ずっと忙しくて。彼と会う時間だって、つくれていなかった。
 二か月前に突発的に仕事を辞めて以来、毎日飲みに行ってはぐだぐだしていた彼に、電話できついことを言ったりもした。
 今日こそは会いに行くと、ふたりのこれからについてちゃんと話をすると、頑張って仕事を片づけて彼の部屋へと急いだ。約束もなかったのに、連絡も入れずに。だって、まさか。だって。

 ぐいっと、ビールをあおる。思い出すな、忘れなきゃ。忘れなきゃ。

「つまみもつくりましょうか?」
「あ。いいよそんな。ごめんね、気を使わせちゃって。私ったらダメだね」
「ほんとに、陽乃さん、何があったんですか」
 無言で、お味噌汁をすする。
 ほかほかのごはん。つややかで、お米のひとつぶひとつぶが立って光ってて、噛むとほんのり甘みがある。さいごのひと粒まで、大事にいただいた。
「ごちそうさま。ほんとうに、おいしかった」
 涙を押し込めて、にっこりと笑ってみせる。
「陽乃さん」
「ん?」
「……泣くの、我慢しなくてもいいのに」
 なんで折原くんのほうが、そんなにつらそうな顔をしているんだろう。
「陽乃さん」
 ことりと、お茶碗を置いた。
「……男のひとって、どうして、浮気するのかな……」
 六つも年下の、まだ学生の男の子に、こんな話。ごはんをつくってもらったうえに、こんな、重い話をして。吐きだして泣いて。そこまで甘えるなんて、年長者として、申し訳なかった。だけど折原くんのつぶやきは、胸につまった重たい石をみるみる溶かしてしまった。
 涙がこぼれて、頬を伝っていく。決壊しちゃった。止められない。
 ごめんね。きっと私は、弱っている。ごめんね。
「謝らなくていいです。泣いてください。たくさん泣いてください」
「……っ、く」

 彼の部屋のあかりは消えていた。帰ってくるまで中で待っていようと、合鍵でドアを開けて、あがりこんだ。その瞬間、いつもとちがう何かを感じた。
 ひとの気配がする。声が、する。首をかしげて、とくに何も疑わずに、灯りをつけた。六畳のリビングにはだれもいない。やっぱり気のせいかと、奥の寝室のドアを開けた。
「も、やだ……っ」
 封じ込めたはずの痛みが胸を刺して苦しい。
 そのひとは、だれ?
 全身から力が抜けて、持っていたバッグを取り落としてしまった。
 彼と、知らない誰かが、激しい口づけを交わしていた。
 ぎゅっと彼に抱きしめられて、とろけるような表情を浮かべていた女が、ふと、私に気づいた。女の異変に気付いた彼が、「どうしたの」と、今まで私が聞いたこともないような甘い声を出して。そして、私のほうを振り返った。
 彼は、驚愕で目を見開いて。滑稽なほどうろたえて、
「や、ちがうんだ。これは、ちがうんだ」
 と。わけのわからない言い訳をした。
 私に向けてじゃない。その女に、対して。
 そうだこれはちがうんだ。なにかの間違いだ。
 落としたバッグを拾い上げ、よろよろと玄関に戻り、立てかけていた傘も忘れずに手に取ってドアを開けた。きっと私は、いたって普段通りの顔をしていたと思う。
 アパートを出ると雨が降り出した。ゆっくりと、現実が私を侵食しはじめた。
「私、何やってたんだろう。ずっと気づかなかった」
 お金まで渡してたのに。安いシェアハウスに入居して以来、浮いたお金をこつこつ貯金していたのに、請われるままに彼に渡していた。
「ほんとうに、男のひとを見る目がないんだ、私。ずっとそう。はじめてつき合ったひとも女癖が悪かったし」
 高校生のとき。文化祭に遊びに来ていた他校の彼に、かわいいねって声をかけられて舞い上がってつき合ったけど、彼には自分の学校にちゃんと本命がいた。
「そのつぎも」
 短大生のとき。友だちの紹介で知り合った彼は、私に隠れて元カノと会っていた。
「そのつぎも」
 働き始めてから。合コンで知り合った彼は、私と会うときだけ指輪を外していたから、実は奥さんがいることに、ずっと気づかなかった。ほんとにバカだった。

 恋なんてしないもう二度としない男なんて信用しないだれともつき合わない。

 裏切られるたびに呪文をとなえて、もう二度と傷つかないと誓うのに、私はバカだから、甘いことばをかけられると、今度こそちがう、運命の恋だ、さいごの恋だって燃えあがってしまう。学習能力ゼロ。
 きっと私に、へんな男につけこまれる隙があるんだ。軽く扱ってもいい女なんだと思わせるなにかがあるんだ。
 それとも。
「浮気しない男なんて、この世に存在しないのかも」
 頭がくらくらした。缶ビール一本しか飲んでないのに、みょうに酔いがまわっている。
「ごめんね、ごめんね」
 ずっと私が泣くのを黙って見守ってくれている折原くんに、謝ることしかできない。
 情けない。