平日のことで、あまり時間もなかったので近くのバーにしておこうという話になり、そこへ向かいながら、ふと戸渡が謝ってきた。
「さっきはすみません。図々しい呼び方をしました」
 そこで初めて幸希は気付く。
 呼ばれたのは普段の『鳴瀬先輩』ではなかった。
 『幸希さん』。
 初めて名前で呼ばれた。彼氏の振りをしてくれたのだから、当然ではあるのだが。
 それはなんだかくすぐったい響きだった。
「ううん。むしろあれで新木課長も本当に彼氏だと思い込んでくれたみたいだから」
 バーに入ってオーダーしたのは、約束通りワンコインのドリンク。
 戸渡がその中で選んだのは、ソルティドッグだった。幸希は弱めのお酒にしておこうと、ピーチフィズにしておく。
「戸渡くんは、彼女がいるの?」
 本当は彼女の一人でもいるのかもしれない。だとしたら、「彼氏です」と名乗らせるなど失礼だったのでは。
 そう思った幸希であったが、戸渡は簡単にそれを否定した。
「いえ、いませんよ」
「そうなんだ」
 迷惑をかけなかったことに、幸希は、ほっとした。
「鳴瀬先輩も……」
「いないよ」
「そうなんですね」
 戸渡とこのような会話をすることは初めてだった。しかし不思議と不快感はない。
 そして気付く。男性と二人でバーに入ることすら、数度しかなかったのに緊張などなにもない。短い期間であったが彼氏であった男性と入ったことはあるが、妙に落ち着かずにそわそわしてしまったというのに。
 恋愛に関する話はそこで打ち切りになり、他愛のない雑談になった。それは幸希に気まずい思いをさせないように、という戸渡の気遣いだったのかもしれない。
「いずれは店長になりたいんです。まずはそこを狙うのが当座の目標ですね」
 賃貸営業職としては、当たり前のことを戸渡は言った。
 そして社ではすでに主任が目の前に迫っているのだと。そもそも主任候補として店舗移動を命じられたということらしい。幸希のふたつ下、つまり二十六歳としては出世コースといっても良いだろう。
「優秀なんじゃない」
 幸希の褒め言葉には、戸渡は素直に「ありがとうございます」と言った。ちょっと胸を張って。
 その様子はまたも、「よしよし」をされた大型犬のようで、幸希はまたおかしくなってしまう。
「鳴瀬先輩は、ずっと駒込店で事務ですか」
 訊かれたので幸希も素直に答えておく。
「最初はアキバ店にいたんだけどね、駒込店がオープンってことで三年くらい前に異動になったきりかな。まぁ、事務ってあんまり異動とか無いから」
「そうですよね。うちの事務の子も二人いるんですけど、店舗に長いって言ってましたよ」
 そっか、店舗だから事務の子もいるんだ。
 当たり前のことをいまさら思い知った。
 幸希はそんな自分に驚く。まるで『戸渡と同じ店舗に勤務している女の子』を、意識しているかのようだと思ったので。
 話は盛り上がって、飲み物は一杯では足りなかった。