冥府に向かうエレベーターホールにポツンと建つ食堂。
「はぁ~、うまかったなぁ。なんだかここは、天国のようだ」
A定食を完食した老爺が、幸せそうに頬を緩ませた。
「よかったです。だけどおじいちゃん、ここはまだまだ序の口ですよ。このホールを昇った先に、あなたにとって本当の天国が広がっています」
「そうか、そりゃいいな。きっと、先に逝った家内が儂のことを、首を長くして待っているに違いない。どれ、少々並びそうだが、そろそろ行って列に並ぶとするかな。ごちそうさん」
カウンター越しののどかに穏やかな微笑みを残し、老爺は食堂を後にする。
すれ違いに入店した冥府の神様は、老爺の穏やかな表情を横目に見て、先の決断に自信を固めていた。
「やはり、あなたに食堂をお願いしたのは大正解でしたね」
「どうしたんですか、藪から棒に。おだててみたって、完売しちゃったA定食はもう、出ませんよ」
冥府の神様の開口一番に、のどかはやわらかな笑みで答えた。
客を出迎えるのどかの微笑みも言葉も、いつも嫌味がなくて優しい。ここに足を踏み入れるたび、冥府の神様はいつだって、心がふわりと綻ぶような心地を覚えていた。
「おやおや、それは残念だ。では、C定食をお願いします」
口では残念と言いながら、冥府の神様の本心は違っていた。もともと、A定食の焼き魚には、あまり興味がなかった。本当は入店前から、C定食の肉じゃがに決めていたのだ。
「はい、ただいま」
のどかは気持ちのいい返事をして、冥府の神様にくるりと背中を向けると、さっそくC定食の用意を始める。
のどかが大鍋の蓋を空ければ、甘じょっぱい香りがふわりと立ち昇る。
カウンター越しにも届くおいしそうな香りに、冥府の神様はクンッと鼻をひくつかせた。
「ほぉ~。あたしが頼んだB定食の中華丼もおいしかったけど、肉じゃがもおいしそうだねぇ」
冥府の神様の隣の席に座っていた老婆も、肉じゃがの匂いにつられて鼻腔を膨らませる。
「こりゃ、次の時はあたしも肉じゃがを……って、そうだった。あたしに次はないんだったねぇ」
嬉々として声をあげた老婆は、途中でハッと気づいた様子で、残念そうに声を低くした。
すると、すかさずのどかがカウンターの向こうから、小さめの椀を老婆の前に差し出す。
「え?」
「おばあちゃん、お腹がいっぱいかもしれませんが、せっかくですから肉じゃがの味だけでも見ていかれてください」
「いいのかい?」
「もちろんです。肉じゃがは各家庭によって味付けが違います。ここの肉じゃがが、お口に合うといいんですけど」
のどかの言葉に、老婆は顔をクシャリとさせて、目の前に差し出された椀を受け取った。
「ありがとう、お嬢さん。ちょうだいするよ」
老婆は置いていた箸を再び持つと、お椀の肉じゃがを丁寧に口に運ぶ。
「……なんて優しい味なんだろうねぇ。この肉じゃがも、先にいただいた中華丼も、とってもおいしかった。最後にこんな心尽くしの食事がいただけるなんて、なんて幸せなことだろうねぇ。……お嬢さん、ごちそうさまでした」
全て食べ終えた老婆はそっと箸を置くと、柔和な笑みをたたえながら食堂を後にした。
「すみません、お待たせしてしまって。お詫びに小鉢で、B定食の中華丼をサービスしています」
老婆を見送ったのどかが、冥府の神様の前に、中華丼の小鉢がひとつ余計に乗ったトレイをトンッと置く。
「それはありがたい。中華丼もとてもおいしそうだ、いただきます」
のどかの食堂ができてから、冥府に向かう者たちの表情は、格段に穏やかになっていた。のどかの食堂でお腹と心が満たされた彼らは、行列で待たされたり、誰かと肩肘がぶつかったり、それくらいのことでは目くじらを立てなくなったからだ。
だけど変化したのは、冥府に向かう者たちばかりではなかった。のどかとの出会いによって、冥府の神様もまた、己の心がかつてとは段違いに穏やかに、優しくなっているのを感じていた。
「……あぁ、先ほどの女性が言っていた通りですね。どちらも、とても優しい味がします」
「よかった。ゆっくり召し上がってください」
ひと口頬張れば、体だけでなく、心までもがじんわりと温かになっていく。これは、のどかの料理を口にした全員が抱く、共通の感覚だった。
「すみませーん。C定食お願いします」
「こっちはB定食ね」
「はーい、ただいま」
続々と来店する客に笑顔で応対するのどかの姿は目にまぶしく、冥府の神様はスッと双眸を細くした。そうして手際よく注文品を用意するのどかの手もとを見つめながら「もしかして、のどかはなにか魔法でも使っているのだろうか」と、こんな神には似つかわしくない非現実的なことを思っていた。
今はもう、冥府に向かうエレベーターホールに喧嘩はない。のどかの食堂を中心にして、いつだって人々の穏やかな微笑みが溢れている――。