる。そのくらい背が高いのだ。
ぎゅう、と幸希を抱く腕に力がこもって。
「先輩が好きです」
言われた言葉はシンプルだった。
だというのに幸希の胸を今度は熱くする。
もう胸の中は熱いのだか冷たいのだかわからなかった。
不安、戸惑い、そしてきっと多少は嬉しい気持ち。ごちゃごちゃに混ざってどうしたらいいのかわからない。
どうすればいいのか。
本当はわかる。
「嬉しい」と言えばいいのだ。
彼に対する感情はまだ、はっきりとした恋心ではないかもしれない。しかしほんのりとそれに近いものはあるくらいは自覚していたし、それに彼と付き合っていけばもっと好きになれるかもしれないではないか。
だから受け入れてしまえばいいのだ。
絶好のチャンスだ。
だというのに、幸希はなにも言えずにいた。
「僕と付き合ってくれませんか」
幸希の返事を促すように、もっとはっきり言われたけれど。
やっぱりなにも言えなかった。喉が凍り付いてしまったようだったのだ。
自分がどうしてこんな反応をしてしまうのかすらもわからずに。
沈黙が落ちていたのはどのくらいだったか。
幸希がなにも言わないために決まっているだろうが、戸渡の声のトーンが落ちる。
Noの答えかもしれない、と思ったのかもしれない。
「嫌、ですか」
そういうわけではない、違う、断りたいわけじゃない。
けれどやはりなにも言えやしない。今までこんなことはなかった。
「嫌じゃ、ない、けど」
やっと言った。
けれどそれはなんの意味もない言葉だった。
そんなことしか言えなかったのは、それは彼があまりに優しいから。
ああ、そうだ。
今までは幸希から好きになったことばかりだったのだ。これほど誰かに好意を向けられたことはない。
きっと今まで付き合った彼氏たちには、その好意を察されて、そしてそこに付け込まれていたのだ。だから向こうはすぐに飽きたのだろうし、用が済めばさっさと幸希の前からいなくなった。
でも今、幸希を抱きしめている戸渡は違う。純粋に彼から好意を抱いて、それを伝えようとしてくれているのだ。
急に恐ろしくなった。自分から誰かを好きになることは知っていても、本当の意味でアタックされたことはなかったのだと思い知ってしまったゆえに。
「後輩としか、見られませんか」
訊かれても「そうじゃないけど」としか言えない。
曖昧過ぎる。
もういっそ、はっきり「ごめん」と言ったほうがましなのかもしれないほどに、煮え切らないことしか言えない。
「……すみません」
どう動いたら良いのかもわからなくなっていることだけは、わかってくれたのだろう。謝られる。
自分が情けなくてたまらなくなった。
先輩なのに。
恋をしたことがないわけでも、付き合ったことがないわけでもないのに。
こんなことは、初めて告白される学生にも劣ると思ってしまう。
「唐突すぎたかもしれません」
謝ったのは、告白をしたことにではなくその点についてだった。幸希が動けなくなった理由をそこだと思われたようだ。
こうしていても仕方がないと思われたのか、そっと身を離される。
戸渡に抱きしめる腕をほどかれて、幸希は思わず顔をあげていた。彼を見上げる。
どうしたらいいかわからない、けれど。
なにも言葉が出てこないけれど。
このままなにもなくなってしまうのは嫌だった。我儘が過ぎるというのに。
くしゃりと顔が歪むのがわかった。
「……そんな顔、しないでください」
戸渡は困ったように笑う。
そしてまた、沈黙。
どうしたらいいかわからないのは、きっと幸希ばかりではない。望みがあると思ったからこそ戸渡からも告白してきたのだろうし、それがこのような妙な空気になるとは想定外だっただろう。
「もう一軒、行きませんか」
不意に沈黙は破られた。
おまけにその言葉は想定外だった。てっきり「送っていきます」のたぐいのことを言われると思っていたゆえに。
もう一軒? どこへ? 飲みに? それとも。
「帰せませんよ。そんな顔をされたら」
戸渡からの言葉はとても優しかった。言葉のままに、表情も。
告白してきたのだ、彼からも緊張しているだろうに、幸希を安心させるように笑みを浮かべてくれる。
優しくされている。
身に余るほどに。
あまりにたくさん与えられたそれは、幸希の心から零れてしまう。
そして外に出てきた。ぽろっと涙が零れる。
幸希がそれを自覚したのは、戸渡のほうからまた困ったように笑われてからだった。
「……やっぱり、帰せません」
「……あ、……ご、ごめ……」
謝る言葉すらすべて言えやしなかった。
「行きましょう」
もう一度手を取られて、引っ張られる。
幸希はやはり、その手を握り返すことはできなかった。そんな自分が嫌でたまらずに、ひとつぶ零れた涙が続いて出てきてしまう。
俯いた幸希に今度はなにも言わずに、車へ連れていかれて、そして助手席に乗せられた。
「駐車代、払ってきます」とだけ言って、戸渡は出ていく。幸希は乗せられた助手席で、ぎゅっとスカートを握りしめて見つめていた。
ぽたりと涙が落ちる。
もうどうでも良くなっていた。
妙なところへ連れこまれようとも。そうすることで彼になにか返せるのならば。
ただ悲しいのは、好意を素直に受け取れない、あまつさえ拒絶されたと思われても仕方のない反応しかできないことだ。
戸渡はすぐに戻ってきて、そして車を発進させた。
幸希はなにも言えずに車が走るままになっていた。
だというのに戸渡は、落ち着いた声で話す。
ただしそれは普通すぎる、なんでもない話だった。
「暑いですか? クーラーつけましたけど、効くまで少しかかるかもしれません。すみません」
「この間、芳香剤を買ったんですよ。営業車にも取り入れたんですけど、香りが強すぎなくていいなと思って……でも気に入らなかったら言ってくださいね」
車がどこへ向かうのかはわからない。
やはりどうでも良かったけれど。自分の思考だけでいっぱいになってしまっていて。
暗い中、二人の乗った車はスムーズに進んでいった。
どのくらい走っただろう。三十分くらいだったかもしれない。
車はどこかへ着いたようだ。駐車スペースらしきところへ入っていく。
ここはどこだろう。
思ったものの、すぐその思考は吹っ飛んだ。
「実は先輩とご飯ですから家まで送らないとと思ってて……それで自分の車で来たんですよ」
最後に言われた言葉。
たまらず幸希は顔を覆っていた。
着いた場所を見て、幸希はぽかんとしてしまう。
そこは危惧したような場所でもなく、次にあり得るかと思っていたどこかのバーなどの酒を飲む場所でもなく。
……なんだかかわいらしい印象の、多分カフェ、だったのだから。
白い壁。暗いので屋根は何色かわからないが、明るい色なのだろう。
なんで、カフェ?
確かに「もう一軒」とは言われたけれど、それでお茶を飲みに行くなんて誰が想像しただろう。
こんな夜も更けた時間に、いい大人の男女がくる「もう一軒」だろうか?
それでも悲しい気持ちは拭えなくて、外観を見られたのは数秒だった。
「いらっしゃいませ」
俯いたまま戸渡の手に引かれるままに店内に入った。穏やかな男性店員の声が迎えてくれる。
店内は冷房が効いていて快適だった。寒いということもない。
「奥の席、空いてますか」
戸渡がそう言うのでちょっと驚いた。
席の希望が言えるような店なのだろうか。
そのとおりであるか、もしくはそのような要求が通るほど通っているかどちらかだろう。
「空いてますよ」と男性店員の声がして、その要望は通ったらしい。「先輩、行きましょう」とまた手を引かれた。
店員やほかの客にどう思われるかちょっとびくびくしてしまう。様子がおかしいであろうことは明白だろうから。
そして入った一番奥の席に、もう一度驚いた。
ワインレッドの布が張られたソファ席。
その前には大きな窓があって、なんと海が見えた。
夜で暗い中なのに海だとわかったのは、夜景の中にそこだけ真っ暗、そして一点だけ灯台らしきひかりがあったからだ。
「綺麗でしょう」
どうぞ、と幸希を促しながら、戸渡はちょっと誇らしげに言った。
あ、これは告白してきたときとは違う声だ、と幸希は思って少し安心する。常の彼が戻ってきたようで。
しかしそこでまた胸が痛くなってしまう。
わからなかった。
自分は戸渡に、こういう『彼』でいてほしいのだろうか。
『彼氏』に、つまり『男』になってほしくないのだろうか。
だからあれほどなにも言えなくなってしまったのか。
それならそれで「ごめんなさい」「後輩でいて」と言わなければいけないのに、それもなにか違う。
ここでならそれがわかるのだろうか?
席を勧められるままに座りながら、幸希はぽうっと目の前の海を眺めた。
「カフェラテは好きですか」
訊かれるので幸希はただ頷いた。
「じゃ、……すみません。カフェラテをふたつ」
メニューは目の前のローテーブルに置かれていたけれど戸渡はそれを手に取らなかったし、そして幸希に見せてくれることもなかった。今、メニューを見て「なにが飲みたいか」と考える気にはなれなかったので、幸希はほっとする。
海を見ながらまた戸渡は何気ない話をはじめた。
「ここ、姉が好きなんですよ」
「少女趣味かもですよね。海が見えるカフェなんて」
「でも姉は車を持ってないから、連れてけなんてたまに言われて」
幸希はそれをただ、うん、うんと聞く。
やがてカフェラテがきた。ホットのようだ。
店が示しているように、ずいぶんかわいらしい。
入っているのはシンプルな白のティーカップだが、ラテにはうさぎが描いてあった。確かに女の子が喜びそうだ。
というか、自分も常ならば、元気なときならば「かわいーい!」なんてテンションが上がって写真の一枚も撮るだろう。
でも今はそんな気持ちにはなれなくて、ただ「かわいい」と思っただけだった。
いや、戸渡に「かわいいね」とは言ったけれど。
「そうでしょう。それにワンコインですよ」
戸渡はふざけた口調で言った。
多分このカフェラテは、ジャスト五百円なのだろう。幸希もつられたように笑ってしまった。
奢りはワンコイン。こんなところまで適用しなくても。
「猫舌ですか? そうでないなら、熱いうちに」
優しく言われて、また涙が出そうになったけれど飲み込む。
「大丈夫、ありがとう」とカップを持ち上げて、ひとくち飲んだ。甘い味が口の中いっぱいに広がった。
最近ずっと暑かったのでコールドドリンクばかり飲んでいて、ホット飲料は久しぶりに飲んだ。
けれど今はこれがふさわしい、と思う。あたたかくて甘いカフェラテは、心をほどかせてくれるような感覚がしたので。
隣で戸渡も自分の前に置かれたカップを持ち上げて、カフェラテをひとくち飲んだ。それにもなにかラテアートが描いてあったと思うのだが、そこまで見る余裕は今の幸希にはない。
「なにか、心配なことでもありますか。付き合うこととかに」
ぽつりと言われて、幸希はどきりとしてしまう。
やっと話が本題に入ったことを思い知って。
どうしよう、どう言おう。
ぐ、と喉が鳴った。ココアのカップを両手で包んだまま、崩れたラテアートを見つめる。
うさぎの絵は歪んでしまっていた。あんなにかわいく描いてあったのに。
「心配、っていうか」
なにか言わないと。
でも言い繕うことはできない気がした。
自分はそこまで器用ではない。
今は余裕もない。
心にあることを言うしかないのだ。
「……どうして、私なの」
末尾は震えた。
そうだ、自分でなくともいいに決まっている。
戸渡は魅力的だ。以前考えたように顔も良ければ仕事も多分できる。
だから彼女もすぐできるし、結婚だって難しくないだろう、と前に思った。
それがどうして自分にこれほど優しい気持ちを向けてくれるのか。
「なんで、って。鳴瀬先輩が好きだからですよ」
心底不思議そうな声だった。
「よくわからない……」
「なにがです。ほかになにがあると?」
もう海を見ている場合ではなかった。ただひたすら崩れたラテアートを見るしかない。
まるで今の自分のようだった。心揺らして情けない姿をさらしているような。
「もしかして、……昔なにかあったとかですか?」
言いかけて、言い淀んで、でも結局言われた。
濁して言われたけれど、言いたかったことはわかる。昔の交際相手、もしくは付き合っていなくても男性になにか乱暴にされただとか。そういうたぐいのことだろう。
「それはないよ、別に悪いことなんて。……そりゃ、振られたけどそのくらいで」
そこに関してはちゃんと言っておかなければなので、幸希は早口で言った。最後はぼそぼそとしてしまったけれど。
振られたのは『なにかあった』に入るのかと思ってしまったゆえに。
でも誰かを振るのは別に悪いことではないはずだ。傷つける行為ではあるけれど仕方のないこと。
「……でも、付き合った人はいたけど、こんなにいろいろしてもらったことはないよ。だからよくわからない……」
なんとか言ったけれど、今度は不思議そうに言われた。
「なにも不思議なことはないと思いますが。好きなひとにはなんでもしてあげたいし、優しくしたいでしょう?」
その言葉はあまりに純粋だった。
でもそのとおりだ。シンプルなことだ。
幸希だって、今まで好きになったひとにはそうしてきた。
なんでもしてあげたいと。
優しくしたいと。
でも自分が受ける身になってしまったら、そうあるのが当然だとは思えなくなってしまった。
続ける言葉はやっぱり「わからない」しかなくて、でも流石にもう繰り返せない。
しばらく沈黙が落ちた。店内BGMのクラシックだけがその場を流れる。
やがて戸渡がぽつりと言った。
「鳴瀬先輩は、優しくされることに慣れていないんですね」
それは真理だった。
そうだ、付き合った人はいてもきっと本心からの優しさをもらったことはなかった。
惰性や打算。そのようなものをきっと無意識に感じていたのだろう。
それで思った。
振られても、ああ、当然だったのだ、と。
幸希の表情が変わったのを見たのだろう。戸渡は手を伸ばしてきた。
そっと幸希の手からティーカップを取り上げる。テーブルに戻してしまった。
その空いた手を取られる。今度は両手で包み込むように。
「それなら僕が教えましょう。優しくされることを、……そうですね、大切にされることを」
目を閉じた彼に言われる。
包まれた手はあたたかった。熱々のラテが入っていたティーカップよりも。
それは、ひとの持つぬくもり。
ゆらりと幸希の視界が揺らいだ。今度は伝わってきたあたたかさが涙を零させる。
「私でいいの」
「先輩がいいんです。僕が優しくしたいんです」
幸希は言うのをとてもためらったのに、あっさりと言い切られた。
違う意味で言葉が出てこない。代わりに頷いた。
ぽた、と涙が落ちるけれどそれはまるで意味が違っていただろう。
戸渡が嬉しそうに笑った気配がする。そっと、幸希の手を握る両手に力がこもった。
「ねぇ、顔をあげて、見てみてください。ここからの景色は綺麗でしょう。今夜はずっと見ていませんか」
ここ24時間営業なんですよ。こんなかわいいお店なのに。
言って微笑んできた笑みがあまりにあたたかくて、そう、優しくて。
心に染み入って、でもそれはもう痛くはなくて。
じんわりとあたたかいラテのように心を満たしていった。
八月ももうすぐ終わり。最終週には花火大会がある。都内では何度もあった花火大会も、これが最後。
花火大会といえば浴衣。お盆に実家に帰ったときは、高校時代の友人と一緒に地元の花火大会に行った。しかし都内ではタイミングを逃してまだ行けておらず、最後のものは見たいと思っていたのだ。
そして着物が好きな以上、浴衣も好きなので幸希は以前からそれに行くつもりだった。
その計画は、先日の出来事で唐突にデートに変わってしまった。
「花火大会ですか。行きましょうよ」
恋人関係になってまだ二週間ほどであったが、戸渡は当たり前のように言ってきた。
あれから二人で出掛けたことはまだなかった。お盆を挟んでいたし、その間、幸希は実家に帰ってしまったので。
高校が同じということは勿論地元も同じであるので、帰るタイミングがかち合っても不思議ではないのだが、「すみません、お盆は旅行の予定を入れてしまっていて」とすまなそうに言われた。
久しぶりの長期旅行だからと友達と沖縄に行く予定をかなり前から立てていたのだと言われて、幸希は「そうなんだ」とだけ言った。
「せっかくの休みなのにすみません。恋人を放り出して友達と旅行とか」
やはりすまなさそうに言われたけれど、そう言われるのはまだ恥ずかしい。
慣れやしない、たった数日では。
なのでお盆明けにはもともとデートをする予定ではあったし、夏のデートとして花火大会は定番すぎるともいえた。
幸希とて断る理由はない。デートとなるのはちょっと恥ずかしいものの、「うん、行こう」とあっさり承諾して日曜日に駅前で待ち合わせをした。
土日休みの幸希と違って、営業職の戸渡は不定休だ。土日はむしろ仕事であることが多いので、その日も「仕事上がりになりますが行きますね」と言っていた。なのでてっきり仕事帰りの服で来ると思ったのだが。
「お待たせしました」
「え、どうしたの、それ」
現れた戸渡は、なんと浴衣を着ていた。浴衣姿よりも、『浴衣を着てきた』という事実のほうに先に驚いてしまう。
「っていうか、仕事じゃなかったの?」
聞いたのだが「早退しました」としれっと言われる。
なんと。確かにこの時期では繫忙期ではないので早退も無理ではないと思うけれど。
でも嬉しく思う。そのくらい、自分とのデートを大切に扱ってくれることが。
戸渡は上背もあるので浴衣がよく似合っていた。浴衣が紺の縦縞模様なものあって、余計に背が高く見える。自然と幸希は見上げる格好になった。
それでも今ではもう視線を合わせられるようになったことを嬉しく思う。
「やっぱり先輩は和服がよく似合いますね」
会場へ向かおうと歩く間に、戸渡が褒めてくれた。
「ありがとう」
お礼を言う声は弾んでしまった。
今日の浴衣も綺麗に着られている自覚はあった。よく和服を着るのだ、慣れている。
そしていくつか装飾もつけて、ちょっと豪華にしてみたつもりだ。そこを褒められればやはり嬉しい。
そして幸希のほうも、戸渡の和服姿を見るのは実のところ初めてではなかったのだ。
だって、高校時代は茶道部だ。
普段の部活動は制服だったけれど、点前の会は和服。そのときなどできっと何回かは目にしていたはず。よく覚えていない、とは言えないけれど。
ただ、「着物も似合う子だなぁ」と思った記憶はあった。それだけでも許してほしい。
「戸渡くんも和服が似合うね」
幸希の言葉にも戸渡は嬉しそうに返してくれる。
「久しぶりに着たんですけどね。意外と覚えているものですね」
ああ、やはり高校時代のことを思い出してくれていたんだ。
想い出をわずかでも共有できるのは幸せだ。
会場へ向かう、と思ったのだが。
戸渡が幸希を連れていった先は、駅前のターミナルだった。
タクシーにでも乗るのかと幸希は思った。
確かにここから会場までは少し歩く。徒歩で15分くらいはかかるだろう。なのでタクシーを使うという発想もおかしくはないと思うのだけど。
しかし当たり前のように、花火大会の日なのだ。タクシー乗り場は長蛇の列。これを待っていたら、花火に間に合うだろうか。
心配になったのだけど、戸渡はタクシー乗り場を通過してしまった。
え? じゃあバスとか?
幸希は更に不思議になったのだが、バス乗り場だって混んでいる。タクシーよりももみくちゃになってしまう可能性もあるので、むしろバスのほうがネックかもしれない。
けれど戸渡はそこも通過した。一般車両の並ぶほうのターミナルへ行ってしまう。
そっちになにがあるというのだろう。
不思議に思いつつもついていった。
戸渡は一般車両のぎっしり並んでいるところへ行き、一台の黒い車の前で、合図をするように手をあげた。そして助手席のドアを開ける。
「待たせた? ごめん」
どうやら知人かなにかのようだ。なにごとか話して、後部座席のドアを開けた。
「さ、どうぞ」
「え、いいの?」
「勿論です」
「お、お邪魔します」
一体誰の車だろう、と思いつつ、幸希は乗りこんだ。どうやら会場まで送ってくれるのだろうということは察せたので、ちょっと恐縮したが。
そのあとから戸渡も乗り込んでくる。
運転席に座っていたのは、若い男性だった。
「恵比寿店のときの後輩です」
戸渡が紹介してくれる。
「どうも。水木(みずき)といいます」
ちょっとだけ振り向いて軽くお辞儀をしてくれた『後輩』は爽やかな印象の、スポーツが得意そうな、活発な印象の男性だった。後輩、というくらいなので戸渡より年下だろうと思ったが、そのとおりまだあどけなさすら残っている。
「は、はじめまして。鳴瀬です。えっと」
幸希も自己紹介をしかけたのだが、なんと名乗ったものか言い淀んでしまう。どう名乗ったらいいのかはわかっているのだが。
『彼女です』とか『お付き合いさせていただいています』とか。でもなんだかまだ恥ずかしかった。
「聞いてますよ。戸渡先輩の彼女さんですよね」
じゃ、行きますよ、と車を発進させながら水木は当たり前のように言った。幸希にとっては後輩である戸渡が『戸渡先輩』と呼ばれているのはなんだか不思議だったが、こうして人の縁は繋がっていくのだなぁ、となんだか感慨深くなった。
「ありがとうございます。わざわざ来てくださったんですか?」
幸希は訊いたが、水木はなんでもない、といった調子で肯定した。
「はい。戸渡先輩に今度、焼肉奢ってもらうことで働かせてもらうことに」
「おい水木。バラすなよ」
「あはは、すみません」
戸渡が誰かに敬語以外で話しているのはなんだか新鮮だ、と思いながら幸希は後部座席、戸渡の横にかしこまって座りながら思った。
道はやはり混んでいたけれど、バスやタクシーを待つよりよっぽど早かった。おまけに歩くよりも当たり前のようにラクだ。五分ほどで会場についてしまう。
「水木、ありがとな」
車を降りながら、戸渡は言った。
なんだかこういう喋り方をすると男っぽいなぁ、と幸希は彼の新しい一面を見たような気持ちになりながら自分も「水木さん、ありがとうございました」と言って車を降りた。
「さ、先輩」
降りるときに、戸渡が手を出してくれて、幸希は一瞬意味がわからなかったものの、すぐにその手を取った。
今日は下駄なのだ。降りるときに危ないと気を使ってくれたのだろう。
実にスムーズに会場についてしまい、花火大会の会場へ入っていく。
見る場所へ向かうまでにはたくさんの出店が並んでいた。花火のはじまるにはまだたっぷり時間があったので、それを見ていこうと話す間。
戸渡は当たり前のように手を繋いで引いてくれた。
そして幸希も。
今度は彼の手をしっかり握り返すことができていた。
彼のやさしさ。
受けることができるようになって嬉しいと思う。
勿論、優しくしてもらえること自体だって。
誰かと付き合ってこれほど幸せを感じたことは今までにない、とまで思えた。まだ付き合ってわずか二週間だというのに。