ふうと息をつき、立ち上がって、食器を重ね、流しに運んだ。洗い桶にお湯を張り、お茶碗を浸す。
「いいです、俺、やるんで」
「ううん、これぐらいやらせて」
袖をまくって、洗剤をつけたスポンジをくしゅくしゅと揉んだ。
「んじゃ、俺、拭きます」
「おっけ」
かちゃかちゃと食器が鳴る。たくさん泣いたせいで、頭全体が、ぼんやりと痛む。
蛇口をひねって、洗った食器をすすぐ。洗いかごに乗せたお皿を、折原くんが拭きあげて棚に仕舞う。
「浮気しない男の話ですけど」
「ん?」
水音にまじって、折原くんのつぶやきが耳に届いた。
「存在します。たしかに」
「……たしかに?」
「俺の父親です」
お父さん。折原くんに、料理を教えてくれたお父さん。
「優しいんだ?」
「はい。息子が照れるぐらいおふくろにぞっこんで。ほんと、恥ずかしくて」
「いいじゃない。憧れる」
本当にあるんだ、そんな家庭。そんな、夫婦。
「酔っぱらって俺に言うんですよ。他人には優しくしろ、好きな女には、その十倍、優しくしろって」
「へえ……」
きゅっと、蛇口をひねって水を止めた。ハンカチで手を拭く。折原くんは、食器を拭く手をとめて、じっと固まっている。
「そのときは、息子にそんな話すんなよ、勘弁してくれって思ってたけど」
「私、拭くよ」
手をのばしたら、いいっす、と言って折原くんはこっちを見た。顔が赤い。
「やだ、風邪ひいた? ごめんね、私のせいで濡れちゃったから。あとは私が片づけるから」
「風邪じゃないですから!」
折原くんは、きゅうに大きな声を出した。
なんでそんなにむきになってるの?
ぽかんと口をあけてあっけにとられる私に、さらに顔を赤くした折原くんは、すいませんとぼそりとつぶやいた。
「これは風邪じゃないです。その、おれは、」
ラストの汁椀をふきあげて、折原くんはふーっと深い息をついてうなだれた。
「あー。だめだ。だめだ俺」
「折原くん?」
「風呂いってきます」
「うん。にしても、野村くん、遅いね。みんな今夜は帰ってこなさそうだね」
「…………」
ゆであがった蟹みたいに真っ赤になった折原くんは、なにも言わずにふらふらとダイニングを出た。だだだだっと、いきおいよく階段を駆けあがる音がする。
ひとり残された私は、冷蔵庫から、もう一本ビールを取り出した。
ダイニングと隣り合っている共用リビングで、ソファに座ってビールを飲んだ。
音が欲しくてテレビをつけると、おしどり夫婦で有名なタレントが、のろけエピソードを披露しているところだった。
折原くんのご両親のことを、ぼんやりと考える。なんて幸せな夫婦なんだろう。そして、そんなふたりのもとに生まれて育った折原くんも、なんて幸せなんだろう。
私にもいつか、そんな未来が来るのだろうか。誰かと一緒に、そんな家庭をつくれるんだろうか。
今はまだそれは、遠い遠い世界の、おとぎ話。
嫌なことはもう忘れよう。私をないがしろにするような男のひとのことは、さっさと忘れよう。
恋はもう、しない。折原くんのお父さんみたいなひとがいたら、考えるかもしれないけど。いたとしても、天然記念物並みにレアだと思う。だけど、この世に確実に存在することがわかったのは良かった。立て続けにだめなひとに当たったせいで、男性全体を嫌いになってしまうところだった。
アルコールがまわって、ふわっとからだが熱くなる。
最悪の気分は脱したみたいだ。雨の音はもうとっくに消えているけど、もう止んだのかな。止んだ、の、かな……。
「いいです、俺、やるんで」
「ううん、これぐらいやらせて」
袖をまくって、洗剤をつけたスポンジをくしゅくしゅと揉んだ。
「んじゃ、俺、拭きます」
「おっけ」
かちゃかちゃと食器が鳴る。たくさん泣いたせいで、頭全体が、ぼんやりと痛む。
蛇口をひねって、洗った食器をすすぐ。洗いかごに乗せたお皿を、折原くんが拭きあげて棚に仕舞う。
「浮気しない男の話ですけど」
「ん?」
水音にまじって、折原くんのつぶやきが耳に届いた。
「存在します。たしかに」
「……たしかに?」
「俺の父親です」
お父さん。折原くんに、料理を教えてくれたお父さん。
「優しいんだ?」
「はい。息子が照れるぐらいおふくろにぞっこんで。ほんと、恥ずかしくて」
「いいじゃない。憧れる」
本当にあるんだ、そんな家庭。そんな、夫婦。
「酔っぱらって俺に言うんですよ。他人には優しくしろ、好きな女には、その十倍、優しくしろって」
「へえ……」
きゅっと、蛇口をひねって水を止めた。ハンカチで手を拭く。折原くんは、食器を拭く手をとめて、じっと固まっている。
「そのときは、息子にそんな話すんなよ、勘弁してくれって思ってたけど」
「私、拭くよ」
手をのばしたら、いいっす、と言って折原くんはこっちを見た。顔が赤い。
「やだ、風邪ひいた? ごめんね、私のせいで濡れちゃったから。あとは私が片づけるから」
「風邪じゃないですから!」
折原くんは、きゅうに大きな声を出した。
なんでそんなにむきになってるの?
ぽかんと口をあけてあっけにとられる私に、さらに顔を赤くした折原くんは、すいませんとぼそりとつぶやいた。
「これは風邪じゃないです。その、おれは、」
ラストの汁椀をふきあげて、折原くんはふーっと深い息をついてうなだれた。
「あー。だめだ。だめだ俺」
「折原くん?」
「風呂いってきます」
「うん。にしても、野村くん、遅いね。みんな今夜は帰ってこなさそうだね」
「…………」
ゆであがった蟹みたいに真っ赤になった折原くんは、なにも言わずにふらふらとダイニングを出た。だだだだっと、いきおいよく階段を駆けあがる音がする。
ひとり残された私は、冷蔵庫から、もう一本ビールを取り出した。
ダイニングと隣り合っている共用リビングで、ソファに座ってビールを飲んだ。
音が欲しくてテレビをつけると、おしどり夫婦で有名なタレントが、のろけエピソードを披露しているところだった。
折原くんのご両親のことを、ぼんやりと考える。なんて幸せな夫婦なんだろう。そして、そんなふたりのもとに生まれて育った折原くんも、なんて幸せなんだろう。
私にもいつか、そんな未来が来るのだろうか。誰かと一緒に、そんな家庭をつくれるんだろうか。
今はまだそれは、遠い遠い世界の、おとぎ話。
嫌なことはもう忘れよう。私をないがしろにするような男のひとのことは、さっさと忘れよう。
恋はもう、しない。折原くんのお父さんみたいなひとがいたら、考えるかもしれないけど。いたとしても、天然記念物並みにレアだと思う。だけど、この世に確実に存在することがわかったのは良かった。立て続けにだめなひとに当たったせいで、男性全体を嫌いになってしまうところだった。
アルコールがまわって、ふわっとからだが熱くなる。
最悪の気分は脱したみたいだ。雨の音はもうとっくに消えているけど、もう止んだのかな。止んだ、の、かな……。