「あっ、鳴瀬先輩ですか! ちょうど良かった! すみません! あの鍵、ライオンズマンションの鍵! 貸してもらっていいですか!?」
 閉店間際。
 突如響いた電話を取ったのは幸希だった。
 「虎視(こし)不動産です」と、会社名をはじめに名乗られただけで、すぐにわかった。戸渡だ。
 勢い込んで言われたことは、鍵を貸してほしいとの要望。確かに電話で鍵の貸し借りの予約を取り付けることはあるが、これほど遅くなってからそういう電話が来ることは滅多にない。
 戸渡もそれはわかっているのだろう。勢い込んではいたが、すまなさそうな響きが確かにあった。
「いいけど、いつ? 明日?」
 それでも幸希は軽い調子で返事をしたのだが、戸渡の声が更に『申し訳ない』という響きを帯びた。
「それが、今から……」
 幸希は黙ってしまう。
 今からなど。
 あと三十分もしないうちに、店を閉めるというのに。
「ほんっとうに申し訳ありません! 客にちょっと無茶言われちゃいまして……」
 第三ライオンズマンションは、いわゆる高級マンションだ。つまり、契約もそれだけおおものになるというわけ。動く契約書も、得られる金額も多くなる。
 戸渡にとっては、移転後初めての大きな仕事なのかもしれない。頼み込む声は必死だった。
 しかしこういうことだ、ただの事務職の幸希には判断できない。
「……ちょっと待って。店長に相談してくる」
「はい! すみませんがお願いします!」
 電話を一旦保留にして、店長のもとへ向かう。ことの顛末を話した。
 店長は勿論渋る。
「第三ライオンズは明日、内見予定が入ってるんだよな。昼からだけど、万一間に合わなかったらウチが困る」
 言われて幸希は口惜しくなった。
 後輩が困っていて、きっと藁にも縋る思いで電話してきたのだろう。なんとか都合をつけてやりたい。
「もし、今日中に返してくれるんでしたらどうですか?」
 幸希の提案には、やはり渋られた。
「もう閉店だろ。今日は俺、残業できないんだよ。このあと本部と飲み会で」
 店長は一応、と言った様子でほかの社員にも聞いてくれたが、みんな首を振った。
 そうだろう。出来れば残業なんてごめんだ。それもほかの会社の都合に合わせてなど。
 悪く言ってしまえば、うちにはなんの関係もない、と言ってしまって良いこと。
 幸希はもう一度絶望しそうになったが、そのとき思いついたこと。
 一応、それなりの社歴と信頼はある。それに賭けることにした。
「じゃ、私が残ります。鍵を返してもらって、受け取ってから戸締りして帰ります。駄目ですか?」
「鳴瀬が?」
 幸希は事務職という立場上、残業をすることがほとんどなかった。
 そもそも基本の仕事自体がキリのない仕事なのだ。書類を渡されては入力し……というルーティンワーク。サボることは許されないが、ノルマもない。急の雑務でも入らない限り、定時になれば切り上げてさっさと帰ることのできる、ホワイトな仕事なのだ。
「うーん……。しかし万一……」
 店長はやはり渋った。
 が、戸渡のいる虎視不動産とは取引歴も長い。頼みを蹴るのも関係が悪くなってしまうかもしれない。
 翌日の業務と今後の取引を天秤にかけているのだろう。
 数秒悩んで。
「わかった。代わりに受け取ったら帰る前に、鳴瀬が俺に必ず電話してくれ」
 店長は連絡の電話をすることで呑んでくれた。幸希は、ぱっと顔を輝かせてお礼を言う。
「!! はい! わかりました!」
 長く保留にしてしまったが、通話を再開した先にきちんと戸渡はいた。
「了承、取れたよ。返してくれるのは何時になりそう?」
「ありがとうございます!! えっと……九時とかになっちゃうかもですけど……」
 嬉しそうに戸渡は言ったが、すぐに申し訳なさそうな声を出す。
 それはそうだろう。あと二時間近くはある。
 幸希はちょっとがっかりした。あと二時間も待ちぼうけだ。これほど長く残業をしたことなどない。でも、ここまできて引けないではないか。
「わかった。待ってるね」
「ありがとうございます! 本当にありがとうございます!!」
 電話を切る前、戸渡は何度も繰り返した。
「いいから、早く取りにおいでよ」と言って、電話を切った。
 あとは、戸渡が訪ねてきて鍵を渡して……事務所で待っているだけ。損をするのは自分だというのに、どうしてこんなに必死になってしまったのか。電話を切ってから思う。
 「じゃあ仕方ないですね」とあっさり引くこともできた。
 それは、戸渡が後輩であるからだ。
 少なくとも、そのときの幸希はそう思っておいた。
「え!! 鳴瀬先輩が待っててくださったんですか!?」
 息せききって奪うように鍵を持っていった戸渡が、幸希の会社に帰ってきたとき。
 時間は既に九時を回っていた。
 鍵を返してくれたあと、社内にいたのが幸希だけと見て戸渡は目を丸くした。ほかの社員が居てくれると思っていたのだろう。
「ちょっとほかの人は都合がつかなくて」
 それは本当のことだったが、そこでちょっと悪戯心が湧いた。
「感謝してよね」
 言うと、戸渡は顔を歪めて、ばっと頭を下げた。
「ほんっとうにすみません! こんな遅くまで……」
 その様子はやはりワンコのようだった。叱られたワンコだ。
「いいよ。代わりに契約、ちゃんと取っておいでよ」
「それは勿論! いい感触でしたから!」
 勢い込んで言う、今度は嬉しそうだった。なんとかなって、心底ほっとしているのだろう。
「お礼にゴハンでも奢らせてください!」
 言われて、幸希は驚いた。
 お礼を提案されるとは思わなかった。それもご飯なんて。
 確かにお腹は空いている。ぺこぺこといってもいい。普段ならとっくに帰宅して食事を済ませている時間なのだから。
 誤魔化すためにデスクの引き出しにストックしているお菓子をつまんではいたが、そんなものでは到底足りなかった。
 しかし、後輩にご飯を奢ってもらうなど。
「悪いよ、後輩になんて」
「いえ! なんのお礼も無しなんて男がすたります!」
 十年ぶりの再開とはいえ、後輩に変わりはない。
 手助けをして当然だと幸希は思っていたし、実際そう言ったのだが、戸渡は引かない。
 まぁ、確かに。
 男の子だし。
 女に助けてもらったならお礼をしたいって思うのは普通かもしれないかな。
 思って、幸希はちょっと悩んだあとにそれを受けることにした。
 ただし、条件は付けた。
「わかった。でも、奢りは五百円までにしてね?」
「……え? なんで五百円?」
 きょとんと首をかしげた戸渡に、補足する。
「ワンコイン、ってこと」
「……はぁ」
 戸渡は「よくわからない」という顔をした。
「それ以上は勿体なくて、受け取れないから」
 言った幸希に、やはり首をひねる仕草をしたものの、戸渡は「わかりました」と言った。素直だなぁ、と幸希は思ってしまう。
「えーと、じゃ、どこにしましょ……。先輩はお酒とか飲みますか」
「飲むけど、明日も仕事だからお酒はやめときたいかな」
「そう、ですよね。明日も平日……。うーん……」
 幸希の返事に戸渡は随分考えてしまったようだ。当然、ランチならともかく、夕ご飯で五百円は随分ハードルが高い。下手をすればマックでもそれ以上行ってしまうだろう。
「戸締りしてくるから、それまでに考えておいてね」
 猶予を与えて、幸希は社内へ向かった。とはいえ、過ごしていた事務所をちょっと片付けて、パソコンと電気を落として入口を施錠するくらいだ。あとは、約束した通り店長に電話。
 さて、どこへ連れていかれるやら。
 楽しみにしつつ、幸希は自分のパソコンの『シャットダウン』ボタンを押した。


 戸渡くんはワンコみたいだから、ワンコイン、なんてね。
 そのくらいのシャレのつもりだったのだ。
 戸渡に連れていかれたのは、ピザ屋だった。なかなかオシャレな店だ。
 どちらかというと、『イタリアン』より『アメリカン』。カジュアルな感じだ。
 店内のモニターには、アメリカの映画が無音で流されている。代わりにアロハ的な音楽が店内に流れていた。
 席に案内されて、メニューを開いて戸渡が言った。
「ここ、まさに『ワンコイン』なんです。この中なら、どれでも五百円!」
 メニューの示された場所にはピザが七種類ほど並んでいた。定番のマルゲリータや、三種チーズ、パイナップルなんかが乗った変わり種まである。
「へぇ、すごいね」
「そうでしょう。しかも値段の割にはなかなかなんですよ」
 勿論、それ以上の値段がするピザやほかの料理もメニューに並んでいたので、ワンコインピザはやはりそれに見合ったクオリティなのだなというのは想像できた。どちらかというと、メインで食べるよりは大勢でやってきていくつか注文して、シェアして摘まむためのものなのだと思う。
「足りなかったら、すみませんけど」
 おずおずと言われたけれど、それは当然である。
「わかってる。自分で注文するから」
「すみません」
「ううん、私がそう言ったんでしょ」
 ちょっとだけ悩んで幸希が選んだのは、定番のマルゲリータだった。トマト味は好きなのだ。そして無難なところから攻める性格上、定番から試してみたい。
 運ばれてきたピザは、五百円と思えないほどきちんとしていた。生地もそれなりに厚みがあって、トマトソースもチーズもたっぷりかけられている。
「ん! 美味しい!」
 ぱくりと食べて、幸希は思わず言っていた。
「良かった」
 戸渡はほっとした、という顔で言って、自分の頼んだピザを食べる。それも五百円のもので、バジルソースがかかっていた。
 『ワンコイン』のディナーはなかなか楽しかった。
 勿論、話題は高校時代のことからはじまった。
 茶道部のこと、幸希が卒業したあとのこと。
 そこから大学の話を軽く聞いて、今の不動産業に入った話が締めであった。
 もう時間も十時を回っている。いい加減帰って寝なくては、明日の仕事に支障が出てしまう。
 戸渡もわかっているのだろう。自身も仕事のはずだ。適当なところで話を切り上げてくれた。なかなか気の付くことだ。
「今日は本当にありがとうございました。ご迷惑をかけてすみません」
「ううん。お礼はちゃんともらったからね」
「お礼になってれば……いいんですけど」
 戸渡は言ったが、幸希はじゅうぶん満足していた。
 駅まで一緒に行き、どうやら家は逆方向の電車らしいので構内で別れた。
 慣れたホームへ向かいながら、今日は楽しかったな、と思った。
 やはりピザだけでは物足りなくて、サラダとソーセージを自腹でオーダーしてしまった。
 でも、『ワンコイン』の選択としてはなかなか悪くなかったじゃない。
 などと、戸渡と別れた帰り道、幸希はちょっと上からの視点で思ってしまったのだった。
 それ以来、戸渡とはたまに連絡を取るようになった。仕事関係でそうそう会社に訪ねてくることはないのだが、例の『ワンコインディナー』の帰りに「ラインとか交換しませんか?」と持ち掛けられたので、幸希に断る理由はなかったので「いいよ」と交換した。
 そのために、ぽつぽつとたまにやりとりがある。
 とはいえ、たいした内容ではなかった。
「茶道部では点前の会に行きましたよね! 鳴瀬先輩とは確か二回くらいしかご一緒しなかったですけど」
「そうだよねぇ。会も二ヵ月に一回くらいしかなかったし」
 こんな想い出話をしたり。
「鳴瀬先輩って、高校時代の友達とは連絡とってます?」
「うん、たまに会うよ」
「そうなんですね!僕もたまに会うんです。やっぱり学生時代の友達って、大人になってからできた友達とは違いますよね」
 交友関係の話であったり。
 つまり、男性とする『ライン会話』としては平和すぎたといえる。幸希がなにも『彼氏候補』として意識することなどないほどには。
 しかし、それがひっくり返ったのは、ある出来事であった。


 その頃、幸希には少し憂鬱なことがあった。
 それは本社へのおつかいへ頼まれたときに起こったこと。「鳴瀬さんってカレシいるの?」などと、本社の課長に訊かれて、あとから思えば馬鹿なことだと思うが「いません」などと言ってしまった。
 それ以来、課長……新木(あらき)という……は、妙に頻繁に駒込店へ電話をかけてくるようになった。
 店長も不自然に増えた電話には気付いただろうに、「目ぇつけられたかね」などと笑い飛ばされておしまいだった。男はこういうところがデリカシーないから嫌だ。と幸希は何度も思ったことを今回も思わされた。
 「新木課長は妻子持ちだし心配することなんかないさ」なんて言って、それ以来なにも配慮してくれない。
 『心配すること』なんて、幸希にはたっぷりあるというのに。ある意味、シングルの男性よりやっかいではないか。
 そしてコトは幸希が危惧したとおりに転がってしまった。
「今度、食事でも行かない?」
 ただの業務の電話ではない電話が会社にかかってきて、幸希はうんざりした。会社の電話を私物化するなど。かといって、携帯番号やラインの交換などもっとごめんであるが。
「木曜はどう?」
 テンプレのような、『不倫目的』の誘いであった。
 家庭を持っている男性が別の女性に手を出そうと思ったら、家族サービスが必要になる金曜や土日以外になることが多いといわれている。女性向け雑誌や、webのコラムでも。そのくらいには愚かな男だ、とそこで既に幸希は思ってしまった。
 新木課長自体、そういう目でなど見られないし、おまけにセカンドになんてなるつもりはなかった。
 しかし、直属ではないとはいえ上司であるのではっきりとなど断れない。パワハラとセクハラを同時に受けているようなものである。
「すみません、ちょっと用事があるんです」
 断ったものの、新木課長がそれで引くわけもない。
「じゃ、来週の月曜。それならどう?」
 幸希は黙ってしまう。
 二度、『用事がある』と言うのも躊躇われた。
「あの、……あ、すみません! ちょっと来客が。失礼します!」
 結局無理のある電話の切り方をして、その場は逃れた。が、それだけで引いてもらえるはずもない。
 なんと直接店舗に押しかけてこられたのである。適当な理由はくっついていたが、明らかに『別に課長自らやってこなくてもいい』という用事であった。
 それでも、一応ほかの社員の目があるので、と楽観していたが、彼は相当図太かった。社内から幸希のデスクまでやってきて、デスクにもたれて話しはじめたのだ。
 こんな場所では二人きりも同然ではないか。恐怖にも近い感情を覚えてしまう。
 そして無理やり約束を取り付けられてしまった。
「じゃ、明日の夜にね」
 心底嫌だと思っていたが、仮にも上司である。行かない選択肢などなかった。
 連れていかれたのはそこそこ高級なフレンチの店であったが、食事の味などわからなかった。砂を噛んでいるようなものである。
 これなら家で適当な食事を作って食べるほうが、百倍美味しく感じると思った。
 それどころかテーブルの下で新木課長の手が伸びてきて、幸希の脚に触れる。
 幸希の背中に鳥肌が立った。吐きそうになるのを必死でこらえる。
 そんなひどいディナーもなんとか終わり、当たり前のように新木課長は「もう一軒行こうか」などと言ってきた。どこへ連れていかれるかなど定かではないが、脚に触れられた以上のことがあるに決まっている。
 もう逃げだしたい。
 泣きたい気持ちでいっぱいになった幸希であったが。
「幸希さん! ……あれ? その方は?」
 そこへ救いの手が差し伸べられた。
 繁華街の一角。駅の方角からやってきた男性。そこにいたのは、戸渡であったのだ。
 おまけに普段の『鳴瀬先輩』ではなく、『幸希さん』と呼んできた。動揺していた幸希はそれに気付かなかったが。
「あ、……会社の、上司です」
 はっとして、やっと言った。
 それだけで戸渡は事情をはっきりと察してくれたのだろう。
「そうなんですね」
「誰かね、きみは」
 新木課長は不快感全開といった顔と声で言う。せっかく若い女の子をどこぞに連れていけそうになっていたところに、若い男に割り込まれたも同然なのだ。
「幸希さんとお付き合いさせていただいている、戸渡といいます」
 戸渡の言ったことに仰天したのは、新木課長だけではなかった。むしろ幸希のほうが驚いてしまったかもしれない、爆弾発言。
「は? 鳴瀬さんはカレシはいないと……」
 動揺した声で新木課長が言ったことで、幸希は事情を理解した。
 戸渡は、幸希が『望まない相手と付き合わされている』と見てとって、助けてくれようとしてくれているのだ。
「あの、……別の会社の方なので、社内では黙っていて……」
 しどろもどろになりつつも、幸希もそれに乗る。
 そして戸渡が「虎視不動産の戸渡です」と告げると、今度こそ新木課長は黙った。同業として、無碍にもできないのだ。
 おまけに戸渡の会社、虎視不動産は近年、大きく成長しつつあった。幸希と同年代なのはわかっただろうから、それなりの立場があるか、もしくは期待されているとわかったのだろう。
 そんな会社の相手が彼氏だと名乗ったのだ。コトがこじれれば面倒なことになる。
 「チッ」と舌打ちでもしたげな様子で新木課長は「そう。じゃ、また」と去っていった。
 散々不快感を与えてきた男が去っていき、幸希は心底、ほっとした。一歩間違えば、妙な場所に連れ込まれそうになっていたかもしれないのだ。戸渡には感謝しなければいけない。
「あ、ありがとう。戸渡くん」
 ほっとしたあまり、脚が震えた。
 それには気付いただろうに、戸渡は特に手を伸べたりしなかった。そのくらいには女性の扱いに慣れているようだ。
 ただ、不安であった幸希を安心させてくれるように、笑みを浮かべてくれた。
「いえ。気が進まない様子だったので。良い関係ではないようだったので割り込ませてもらいました」
「ううん。本当に助かった」
 はぁ、とためいきが出た。
 そして思いつく。
「助けてもらっちゃったね。お礼をしないと」
 幸希の言葉には、今度は声に出して、くすっと戸渡は笑った。
「鳴瀬先輩からも、ワンコインですか」
 幸希もつられて、くす、と笑ってしまった。自分の言いだしたことを、そのまま返されたので。
「うん。じゃ、ワンコインで一杯どう?」
「いいですね。嫌なことがあったんです。美味しいものでも飲んで、忘れましょう」
 新木課長などではなく、それなりに気心知れている戸渡相手であれば、なにも心配することなどなかった。幸希は飲みに行くことを提案し、戸渡も嬉しそうに答えてくれた。
 平日のことで、あまり時間もなかったので近くのバーにしておこうという話になり、そこへ向かいながら、ふと戸渡が謝ってきた。
「さっきはすみません。図々しい呼び方をしました」
 そこで初めて幸希は気付く。
 呼ばれたのは普段の『鳴瀬先輩』ではなかった。
 『幸希さん』。
 初めて名前で呼ばれた。彼氏の振りをしてくれたのだから、当然ではあるのだが。
 それはなんだかくすぐったい響きだった。
「ううん。むしろあれで新木課長も本当に彼氏だと思い込んでくれたみたいだから」
 バーに入ってオーダーしたのは、約束通りワンコインのドリンク。
 戸渡がその中で選んだのは、ソルティドッグだった。幸希は弱めのお酒にしておこうと、ピーチフィズにしておく。
「戸渡くんは、彼女がいるの?」
 本当は彼女の一人でもいるのかもしれない。だとしたら、「彼氏です」と名乗らせるなど失礼だったのでは。
 そう思った幸希であったが、戸渡は簡単にそれを否定した。
「いえ、いませんよ」
「そうなんだ」
 迷惑をかけなかったことに、幸希は、ほっとした。
「鳴瀬先輩も……」
「いないよ」
「そうなんですね」
 戸渡とこのような会話をすることは初めてだった。しかし不思議と不快感はない。
 そして気付く。男性と二人でバーに入ることすら、数度しかなかったのに緊張などなにもない。短い期間であったが彼氏であった男性と入ったことはあるが、妙に落ち着かずにそわそわしてしまったというのに。
 恋愛に関する話はそこで打ち切りになり、他愛のない雑談になった。それは幸希に気まずい思いをさせないように、という戸渡の気遣いだったのかもしれない。
「いずれは店長になりたいんです。まずはそこを狙うのが当座の目標ですね」
 賃貸営業職としては、当たり前のことを戸渡は言った。
 そして社ではすでに主任が目の前に迫っているのだと。そもそも主任候補として店舗移動を命じられたということらしい。幸希のふたつ下、つまり二十六歳としては出世コースといっても良いだろう。
「優秀なんじゃない」
 幸希の褒め言葉には、戸渡は素直に「ありがとうございます」と言った。ちょっと胸を張って。
 その様子はまたも、「よしよし」をされた大型犬のようで、幸希はまたおかしくなってしまう。
「鳴瀬先輩は、ずっと駒込店で事務ですか」
 訊かれたので幸希も素直に答えておく。
「最初はアキバ店にいたんだけどね、駒込店がオープンってことで三年くらい前に異動になったきりかな。まぁ、事務ってあんまり異動とか無いから」
「そうですよね。うちの事務の子も二人いるんですけど、店舗に長いって言ってましたよ」
 そっか、店舗だから事務の子もいるんだ。
 当たり前のことをいまさら思い知った。
 幸希はそんな自分に驚く。まるで『戸渡と同じ店舗に勤務している女の子』を、意識しているかのようだと思ったので。
 話は盛り上がって、飲み物は一杯では足りなかった。
 二杯目に入って、話は高校時代のことへと移っていた。
 勉強、部活、そして恋愛。
 いいことも嫌なこともいっぱいあったはずだが、通り過ぎてしまえばいい思い出になってしまうのだと思う。こんなふうにアルコールを入れて話すのであれば余計に。
 もうひとつプラスするなら、当時同じ学校に通っていた、あまり親しくはなかったとはいえ後輩であることも。
 共通の想い出は少なくても、「学校ではこんな行事があって」「こういう先生がいて」「この授業が面倒だった」なんてことは共通なのだ。そのようなことで話は盛り上がっていく。
 「マラソン大会で三位だったんですよね。一位取りたかったんで、悔しかったですよ」と戸渡が言ったことで、幸希は思い出した。
「そういえば戸渡くんって、茶道部は途中入部だったよね」
 戸渡が微妙な時期での入部だったために、幸希との接点はあまりないまま卒業別れとなってしまったのであった。
「その前になにかほかに部活をやってたみたいだったけど……運動部とか?」
 そこが気になった。マラソンで三位を取るなど、運動でもやっていたのかもしれない、と思って。普通はないだろう、茶道部の生徒がマラソン大会で三位など。
 しかしそこまで口に出して、はっと気づく。立ち入ったことだった。
 慌てて言った。
「あ、聞いていいことだったかな。余計なことだったらごめんね、流して」
 こんなことを気軽に聞いたのは軽率だった、と思う。なにか事情があったからやめたのだろうに。
 酔ってるからかな、話題や言うことに気を付けないと、と幸希は改めて自分に言い聞かせた。
 まだ二杯目なのに結構酔ってるのかなぁ、と不思議には思ったが。
 会話が楽しいせいもあるかもしれない。ついついあれこれ聞きたくなってしまうのは。
「いえ、別に深い事情もないですよ」
 戸渡はにこっと笑って、幸希の焦った顔を流してくれた。そしてそれはフォローではなく本当にそうであったようで。
「陸上部にいたんです。走るのが好きで」
「中学では学校選抜のマラソン大会の選手をやったこともあったんですよ」
「なので高校に入って、当たり前のように陸上部に入ったんですけど」
 戸渡はたんたんと話していって。
 でもそこでちょっと話をとめた。なんだか少し、少しだけ悲しそうな様子を見せる。
「高校の陸上部では、好きなように走れなかったんですよね」
 ぽつりと言った。
 幸希は黙って、戸渡の話を聞いていた。
「勿論、好きなように走るのが陸上って競技じゃないってわかってます。フォーム練習とかほかの部員との連携とか……。でも、そういうところじゃなくて」
 こくりとグラスの中身を飲んで、戸渡は続ける。
「なんていうんですか、勝利主義、っていうんですかね? とにかく大会で勝つことしか目に無い、みたいな」
 幸希はそこで、陸上部の顧問の先生を思い出した。
 別に陸上部に縁があるからではない。単に、その先生が同じクラスの男子の体育を担当していたからだ。それでその先生が陸上部顧問をしている、と同じクラスの男子たちから聞いただけ。
 でもすでに、そこで評価はかんばしくなかった。
「アイツの授業、マジキツすぎ」
「筋トレとダッシュばっかだしさ」
「サッカーとかバスケとか、プレイにもっと時間取ってほしいのに」
 不満がほとんどだった。
 つまり、ガッチガチの体育会系教師だったのだ。幸希はそれを聞いて、女子の体育の教師が違って本当に良かった、と思ったくらい。
 戸渡が言ったのもその点のようだ。そのまま続けた。
「僕はただ気持ちよく走って、いいタイムを出して、それができれば良かったんです。でもそれができなくなってしまった」
 グラスと小さな皿に入ったナッツをお供に、戸渡は思い出を語っていく。
「それで、でもずいぶん悩みました。やっぱり走るのは好きでしたから。でも『走る』なら、体育の時間でも、自主的にランニングするのでもいくらでもできるって」
 確かに単に『走る』だけだったらいくらでも方法はあるだろう。戸渡の言った、体育の授業。自主ランニング。ほかには外でどこかの陸上クラブに入るとか……方法はたくさんあった。
 それとは別に、部活動として『走る』意味としては。
 すぐに戸渡はその点を口に出した。
「公式の試合やなんかでいい結果を出したりできなくなるのはネックでしたけどね。でも、日々のこの『勝つためだけ』の練習とどっちを取るか?って思ったら、僕は一人で走ることを選びました」
 そこでやっと話が茶道部へやってきた。
「だから、部活はまったく違うのにしてみようかな、とか思ったんですよ。気分転換もしたかったですし」
 『まったく違う』にしてもほどがないか、と思った幸希ではあったが、そう突飛な話でもなかった。戸渡のあげていった理由を聞いてみれば。
「軽い気持ちでした。着物好きだし、あと身内がちょっとお茶をやってて見に行ったり……少しはかじってたのもある、くらいです」
 興味を持った理由を話して、次に言われたことは幸希を嬉しくさせた。
「それで見学に行ったら部室も素敵だし、なにより部活内のひとたちも和気あいあいとしていて、陸上部とは全然違って。ここだったらきっと、楽しく心地良く過ごせるだろうって思って。それで入部しました」
 陸上部の雰囲気が合わなくて辞めたのであれば、次に入る部活は雰囲気重視になるだろう。
 過ごしていて楽しいところ。それを一発で引き当てられるとは限らないということだ。
 幸希が『着物が好きだから』とシンプルに茶道部を選んで、三年間ずっとそこで過ごせたのは、運がよかっただけ。
 話は一旦終息した。
 ふう、と息をついて、戸渡は幸希を見た。
「そんなところです。すみません、語りになっちゃいましたね」
 確かにここまでずっと戸渡が話していた。
 けれど聞いたのは幸希だ。そしてこれを聞けて良かった、と思う。
「ううん。実はちょっと気になってたから謎が解けたよ」
 茶化して言った幸希に、戸渡はほっとしたようだ。
「謎の存在でしたよね」
「うん、割と」
 言い合って、くすくすと笑いが起こった。
「もう一杯飲もうか?」
 誘いにはにっこり笑って応えられる。
「先輩がいいなら、僕も飲みたいです」
 それぞれもう一杯オーダーして、そこでやっとお開きになる。
 帰り際、戸渡は言った。
「今度は食事に行きましょうよ」
 言われて幸希はむしろ嬉しくなった。アルコールを入れた高揚感も手伝っていたのかもしれない。
「うん。何曜日がいい?」
 幸希はカレンダー通りの休日であるが、営業職はそういうわけではない。
 むしろ土日のほうが当たり前に、部屋を探す客が多いのだ。土日に休みを取れるほうが、まれともいえる。
「そうですねぇ、近いところだと……来週の金曜日とかどうですか」
 提案に、幸希はちょっと驚いた。てっきり平日、週の頭か真ん中あたりを言われると思っていたのだ。
「金曜日? 土曜日は仕事じゃないの?」
「でも鳴瀬先輩は翌日お休みのほうがいいでしょう」
「た、確かにそうだけど……」
 気遣われたことに戸惑ってしまう。
 まぁ、でも、と自分に言い聞かせた。
 食事をするだけなのだから、そう遅くなることもないはずだ。
 それなら気遣いに甘えてもいいのかな。
 思って、「じゃあ、金曜日で」と約束した。
 そして戸渡は「駅まで送りますよ」と言ってくれたので、またお言葉に甘えて駅まで一緒に歩く。流石に十時半も回りそうになっていた時間に繁華街を一人で歩くのは少し怖かったので、有難かった。
 道のり、戸渡は言ってくれた。
「また、変な人に絡まれたら言ってくださいね」
「僕で良ければ、出来る限り力になりますよ」
 そんな優しいことを言われれば、嬉しくなってしまう。
 男性が頼りになる存在だということ。
 幸希は初めて知ったのかもしれなかった。
「ありがとう。今日は本当に助かったよ」
「いいえ。良かったです」
 そして、以前のように構内で別れた。
「気を付けてくださいねーっ」
 戸渡はぶんぶんと手を振って、エスカレーターに乗る幸希を見送ってくれる。
 あの日会社で十年ぶりに出会ったこと。
 それが素敵な再会になったことを、改めて幸希は噛みしめた。